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Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」




マーク・ボスウィックのスライドショーは、もしかして今年観た写真展や絵画の展覧会の中で一番好きで、一番印象に残って、一番いつまでも忘れがたく、一番も一度観たいと願うようなものでした。 こじんまりとしたTaka Ishii Gallery Photography / Film の壁いっぱいに投影された3面のプロジェクションは、眼で見て感じるだけでなく、ボスウィックの創りだした幻想的な現実世界の中に自分自身が唐突に入り込んでしまったような気がします。 スクリーンから僅かに撥ね返って来るプロジェクターの光が皮膚の中から体の中に沁みこんで行きます。 カルーセルが1回転するのに40分くらい、ボスウィックの創りだした色鮮やかなイメージの光に浸っていましたが、カルーセルのカシャ、カシャという音も心地よく、どこからか聞こえてくるボスウィックがしたためたという詩の朗読にも不思議な感じを覚えました。実は「幻想的」とは言ったものの、それとは少し違うのです。自分は現実世界にいるという自覚があるのだけど、どの現実かが解らない非現実的な現実。 (ボスウィックはファンタジーの世界ではなく あくまでも現実の風景を捉えているのです。素晴らしい!) スライドが次々と創りだしていく空気を感じ、空中を漂っている声を感じている・・・っていうような感じ。(上手く言えませんが。) 「聴く」「視る」みたいな能動的な感覚とは違う、もっと自然体な感じ。 Surrounded、包まれている、そんな感覚を覚えるとても心地よい世界観でした。







マーク・ボスウィック(1962年ロンドン生まれ) は、ニューヨークを拠点に活動する『Purple』『i-D』といったファッション雑誌や、数多くのファッションブランドとのコラボレーションなどで知られているファッションフォトグラファー。 近年はファッションの領域を超えて、音楽、映像、詩など様々なメディアを横断的に行き来するような作品を手掛けています。 しかもそのつなぎ目を全くと言っていいほど完璧にかつ自然に融合した独特の不思議な世界観を漂わせています。 彼が撮影した写真作品についても、私の個人的な好みもあるのですが、そのaccidentalな色彩にとても惹かれ、accidentなのか、predictionなのか、その境目もまた見事に曖昧化されていて、自然に馴染んでいます。






光を追い、光が生み出すすべてのもの、色彩、ハレーション、フレア、そして闇までもその術中に収めているようです。一見劣化しているかのように見えるその投影されているスライドの情景に観る人はどことないノスタルジアを覚え、現実の中に身を置きながらそれぞれが抱えている「何処か」に帰っていくような気持ちを想起させられるのでしょう。 3面のプロジェクションもトリプティクスのような構成で、その漠然としたストーリーの中に溶け込んでいくような錯覚を覚えるのかも知れません。
もう会期は終わってしまったのですが、もう一度観たいです。 そして あの感覚の中に浸りたいです。


Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」
2014.09.20 Sat – 10.18 Sat
Taka Ishii Gallery Photography / Film
http://www.takaishiigallery.com/jp/archives/11575/






Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」_e0168781_1574924.jpg





作品をもっと紹介したいな、と思っていたら、まとめている方がいたので、ここに紹介します。
http://matome.naver.jp/odai/2137293016689383201?&page=1

Mark Borthwick Project (2010)
http://www.superheadz.com/mark/about/




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# by sanaegogo | 2014-10-11 00:00 | art
ヴァロットン展



バルテュスのポラロイド写真の展示を観に行って、その帰りに立ち寄ったミュージアムショップでヴァロットンの作品に纏わる数々のGoodsを見て、もうすっかり観たくなってしまった、といういきさつの展覧会です。 それまで街のあちこちでポスターになっている「ボール」という作品を目にしていたのですが、それを目にするにつけ、何故か心にざわついた思いがあったような気がしていましたが、それこそがヴァロットンという人の作品の持つ魅力に他ならなかったのですね。





さて、この『ヴァロットン展』、”冷たい炎の画家”というサブテーマが付いていますが、実は個人的には少なからずこのサブタイトルの打ち出すイメージに違和感を感じていました。かなり僭越な発言ですが、炎のようにめらめらとゆらめく動的なものではなく、何かこう張りつめた弦や鉄線のようにぴーんとした静的緊張感を感じたからなのですが、この“冷たい炎”というのは、クロード・ロジェ=マルクス(美術評論家)が1955年にヴァロットンについて語った「フェリックス・ヴァロットン、あるいは氷の下の炎」から引用されたものだということです。画家を表現したキャッチフレーズ的な言い回しは著名になればなるほど、枕詞のようについて回るものですが、それが定着していなかったほど「知られざる」「知る人ぞ知る」画家だった表れのように思えます。このヴァロットン展は、日本初の回顧展で、グラン・パレ、ゴッホ美術館を巡回した後、日本で3か月にわたり大々的に開催されたもので、とても見応えがありました。出品数は小作品の版画が多い事もありますが、134点にものぼり、美しく柔らかい色彩の油彩画から、写真的で言うと黒潰れした画面構成が印象的な版画作品まで、そのバラエティーも素晴らしかったです。





まず油彩画。コントラストが少なく平坦で滑らか、対象を大きくとらえ背景を極力シンプルに表現したその人物画は、まるで雑誌のグラビアページのような印象です。 そして対象を真っ向から捉えつつも、微妙に真正面からの対峙を避けているかのようなその画家の視線があり、そこに言いようもない危うい雰囲気を漂わせています。画家はモデルやその場面に居合わせながらも、当事者になり切れないような何とも第3者的な傍観者、ただ観察している「場」から外れた者であるかのような心境を醸しています。 自分の描くその画面の中に(入って行こうとしても)入って行く事が出来ないような微妙な躊躇いが感じられます。妻や家族を顕した油彩画もそうですし、世の中の世相を描いた数々の版画作品にもそれは感じる事が出来ます。 それは、疎外感という子供じみたある意味拗ねた幼い感覚ではなく、もっと複雑で知性的であるような。 当事者意識や所属意識が持てない人。ヴァロットンにはそんな人の葛藤や苦悩を感じてしまうのは私だけではないような気がします。
思えば、こんなに画家の深層心理みたいなものが投影されている作品もあまりないような。決して心象風景を描いている画家ではなく、むしろどこに存在してもおかしくない場面や実際の社会現象をモチーフとした画家なのに、そこには必ず画家の心理が投影されているのです。 画面の中には必ず彼が存在しているかのようです。しかもそれはいつも第3者的な視線であり、その存在感とは別のところで画の中のストーリーは展開されていくのです。 不思議な空気があり、只ならぬ雰囲気が漂っています。この画家と画家を取り巻く世界の言いようもない距離感がヴァロットンの作品から滲み出ています。気持ちをざわつかせられるのです。シンプルで明瞭な線で描かれたその作風とは裏腹な、非常に複雑なその画家の心の機微を、観る人は知らず知らずのうちに感じ、ヴァロットンの心理(心情というには「情」を感じないので)へ無意識のうちに関心を抱きつつ、その作品を鑑賞しているのでしょう。少なくとも私はそう感じてしまいました。



        


そんな風に常にヴァロットンの冷ややかな視線を感じさせる作品群ですが、まとめて所蔵しているコレクターがほとんどいないので、まとまった作品として見られる機会は本当に少ないと言います。 大作の大きなサイズの油彩画から、新聞や本に掲載された小ぶりの版画まで、その題材とするものの目の付け処が斬新で、1世紀近く時を経た今でも決して古臭い感じがなく、そしてバラエティーに富んでいながら、一貫してブレがないその作品たちは最後まで見ていても飽きることがありませんでした。 中でも私を釘づけにしてしまったのは、版画のシリーズで、リッチなブルジョア達が密室の中で人目から隠れてこっそりと繰り広げる男女の密会の様子を描いた『アンティミテ』という版画。黒潰れしたベタ、諧調がない白と黒の強いコントラスト、「えっ!? そこを?」というような場面を切り取った斬新な構成、そして、偽善的で隠匿された上流社会を表現したその洗練された雰囲気。 ヴァロットンが冷ややかに嘲笑いながら題材として選んだそれらのスキャンダラスな密会の情景。 それらにもう魅せられてしまい、希少な油彩画とかも収録されていたので図録と散々迷った挙句、版画集を購入してしまいました。 観る度に刺激を受けます。

ヴァロットン展、もう会期は終了してしまったのですが、2014年のベスト3には確実に入る見応えのあるものでした。
http://mimt.jp/vallotton/top.php



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# by sanaegogo | 2014-09-20 00:00 | art
One day, in Summer 2014 ― 夏の思い出―
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≪下田 奥石廊で見上げた夕焼け雲と月≫



とっても個人的な事なのですが・・・。この夏は穏やかでありながら、微熱のような静かなる高揚感を内に秘めて、足早に過ぎていきました。 ここ10日間ばかり、自分の撮影した写真を用いてムービーにまとめるのがマイブームで、そんな夏の集大成の思い出ムービーを作ってみたので、この夏の記念に、2014年の自分の中の足跡として、ここに残します。
そもそものアイディアはあったのです。2週間ほど前、ある写真家の写真集の講評会に参加したのですが、そこで講評してもらった写真本、その事についてはまた改めますが、それっを作っているうちに、『これは 本という形より スライドショーとかムービーの方がFitするかも。』という感じがしてきました。それで、その写真本の素材でムービーを作る前に、作業的試作版としてゆく夏の思い出を思い入れたっぷり(笑)に編集してみた訳です。



色々なところで折に触れて人に話したり、文章に残したりしているので、聞き覚えがあるかも知れませんが、この夏は地元や海や山や自然の中で過ごす事が多い夏でした。意識的にそうした事もあるし、自然の流れでそうなった感もあります。思えば以前はそうでした。以前と言っても大分昔の事になるのかも知れないけど、夏ともなれば車を飛ばし色々なところに出かけたものです。トレーニングや充分な準備が必要なガチなものではなかったのですが、その頃の夏は、今よりもたっぷりとした時間がありながらも、ゆるやかに、だけど急ぎ足で過ぎて行ってた気がします。今年は何となく原点回帰のような気分になっていて、その頃の自分が好きだったある種の感覚を取り戻したいという思いがありました。 とっても感覚的なものなのですが、ここ数年かかえていたもやもやとした閉塞感みたいなものとは縁のなかった頃の感覚です。 これは私が今年 0学でいうところの0地点だからなのかも知れないですね。なので、自分にとってはカタルシスのような側面をもったものに仕上がっているのかも知れません。
写真はその中にも出てくる 田牛(とうじ)の浜でサンドスキーに興じる若者たち。 そのはっちゃきな感じが微笑ましく、『若いなぁ・・・。』と、その姿を追いかけてみました。 今の心境は何となく、『これから自分は新しいステージに入って行くのかも知れない。』という、静かな高揚感を伴った予感があります。そして、私の予感は当たるのです。 9月24日の新月を迎え、再び何かが動き始める、そんな予感です。










盛り沢山すぎて 11分30秒にもなってしまいましたが、2014年夏の思い出の情景です。



http://youtu.be/3r2NFLVxHfQ



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# by sanaegogo | 2014-08-30 00:00 | traveling in Japan
イメージメーカー展 @21_21 DESIGN SIGHT



先日 21_21で行われていた企画展 「イメージメーカー展」のレポートです。 随分とバックデートになってしまって、もう会期はとうに過ぎてしまったのですが、切り口というか目の付け処が如何にも21_21らしくて、面白かったです。

企画展「イメージメーカー展」
2014年7月4日(金)― 10月5日(日)
展覧会ディレクター: エレーヌ・ケルマシュター
参加作家: ジャン=ポール・グード、三宅 純、ロバート・ウィルソン、デヴィッド・リンチ、舘鼻則孝、フォトグラファーハル
http://www.2121designsight.jp/program/image_makers/



私はデヴィッド・リンチのリトグラフが楽しみで出かけたのですが、イメージとファンタジーの世界を巧みに創りだしている様々な分野のアーティスト、クリエイターが、それぞれの分野で「イメージメーカー」としてのその世界観を共演しています。 キュレーターに日本文化に精通しているというエレーヌ・ケルマシュターを迎え、彼女がチョイスした国内外のアーティストの意外なバラエティーがまず面白い。映画、デザイン、広告、モード、舞台、音楽など、展覧会に出品した精鋭のフィールドは多岐に渡り、作品として制作したもののみならず、舘鼻則孝氏の手によるエキセントリックな靴(これは言うなれば日用品!)などもケルマシュターの触手に捉えられています。これこそまさに 日常と非現実の世界との境目のない超越したものづくりのアイディアの産物の最たるものではないでしょうか。



さて、どんな展示だったかというと。 まず、デヴィッド・リンチ。 リトグラフの作品が多く展示されていて、まとまったのを見るのはヒカリエで2012年6月に行われていたリンチ展につづいて2回目だったのですが、リンチの若干狂気じみていてそれでいて 茶目っ気がありユーモラスな思考の断片を取り出したようなリトグラフの数々はやっぱり面白い。 体の一部にフォーカスしてクローズアップしたり、その時の思考が文字になって浮遊したり、肢体を機械であるかのようにあらわしたり、リンチムード満載で、ちょっとだけおどろおどろしい感じだけど、コミカルな場面の羅列はリンチ独特の思考回路の中に迷い込んでしまった気分がします。










あえて B級っぽい感じが 如何にもリンチ的です。


この展覧会で初めて知ったのですが、ジャン=ポール・グードというアーティスト。1970年代から広告イメージのクリエーター、イラストレーター、デザイナー、そしてクロスジャンルの美しくも摩訶不思議なハイブリッドな作品を手掛けてきたアーティストです。この人の作品がどれもこれも一級品という感じで圧巻でした。 それは偏に彼が女神と仰ぐ3人のアイコン的モデルの一人グレース・ジョーンズの野性味を帯びたパンチの効いたインパクトによるものに他ならないのですが、パリの地下鉄内のデパート広告を何台もののモニターを繋げてホームに滑り込む電車からの視点を追うように再現された ヴィデオ・インスタレーションの作品に目を奪われました。 セットアップなのか スナップなのか 両者の境目が判らない細部まで緻密に創り上げられた選りすぐりの偶然が連なる世界。そんな感じです。 素晴らしくてそして人の眼を逸らさない「ひき(惹き)」がありました。これは、知らなかっただけに いいものを観せてもらいました。




(全くの余談ですが、私がグレース・ジョーンズを初めてみたのが映画のコナンの中で。(写真) 映画に出てくるオトナの女性と言えば、ふくよかな胸の膨らみがあって当然と思っていた子供の私に、あの中性的で動物的な伸びやかなボディラインは強烈なインパクトを持って記憶に残っていました。)



あとは、やっぱり舘鼻氏でしょうか。あの非現実というか、超現実なフォルムの靴たちが展示されていて、しかも順路の最後では実際にその靴を履いてみる事が出来るという企画には驚きました! ただし、ただ単に突飛な奇を衒ったデザインではなく、エンジニアリング的にもきちんと計算された理にかなったフォルムであり、近未来的なデザインでありながら、それは古き良き時代の日本の花魁の履く道中下駄に着想していると言う事です。 ここにもまた舘鼻氏の独特な視点が介在しているのです。 あと、いかにも21_21らしい選出の顕れだと思います。 靴は実用品なので、鑑賞するアート作品とは違います。 その境目はある時はとても曖昧になってしまいますが、靴が日常で使うある意味道具なのだから、これは紛れもないデザインで、それを展示作品としているのが、やはりDesign Sightたる証ともなっています。 (しかし、この靴を「実用」しているのは レディ・ガガくらいでしょうけど。)






他にも色々ありましたが、やはり特筆するのはこの3名でしょう。しかしながら、出品した6名のアーティスト/デザイナー/クリエイターに共通して言えるのが、このイメージメーカー展の中に見るそれぞれの独自のものの捉え方、ものをみる視点です。 「ものをみる」=「イメージ」、それぞれの視点というフィルターを通って創りだされたオリジナリティとバラエティ溢れる作品の競演。イメージメーカーたちの視線の先にあるものが具体化された、彼らのイメージの中にあるものが現実の世界で実物として一堂に会したような空間に出来上がっていて、その非現実感が非常に面白かったです。

最後に。 珍しく一部を除いては殆どが写真撮影OKの企画展で、コンテンポラリーを題材にした企画展として、これは大いに評価出来るのではないでしょうか。


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# by sanaegogo | 2014-08-24 00:00 | art
バルテュス 最後の写真 ―密室の対話
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上野の西洋美術館でバルテュスを目撃したのは、5月の事でしたが、その時から楽しみにしていたこの三菱一号館でのポラロイドの展示です。老齢で手が利かなくなってしまい、下絵作業での仔細な描線を描くのが困難になったバルテュスが用いていたのがポラロイドで、その自分の頭の中にあるイメージを精巧に再現し確認するために何枚も何枚も撮影されたものが、三菱一号館の展示室ではなく、資料室で展示されています。 まず、その展示室の小ささ。 今回の展示はバルテュスの作品というのではなく、制作のための資料という位置づけの展示なので、この小さな資料室で展示されているという事が、何だかバルテュス自身の秘められた内側の部分を顕しているようで、私自身は、作者が公開することを望んだか望んでいないか(没しているので確認しようがないけど)は別として、この小さな部屋は、生前は密やかに匿われていたであろう彼の秘匿のようなものを こっそりと観るに相応しい気がしています。




この企画自体はニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで写真展として開催されたものを日本に持ってきたもので、ガゴシアンではポラロイドはマッティングをして額装されていたみたいです。 そうなると、この多数のポラロイドの見え方も全然違ったものになるのかも知れないですね。 どちらがどうとは言えないですが、この建物の横の小さな出入り口から入る裏の小さな資料室での展示の方が、このポラロイドを撮影した時のバルテュスの心情により寄っているような気がします。 実際この撮影も、グランシャレのroom107で、幼いモデルと二人っきりで密やかに行われていたようです。




展示の方法もそうですが、観る人によって感じ方が違うであろう展覧会もないように思います。女性ならば、自分の経験を顧みて、まだ固く成長の痛みを伴いながら変化しているであろう幼い胸をさらけ出す少女に何か複雑で不安で危うい思いを感じとるだろうし、男性は、この後、彼女が遂げていく女性としての劇的な変貌の兆しを見て、そこに神秘的なものすら感じられるのかも知れません。(実際ショーケースの中のモデル アンナ・ワーリーは 確実に成長して行っています。) 母親ならあまり賛成は出来ないような光景を目の当たりにしているのかも知れないし、父親ならその娘の勇気を誇らしげに思うのかも知れません。展示室にはひとりもいませんでしたが同年代の少女は? 同じようにモデルに対峙して画を描いたり写真を撮影したりするアーティストは? モデルのポーズを確認するためだけのこれら膨大なポラロイドなのですが、その先に派生していく感じ方や捉え方は多種多様で、それもまたバルテュスのunavoidableな一面を顕しているかのようです。

注目すべきはその「シツコさ」です。何枚も何枚も微妙に位置を変える手や首の角度、ガウンのはだけ具合、などなど。 バルテュスが一枚の画の中の微妙なバランスに拘り、納得のいくまで(だったのかは知る由もないですが)執拗にポーズを求める様子が展開されています。手の自由を奪われた画家の鬼気迫る制作態度と言ったところでしょうが、不思議と全体の流れは静かに粛々とした印象を受けます。 頭に大きな白い布を巻き、顔を隠すようなポーズの写真もありましたが、このシリーズは何だか倒錯めいていて、一言では言い表しがたい世界観を醸し出していました。アンナ・ワーリーは、8歳から16歳まで(1992年~2000年) バルテュスのモデルを務め、イマジネーションを与え続けました。 他の誰もが得難い特別な体験をしたのだと思います。 画家が自分の描く対象を鋭く静かに観察する眼に晒されて、最初はとても緊張したと語っていて、バルテュスも緊張していたそうです。その緊張感がポラロイドを通してこちらにも伝わって来るようです。 実際にモデルを務めた人物の語る生の言葉をテキストとして読み、展示を観ることが出来るのも、同時代に生きていた作家(しかも巨匠)ならではの事で、彼女のテキストがこの展示に一層厚みとリアリティを与えています。テキストの中でアンナ・ワーリーは自分とバルテュスの事を「共犯者」と表しています。 モデル アンナ・ワーリーから見たバルテュスとのその関係性の表現が、まるでこの展示そのものがバルテュスのひとつの作品であるかのような ドラマチックなものにしています。 上野の東京都美術館で「バルテュス展」を観た方は こちらにも足を運ぶことを強くお勧めします。


「バルテュス 最後の写真 ―密室の対話」展
The Last Studies ; Balthus in Tokyo
2014年6月7日(土) ~ 9月7日(日)
三菱一号館美術館 (歴史資料館)
http://mimt.jp/balthus/




こちらは、ガゴシアンギャラリーのもの。



GAGOSIAN GALLERY
BALTHUS
THE LAST STUDIES
SEPTEMBER 26, 2013 – JANUARY 18, 2014
http://www.gagosian.com/exhibitions/balthus--september-26-2013



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# by sanaegogo | 2014-07-26 00:00 | art