人気ブログランキング | 話題のタグを見る
あの時代(とき)のホリゾント ― 菊池武夫×田口淑子 Special Talk




2016.04.16 Sat - 05.22 Sun
あの時代(とき)のホリゾント
植田正治のファッション写真展
Exhibition of UEDA Shoji’s Fashion Photographs Those Screens, Those Times
http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2016/0416_3617.php
Facebook Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207715580145935







植田正治の写真の中でもファッション写真をフィーチャーした写真展です。植田正治の写真家としての年譜を辿ってみると、
1932年: 東京へ行きオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月間通う。鳥取に帰郷し自宅で植田写真場を開業。
1939年: 「少女四態」を発表。
1946年: 戦後第1作「童」が朝日写真展覧会特選に入選
1947年: 写真グループ「銀龍社」に参加
1948年: 「小狐登場」発表。
1949年: 「パパとママと子供たち」2作を発表。
1949年頃: 砂丘シリーズのひとつ「本を持つボク」発表。
1950年: 「ボクのわたしのお母さん」発表。
1950年: 「妻のいる砂丘風景(III)」発表。
1955年: 代表作「童暦」のシリーズ撮影を開始。(~1970年)
1958年: ニューヨーク近代美術館でのエドワード・スタイケンによる企画展に「雪の面」を出品
1975年: 九州産業大学芸術学部写真学科に 教授待遇で就任 (~1994年)
1978年: アルル・フォト・フェスティバルに招待される。作品数点がフランス国立図書館のコレクションに入る
1979年: 島根大学教育学部非常勤講師就任(~1983年)
1983年: 最愛の妻を亡くし、同年、広告業界のアートディレクターであった次男、充氏の提案により、砂丘を背景にファッションブランドTAKEO KIKUCHIのカタログを撮影。

・・・・こうして振り返ると改めて、海外でも「UEDA-CHO」として高い評価を得た後、最晩年にファッション・フォトグラファーとして新しい展開を見せていた事を知ることが出来ます。きっかけは最愛の奥様の死。 まるで無気力になってしまい、何か月もカメラを手にしない日々が続いたそうです。しかし、世界的写真家が、身内の縁というものがあったにせよ、ファッション誌のために写真を撮り下ろすなんて、なんとも贅沢な時代だったのですね。そこに加担した人たちのエネルギーというか、パワフルさというか、雑誌にはそんな力があったのでしょうね。



この写真展では、転機を迎え、ファッション界で再び息を吹き返し、イキイキと砂丘で撮影を再開した後の植田正治さんと関わりがあった方々をゲストに招いてのトークショーが企画されていますが、何といっても菊池武夫氏でしょう。 私自身も数年前、鳥取砂丘と植田正治美術館を旅した時に購入した思い出深い写真集である〈TAKEO KIKUCHI AUTUMN AND WINTER COLLECTION '83 - '84〉からここまで、何かが繋がっていたと思うと、勝手に感慨深い思いがこみあげてきます。



菊池武夫さんは、タケ先生と呼ばれていて、とても素敵な方でした。お話を進める元ハイファッション編集長の田口淑子さん。85年にトップモデルだった小林麻美をモデルに鳥取砂丘で撮影が行われた時のエピソードを色々とお話してくれました。その時の紙面には、詩人の清水哲男さんがテキストを書いたそうです。もうこれはモード誌の域を完全に超えていますね。お茶目でいたずら心があった植田正治さんのくすっと微笑んでしまう様なエピソード、昔家族をモデルに砂丘で写真を撮っていた頃のように、何かおもちゃを持ってくるようクルーやスタッフに指示を出して、田口さんが持参したLP盤のレコードを空に向かって投げて撮影したことなど、当時の貴重な記録写真を交えてお話してくださいました。そして、私はとても、この、田口さんが「おもちゃとしても楽しく、植田正治の写真にフィットするようなモダンでシンプルで、それでいて何か温かみがあるものを。」と一生懸命考えてLP盤を選んだ、というくだりにひとしきり感激してしまったのです・・・。 空に投げられた何枚ものLP盤は、植田正治さんの「砂丘モード」の世界観にとてもよくフィットしていました。



タケ先生は植田正治さんご本人というよりは、ご子息のアートディレクターの充さんとのご関係が深かったようで、充さんを通した植田正治さんという人物像をお話してくださいました。 充さんがいかにお父様を愛していたか、父の仕事の環境を整え、思う存分好きな写真を撮れる場を創りだす事にプロとしての厳しい目を向けられていたか、いかに深い愛情で繋がっていた親子だったのかを知ることが出来ます。 中盤からは、植田先生の最後のお弟子さんの瀬尾浩司さんも加わり、植田先生と充さんのプロとしての厳しい仕事ぶりのエピソードをユーモアを交えて。 登場したどの方も、愛情に溢れていて、それは偏に植田正治さんの自分を取り巻く人への愛情深さが連鎖し、増幅していたのでしょうね。



トークの主役はあくまでも植田正治さんとご子息の充さんだったのですが、菊池武夫さんはダンディでカッコよく、とっても素敵でした。全身白の出で立ちは嫌味なところがなく、まさにお洒落な伊達男。今は廉価で買うことが出来るファスト・ファッションが主流で、ともすれば私自身もそれに流されているきらいがあるのは否めませんが、私にもかつて、服を着こなす、という事を楽しみ、自分の個性に合うブランドを選び純粋に服を着る事を楽しんでいた時代があったというのを思い出させてくれます。 高い服(もの)を買うのが豊かさではない、と最近ではよく言いますが、虚栄や見栄のためではなく、丹精込めてつくられた服を吟味して選び、その服が心底似合う様な人間性や環境を手に入れて行く事で得られる心の豊かさ、みたいなものも確かにあった時代のような気がします。(安きに流れない、といった事でしょうか。) トーク終わりに菊池武夫さんと帰りのエレベーターが一緒になり、「とても楽しいお話をありがとうございました。」と声をかけさせていただくことが出来たのも、思いがけない出来事でした。「ありがとう。」と言ってくださったタケ先生、とっても素敵でした。






この1枚は、トークの最後に「別離(わか)れの旗」のエピソードで紹介されました。 先立った最愛の奥様を慕(おも)い、砂漠の果てに向かって別れの旗を振る植田正治さんの心境なのだそうです。






77676
by sanaegogo | 2016-04-16 00:00 | art


<< シャルル・フレジェ 「YÔK... エッジの利いた 江戸のポップカ... >>