タグ:review ( 200 ) タグの人気記事
寺山修司の『摩訶不思議な客人』


今月10月29日まで銀座のアルマーニタワーでやっているTOKYO 1970 Japanese Photographers 9 で寺山修司の写真を観ました。 寺山修司といえば、かの『天井桟敷』の主宰にして、「言葉の錬金術師」と異名をとった天才文筆家にして芸術家ですが、演劇も文章も含め、『作品』というものを初めて観ました。大学生くらいになると、前衛的な感じに憧れる学生は皆、一度は寺山修司を語っていた、という記憶があります。 文系男子なのに、経済学部や法学部には進まず、英米文学を専攻し、インドアなのにシュッとして割と綺麗な顔をしてこざっぱりとしていながら、どこか屈折していて尖がったとっつき難い、村上春樹を愛するような男子学生がよく語っていた、というステレオタイプな印象があります。(今でいう、秋葉系とは全然違う感じですが・・・・。)
TOKYO 1970では9名の写真家が1970年代頃の東京にインスパイアされて当時撮影された作品を並べたものですが、その中で断然目が釘付けになったのは、寺山修司です。 キュレーターの長澤さんのテキストを読むと、TOKYO 1970は寺山修司を軸にして、少なからず彼と関わりのあった8人の写真家を横軸縦軸に据えて構成されたものです。もう他界された方も混じっていて、それが1970年代で時間がストップしてしまったような空間の雰囲気を醸しだしています。 寺山修司は『摩訶不思議な客人』。 まず間違いなくその作品は摩訶不思議です。奇妙奇天烈です。エキセントリックでシュール。 この手の言葉はどれもばっちりハマります。 写真に納まる摩訶不思議な人たちは、全く意味不明の行為を行いながらこちらを見据えていて、その瞳には感情みたいなものは一切感じられず、しかしながら物凄いプレゼンスを発揮しています。 これだけ摩訶不思議にして意味不明ながら、えげつなさがなく、退廃美というか、イカレてる感じが何とも言えないセンスを発してます。 寺山修司論的なものになってくると、全然造詣もなにもあったものではないので何も語れませんが、こんな凡人にもこれだけのインパクトを与えるのですから、彼の天才ぶりの凄さを窺い知る事が出来ます。究極のフィクションですね。
大道芸人のような、常識という網目が決して掬い取れない人々の静かなる乱痴気騒ぎ。ちょっと陰鬱で世の中の裏側で棲息しているようなファンタジーな人々の繰り広げる狂宴。TOKYO と銘打ってはいるのですが、『天井桟敷』の名に相応しく、その雰囲気は退廃の極致だった夜のパリの陰鬱な馬鹿騒ぎぶりを連想させてくれます。


(* 画像はトリミングしてあります。)

e0168781_1462687.jpg














61010
[PR]
by sanaegogo | 2013-10-06 00:00 | art | Comments(0)
Dog Chasing My Car in the Desert, John Divola


TOKYO PHOTOに行って、特別展示の「車窓からの眺め(Pictures From Moving Cars)」を観ました。 これは、TATE Modernの写真部門チーフキュレーター サイモン・ベイカー(Simon Baker)のキュレーションによるもので、森山大道、ジョエル・マイヤロヴィッツ、ジョン・ディヴォラが車をひた走らせ、車窓から捉えた飛び去る光景や被写体を写真に納めたものです。



森山、マイヤロヴィッツ、ディヴォラとそれぞれに良かったのですが、ワタシは何と言ってもこれ。 ジョン・ディヴォラ(John Divola)の"Dog Chasing My Car in the Desert" です。 というよりも、こればかり観ていて、他の2人の印象の入り込む余地がなかったような気もします。 実はその前にサイモン・ベイカー氏のギャラリートークを聞いていたので、ワタシの関心はすっかりニューカラーのマイヤロヴィッツに向うものだとばかり思っていたのですが、トークの後、展示室に入ると意外にもワタシの眼はジョン・ディヴォラに釘付け。 小さな個室を挟んでではありましたが、その正面にちらりと見えた壁に直貼りの写真でした。連続写真のようでいて、その写真はどれも同じトーンのものはなく、かなり個別に個性的。 かといって不協和音を起こしているわけではない、不思議な連続性。 車窓からの写真は車や列車の中から皆がよく撮影をしますが、どちらかというとロードムービー的な空気感が流れ、そこにある種の心情を映すような雰囲気ですが、これは明らかにアクションシーン。 それを作品として昇華させて並べた事にその斬新さを感じます。 まさに犬と車の時速60kmでの一騎打ち。 車を凝視するその犬の狂気じみた視線。 その犬の動きを我がものにしようと揺れてブレるカメラの緊張感がこの作品にはあります。 決してライ・クーダーのギターに合わせて思い出のように千切れて風に飛んで行くノスタルジックな情景ではないのです。カメラは荒れた路面に翻弄されハンドルさえも取られそうになりながら犬を追いかけます。 レールに乗せた頑丈なクレーンの上で滑るように移動するカメラではないのです。 明らかにディヴォラは身体(しんたい)を駆使して撮影をしていて、撮影をするということはいかに身体能力を使い、四肢をフル稼働させて撮るものかを再確認できます。 ディヴォラは、「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」と語ったそうですが、何とも哲学的な含蓄があります。 一瞬の連続であり、ストーリーでもある。 この時車も撮影機材の一部となるのです。 犬の走る「動」、車の走る「動」、シャッターが開いては閉じる「動」、それを操るディヴォラの「動」、これらの「動」が複雑に絡み合う事で、" 車の窓はもうひとつのフレームと化し・・・・云々"、とは全く違った車窓からの眺めを描き出していて、その異質さに夢中になりました。





e0168781_1383888.jpg

遠くに見えていた犬が唐突に目の前に登場。 この導入にはかなりやられてしまいました。




ひたすらに並走する黒犬。




もはや、犬の身体も残像と軌跡とごちゃ混ぜに。 「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」瞬間を捉えています。




ディヴォラを牽制する犬の視線。 乱れたフレーミングが意味するものとは。



John Divolaの"Dog Chasing My Car in the Desert" もう一度どこかで、(写真集ではなくて展示で) 観たいです。 そして、これをピックアップして紹介してくれた サイモン・ベイカー氏に心から感謝を。
http://www.tokyophoto.org/2013/special/tate/index.php

60696
[PR]
by sanaegogo | 2013-09-28 00:00 | art | Comments(0)
We shall meet in the place where there is no darkness. (暗なきところで逢えれば)


「暗なきところ」ってどこだ? その答えは、サブタイトルを見て理解しました。
We shall meet in the place where there is no darkness.
― 暗闇のないところでお逢いしましょう。
米田さんはロンドンでの生活が長いので、もしかしたら、彼女にとってのメインタイトルはこの英語でのセンテンスなのかも知れません。 「暗闇」とは、かつてその場所に横たわっていた「時代の闇」のことで、今はもうそこに闇はないけれど、その場所にはかつては確かに闇があった。その事をしっかりと踏まえ、見つめ直してその場所に向き合う。 そんな制作の姿勢がこの写真展には如実に顕れていて、それが、米田知子さんの確立したスタイルなのです。

米田知子 TOMOKO YONEDA
暗なきところで逢えれば
We shall meet in the place where there is no darkness.
会場: 東京都写真美術観
会期: 2013年7月20日 ( 土 ) ~ 9月23日 ( 月・祝 )
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html
  • Scene
  • Japanese House
  • Between Visible and Invisible 見えるものと見えないもののあいだ
  • Kimusa
  • The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring パラレル・ライフ: ゾルゲを中心とする国際諜報
  • The Island of Sakhalin サハリン島
  • Cumula 積雲
  • Crystal 水晶
  • [映像作品] We sall meet in the place where there is no darkness 暗なきところで逢えれば

展示は全編にわたり殆どの作品が、過去の歴史や記憶へと観る者を誘(いざな)うトーンで構成されています。 写真展なのに、作品は単なる入り口のような役割でさえあります。 どこか文学的で歴史書を紐解いていくような感覚を覚えます。 後ろ向きと言えば後ろ向きなのでしょうが、何気なく存在している日常の風景の中にも歴史(ともすれば暗い歴史)が横たわっていて、それを突きつけられて知ってしまった今となっては、知る前とは同じ感情で作品を観ることは出来ません。 何故その場所の写真を撮影したか、『何かの出来事があった場所』というふわっとした情報しか付加しない方法もあるのだと思いますが、米田さんは敢えて事実関係を明確にタイトルの中で著わしています。 これは事実を直視する姿勢の顕れてあり、写真という記録のツールを使って、時間を遡って史実を記録して提示するその手法は、ある意味、論証する学者の態度のようでもあります。 事実が印象という効果を借りて観る人の記憶の中に深く刻み込まれていくのです。 『写真作品をつくる』という事において、深く考えさせられ、うっすらと衝撃をうけた写真展でした。 米田さんは丹念なリサーチを経て、場所に赴き撮影をします。 それは、何冊も参考文献を読み、事実を調べ書き上げていく史実に基づいた小説を書いていくことに似ているような気がします。 米田さんの写真には漠然としたところがなく、全てが歴(れっき)とした括弧たるものなのです。 なのでとても印象が強い。 なかでも "The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring" は圧巻でした。 戦時中のスパイの諜報活動を調べ、資金や情報の受け渡しの場所を古いカメラを用いて素早く撮影する。 まるで、スパイたちが素早く様々なものを交換し、行きずりのようにその場所を離れたように。 宝塚劇場、小石川植物園、上野動物園、平安神宮と、様々な接触場所を調べ上げ、接触した人物までも記しています。物凄い調査の労力です。そこに撮影されている画像も、ごく小さいものでしたが、どれもこれもとても美しいものでした。 そう、米田さんの写真はあやふやなところがなく、とても美しいのです。 その画面の美しさが、かつてそこにあった「歴史の闇」を際立たせているのかも知れません。前述、「写真は単なる入り口」と言いましたが、その入り口の奥に広がる様々な意味合いを著わすには余りある写真ばかりです。 何とも著わし難い気持ちになった写真展でしたが、自分には対処出来ないような大きな時代のうねりみたいなものを感じ取ってしまったのかも知れません。映像作品もとても印象に残っています。 雪の降り頻るひと気のない木立の中の道に遠くから大きなトレーラーが轟音を上げてやってきて、そして通り過ぎていく。 それはまるで、質の高い文学作品のようでした。

e0168781_2259135.jpg








60507
[PR]
by sanaegogo | 2013-09-23 00:00 | art | Comments(0)
ANDREAS GURSKY ― アンドレアス・グルスキー展
e0168781_2254854.jpg

既に7月から始まっていたのに、雑事に取り紛れた中でなくてゆっくり観たい!という思いから、ついに満を持して行って来ました! アンドレアス・グルスキー展です。この連休で東京での会期は終了してしまいますが、これから(来年ですが)大阪での開催があります。

ANDREAS GURSKY
アンドレアス・グルスキー展
東京展:2013.07.03-09.16/国立新美術館
大阪展:2014.02.01-05.11/国立国際美術館


東京の展示はグルスキー渾身のコーディネートという事だそうです。設営の際には実際に現場に訪れあれやこれやと自身で色々考えを練りながら並べた、という話を聞いています。大阪では大阪の会場にあった構成をするのだと思うので、東京で観た人も大阪に訪れるとまた違ったグルスキー展を味わえるのかも知れません。(ドイツから持ってきたけど展示していない作品も新美の保管庫に眠っているらしいので、それが登場したりするかも。)
革新的なのは、ついに日本でも、Nationalな美術館で芸術作品として『写真展』が開かれた事だといえるでしょう。『写真』というものがやっと芸術の域に達したものと日本で認識されたひとつの意識の変化のように思います。(海外では既に、ポンピドゥ・センター(パリ)、テート(ロンドン)、ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)をはじめとする主要美術館がグルスキーの作品を収蔵しています。) といっても、グルスキーの写真は、"絵画のような写真"と称されていて、ドイツ絵画の巨匠フリードリヒなどとよく並び称されているようです。 私自身は正直に言うと、このフリードリヒと比較されるあたりの観点はちょっと理解出来ていないのですが、グルスキーは、ロケハンをして大判のカメラで撮影をするだけではなく、物凄く緻密で丁寧な仕事(加工とは言いたくない)を加えていて、実際の視覚では捉えられない全てが均一で等価に広がる圧倒的な視覚世界を、カメラとデジタル技術を用いて、まさに、"描き出して"います。PhotoShopが普及していない頃からコンピューター処理を果敢に用いて、写し撮った情景を作品として再構成してきました。ともすれば撮った写真に後付で手を加える事を揶揄されがちだった写真の世界ですが、コンピューターという道具を使って丁寧な仕事を仕上げるのは、ある意味、マイスターの国ドイツの職人気質の成せる業のような気がします。(そんな制作方法が、師匠のベッヒャーにはあまり気に入られていなかったらしいですが。) しかし、ごくごく初期の頃に撮られたガスレンジの作品がありましたが、ただのガスレンジを写した写真なのですが、その構図、画面構成には唸るものがありました。 ただのガスレンジなのに。 言い添えておくと、いわずもがなですが、彼の行っている写真に手を加えるという手法は、マズいものを修正するものでは決してない、という事です。 マズい写真はどんなに手を加えてもマズいままなのです。 その大元(おおもと)になる写真は、それだけで高い評価を受けていただろう事は容易に解ります。拙い写真に加工修正をする事で逸品になった、という事では決してないのです。さてさて、グルスキー展に話を戻すと、展示は決して制作された時系列になっている訳ではなくて、グルスキー自身の何か自身の中にある系列に沿って並べられています。なので、ありがちな、「初期の頃からの変化と発展がよく解りますね。」というものではなかったのが興味深いところです。 グルスキーについては既に色々なところで語られていて、『等価で仔細に作りこまれた現実にはない視野』みたいなくだりは読み尽くしているだろうので、と思います。(ワタシも以前の記事で書いてます。8月2日 『「グルスキーの写真から見えてくるもの」 って何?』) なので、ここは単純に、実際に足を運んで観に行った立ち位置から、単純かつ素直な感想を。

まず、何といっても、『カミオカンデ』。この展覧会でこの1枚を挙げよ、と言われれば、迷いつつも、迷わずこれ、です。(「迷わず」に迷う。) グルスキーの持ち味の圧倒的スケール感というのが一番ビンビン来る、と思います。 遠く離れると見えるカミオカンデの全貌ですが、撮影時には実は水も張ってなかったし、人もいなかったそうです。それをここまで緻密な作業で再構成したその技術(技量)の高さにも感服。完璧です。近くに寄れば、カミオカンデを構成する輝く球体の中にひとつひとつの映り込みまで再現されています。マクロ(巨大なもの)とミクロ(微視的なもの)の融合をまざまざと見せつけられます。素晴らしい。その色彩もカミオカンデの持つ宇宙のスペクタクルに通じた荘厳さを感じさせます。


もうひとつ、『ライン川Ⅱ』。これはライン川を真っ直ぐに広がる水平線で構成したパースを取り払ったグルスキーらしい作品のひとつですが、実は河畔には沢山の建物が写っていたのですが、それも完璧に取り除かれていて、誰でもアクセスできるライン川なのですが、この風景はグルスキーのこの写真でしか観ることが出来ません。このライン川には、色々な考えどころがあって、とても眼を惹かれました。


そう言う意味では、『パリ、モンパルナス』もまた然り。 これは、何地点かで撮影したものを接合させて再構築したもので、画面の広がりから遠近法は取り払われ、どの地点からも真正面から見据えたような不思議な視覚、視野を感じさせますが、決して不自然だったり、騙されている感じが起こりません。言うなれば、この作品を観て初めて、ヒトの視野の仕組みに気付かされるというか、何か『普通と違う』と感じる人も多いでしょう。そう言う超ニッチで些細な非現実さを不自然なところなしに見せてくれるところに、多くの人は無意識なもやもや感を感じ、より一層その画面に無意識に惹きつけられるのでしょう。グルスキーの作品は、感情というよりは、感覚であったり、もっと言えば生理機能に訴えるところがあると思います。


この事とは違う側面を見せている、観る人に情緒や何かの想いを喚起させるのが、前評判が高く、ワタシも楽しみにしていた『バンコク』のシリーズです。 グルスキーの作品としては情に訴える雰囲気を醸しだしています。バンコクの汚れた川面に描き出される様々な模様は規則的でもあり、不規則でもあります。 川に投げ込まれた様々な廃棄物、投棄物は何かの想いを表しているようでもあり、観る者にある種の感情、切なさのような気持ちを感じさせます。 淡々と観る人もいるでしょうが、そこでの指標は視野のような生理機能ではなくて感情が入り込んで来るような気がします。 個人的には画面そのもの、その美しい構成にかなり惹かれてしまいました。『バンコク』のシリーズ、これが一番好きです。 これが、前述の「「迷わず」に迷う」の理由です。

グルスキーは、自分の作品について、こう観て欲しい、とか、こう感じて欲しい、などというのは無いそうで、どう観るかは観る人に委ねたい、と語っているそうですが、これは自分の仕事とそれにかけて来た労力の確かさについての静かなる自信の顕れだと感じます。そんな作品が65点あまり。ゆっくり目録と首っ引きで堪能して参りました。

60228
[PR]
by sanaegogo | 2013-09-08 00:00 | art | Comments(0)
Todd Hidoに出逢う @Post 恵比寿
e0168781_204684.jpg


『こんな写真に出逢えてよかった。』と思える幸せな瞬間が時々あるけれど、Todd Hidoはまさにそんな気持ちでストレートに胸を打ち抜かれた、そんな感じの出逢いです。 自分が知っている写真家は、世の中で一握りだと自覚しているけど、それならばこの先、こんな出逢いがまだまだ何度も訪れるのかと思うと、期待で胸が膨らみます。
Todd Hidoはアメリカで現代写真家を代表する写真家で、日本での紹介は初めて。派手な露出はなけれどクオリティーの高い優れた国内外の作家の作品にスポットを当て、静かに粛々と紹介しているギャラリーPost(恵比寿limArt)で展示されていて、彼のこれだけまとまった作品が日本で紹介されるのは初の機会だそうで、今回は今年「Nazraeli Press」より出版された作品集『Excerpts from Silver Meadows』より20点が出品されています。

Exhibition [Todd Hido]
会期: 2013年8月13日(火)〜9月1日(日)
会場:POST (limArt co.,ltd.)




写真展は大きくふたつの要素から構成されていて、夜や夕方、曇天のもと撮影されたどこの風景とも知れない片田舎の風景と、薄暗い簡素な室内でこちらに真っ直ぐな視線を遣っている印象的なポートレートから成っています。 風景の写真はあくまでもひと気がなく、どこまでも静かで、音もないというよりは、頭の片隅に静けさがしーーんと音を立てている感じすらします。 夜の静けさの中に佇む家、車の運転でもしているのでしょうか、進む先を描き出している田舎道、その視線の持ち主は紛れもなくトッド・ハイド自身であり、彼の車で寒い夜、車であてもなく空虚なドライブを続けているような、そんな気持ちにさせられます。 それが何処となくロードムービーのように思えてきて、画面は常に静かでありながら、どことなく時間の流れを感じさせます。 トッドの視線に准えてトッドの視る世界の中で旅をしているかのようです。 実際彼は車のウィンドウやフロントガラス越しにシャッターを切ることが多いそうで、その目には見えないガラスの隔たりが、戸外の雨や雪の粒子と合間って風景に微妙な滲みや歪みを与えていて、それが本当に印象的でここだけにしかない世界観をかもし出していました。 『空気感』という言葉がまさに相応しい情景です。 写真に写る風景は画面に閉じ込められ、そこで止まっているのですが、時間の流れまで写し撮っているかのような情景です。
そんな静寂の風景とは対照的に散りばめられていたのが、無名のモデル達を写したポートレートのシリーズです。風景のひと気の無さとは対照的にそのまっすぐにこちらを見据える視線にはいいようもない意志の強い存在感が溢れていて、風景写真と強いコントラストを描き出していますが、そこにもまた静寂が横たわっている事には変わりありません。 物言わぬ無口そうな女性達は、その寡黙さゆえに彼女達の心の中を図り知る事は出来ないような気がして、風景の写真とは趣を異にしていて、観る者の感情移入さえ拒んでいるような気がしました。 まるで傍観者になるしかないなのです。
トッド・ハイドの写真は、Postの雰囲気にもとても良く合っていて、まるでずっとそこにそうやって飾ってあるかのように良く馴染んでいました。 夜に観に行ったのも良かったのかも知れません。 今はアレック・ソスの作品が飾られていると思いますが、部屋の片隅や奥の壁にトッドの写真の面影を感じてしまうかも知れません。
観に行ってよかったです。 Todd Hido 心に深く刻み込まれてしまった感じがします。

Todd Hido Official Site: http://www.toddhido.com/



≪参考≫
http://www.houyhnhnm.jp/culture/news/todd-hido.html
http://antenna7.com/artdesign/2013/07/todd_hido.html
http://openers.jp/culture/tips_art/news_todd_hido_38505.html





60164
[PR]
by sanaegogo | 2013-08-27 00:00 | art | Comments(0)
坂田栄一郎 ― 江ノ島 @原美術館
e0168781_1475112.jpg


坂田栄一郎の写真展「江ノ島」の告知のこの写真を観た時に、あー、『そうだよなー』、と改めて、久々に、思い出しました。この湘南の海の黒い砂を。夏と言えばビーチ。 珊瑚礁が砕けて細かくさらさらになって出来た沖縄や海外の南の島の写真が『ビーチ』の必須アイテムのようですが、その写真に写った砂は、灰色や黒で粒子も粗く、火山の国 日本で出来た砂、まさにそんな感じです。石が小さく砕けて出来た成り立ちなので、夏の天日に当たると信じられないような熱を持って、裸足ではとても一箇所には留まっていられません。 『熱ちーーーいぃっ!』と叫びながら波打ち際まで足を冷やしに走るのです。 そもそも、『ビーチ』なんて洒落た言葉はあまり似合わなくて、言うなれば『浜』、です。 砂浜にレジャーシートをコジンマリと敷いて、まるで安全地帯で休息するかのように、その小さいスペースで、人々は思い思いに過します。 日焼け止めを塗ったり、ポテトチップスを食べたり、ビールを呑んだり、日焼け止めを塗り直しを幾度となく繰り返したり。灼熱地獄の中でぽつんと確保したその狭いスペースの中で、色々な営みをします。 坂田さんは、そんなある意味、生活感というか、人間臭さと言うか、洗練されてもいなくて生々しい素の部分を写真に納めています。 それが、この「江ノ島」です。
坂田栄一郎は、雑誌AERAでずっと著名人、有名人、文化人のポートレートを撮影して来た写真家で、そのポートレートの大家みたいな人が、人が全くいない写真を撮り続けていた、と言う事も話題なのでしょうが、それを知らない人が観ても、写真に写る何とも言えないこの生活臭、まぁ、海に遊びに来る事は生活の一部とまではいかないので『生活』という言葉がぴったりしているかどうか、と言う話はありますが、明らかにそこには日常生活を普通におくる普通の人間の痕跡とか存在の気配とか、そんなものが感じられる独特の雰囲気には目を留めてしまうと思います。 (ワタシもその1人) 洗練されてお洒落な"Beach"の雰囲気なんて全然ないのに、何だかとても惹きつけられてしまいました。人はいないのに、明らかにそれは人の痕跡とか気配とか、そこに座っているだろうグループの人たちの人となりまで想像させるのです。 しかもそれが、写真としても超上出来なのです。 夏の熱い熱い砂のちょっとむせ返るような、蒸すような立ち上る空気とか、そこに座っている人がどんな人か、どんな風に海を楽しんで過しているのか、1枚1枚の写真から喚起されるイメージや派生してくる想像の広がりがはんぱない。 とてつもなく想像力を掻き立てさせられます。 これってすごい力ですよね。 バラエティーもまたすごい。 シンプルで凝った(凝りすぎた)ところは全くないのに、その写真のもつ表現の厚みがすごいのです。 ちょっと暑気(あつけ)にやられてしまいました。
坂田栄一郎 ― 江ノ島。 9月もまだやってる観たいですので、まだの方は是非。原美術館は水曜日に夜8時までやってるので、夜に行くのがおススメです。珍しく、撮影OKの展示室がありました。

   



坂田栄一郎 ― 江ノ島
Eiichiro Sakata ― Enoshima
2013年7月13日(土) ― 9月29日(日)
July 13│Sunday│― September 29 │Sunday│, 2013
原美術館






60037
[PR]
by sanaegogo | 2013-08-07 00:00 | art | Comments(0)
「グルスキーの写真から見えてくるもの」 って何?
e0168781_232296.jpg

今、国立新美術館でやってるグルスキー展。これもとっても楽しみにしていたのですが、まだ観にいけていません。 8月は何となく予定が合わず、足を運ぶのは9月の会期終了間近になってしまいそうなんですが、この展覧会の見どころ、みたいなトークイベントが色々と開催されていて、心をザワつかされずにはいられません。 そんなうちのひとつが、代官山蔦屋書店で行われたトークショー、アンドレアス・グルスキー展 記念トークイベント「グルスキーの写真から見えてくるもの」です。

アンドレアス・グルスキー展 記念トークイベント「グルスキーの写真から見えてくるもの」
会場:代官山 蔦屋書店
日時:2013年8月2日 19:00~
登壇者:鈴木芳雄(編集者/美術ジャーナリスト。美術通信社代表)、長屋光枝(国立新美術館主任研究員)、太田睦子(『IMA』エディトリアルディレクター)
http://tsite.jp/daikanyama/event/002135.html

先日、フクヘンの別のトークに出かけた時、このグルスキーの話もしてくれたのですが、今回はばっちり、この展覧会のためのトークです。 お相手はこの展覧会を企画した新美のキュレーターの長屋光枝さん。フクヘンはさぞかしまた含蓄のあるエピソードを披露してくれるはず、と楽しみに出かけて参りました。
頭の15分くらい間に合わず欠けてしまって、とっても残念だったのですが、それ以降でもかなり興味深い話をたくさん聴けました。 私が着席したあたりでは、鈴木芳雄さんが新美のホームページでコメントを寄せている"「Photograph」を「写真」と翻訳した国で彼の作品を観る感慨そして敗北感"というコメントの真意について話し始めようとしているところでした。 「写真」は、まあ文字通り、「真実を写す」というところから来てる訳ですが、これは絵画と比較した場合の「真実」で、グルスキーの写真は光学的なものを用いて画を造り出していますが、よく視るとそれは決して一言で簡単に説明できる「真実」の世界ではありません。 また、写真というメディア(絵画でいうところの画材)を用いてある種の絵画を制作している、とも言えるようです。グルスキーは端から端まで全て等価で均質で緻密な世界を巨大なスケールで再現していますが、それは勿論見たまま、見えるままの世界ではなく、精緻な画像処理がされています。 何せまだ本編の展覧会を観ていないので、今の段階では語られている作品については想像するしかないのですが、何でもその巨大な画面をしげしげと観察してみると何箇所かで撮影して足していたり、同じパーツを繰り返し繋ぎ合わせているのが見て取れるそうで、そんなのもグルスキー展の楽しみ方のようです。 遠近感があるようで、遠近感をそれとなく無視した画面構成。 これを中国の山水画や日本の絵巻物の描き方と比較していたクダリが実に面白い話でした。 山水画や洛中洛外図のような絵巻物は何箇所もの視点があり、作者の視点は万遍ないと言うか、これぞ『神の視点』かと思わせんばかりの超俯瞰です。 いや、俯瞰、鳥瞰と言っても視点はひとつなので、この場合、俯瞰という言葉も当てはまらないのかも知れません。西洋画にもセザンヌとか、ピカソとか、多角的に視点を捉えた日本画に影響を受けたと言われる画法はありますが、まだまだ中心となる物体の呪縛から解放しきれていないと言うか、この全てが等価で繰り広げられる東洋の独特の画法の域には達せていないのに、グルスキーはいとも簡単に(か、どうかは解りませんが。) この世界観をコンピューター処理を用いて顕す事を自分の持ち味にしています。 画面の成り立ちが所謂西洋絵画ではないのです。 透視図法などを線で表現すると画面と視線の角度(内角)は鋭角になり角度が付きますが、グルスキーの写真は画面のどこからでも写真に向って線が延びていき、しかもどれも直角、そんな世界です。 何故グルスキーがこんなに人の気持ちをワクワクとさせ迎え入れられるのか。その等価で均一な情景とか巨大なのに緻密な構成だとかで語られていますが、この遠近法と絡ませた話はとても面白かったです。
『チョイ足し』の話も面白かったです。 例えば『カミオカンデ』。これはもともとは人物は画面にいなかったそうなのですが、グルスキーが『チョイ足し』をしたそうです。でも画面の中に人が入るとそのスケール感が圧倒的に変化するのと、またここで山水画に話が戻るのですが、水墨画の中に佇む仙人を見るように画の中に知らず知らず感情移入をする効果を出しています。 その規模感と自分の位置を比較して、より『カミオカンデ』の実際の巨大さを知る訳です。 でもここで、実際に人はいなかった訳なのでこれは『真実』ではなく、『写真』という訳語の表す定義からは外れてしまうわけですよね。 写真なのに。 うーん、禅問答のようです。
でも、グルスキー本人は「わーっ、おっきぃー!!」とか「わー!すごいっ!」という印象でも全然OKな人だそうです。 それは観る人に委ねたい、と。 ここでフクヘンがまた語録に残るような事を言っていました。『写真集は手で見る。展覧会は足で観る。』 グルスキーは近寄ったり離れたりして色々、色々動き回って観て欲しい、と語っているそうです。
とにかく早く行かなくちゃ。 といっても、もうちょっと先になりそう。 多くの人が新しいシリーズ、『バンコク』を絶賛しているので、それがとても楽しみです。
写真の作家でありながら、ドイツのロマン主義絵画フリードリヒ などともよく比較され、抽象絵画のような写真とも言われているそうですが、何故フリードリヒとよく比較されるかなどについては、このトークでは話がそこまでは及ばなかったので、何かの機会にそれを聴きたいなーと思ってます。
本日のトークは、これから観に行く人にとっては充分過ぎるインセンティブになったと思います。 大きさに圧倒されに、『ウォーリーを探せ』のノリで、フリードリヒとの比較、見え隠れする東洋的視点の発見、など、楽しみ方は人それぞれ。 この懐の深さが人気の要因のひとつなのでしょうねー。


よく比較されているフリードリヒの宗教的含意をふくむ抽象的風景画です。 むむ。


59231
[PR]
by sanaegogo | 2013-08-02 00:00 | activity | Comments(0)
「Showa88/昭和88年」
e0168781_2164412.jpg
©薄井一議「Showa88/昭和88年」#01


薄井一議写真展「Showa88/昭和88年」
開催日:2013/6/15 ― 2013/8/8
開催地:写大ギャラリー
ギャラリートーク :2013年7月20日 14:00~

今がもし、昭和88年だったら。 その時代(時間)設定にうっすらと混乱を覚えずにはいられません。『もし、あの時終わってしまっていたものが続いていたら・・・・。』これは薄井さんが予てから温めている独特の眼線というか、視点のようです。 私はこの独特の時間の起点の置き方にうっすらと混乱させられました。 昔から色々な小説や映画で近未来を想像して、『その頃にはきっとこうなっているだろう』的な作品は本当に数多くありますが、時間の起点は今自分がいる現在を軸にしています。『2001年宇宙の旅』然り、『ブレードランナー』然り、『ターミネーター』だってそうです。やがて時が流れて、昔思い描いていた未来に次々と現実が突入していく訳ですが、今は2013年で2001年はもうとっくの昔になってしまっています。あの頃の作者が思い描いていたその頃の『未来』と『今』には大きなズレがあって、それは世の中が2001年になった時に確かめる事の出来るものでした。薄井さんは、今、昭和88年という形で、現在の傍らにそのズレたもうひとつの世界を作り出しました。過去を起点とした同時代的未来とでも言いましょうか。昭和64年で終了してしまった昭和がもしそのまま進んでいたら。 その頃の別の未来(と、言うにはSFではないので、少々そぐわない感じもしますが) に向うもうひとつの時系列を作為的に造りだしたのですね。自分が何故この事に幾ばくかの面白味を感じるかを頭の中で整理しようとしても、どうも思うように言い顕せず、このもやもやが一層面白味を感じさせるのだという気がしますが、薄井さんのトークを聴いていて、彼は深く思考してこの設定を練り上げているかのように見えて、とても直感的な人なのだ、と感じました。 作品として写真を撮る人には、感覚で情景みたいなものを追いかけいくタイプと設定を深く思考思索してつくり込んでいくタイプの人がいるのだと思いますが、『直感的に練りあげる』、というのがあるのだとしたら、薄井さんはまさにそんな感じなのだと思います。 写真を志す前は映画を作る人になりたかった、と語っていましたが、幼い頃から途絶える事なく脈々と続いている『薄井ズム』みたいなものが、そのバックボーンにずっしりと効いているのだと思います。昭和88年という設定の妙がこの写真集にはあります。
もうひとつは、何と言っても色彩の素晴らしさですよね。私が言うのも本当に僭越なのですが、これが確固たる撮影技術の質の高さなんでしょうねー。うーーん。唸る。 私が以前拝見していた作品としての薄井さんの写真は、ガンメタや鋼のように黒光りしたモノトーン、と言うかどちらかというと『銀』のイメージだったのですが、この昭和88年はかなりビビッドでブライトで眼を奪われました。マゼンタ、オレンジ、イエロー、これらの発色の良い色彩が何故か今、『任侠』の甦った世界と合間ってどこの時代にも所属しない昭和88年の世界を作り出しています。 私の少ない引き出しを探ってみても、映画とかでこれまでの巨匠は、未来というとどこか薄暗く、どちらかというと味気ない機械の色彩のような表現が多いと思いますが、昭和64年から起算したこの世界は色彩に溢れています。(いや、奇しくもここ最近女性のファッションではネオンカラーが流行っているのも、面白い偶然かも知れませんが。) 『なんでピンクなんですか?』と率直に訊いてみると、ご本人曰く、古い写真は劣化してマゼンタがたってくるので、そのイメージ、なのだそうです。 これも私にしては眼から鱗が落ちるような答えだったと思います。 任侠の世界もこんな色彩の中では、一見退廃的なようでもありながら、昭和の時代の何処となく埃臭さや汗臭さとはまた違った洗練されたスタイリッシュさを感じ、それが、菅原文太や藤純子の描く任侠の世界とは一線を隔した昭和88年を顕しているように感じます。 しかし、何故いまヤクザの世界なのでしょうね。 その辺の話をもっと聴きたかったのですが・・・・・。 自分の立ち位置を『今』にすればそれは、隣のもうひとつの『今』。『昭和64年』にすれば、やがて辿っていたかも知れないもうひとつの『未来』。でもそこに映し出されているのは、昭和64年にも既にノスタルジーをもって語られていたような泥臭い『郷愁』。観ている自分の軸が一体どこにあればよいのか、そんな、自分自身が全て同じ時代に生きているだけに生じてしまう、うっすらとした混乱に引き込まれるのかもしれません。




©薄井一議「Showa88/昭和88年」#17





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#39





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#28


59145
[PR]
by sanaegogo | 2013-07-20 00:00 | activity | Comments(0)
Francis Alÿs (フランシス・アリス展) ジブラルタル海峡編 at MoT
e0168781_231476.jpg


フランシス・アリスの第2期 ジブラルタル海峡編は、展開されているのが海辺、ビーチ、青い海なので、第1期のメキシコ編に比べればそのトーンは少し明るく、晴れやかで軽快な感じもするのですが、国境問題、移民の問題、ボートピープルの問題など、扱われている問題は、メキシコ編よりもより一層、複雑で、強固で、膠着していて、根強く、沈殿していて、そして範囲の広い問題のようです。そこで行われたプロジェクトの規模もより一層大きなもので、アリスがたった1人で街中で氷が溶けるまで押し続ける、といったものとは比較にならない程、大勢の人を巻き込んでなされました。


Francis Alÿs フランシス・アリス展
第2期: GIBRALTAR FOCUS ジブラルタル海峡編
2013年6月29日(土) ― 9月8日(日)
Museum of Contemporary Art Tokyo
[Press Release]
http://www.mot-art-museum.jp/alys/


ジブラルタル海峡編は2008年に実行されたアクション『川に着く前に橋を渡るな』をベースに構成されています。 このプロジェクト(アクション)は、ジブラルタル海峡で、ヨーロッパ側とアフリカ側からそれぞれ100名の子供達が列をなして対岸へ向って海の中へと進んで行くとやがて水平線のところで2つの列は出会い、国境を越えて異なるふたつの文化が繋がることを期待しています。とても大雑把に言うと、第1期メキシコ編は『砂嵐』『砂漠』だったのが、第2期では挑むべき(と言うのは大袈裟ですが)は『波』そして舞台は『海』という具合に置き換えられていて、今回マットの上に寝そべって大スクリーンで観た映像は、この『川に着く前に橋を渡るな』でした。打ち寄せる波に向って自分の背丈ほどの深さまでも海を一列に進んでいくこども達。波に呑まれて、ごぼごぼごぼ、ごうごうごうと何とも苦しそうな音を立てて水中で翻弄される様子が淡々と流れます。個人的なことですが、この遊びは子供の頃しょっちゅう海でやってたんですよねー。果敢に波の中に頭から突っ込んで、上も下も判らなくなるほどグルグル巻きにされる。水面かと思ってもがいて進んでったら海の底の砂にじゃりっと当たった、なーんて事はよくありました。 結構これが快感なんです。波の中で揉みくちゃにされるこども達の映像を見て、そんな事を思い出していましたが、あの頃、自分ではこのまま水平線の方まで行けるなんて思ってもいなかったけど、アリスのプロジェクトに駆り出されたこども達はこの行為を一体どんな風に考えていたのかな、と思います。ちょっと風変わりなおじさんがやって来て変な事を言うけど、何だか楽しい、ってな感じでしょうか。 こども達にとってはきっと、単なる遊びの延長なんでしょうね。出会うはずもない(出会う所まで行き着けるはずもない)2つの列ですが、それに准えた和解する事が難しい2つの岸辺の対立は、せめてこどもの無邪気な遊びとして置き換える事によって、その実現困難な現実を結論や結果を求めない、飽くことのないこどもの遊びのように、不可能とも可能とも結論付ける事なく、曖昧さを残しつつ保留しとく、という意図があるようです。
このアクションに先立って、2006年にハバナ⇔キーウェストのアメリカとキューバの国境で行われたボートで浮島を作ってふたつの国を繋ぐというプロジェクトが行われたのですが、この映像ではキューバの猟師やキーウェストの富裕層のボートオーナーを説得して奔走するコーディネーターやプロジェクトマネージャーの苦労っぽいものが垣間見られて、ジブラルタル海峡のそれとは対照的に大変そうでした。 オトナは面白がったりしないし、(とりわけ、キューバ側の猟師たちは!)、その意味や結論を求めたりするので、アーティストの持つ象徴的な意味付けを先入観なしに受け容れたりはしないのでしょう。 そんな事もあり、アリスは自分の作品にこどもの遊び的な要素を取り入れたりしていて、作品の中にもこどもが遊んでいる場面が多く登場するようです。この映像ではただただ、キューバ側とキーウェスト側の動員された人々の社会的格差みたいなものがひと目で見て取ることが出来て、それはそれで、アリスの描き出したい社会の矛盾みたいなものをコントラスト強く描き出していたのかも知れません。



・・・・と、まぁ、こんな風に後から色々と考えを巡らせれば、ある程度深いところまで見えてくるような気がする訳ですが、単純に私が今回一番眼を惹かれたのは、何と言っても、このアクションのアイディアスケッチである数々のペイント作品の優しい色あいの美しさでした。色彩や画の構成の素晴らしさのような視覚的なものは、理屈抜きに感覚を刺激されるものです。 言い換えれば、その表面的な一義的な画面の美しさの奥に潜む意味をもう少し深く考えていくところに、フランシス・アリスの作品の面白さや巧みさがあるのだと思いますが、前回も述べたように、その奥底にある深いところまで到達しなくても、観る人を受け容れてくれる寛容さみたいなものが彼の作品にはあると思うのです。 なので、これらのペイントやドローイングの小作品の羅列は、アリスが私たちに与えてくれた開け放たれた窓のようなものでもあるのです。ペールブルーとサンドベージュ、グレージュ、淡いブラウンなど、海峡を渡る様々な人々を描いたそのドローイングは、どこか寓話的な雰囲気もあり、それが社会に横たわる矛盾を考えさせる窓としては充分すぎるほど魅了されるものなのは、如何にもアーティストらしいアプローチなのだと思います。かなり引き込まれてしまいました。 あまりにもメッセージ性の強いものは、少々苦手なワタシなのですが、こんな風にさり気なくメッセージを送られるのは心地よいですね。 サブリミナルのように無意識の中に残る気がします。ジブラルタルの海の色が、ホワイトノイズのような波の音が、ペイントの淡い水色が、挿し色の優しいブラウンが、そんな色彩がしばらく頭から離れない、やがて無意識の中に浸透していく。そんなジブラルタル編だったと思います。





58548
[PR]
by sanaegogo | 2013-07-14 00:00 | art | Comments(2)
BRUTUS 2004年 8/15号 「ブルータスの写真特集 BOYS' LIFE」 No.553 少年は写真を撮るために生まれてきた。
e0168781_1135460.jpg



とっても古い写真です。 この写真はマイアミ空港の裏手で撮影したもの。 フィルムの写真です。かつてナッソーに住んでいた頃、マイアミの友人の家に遊びに行って空港でピックアップしてもらって、友人の家に向う途中、空港の駐車場での夕陽です。 写っているのは多分、アメリカン航空のイーグル機。 ナッソー⇔マイアミ間でバスのように頻繁に行き来してたプロペラ機です。 何故にこんな古い写真を引っ張り出して来たかというと・・・・。 ティルマンスの『CONCORDE』へのオマージュ(のつもり)です。ティルマンスのコンコルドの話を聴きながら、(僭越ではありますが)この写真の事を思い浮かべてました。 ティルマンスの話をしてくれたのは、フクヘンこと鈴木芳雄さん。 この日、青山ブックセンターのスクール(青山ブックスクール)で行われた「本・現場・美術」~〈フクヘン。〉の仕事~ に行って来ました。

「本・現場・美術」~〈フクヘン。〉の仕事~
第6回:写真家たちとの対話。 
http://www.aoyamabc.jp/culture/fukuhen-wksp6/
2013年6月28日(金) 19:00~21:00
青山ブックセンター本店 小教室


「本・現場・美術」は、これまでに5回開催されていて、これまでは、奈良美智、伊藤若冲、杉本博司、山口晃(敬称略)などとのお仕事をたっぷりと豊富なエピソードでフクヘンが語る、というもの。私は番外編の『美術手帖』×『芸術新潮』「フランシス・ベーコンを編集する。」に行きました。 そしてこの度は、写真ネタ、と言う事で、これを逃す手はありません。 今後も続くので、感心のある方は是非。 (個人的には若冲、行こうとしたのに行けなかったのが心残りですね。)

今回は、特定のどなたかにフォーカスするのではなく、1冊のBRUTUSをピックアップして、写真、写真家について語ってくれました。 "BRUTUS 2004年 8/15号 「ブルータスの写真特集 BOYS' LIFE」 No.553 少年は写真を撮るために生まれてきた。" その表紙を飾っているのがウォルガング・ティスマンスの「CONCORDE」の中の1枚。 普通の民家の屋根の合間を抜けて、キーーンッとコンコルドが上昇していくところを捉えたものです。 ティルマンスは天体への興味から写真を始めて、90年代にはイギリスで『I-D』 (ここではホンマタカシさんとは被ってはいないそうですが) などの雑誌でファッション写真の仕事に携わったそうです。 90年代の後半から作家としての活動が本格化して、美術館やギャラリーなどでの展示を中心に活動しています。 天文少年から被写体の興味は飛行機へ。 写真少年の道筋としては王道です。 その少年のような憧れを形にしたのがこの「CONCORDE」。 ティルマンスくらいになれば望めばコックピットの中を見せてもらったり、機足まで近寄れたり、果ては自腹ででもコンコルドくらいは搭乗できたのでしょうが、ティルマンスはあくまでも地上から、「あ、コンコルドだ!!」と指を指して興奮気味に見上げる少年の眼線に拘ります。 フクヘンもTwitterで、『鈴木芳雄 ‏@fukuhen コンコルドに乗る贅沢を享有し、それに酔う成功者はある意味、尊敬に値する。しかし、遠くから眺め、そこにあるすごいテクノロジーを想像する少年の憧れを作品に込めるためには彼のやり方こそ正しいと思った。ティルマンス『CONCORDE』にコックピットの写真がないのには理由がある。』とツブヤいています。 どの写真もどの写真も、同じ規格で少年が一生懸命(撮り)集めた空を劈くコンコルドの勇姿が並べられています。 こんなコンセプトで、この「BOYS’ LIFE」は構成されています。



[features]
  • ヴォルフガング・ティルマンス 作品&インタビュー「いつでも挑戦する姿勢でいたいね」
  • ジャック=アンリ・ラルティーグ 写真機は僕らに魔法をかける翼。
  • ピーター・ビアード 撮りたいものだけを撮るために渡ったアフリカの大地。
  • イサム・ノグチ 永遠のディアスポラを生きた男の、幸福の記念写真。
  • 奈良美智 僕にとって写真は瞼の裏に映る残像のようなもの。
  • 杉本博司 ハイアートの巨匠による少年写真を発掘!
  • ホンマタカシ ライカがこんな町で生まれたっていうのがうれしいな。
  • スティーヴン・ショア 早熟なカメラ小僧が捉えたニューランドスケープ。
  • スレイター・ブラッドリー 大人になることの不安と抵抗を覚えながら揺れ動く少年。
  • ルイス・ボルツ 殺風景な工業地帯にだって僕たちのアルカディアはある。
  • ディーン・サメシマ 「ボ-イズ」たちのユートピア、の昼間の素顔。
  • 佐内正史 俺は俺の車を撮る。俺の前の車はマーク2。
  • クレイグ・マクディーン クルマが好きで好きでたまらない!!
  • 野口里佳 どこまでも遠く、高く。彼方を見つめる遠視者の視線。
  • 森本美絵 忘れられた風景をとどめる寡黙な視線。
  • フィッシュリ&ヴァイス エアポートは永遠の夏休みを約束するモラトリアム。
  • 大竹伸朗 過ぎ去る時間や思いを一瞬にして定着できる装置。

この中からフクヘンがいくつかピックアップして、少年の憧れを象徴するような写真集の紹介が続きます。 自分の好きなものを集めたカタログのような構成。 ストーリーも変化も流れもないのだけど、その淡々と並べられた写真を見ていると、だんだんと作者の気持ち、高揚感が乗り移ってくるような気持ちになります。思えば時計や車のカタログ、動物や植物の図鑑などは見ようによっては素敵な写真集ですよね。 自分の好きなもの写真を集めて、繰り返し繰り返しそれを眺めてわくわくとする。 まさにこの「写真集」の原点ともいえる少年の行為を、この号が発売された当時全盛で半ば自意識過剰気味のGirly Photoと対比させるべく(対決とも言えるか?)編集し、老若男(女)の写真少年達へ送る応援歌としたかったのだ、とフクヘンは語っていました。女子(と、自分を呼ぶにはおこがましいが)の立場から言うと、この充分matureな男性諸氏が「少年時代」についてある種の懐かしさをもって語ってるのを聞くと、女性陣はいつも胸がキューーンとして切なくなってしまったりするのです。 こんな小さな心の隅に眠らせているような密やかな気持ちをひとつの雑誌として構成させるまでに膨らませ、編集者は雑誌を創ってるんですね。 もちろんそんな雑誌ばかりではないでしょうが、ほんのひとつまみの想いからこのラインアップまでもってくる事が出来るフクヘンの編集者としての『持ち札』の抱負さは、流石としか言いようがありません。 これが書物やネットからの情報ではなくて、実際に取材に赴き、当人と対話をし、同じ場所に居合わせ現場を確認しての話なのがすごいのです。 この日も豊富な余談、雑談、四方山話を披露してくれましたが、これが『聞いた話』ではなくて『体験談』だからすごいのです。 私自身は選択肢として雑誌や書籍の編集者になりたい、と希望した事は今までなかったですが、ひとつの自己表現を具現化した仕事としては、アーティストに負けずとも劣らずやりがいのある楽しい仕事なのですね、と今更ながら思ったりしました。

58175
[PR]
by sanaegogo | 2013-06-28 00:00 | activity | Comments(0)