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目撃してしまった!! バルテュス
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バルテュス展
2013.4.19 sat - 6.22 sun 東京都美術館
http://balthus2014.jp/

ついに! バルテュスを観てきました。”ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家バルテュス(本名バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ、1908-2001)” とは、もはや本展のキャッチフレーズとして定着しつつありますが、どちらかと言うと素人よりは玄人ウケするその作風で、ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と云わしめたことは『流石バルテュス』とも言えるし、一方では、ピカソのお墨付きを得て初めて素人にも『そうなんだ』と認識され、後押しされた一面も大いにあるのではないでしょうか。 それは偏に≪ギターレッスン≫(1933)に現されるように、何ともコメントしづらいモチーフを描き続けていた事にあるのですが、ご存じの通り、バルテュスは少女のあられもない姿を「この上なく完璧な美の象徴」として、センセーショナルな数々の作品を残していますが、実にコメントしづらいものがあります。それなりに理解しようとその作品が生み出された意義や意味を探ろうと試みる人もいるでしょうし、『これではまるで少女ポルノだ!』と嫌悪感や拒否反応を示す人もいるかと思います。 そして往々にして、前者は芸術と言うものに理解がある芸術家や目利き、画商といった玄人で、後者は、『(キュビズム時代の)ピカソみたいな画だったら自分にも描ける』と言い放つ素人もしくは一般人なのだと思われます。 どちらの感じ方も否定できないと思うし、その喧々諤々の論議を経てもなお、打ち捨てられる事無く、こうして回顧展が開かれるまでにリスペクトされてきたというのは、やはり『バルテュスはすごい』という証明なのだと思います。 擁護する芸術家はだしのバルテュス・ファンはさて置いて、それがとるに足らないもので、人々にある種の嫌悪感を抱かせるだけのようなものであれば、自ずと葬り去られてしまうと思うんですよね。 でも何故か眼を逸らす事が出来ず気になってしまう。 そして、批判や酷評を浴びせつつも無視はできないし、忘れることもできない。それがバルテュス作品の確固たる存在感などだと思います。 しかしながら、先の≪ギターレッスン≫や《街路》は、1934年に開かれた個展での出品作ですが、この個展は生活に行き詰ったバルテュスが話題作りのために意図的に挑発的な作品を描いたと言われていて、現代で言うと落ち目の女優が話題作りのためにグラビア誌でヌードになっちゃうみたいな、俗人的な意図もあったようです。




《 ギターレッスン 》 1933年




《 街路 》 1933年



こうしてバルテュスは狭い屋根裏部屋のフュルスタンベール通りのアトリエを離れ、クール・ド・ロアンで人間不信から隠遁生活を送ります。この頃の代表作が、そう、かの《 夢見るテレーズ 》(1938) です。隣の住人の娘テレーズ・ブランシャールで、バルテュスにとって最初の少女のモデルです。これは圧巻でした。




《 夢見るテレーズ 》 1938年




完璧な膝頭です。実に完璧な膝です。この膝を見るにつけ、バルテュスの画人としての技量がひしひしと伝わってきます。手を頭の上で組むこのポーズは女性の色気というか男の人を誘うような雰囲気の象徴のように用いられていますが、すらっと伸びやかな足はまだ少年のようでもあり中性的です。 そこから覗き見える下着が、見るからにだぶっとした子供の履くパンツのようで、微笑ましくもあり、そのアンバランスさが大人への過渡期を表しているような気がします。自分自身にとっても、やはりこの画が一番印象深く、傑作と呼ばれるに相応しいと思います。もうひとつ、ワタシが好きな作品、レストランの壁画として描いたというネコの画(1949)も、この頃の作品だそうです。




《 地中海の猫 》 1949年



十数年ここで暮らした後、バルテュスはさらに引き籠った暮らしを求めて、パリの田舎へ移り住みます。(1953) シャシー村にある古城です。ここで血縁のない姪(兄の妻の連れ子)と2人きりの現実逃避とも言えるような生活を送るのですが、それがフレデリックです。 最初は絵心を刺激されてモデルとして一緒に暮らしていたのですが、やがて恋愛関係に陥るようになります。常識的に考えると兄夫婦はそれをどのように受け留めていたのか、と邪推してしまうのですが、そんな事とは別に、この頃のバルテュスの画は柔らかで穏やかな筆致で、心身ともにとても充足して満ち足りた暮らしの中にいたんだろうなー、と察することが出来ます。なんだか、とても『光源氏』的でもあります。




《 樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭) 》1960年

この頃のバルテュスの画風はゆったりと牧歌的であり 心の安定と充実感が滲み出ています。 色を細かく何層も重ねたフラスコ画のような雰囲気がとても美しいです。


バルテュスは、突然にその安穏とした生活に終止符を打ち、ローマへ旅立ちます。ルネサンス以来の古典芸術の殿堂ヴィラ・メディチ、その館長のオファーを受けヴィラの修復を任されたからです。この時バルテュスは既に53歳。「 五十にして 天命を 知る。」凡人ならば自分の天命を知り、人生の集大成に入ろうとする知命の歳にして、更に伸びしろがあるとは、やはり只者ではありません。 この時期、ヴィラ・メディチでの16年間は寡作でしたが、幾つ目かの転機、節子夫人と結婚をしています。 やはり歳の差24歳。 しかも歳よりもだいぶ若く見られがちな東洋人。バルテュスの幼女趣味はやはり否定できないような気もします。そして、節子夫人と移り住んだ最後のアトリエ スイスの山中の小さな村ロシニエールにあるスイス最古の木造建築グラン・シャレ、ここは素晴らしく素敵でした。 篠山紀信が撮影したバルテュス晩年の暮らしの様子が展示されていたのですが、この写真がまた素晴らしい。 自ら後世に残るような話題作を描きながら自分自身とその暮らしぶりも素晴らしい作品になり得るというのは真の芸術家たる証のようなものです。





そして、このグラン・シャレではポラロイド写真を基に作品を描くようにあるのですが、このポラロイドの展示ももうすぐ始まります。(これも必見ではないでしょうか。) そしてモデルとなったのはまたしても少女、隣の家に住んでいたアンナ・ワーリーでした。

バルテュスの代表作とされる大多数の画は、不遇だったパリ時代にあるようです。 独特の不自然なポーズ、それが醸し出す画面の中の不思議な緊張感。 他の何者も踏み入って行けなかったバルテュスだけの世界観。誰風でもなく、バルテュスが描くまで誰も見たことがなかった作風。バルテュスは長命でしたが、その才能は早熟だったようです。




《 美しい日々 》 1944-1946年

人間関係を極力避けて厭世的だったクール・ド・ロアン時代(実際描かれたのは第二次世界大戦中の疎開先のスイス)に描かれたもうひとつの傑作で、本展のキービジュアルのひとつでもあります。


思えば、展覧会の最初に観た、わずか11歳で書き上げたという『ミツ』の絵本。これも触れておかなければいけません。そして『嵐が丘』の挿絵。 独特さの片鱗は既にこの時随所に散りばめられていて、挿絵の中のポーズを基に後に数点の大作を描いたりしています。




《 mitsou 》1919年



もっと言えば、その早咲きの才能は、あまりにも洗練され過ぎていて、人々の理解の範囲を超えてしまっていたのかもしれません。 もしかして、バルテュスが幼女趣味でなければ、そのモチーフが大人になる前の少女でなければ、世間の理解の眼はもっと違ったものになっていたのかも知れないとも思います。 幼女趣味であった事が唯一のバルテュスの欠陥だったのかも知れません。それはバルテュスの落度です。 でも、他の多くの大家のように成人した艶やかな女性を描く。そしたら、それはバルテュスだったでしょうか。きっと違います。確固たる、才能あふれる描画の技術に裏打ちされて、世間のモラルめいたものに反しても自分が最も美しいと思うものを描き続けたバルテュスだったからこそ、不遇のうちに葬り去られることなしに、今日も無二の存在感とその異彩を放ち続けていられるのだろうと思うのです。 その頑なまでのスタイルがあったからこそ、バルテュスはバルテュスであって、他にはいない稀代の画家、そんな立ち位置を確保することが出来たのです。

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by sanaegogo | 2014-05-17 00:00 | art | Comments(0)
『機械になりたい』 アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
 


今日は森美術館でやってるアンディ・ウォーホル展。 終了間際だし、G.W.だし、さぞ混んでるだろうなーと思ってたんですが、予想に違わず・・・・・、混んでました。 アンディ・ウォーホルは、(誰しもがそうだと思うのですが)、アート好きな人にとっては一度は通る道です。 斯く言うワタシも過去にどこかでやったウォーホル展に行ったりしてて、クローゼットの奥底を探れば図録やポストカードが出てきます。

森美術館10周年記念展
アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
会期:2014年2月1日-5月6日
会場:森美術館


人気も高く、これまで様々ウォーホルをテーマに展覧会が開催されて来ましたが、今回は展示作品点数約400点。初期から晩年まで包括的に紹介された日本では20年ぶり過去最大級の回顧展だそうで、2012年からシンガポール、香港、上海、北京とアジア各国を巡回してこの度東京にやって来ました。ウォーホルといえば、シルクスクリーンで制作された作品があまりにも有名で、というか、それをもって私達は『アンディ・ウォーホル』というものを認識している感がありますが、”初期から晩年まで”とうたっているその言葉どおり、並べられた作品はシルクスクリーンの他にドローイング、スケッチ、写真、保管していた様々な品、映像作品、広告マンとして仕事をしていた頃のビジネスアート、他のアーティストとのコラボレーション作品と本当に多岐に亘っていて、じっくり観るのに結構な時間がかかりました。 あと特筆すべきはセクションが変わる所々に彼の残した含蓄ある語録の数々です。 これは面白かったです。必見です。 その時その時の彼の思考のベクトルが刻み込まれた短いテキストは、作品の流れと合わせて彼の生きた様を顕していて、その人物像や人生観までも際立たせています。サブタイトルになっている「永遠の15分」は、彼の語録の中の

In the future everyone will be world-famous for 15 minutes.
( 誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。)

と言うもの(1968年)から来ていますが、これが実に深いですね。 謎めいていますね。

退屈を好み・・・・、

I like boring things.
( 退屈なものが好きなんだ。)

オリジナルではなく他人と同じであることを良しとし・・・・・、

But why should I be original? Why can't I be non-original?
( なんでオリジナルじゃないといけないの?他の人と同じがなんでいけないんだ?)

I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.
( みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ。)

マクドナルドを世の中で一番美しいものと言い放つ・・・・、

The most beautiful thing in Tokyo is McDonald's.The most beautiful thing in Stockholm is McDonald's.The most beautiful thing in Florence is McDonald's. Peking and Moscow don't have anything beautiful yet.
( 東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない。)

そんな ウォーホル。 名声を得て不動のものにしてもなお、誰しも(誰でも)有名になれる、と預言めいた事を言う。 あまりにも突出した個性をもってしまった才能の没個性への回帰願望みたいなものなのでしょうか。 いずれにしても自分自身の好むと好まざるとに関わらず、彼自身が超一流の「オリジナル」となっている事には変わりはありません。
そして、展覧会を進んでいくと、こんなテキストに出逢います。

It’s the place where my prediction from the sixties finally came true: “In the future everyone will be famous for fifteen minutes.” I’m bored with that line. I never use it anymore. My new line is, “In fifteen minutes everybody will be famous.”
( 『誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう』僕は60年代にそう予言したけど、それはすでに現実になった。僕はもう、この言葉には飽き飽きしているんだ。もう二度と言わない。これからはこう言う。『誰もが15分以内に有名人になれる、そんな時代が来るだろう』。)

とは、1970年代の末の言葉。突然にこう言い放つのですが、『誰もが15分間なら有名人になれる。』のフレーズも未消化なワタシにはその真意は依然よく解りません。それが『15分以内に』に変わったのはどういう心境の変化なのでしょうか。 「有名になるのは特別な事ではない、誰にでもチャンスはあるんだ」、と言うポジティブなメッセージにも聞こえるし、一方で、言った本人は大して意味を考えて口にしたのではないような気もします。ウォーホルは感覚の人だったのです。実にシュール(超)でエキセントリックです。 そのシュールで鋭い感覚(直感)で多様な色彩のパターンを操り、シルクスクリーンのように数限りなく複写ができる作品を量産しました。内省を重ね、意味の上塗りをして創りあげていくそれまでのアートとは完全に一線を隔した世界観です。もっとも、感覚の鋭さを感じざるを得ないのは、ドローイングを見ても解ります。殆ど2度描きの気配が見うけられず、一気に一発で描き上げられているその作品の数々を見れば、彼がその頃から感覚の人であった事は一目瞭然です。
またある時、ウォーホルはこんな言葉も残しています。

If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me and there I am. There's nothing behind it.
( アンディ・ウォーホルって人間について知りたければ、ぼくの絵や映画を、ただ表面的に見ればいい。そこにぼくがいるから。裏には何もないんだ。)

これを言葉通りに解釈すると やはり彼の言葉は思いつき(という言葉ほど乱暴で雑ではないですが)で口から出てきた 大して意味を成さないもののように感じられます。 ただその時感じた事をストレートに口にして、意味をなさない、というよりは、深い意味(裏の意味)はない、の方が妥当でしょうか。でも またある時には、

I'd prefer to remain a mystery. I never like to give my background and, anyway, I make it all up different every time I'm asked.
( 謎を残しておきたいんだ。自分がどんな人間かは話したくない。だから聞かれるたびに答えを変えるんだ。)

とも言ったりします。 深読みさせるような他意の無い言葉を吐き、そこに意図的なものは実はなかったりする感じに、結果として私たちは翻弄されてしまうのです。 まさに表裏一体とはこの事ではないでしょうか。 裏はないけど謎はある。 今回の回顧展はアンディ・ウォーホルという人の人物像を紐解くアプローチだと思うのですが、彼の人間としての深さとか広さとか言う尺度で考えると、凡人はその巧み(?)な語録にすっかり混乱させられてしまうのです。
彼はこうも言います。

My mind is like a tape recorder with one button-erase.
( ぼくの心は、ボタンひとつで消去できるテープレコーダーみたいなもの。)

どこか自虐的でもあり、スタイリッシュでもあります。

・・・・・と、語録のカッコ良さに引きずられてきましたが、勿論、作品も堪能してまいりました。

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まとまった数のドローイングを観たのは初めてでしたけど、シルクスクリーンの尖がったウォーホル作品とはまた違った味わいのソフトな作品が多くありました。 ネコが好きだったんですね。 眼が大きくくりくりと描かれた可愛いネコたちの甘えたポージングが炸裂してました。



独特の描画法は、「ブロッテド・ライン」(しみつきの線)と言われ、イラストレーターとしても成功を収めたウォーホル独特のものだそうです。今回は図録ではなくて、ドローイング集を思わず購入。



子供向けの作品のコーナー。 色彩が豊かなので、子供の情操教育なんてのにも良いのではないでしょうか。 刺激的なモチーフは一切なく、子供の眼線を意識してか、低い位置に飾ってあったのが心和みます。



希少動物、絶滅危惧種の作品のコーナー。 彼のシルクスクリーン作品でよく見られる奔放で自由な感じのする刷りのズレがあまりなく、きちんとしていて、何処となくデジタルな雰囲気を漂わせています。色彩感覚、秀逸です。



彼の撮影した写真も今回多く展示してありましたが、写真もよかったです。 セレブリティ達のウォーホルならではの距離感で撮影されたスナップは、彼とセレブの間の微妙な距離感を顕しているような気がします。



そして、キャンベルスープ。 これはMoMAでも観ました。 日本の美術館は作品の前で写真が撮れないのが残念ですね。 ましてやマスプロダクト、量産や複製の中にアートを見出した彼なのです。 ウォーホルなら現在の「拡散」という現象についてどのように語ったのでしょうか。

他に、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボ作品で、「Year of Rat」(かな?)というバスキアのネズミが描かれていた黒とグレーの画がとってもキュートでした。イーディ・セジウィックやベルベット・アンダーグラウンドの映像作品など、ウォーホルが生み出した多くのの伝説的作品が一堂に会す、全てを曝け出したような回顧展だったのに、その人物像や心のプロセスに依然「謎」を感じる人は多かったのではないでしょうか。 しかしながら、その「謎」には何だか「釈然」としたものがあるのが、いかにもウォーホルらしいのですが。

≪展覧会構成≫
  1. ウォーホル作品のアイコン的存在、シルクスクリーンによる名作の数々
  2. ウォーホルとセレブリティ
  3. 一流ファッション誌『ヴォーグ』などにも掲載されたドローイング作品
  4. 現代美術史に燦然と輝くウォーホルの彫刻作品
  5. 約25本の実験映像作品を迫力ある展示空間で上映
  6. 天才画家、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボレーション
  7. 伝説のアートスタジオ、ウォーホルの「ファクトリー」を体験型空間として再現!
  8. ウォーホルの私的アーカイブ「タイム・カプセル」から日本に関する品々を本邦初公開!


Warhol Café でチーズバーガーセットも食べてきました!

   


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by sanaegogo | 2014-04-27 00:00 | art | Comments(0)
Study | Go Itami | POETIC SCAPE
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伊丹豪さんの作品と言えば、ブライトな配色の幾何学体的で不思議な画面構成の写真が持ち味だと思っていましたが、この「Study」では、その味もありつつも、その中に心象風景みたいな、言い様のない何らかの気持ちが入り込んでいるような、そんな印象を覚えました。一見幾何学的で無機質なもののレイヤーのような画面構成の中に、ふと入り込んでしまった何かの情景、そして、それにふっと持って行かれてしまう 何かの気持ち、そんな印象です。 その情景は、伊丹さんが意図的に混ぜ込んだものもあるし、ご本人も知らずに、後から写真を確認して判ったものもあるそうです。
中目黒のPOETIC SCAPE に 伊丹豪さんの 「Study」を観に行ったら、ご本人が在廊してて、土曜日だった事もあって、常連さんや顔馴染みらしき方々も色々いらしていたんですが、見かけない顔の私にも色々と作品の説明やお話をしてくれました。







今回展示されていた作品の中では 「これぞ!」という感じの1枚。 まるでケント紙にきちんとマスキングテープを貼って、色むらがないように丁寧に塗り込められたポスターカラーのような発色の赤に眼が行きます。もちろん、これは修正なしの一発撮りの作品だそうですが、パースを全く取り払っているにも関わらず、遠近感がうっすら残る風景が混在している画面は、不思議な感覚のズレを引き起こします。 その横には、橋げたの隙間から水面を写したという、作品があったのですが、それも全ての遠近感を取り払った中に残る水面揺らぎが風景の中のミクロを顕しているようで面白かったです。 その一連の展示の流れはモンドリアンの絵画を連想させました。 「写真は立体的なものを写すものなのに、全てのパースを取り払ってしまうと平面のレイヤーのようになるのが面白い。」と言うような事を語ってました。 その撮影に対峙する感覚がまさに「Study」なのですね。







私がこの展示で一番惹かれたのがこの写真。これまでは、どちらかというとピントを絞った作品を作ってきましたが、逆に絞りを開いてぼかしつつ意外なところにピントを当てるのもありかな、という試みだそうですが、これも「Study」なのですね。 鉄の手すりの上にうっすらと溜まった雨が木立の影を映していて、そこにピントを当てて撮影したそうです。 近くにピントを当てながら、それは実はそこからもっとも遠くのものにピントを当てている事になっている。 何だかとても哲学的なアプローチです。







この1枚もとても好きなのですが、暗がりの中に浮かび上がる光を集めたグラスの透明な部分とその周りに浮かぶ気泡は、まるで宇宙の深淵のような雰囲気です。 その隣の作品には夜の闇に浮かぶ星空? と思いきや、CDの盤面の傷をクローズアップで捉えたもので、そこには日常の中に宇宙を模した空間が出来上がっていて、さっきのモンドリアンのシリーズといい、写真の並びもとっても洒落てるなぁ、と。







ビー玉とそれが置かれたタオル(ラグマット?)との質感の対比。 光と影の対比。 実物を忠実に捕らえているのに、具体性は消失し、実体はどんどん抽象的になっていきます。何だろう? と自分の視覚をからかわれたような錯覚に陥るのですが、決してデフォルメされている訳でもなく、変容されている訳でもなく、ただただ、実体を極力まで忠実に捉えているのです。 それにしても、この感覚は。 伊丹さんの作品は「視る」という行為を意識させます。







伊丹さんの作品はもしかしたら、認知とか、知覚心理学とかの切り口で掘り下げたら面白いかも知れませんね。曖昧な画像を視ると人は全体像や自分の納得できる形にそのものを持っていこうと視覚や脳を働かせます。 ゲシュタルトの崩壊と再構成です。







そんな理屈はさて置いても、ただ単純に画が美しい。 この浮遊感。 どの作品も漠然としたところがなく、そこには伊丹さんの試行錯誤とチャレンジと発見が作品を彩る要素として見て取れます。 どの作品にも意図があり、何かを探求しようとする作家の姿勢が伺えます。まさに「Study」なのですね。

伊丹豪 展【study】
POETIC SCAPE
2014年2月11日(火・祝)~3月23日(日)


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by sanaegogo | 2014-03-09 00:00 | art | Comments(0)
Wolfgang Tillmans "Affinity"
Wolfgang Tillmans
ヴォルフガング・ティルマンス
"Affinity"
2014年1月18日(土) - 3月15日(土)
WAKO WORKS OF ART
http://www.wako-art.jp/top.php





ティルマンスに関しての知識というか、造詣はそんなに深くは無いのですが、私の中でティルマンスといえば、窓辺やキッチンのテーブルに無造作に雑多に置かれた日常使う品々の「何気ない」スティルライフの写真です。 ごちゃっと置かれたテーブルの上の唐突な取り合わせの品々や窓のある小さなスペースの上に置かれた萎びかけた鉢植えなど、映画のストーリーの中のあまりきちんとした生活をしていない人の生活観が滲み出るような写真です。 「何気ない」とよく言われますが、私にとってはそれらのヒトコマは何か妙に「意味ありげ」に写ります。 家に帰ってきて、がしゃんがしゃんと物音を立てつつ帰って来た時の儀式のように基本動作を行って、カバンや上着を無造作にソファの上に放り投げ、がちゃがちゃと冷蔵庫を開けて、扉を閉めもせず牛乳のビン(これは外国サイズの大きいやつ)から直接牛乳をがぶがぶ飲み、そしてまた荒々しく扉のポケットに戻し、ばたんっ、と扉を閉める。 ・・・・ような人が住んでいる家かな。 これはちょっと飛躍し過ぎかも知れませんが、そんなイメージを喚起させてしまうような意味深長な写真です。 そして、幅広い感触のシリーズに取り組んでいるティスマンスの中では、この手の写真が一番好きです。密度の濃いカラーと絶妙の対象物の配置。ティスマンスの赴くところにはいつもこんなに絶妙のシーンが展開されているものなのか、と不思議な感さえするのですが、実は光や影の効果を仔細に取り入れて、言わば入念なセットアップの中で撮られている、という話も聞きます。全くの偶然の産物ではないのですね。


©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



この写真はとても好き。 暗い室内で撮影された1枚ですが、窓の外は夜なんだと思うのです。







あとは(コンコルドシリーズも含めて)空にベクトルが向いた写真も好きです。
ティルマンスが天体少年で、
天体観測が彼の写真人生の始まりだったという話は有名ですが、
今回の展示でも密度の濃いカラーの空の写真がありました。



写真集『Neue Welt』から

©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



ティルマンスといえば、前にも述べたとおり、幅広いテーマというか、シリーズというか、で制作をしていますが、どれも本当に持ち味が違います。 多様な表現力でとにかく色々撮る人、というイメージなのですが、どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽいんですよね。 ざっとそのシリーズを挙げてみると・・・・、
● 意味深なムードのスナップ的ポートレート
● 壮大で神々しささえ感じる広い風景
● 日常の窓辺やテーブルの上のスティルライフ
● どきっとするようなヌード
● 宇宙との繋がりを想起させる天文学的イメージ、
● アブストラクトな抽象作品
ざっとこんな感じになるのでしょうか。 今回の『Affinity』でも、これらひと通りのものを観ることができるある意味贅沢な展示でしたが、言い換えれば、この中のどれかひとつのテーマを取り上げるのではなく、全て並べる事が『Affinity』なんでしょうか。 『どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽい』です。彼は何故この展示のテーマを『Affinity』にしたんでしょうか。 興味が沸いてきました。

ティルマンスは、作品を額装して水平を測ってきちんと並べるのではなく、テープやピンで壁に直貼りする展示もよく行うという事で、今回も自ら何日もかけて自分でキュレートをしたということです。『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』のコーナーでは、フォーマットもさまざま、大小さまざまな作品が壁に直貼りされていて、配置も決して人々の眼線上ではなく、その範囲は屈まなければ観れない足許にまで及んでます。


壁にさまざまなフォーマットの写真が直貼りされています。








足許のこんなところにも 貼ってあります。








この『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』はちょっと面白い写真集で、ティルマンスがここ数年ハマッているというレイヤー(多重構造)での表現がふんだんに用いられています。 今回のインスタレーションでも写真集そのままの構成も観ることができました。FESPA Digital とは、毎年世界各国を巡回している大型プリンターのトレードショウみたいですね。フルーツの鮮やかな色彩と印刷機や様々な機材のメタルでハードな質感とか、それらが幾重にも重なって、雑多で半ばカオスで、とりとめなく直感的で、唐突な感じでもある。 これぞまさにティルマンス。このインスタレーションはかなり必見で、ティルマンスらしさを存分に味わえた気がします。



写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』
カラフルでミクスチャーでレイヤー。 ひとつのページの上で 色々な要素が重なりあっていて その密集感ったら。
技術や商業的場面を題材にしているのも どこかシニカルな逆説的、かつ世代に即している面白さがあります。





観終わって、ティルマンスという世界をつぶさに理解できた訳ではないのですが、より深く知りたくなる気にさせてくれる刺激的なインスタレーションで、直感的で弾けるような感覚と静かに内省をするかのような佇まいが共存しているような表現世界です。


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by sanaegogo | 2014-02-01 00:00 | art | Comments(0)
ジョセフ・クーデルカ展
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舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
・・・・とは、かの松尾芭蕉の言葉ですが、クーデルカ展で彼の半生を知ることになり、この行(くだり)を思い浮かべたりしました。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective
2013年11月6日【水】→ 2014年1月13日【月・祝】
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
Press Release →web_koudelka_PR.pdf

もっともクーデルカは芭蕉のように自ら好んで旅を栖とする人生に身を投じた訳ではなく、1968年にワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻を撮影し、それが西側に配信された事から、身の安全を確保するために故郷のチェコスロヴァキアを離れます。 これがクーデルカ的放浪の旅の始まりです。 世界的にその名前を知らしめた(と言っても配信された当時は匿名だったようですが。) 写真が、祖国の変革運動とそれを侵攻して鎮圧したワルシャワ条約機構軍との衝突の記録と言ったショッキングな内容だったので、クーデルカも硬派のジャーナリスト魂の権化のような人物(ある意味キャパのような)だと言う印象があったのですが、それはクーデルカの表現世界のほんの一部だったとクーデルカ展を観て実感しました。
もっともこの頃は『芸術写真』というカテゴリーはあまり明確なポジションがなく、マグナムの会員でも、ブレッソン、アーウィット、ルネ・ブリなど、この頃の写真家達は広告も、報道も色々とこなし、それが後々『アートフォト』という流れに乗り、そのように認められていくようになったという理解でしたが、クーデルカについても例外ではなかったのでしょう。 真正面からダイレクトに被写体を捉えた力強いズドーンと打ち抜いたような観る人を圧倒するインパクトがあります。会場内は膨大な点数の作品が展示されていましたが、そんな中、ごく初期の『初期作品 Beginnings 1958-1961』には、自分の想像していたクーデルカの作品とは全く印象を異にしていました。 構図や対称の配置に、まだ完成されていない試み的なコナレテいない感じがありつつも、その場面の選び方や撮影の技術などには後のクーデルカを予見させるような片鱗と萌芽があると言います。 私は単純に(いつもそうですが)、その画面から来る印象や自分の感覚とかで語る事が殆どですが、学生時代に手に入れた中古カメラで撮りためたというその作品群には、ハードで硬質な印象を醸しているクーデルカのモノクロの作品の中では一層初々しく新鮮に感じられました。

展覧会の構成です。
  1. 初期作品 Beginnings 1958-1961
  2. 実験 Experiments 1962-1964
  3. 劇場 Theater 1962-1970
  4. ジプシーズ Gypsies 1962-1970
  5. 侵攻 Invasion 1968
  6. エグザイルズ Exiles 1968-1994
  7. カオス Chaos 1986-2012

など、約280点あまり、しかも大きな作品ばかり、一堂に会した回顧展です。「ジプシーズ」の圧巻のシリーズや「侵攻」の見せる臨場感溢れる迫力の歴史の証言も観応えがあったのですが、私はやっぱり、「初期作品」かなぁ。あとは、「カオス」のパノラマシリーズ。「エグザイルズ」もいくつかよかったかな。展示を見ている時はあまりピンと来なかったのですが、後でマグナムのWebsiteを観ていたら意外にじわじわ来たのが、この展覧会ではどのカテゴリーに入るのかは不明なのですが、多分、「劇場」とか「実験」あたりのエフェクトを加えた作品です。私がもともと写真に求めるのはドキュメンタリーとかルポルタージュ的なものではないようなのですが、結局、自分にどんな写真が響いて来るのか、人によってクーデルカの感じ方は様々なような気がします。
時代のうねりに巻き込まれ、翻弄されながらも、放浪の中でその居場所、居場所での足跡をダイナミックに鮮やかに切り取っていく事で自分の存在を確認してきたようなクーデルカ自身の半生と照らし合わせると、そのスケール感といい、ボリュームといい、観応えのある回顧展でした。






Beginningsから。パノラマ・フォーマットの作品。 このシリーズでパノラマ作品はこれ以外にも何点かあったのですが、どれも良かったです。背景と前景を隔てている画面を横切る水平線(地平線)と上下左右アシンメトリーに配置された被写体がぎこちなくも初々しいさが顕れているような気がして、でも魅力的な写真の数々でした。




Invasionから。 このシリーズは言わずもがなの感がありますが、ある意味においては、生まれながらに授かった類稀なる才能と千載一遇のチャンスとが交わる接点を手に入れられる人は稀で、それを含めて「才能」というのだと思います。




Exilesより。 クーデルカ展のPRによく使われていた作品です。 この黒い犬は、ワタシの中ではとてもクーデルカっぽく、こう言う写真を撮る人なのだ、と思っていました。 黒いシルエットになってしまった犬は、その容貌の詳細もわからず、こちらを振り向いているのですが、眼がどこにあるのかも判りません。 後ろを振り返っているその黒い犬の姿は何かを象徴しているようでもあり、うっすらとした不気味さにちょっと気持ちがざわついたりします。






Chaosから。 このシリーズは、タテやヨコのパノラマフォーマットの作品が並ぶのですが、何処となく荒涼としていて、殺伐としたシーンばかりが続いていきます。パノラマフォーマットならではの視野のひろがりが、人の気配は見ている自分しかいない、みたいな一人ぼっち感というか孤立感みたいなものを観る者に与えていました。


All images © Josef Koudelka / Magnum Photos


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by sanaegogo | 2014-01-12 00:00 | art | Comments(0)
お正月から mayday ― ゼログラビティ 観た
今年2014年の"恒例の元旦映画の会"は、Gravity(邦題:ゼログラビティ)。これはある種の賭けです。お正月にこの映画を観に行くかどうかにはそれなりの葛藤がありました。 ストリーの結末は判らないんだけど、何だかとんだ事になっていそうな状況の映画。そして、1年の計は元旦にあり、という言伝えも捨てて置けないし。 観終わって、希望を見出せるのか、絶望を感じざるを得ないのか。むむむ。
まだまだロードショウは続くので、ネタバレ的なコメントが残せないのが映画ネタの辛いところ。 しかしながら、この映画はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニの二人芝居で、3Dの映像は、その美しさもさることながら、アポロ11号の乗組員のバズ・オルドリンも認めるほど現実の宇宙空間のようで、映像技術の秀逸さも話題になっています。 実際見てみると確かに今まで観たスペースものに比べて、リアルだし、TVニュースで観た事もある身近(と言うと違うのかも知れないけど)な状況を膨らませていると言う感じがして、自分とは全く接点のない映画の中の虚偽の世界と言うよりは、世の中で誰かがこんな目に合う可能性があるのかも、と匂わせる感じがしました。 そう言う意味では、これからは、映画のスペースものというジャンルもアクションものみたいに、現実に起こり得る状況の極端な例っていう捉え方で制作られていくのかも知れませんね。 その先鞭として記憶すべき映画を観たのかも知れません。ファンタジーではない、リアルなスペース映画、それを撮ろうと考えた着想がすごい!と思います。 そう言う意味では、かつての『ライトスタッフ』(1983)とか『カプリコン・1』(1977) とか『アポロ13』(1995)もその範疇なのかも知れないけど、これら国家計画をベースにして国の威信を著わしている作品と一線を隔しているのは何といっても、サンドラ・ブロックの至極個人的な心理描写とそれを仔細に表現した彼女のドラマチックな演技なのだと言えるのではないでしょうか。 広い広い宇宙の中で、国家を背負ってそこにいるのに、主人公ストーン博士の心を占めているのは、あまりにも個人的状況への葛藤や後悔、意欲も動機付けも何もかも個人的なもの。 大きな括りのなかの個人ではなく、個として存在する1人の人間。宇宙の中に自分がいる事の高揚感とか遣り甲斐みたいなものは一切感じられなく、それをこの広大な宇宙の描写の中で、大きな地球との対比の中で見せていくところが印象的です。しかしながら、そこは酸素なし、重力なしの宇宙空間。 地球生還までの壮絶な困難の数々、そして犠牲。 ある者の希望にはある者の犠牲があって成り立っている事もあるんだ、とつくづく思いました。 もっとも犠牲になったものが必ずしも絶望を感じていたかどうかは、ジョージ・クルーニ ファンとしては救いでしたけど。 真の意味での『達観』を知る瞬間だったのでしょう。 (おっと、ネタバレ注意) 絶望のような状況の中でも人は知らず知らずのうちに生へのエネルギーを発し、生存に賭けるあらゆる手段を講じようと動く。 一方では全ての状況を悟り、宇宙規模の視野で先を見通し、瞬時に判断し悟る人間の心理。 そんなものが誰もが暮らす空のその上の大気圏の外で繰り広げられています。 『なんかキラキラしてるー。 人工衛星かなー。』なんて子供達が見上げた空の上で実際起こっているかも知れないことだとしたら・・・・。 そのコントラストを考えると何だかものすごい。 スペースものの新境地を切り開いた記憶すべき映画だと思いました。

ストーリーに関してはあまりコメントしない代わりに、ワタシなりのダイジェストで。



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実は余談があって、茅ヶ崎の田舎では、何故か『字幕+3D+レイトショー』という組み合わせがなく、そんな事も知らず109シネマズに行った私たちは『字幕』は譲れず、結果、映画館3軒目にしてようやっと。 元旦で道が空いてたからよかったけど、元旦早々、結果オーライのギリギリの状況。 お陰で3Dでは観られず。 やっぱ3D観なきゃですよねー? 折角出かけたのに見逃すかっ!?のピンチの中、力を合わせて策を講じてなんとか滑り込みセーフ。 しかし、必見の3Dは諦めるハメに。 字幕を諦めるか、3Dを諦めるかの選択と判断。 そんな、『1年の計は元旦にあり』。

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by sanaegogo | 2014-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
生誕100年!植田正治のつくりかた
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子狐登場
まるで絵画のような1枚。 これ、『覆い焼き』ですよね。
訳あって、吉田秋生さんという少女マンガ家の描いたある作品のストーリーを思い出させてくれる1枚です。

この写真展を観に行く前日にIZU PHOTOまで足を延ばして、増山たづ子さんの写真展を観に行っていたので、この3連休はとても気持ちが穏かで温かくなるような写真をたくさん観ることができた。 (と言っても、増山たづ子さんの写真には密やかな悲しみを打ち消そうとする静かなる葛藤のようなものもあったのだけど・・・・。) とは、余談になりましたが、東京ステーションギャラリーで『生誕100年!植田正治のつくりかた』を観てきました。

東京ステーションギャラリー
生誕100年!植田正治のつくりかた
     UEDA SHOJI 100th anniversary
2013年10月12日(土)~2014年1月5日(日)
     October 12th , 2013 - January 5th , 2014
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201310_Shoji_Ueda.html

2013年は植田正治の生誕100周年という事で、いろいろなところで関連の写真展をやっていましたね。 結局観に行けたのはこれだけだったのですが、大満足でした。 ベタな表現ですが、植田正治という人がいかに写真を楽しんで撮っていたかがよく伝わってきたし、その写真の多く(というか殆ど全て)は、優しさに溢れ、そのミニマリズムは美しくもあり、観ていると知らず知らず引き込まれていってしまう魅力的なものに写りました。 カラーかモノクロか、とか、その是非を問うつもりはこれまでも毛頭ありませんが、植田正治の極力省略され、デザイン化された作風には、モノクロームのシンプルさがよく合っていると思います。 『汚く矛盾したものから眼を背けて、自分が幸せになれるものだけに目を向けた内向きの写真』という見方もあるのかも知れませんが、それで何がいけない?というきっぱりとしたぶれない植田正治の哲学があるような気がしました。 それどころか、決して逃げていない、挑戦とか、試みとか、そういう攻めの姿勢も貫かれていて、世の中に受け容れられないような突飛で奇抜な題材を使っている訳ではないのに、そう言う『新しさ』ではなく、家族を砂丘に並べて撮影するだけの事で、観る人に今までにない感覚を覚えさせてしまう、そんな親しみやすい『新しさ』が植田正治の写真にはあります。 それは、例えば今の時代にも通用するという斬新さではなく、その当時の斬新さの強度がとても強いと言うか、時代の流れに呼応し順応しているものでもなく、観るものを当時の感覚まで引き戻す力強さというか、吸引力というか、そんなものをもって『今観ても斬新』と思わせる不思議なタイムスリップを感じるような気がします。 子供たちのおかっぱ頭、お母さんの和服姿、男の子達の小さな学生服などが、そんな感覚を引き起こさせるひとつの要因になっているのだと思いますが、ワタシのよく言うところの、『時間軸がぐらぐらする感覚』です。 それだけ撮影された当時の画面の中に引き込まれてしまっているのでしょうね。 これは、上手く言えないのだけど、心地よくもで不思議な感覚で、私はとても好きなのです。 ギャラリーの講評では『一筋縄ではいかないこの写真家』と評していますが、まさに言いえて妙。その通りです。 シンプルでミニマルだけど複雑で多様。 昔なんだけど新しいし、その新しさが古臭くもあり、それがまた斬新。 と、ぐるぐると感覚が掻き混ぜられる気がするんです。解り易いけどその奥は深い。 単純明快だけど知り難い、まさに子供の心のような眼で写し撮られた写真の数々です。 子供達が夜ぐっすりと眠ってみる夢の世界を現しているような印象もありました。
砂丘の写真も多く展示してありましたが、それ以外の植田正治もたっぷりと知る事が出来ました。 特に晩年の昭和のモダニズム風の写真とは表情を異にした妖艶な赤い花の写真などもあり、ちょっと意外な感じもしました。 (優しいお父さんとしての顔以外の植田正治もあったのですね。) 小説家で言えば絶筆にあたる、生前最後のフィルムに撮影されていた数枚の人のいない風景写真で写真展は終わるのですが、これを観る頃には不思議と今までのイメージとは様相を異にした植田正治に出会うに至る訳です。
『前衛的』という言葉すら既にレトロな響きを持ちつつある今日この頃。 鳥取の片田舎で、日本や世界という物理的な広さよりももっと大きな世界観を自分の内面に持ち続けた大らかな作風。 時代に先がけていたその空間表現は『植田調』となり、現代の新しさとは決して混ざり合わない、同化されてしまわない、確固たる個性として、今でも斬新な光を放っていると感じられた訳です。


これを観たら、黒い傘と本を持って、鳥取砂丘へ赴かねばなるまい、と思わせるほどぞくぞくする1枚です。






まさに『砂丘スタジオ』。 お父さんのお遊びに付き合う幸せな家族の姿も存分に見ることができ、幸せな気持ちになれます。




騙し画のような構図。 俄かモデルの子供達もいい味を出しています。 ちょっとグリーンバックの前の撮影のような雰囲気も醸しているのが面白い。




私が初めて植田正治を知ったのはこの1枚。 写美の外壁に大きく飾られてます。 『砂漠に着物? なんで?』 当時、植田正治を知らなかった私の率直な感想。 でも何だか妙に気になって。 あの時からの心のざわつきは、今だから解る。 そう、『なんかいいかも。』って思っていたのです。 巨匠の作品って、その人物に関してはズブの素人にもやっぱり響くものがあるんだ。という証明のようなエピソードと思っています。




この写真、とっても好きなんです。 でも流石にこんな風に遊んでいる子供は都合よくおらず、お菓子の缶をエサになんども土手の上を走らせた、というエピソードを日曜美術館でやってました。

最後に、東京ステーションギャラリー。 東京駅建設当時の赤レンガがむき出しにされている展示室があって、ホワイトキューブが大半を占める日本の美術館にあって、海外の美術館のような雰囲気を漂わせていました。

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by sanaegogo | 2013-12-23 00:00 | art | Comments(0)
カメラばあちゃんに教えてもらった事






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増山たづ子
すべて写真になる日まで
2013年10月6日(日) – 2014年3月2日(日)
IZU PHOTO MUSEUM
http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/118680489.html
IZU PHOTO MUSEUMで開催している、増山たづ子「すべて写真になる日まで」を観に行って来ました。 私が増山たづ子さんの事を知ったのは、いつの事だったのか、もう思い出せないですが、当時使っていたペンタックスのコンパクトカメラ(フィルム)だけで撮った写真でいつか作品展をやりたい! 『カメラばあちゃんみたいに!』 と言っていたのを覚えています。 とは言っても、彼女がどんな事をしていたのかは知っていたけど、その写真そのものは観た事がなかったのです。 なので、この写真展の開催が告知されてからここに至るまで、本当に楽しみにしていたのですねー。
カメラばあちゃんとして知られている増山たづ子さんは、ダム開発計画で沈み行く縄文時代から続く村、徳山村をピッカリコニカで撮影して、手書きのメモが付いた600冊のアルバム、10万カットの写真でその変遷を記録するという偉業を成し遂げました。 それは意図された偉業ではなく、小さなことからコツコツと真摯に取り組んできた事の結果であるだけです。 写真に写っている村の人々、子供も大人も、皆飾らない日常の姿をたづ子さんの構えるカメラの前にさらけ出しています。 たづ子さんの個人的なアルバムが立体的な大きな展示になってしまった、と言えるほど、その写真の中の笑顔は親密な親しげな微笑や笑いでいっぱいです。 『作品』づくり、なんて意識は毛頭無く、ただひたすらに、村の人々に一声かけ、会話をして、笑顔を交し合い、撮影された真っ直ぐで素直な写真ばかりです。 村の記録と言っても、第3者的に外側から客観的に写した記録写真ではなくて、そこには皆がたづ子さんの方に向って視線を遣っている撮影者とのインタラクティブな写真ばかりが壁一面に並べられています。 その笑顔の自然さは、もう一級品です。 一声かけてカメラに視線をもらって写真を撮るのがある種の『演出』なのだとしたら、たづ子さんの場の雰囲気作りは名演出です。 ピッカリコニカで写真を撮り始めてから徳山村を離れるまでの8年間、作為的なものはなく、『村の姿を残しておきたい』という純粋な気持ちで写真を撮り続けていたたづ子さんですが、多くの写真を観ていると、はっとするほど構図が素晴らしいものとか、背景の納め方とバランスが絶妙、みたいな写真も観られるようになり、たづ子さんの写真の腕前の上達が何となく見て取れるのも楽しい感じがしました。 ボツの写真がどの位あるのかな、という事も関心がありましたが、それはあまり触れられていませんでした。 殆ど全ての写真が1回だけのシャッターで、あの素晴らしい素直な構図と写る人の笑顔を写真の中に納められているのだとしたら、これは素晴らしい事ですよね。でも察するに、そうなんだと思います。 『作品づくり』なんて微塵も意識していない真っ直ぐさが、きっと数々の場面を邪心無く写真の中に納めさせたのでしょう。 そんなたづ子さんの写真との向き合い方は、多少なりともスケベ心がある自分に、大切な事を再認識させてくれた気がします。
ダムはやがて本当に着工して、村は底に沈む。 ("浮いてまう" とたづ子さんは言い表してますが。) そんなネガティブな状況の中、村の中の人間化関係がぎすぎすしてしまった事もあったみたいですが、写真に写る村の人々は皆笑顔で、生き生きとしています。 『国は一度決めたことは必ずやる。 戦争もダムも。』と、何とも含蓄のある言葉をたづ子さんは残していますが、全てを受け容れる決意と強さが、この笑顔や村の様々な表情、風景をより鮮明な記録として残させたのでしょう。 たづ子さんの写真にはある種の芯の通ったぶれない気持ちがあり、取り組み続けた力強さがあります。
今やアート、美術、芸術の文脈で語られるようになった『写真』ですが、本来の気持ち、あるべき姿勢、忘れてはいけない喜び、そんなものを思い起こさせてくれるたづ子さんの写真です。


《櫨原(はぜはら)分校》1983年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《花盛りなのに》1985年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《戸入分校》1985 / ©IZU PHOTO MUSEUM


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by sanaegogo | 2013-12-22 00:00 | art | Comments(0)
「ヤッテミヨウ!」
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もうかなり昔の事ですが、読売ジャイアンツの高橋由伸選手の事を『全然好みじゃないのに何故か気になる。』と言っていたら、『それが本物の恋なのよ。』と言われた事がありました。 全く脈絡がありませんが、この赤鹿麻耶さんの「ヤッテミヨウ!」に感じた気持ちは、まさしくそんな感じかも知れません。 『全然好みじゃないのに何故か惹かれる。』です。雑誌『IMA』が主催している写真展 LUMIX MEETS TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9 を観ての事です。日本で有望な若手写真家9人にフォーカスした写真展ですが、そのうちの1人が赤鹿麻耶さんで、写真展のキービジュアルになる作品『ヤッテミヨウ!』を観てまず感じた事です。
赤鹿麻耶とその友人達が、一見すると意味の無いような色々な事にチャレンジしていて、それを瑞々しく写真に納めています。 その行為の弾けんばかりの元気の良さ、溢れんばかりの好奇心が伝わって来る感じに何故か心が奪われて、思わず見入ってしまう写真でした。 私はそもそも、あまり人物は撮らないし、自分で撮るとしたらと画を想像してみても、きっと肖像画のように唐突にそこに居て、雰囲気で勝負、なんて感じになると思われます。 でもこの「ヤッテミヨウ!」は、とにかく若い世代にありがちな無意味な行動に熱中し、意味なんて考えなくたって、思いついたらやってみる! みたいなはっちゃけた馬鹿騒ぎとその中にある達成感と高揚感みたいなものが、やたらめったら弾けていて、すごい躍動感を感じます。 ストーリー性などは全く無視して、細切れで唐突な羅列で構成されている『次々と』感がまた良いんです。 それに「ヤッテミヨウ!」というタイトルを付けたのがまた絶妙だと思いました。 このシリーズのタイトルが「ヤッテミヨウ!」でなければ、こんなに引っかかる事は無かったように思います。 端的にして軽妙。 いいですねぇ。 どんぴしゃ、な感じがします。 この写真のフォーマットもいいんですよね。画面の構成にばっちり合っていて、上手いなぁ、と思いました。 わざとらしさなく、最もダイナミックに見えるところで切り取られてます。 水中で息を止めて苦しそうな女子軍団の表情に水面の揺らぎが画面に動的な雰囲気を与えてて、微笑ましくさえあります。 色もとってもクリアでキレイ。 定型でないフォーマットが自由な感じをよりいっそう強くしているようです。 自分とは全く違う世界観だけど、とっても納得してしまいました。


LUMIX MEETS
TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9
会場:代官山 ヒルサイドフォーラム
会期:2013年11月23日 - 12月1日
参加フォトグラファー:
  • 赤鹿麻耶
  • 伊丹豪
  • うつゆみこ
  • Kosuke
  • 濱田祐史
  • 水谷吉法
  • 山本渉
  • 横田大輔
  • 吉田和生







  • ≪ 会場での「ヤッテミヨウ!」 展示風景です ≫


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    by sanaegogo | 2013-12-04 00:00 | art | Comments(0)
    吉岡徳仁 クリスタライズ ―自然から生み出される。

    「虹の教会」の中で佇む、拙シルエットです。厳かで神秘的な空間です。




    最後に観たこれまでの作品やプロジェクトを紹介するムービーの中で、吉岡徳仁は、「透明なものに惹かれる」と言っていました。 きらきらとした透明感のある結晶や光学ガラス、水、ほの白いファイバーの森、かつて少女が御伽の国にあると夢見ていたような世界観を吉岡徳仁は創造しています。 けれど、男性の彼が作り出すその世界は、少女じみたところはなく、凛としていて、夢の中というよりもむしろ妙に現実感というかリアリティがあって、「創生している」と言った意思的なものを感じる不思議な感覚があります。 これは彼の創作は常に、自然界に存在するさまざまな原理を取り入れ、それを具現化する試みや考え方を基に行われているからだと言えます。 artificial だけど その根源は常にnaturalであり、naturalなartifactであるという、禅問答のようなスパイラルがそこにはあります。 「結晶」という自然現象を巧みに駆使して、自然物とも人工物とも言えない、まさに「自然から生み出されている」人工物、両者の狭間に生まれる特別な存在として、彼の作品はそこにあり、輝きを放っています。 その世界観の美しさ、透明感にうっとりしますが、それを作り出したのが吉岡徳仁という人物だというのが意識されるのか、どこか男性的で力強くもあるように感じるのは、好んで使われているmaterialが、結晶という危ういもののみならず、クリスタルや光学ガラスのような強固なものも多く用いられているからでしょうか。 子供の頃に、透明なものに妙に惹かれて、それをしげしげと覗き込んだり、形の加減でプリズムのように創り出される七色の光の虹を見るため、頭や視線を一生懸命くるくると動かしていたことを思い出します。



    展覧会の構成です。

    ウォーターブロック ― Water Block

    このガラスのベンチは、パリのオルセー美術館の印象派の部屋にもインストールされているのは有名です。 艶やかで流麗な形のその塊は、人為的な手が一切加えられていない自然によって自然に形作られたフォルムそのものです。 これから繰り広げられる吉岡徳仁の、「自然の力は、人々に想像を超えた驚きをもたらしてきた。」という世界観を象徴するものでもあります。


    白鳥の湖|結晶の絵画
    ― Swan Lake | Crystallize Painting

    音楽を聞かせながら水槽の中で自然結晶を成長させていく、「クリスタライズド プロジェクト」。 (Crystallize = 形を与え、結実させる) チャイコフ・スキーの「白鳥の湖」の音色に呼応して形状を変化させるという結晶絵画は、自然の生み出す作為を超えた造形です。


    ローズ ― Rose

    赤い薔薇を覆い尽くすように成長していく「結晶」は、薔薇の生命を吸い取ってしまうがごとく形作られていきます。 雪の女王に息を吹きかけられ、凍りついてしまったかのようです。 結晶の中に閉じ込められてしまった薔薇の瀕死でかすかな色彩をみていると、ある種の「残酷」さがあったりとか、「永遠」であったりとか、色々な印象が交錯します。


    蜘蛛の糸 ― Spider’s Thread

    蜘蛛の糸のようにフレームの中に張られた7本の糸で空中に描き出された椅子に結晶が生成され、だんだんと椅子としてのその形を露わにしてきます。会期中徐々に成長を重ね、誰でもない自然の力によって創生されていくその椅子は、紛れもなく「万物」のなかのひとつです。


    虹の教会 ― Rainbow Church

    アンリ・マティスが建てた南仏のヴァンスにある「ロザリオ礼拝堂」のオマージュである「虹の教会」は500個ものクリスタルで出来たプリズムを用いて、自然光から虹を創り出しています。 そのステンドグラスの前に立つと、神聖な光で身体が包まれているような気持ちになれます。 プリズムを通して投影された自然光は七色の帯に分かれていき、自然の摂理を改めて意識する事が出来ます。 自然の生み出す「分散」が体験できます。白の濃淡や透明なもので構成された展示の中でこの虹の七色は唯一の色彩で、その色彩の純粋さが際立っているように感じられます。










    レインボーチェア|レイ オブ ライト
    ― Rainbow Chair | Ray of Light

    クリスタルプリズムからつくられた透明のベンチ。 艶やかで流れるようなフォルムのベンチに座って、ステンドグラスの窓から生み出される光の虹を眺めるていると、どこからともなくやって来た厳かな光に包まれて光と一体になっている気持ちになれます。 座っている人はみんな、代わる代わるにステンドグラスの方へ歩み寄って、注がれる光を浴びていました。








    最後にこれまでのプロジェクトやデザイン作品、インスタレーションの記録をスクリーンで観て終了しますが、これは50分ほどのもので、すっかり堪能はしましたが、作品がもっと観たかったなぁ、という感じはあります。しかしながら、この「Crystallize」は吉岡徳仁の紛れもなく過去最大規模の個展で、展示の規模よりも観る人の「もっと観たい!」気持ちの方があるかに上回ってしまっているのですね。 会場を埋め尽くすようにストローが敷き詰められた圧巻のインスタレーション 「Tornado ― トルネード」からもその大規模さが垣間見られるけれど、ネットでは楽しそう(?)に設営をする吉岡さんの画像がたくさん見受けられています。 「私も設営に参加したかった」 と本気でそう思ってしまいました。



       


    これはもう、"White-out"状態ですね。 遭難注意。







    TOKUJIN YOSHIOKA
    Crystallize
    吉岡徳仁 ― クリスタライズ
    東京都現代美術館 Mot
    2013年10月3日[木]― 2014年1月19日[日]
    Press Release





    2008年に21_21 DESIGN SIGHTで開催された「 Second Nature 」展も、2010年 森美術館での「SENSING NATURE ネイチャーセンス」展も見逃しているので、これは本当に会期が始まる前から楽しみにしていたのです。
    会期はまだまだ充分あります。 是非。


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    by sanaegogo | 2013-11-23 00:00 | art | Comments(0)