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INTERSTELLAR


10代から20代の頃にかけて観たSF映画では、その映画の中の「現在」と言うのはその時自分が在た「現在」とは全く様子が違い、それは少々突飛過ぎるとも思えるような状況設定のものが多かったような気がします。「2001年宇宙の旅」はSF映画の金字塔ですが、今は2001年をゆうに15年も超えているのだけど、その時の未来と今の現在で一致している要素は少ないと思う。想像しうる範囲での時代考証みたいなものはあったのだろうけど、神羅万象の自然(ひいては物理の)摂理との整合性はあまりなかったのではないかと思うのだけど、ここ最近は現実に(ながい時間をかけてですが)明らかにされつつある理論を基に科学的考証を行い、「ゆくゆくはまんざらフィクションではなくなるのかも」という体のものが多いですね。それは偏に、より多くの事が理論的に解明され、かつその一部は実践され、SF映画もそれを踏まえて作られるようになって、昔のように映画の中の世界が現実の現在と点と点との関係ではなくなってきたからなのかも知れません。 空想と想像という言葉に微妙な違いがあるとしたら、そんな感じです。想像というのは、現実に起こる可能性があることを想定できるものに当てはまめる事ができる言葉だからです。
インターステラーの中の現実世界が今の現在を少しだけ飛躍させたような設定で、その状況は今の自分のいる世の中の延長線上、線で繋がっているように感じられ、懐疑的になってしまうような違和感はありません。地球にはまだ土があり、植物があり、異常気象で雨が降らなくなってしまっていますが、人間は出来る限りの知恵で何とかぎりぎりその存在を存続させています。食糧難で国家予算をNASAにかけるのよりも食物供給に回す、という選択もまんざらあり得ない事ではないと思えました。大気汚染や放射能ではなく、食糧難に人類が脅かされているとSF映画の中で語られるというのも今まではあまりなかったのではないでしょうか。宇宙的規模で言えば、重力によって地球に押し付けられるように生きている人類や地球上の生物ですが、生きている限りは葛藤や愛情、正義感、責任感など、様々な感情が渦巻いていて、それは何かの理論では説明できない生身の人間である所以です。インターステラーを観て、科学理論という揺ぎ無い強固なものと、人間の感情というどこかあやふやで論理性に欠けた説明しがたいものとのコントラストを強く感じました。
映画の中に登場する「ワームホール」も物理理論としては、全くのフィクションではなくある程度の市民権を得ている理論のようです。「ワームホール (wormhole) は、時空構造の位相幾何学として考えうる構造の一つで、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道である。アメリカの物理学者ホイーラー博士が命名した。」とWikipediaには記されていますが、これを矛盾なくストーリーの中で展開させる試みは、ゼメキス監督の映画「コンタクト」の基になったカール・セーガン博士の同名の小説で、前述のホイーラー博士の弟子、理論物理学者のキップ・ソーン博士によって検証が行われています。「ソーンらは「通過可能であるワームホール (traversible wormhole)」を物理的に定義し、アインシュタイン方程式の解としてそれが可能かどうかを調べた。そして、「もし負のエネルギーをもつ物質が存在するならば、通過可能なワームホールはアインシュタイン方程式の解として存在しうる」と結論し、さらに、時空間のワープやタイムトラベルをも可能にすることを示した。」とWikipediaには続いています。インターステラーの前提もこのソーン博士と映画「コンタクト」の製作にも参画したプロデューサー リンダ・オブストによって考案されているそうです。私は物理の世界には(恐らく関心はあるのだと思いますが)全く疎く、「アインシュタイン方程式の解」と言われてみても何のことやらさっぱりですが、カール・セーガン博士や果てはアインシュタインまで繋がっていく壮大な構想と考証のもとに作られた映画だと知ると、素人の私にも何となく説得力のある感じがしたのは、映画の中の設定が今の地球とそんなに姿を変えていないところにあるだけでなく、化学的な裏付けが確固たるものだったからだ、というのを伺わせます。そこをただ単に科学的なフィクションのトーンで押し通していくのではなく、さらけ出された人間の感情の機微みたいなものをしっかりと絡めているのが、このストーリーの説得力のあるところの要因なのだと思います。見応えのあるHumanなストーリー、科学理論の歪みの中で擦れ合う人間の生々しい感情、映画のジャンルでカテゴライズするならば、「サイエンス・フィクション(SF)」だけでなく「ドラマ(Drama)」も是非冠したい、そんな風に思いました。


近未来の地球。地球規模での植物の枯死により、雨が降らない異常気象。 食糧難により人類は滅亡の危機にあった。


頻繁に起こる砂嵐に苛まされていた。


人々は無気力に慣れっこになってしまっていて、砂嵐の到来にパニックになる事もなく、足早に家へと避難していく。


凄まじい砂嵐。肺をやられてしまわないように、マスクで顔を覆いながら家路へ急ぐ。


砂嵐が通り過ぎると全ては砂まみれに。


家の外はおろか、家の中までも砂は侵入してくる。 毎日が砂との戦い。


人々は疲れ果てていた。


そんな片田舎で、元宇宙飛行士クーパーは、義父と15歳の息子トム、10歳の娘マーフとともにトウモロコシ農場を営んでいる。NASAに国家予算がさけなくなり、宇宙飛行士はもはや無用の長物だった。


マーフは自分の部屋の本棚から本がひとりでに落ちる現象を幽霊のせいだと信じていたが、ある日クーパーはそれが何者かによる重力波を使ったメッセージではないかと気が付く。


秘密裏に活動していたNASAの、土星近傍のワームホールを通り抜けて、別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクトのパイロットに任命されたクーパー。帰還できたとしてもそれがいつなのか不明なミッションに、マーフは激しく反対する。

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二人は和解の機会を得られないまま、クーパーは出発の日を迎え、クーパーはマーフに「必ず戻ってくる」とだけ言い残し、宇宙船エンデュランスに搭乗し地球を後にする。


土星に接近するまでの間、乗組員は冷凍休眠に入る。


エンデュランスは土星近傍のワームホールに接近する。


エンデュランスはワームホールを通り抜け、ラザロ計画の先駆者の一人ミラー飛行士が待つ水の惑星を目指す。既に地球を出発してから2年が経過していた。
(ワームホールを表現した映像。秀逸です。)


水の惑星での1時間は地球の7年間に相当し、クーパーは地球に残してきた家族を想い、水の惑星への接近を躊躇するが、他の飛行士らに公私の混同をたしなめられ、着陸は決行されることとなる。


水の惑星に降り立ち、惑星の表面を捜索するが、ミラー飛行士は見つからず、彼女の着陸船の残骸だけが見つかる。間もなく山脈と見まごうほどの巨大な波が一行を襲う。


ミラー飛行士がこの惑星に到着したのは数時間前、死んだのは数分前にだった。クーパーらはエンデュランスに帰還するが、そこでは23年あまりが経過していた。エンデュランスでクーパーらの帰りを待っていたロミリーはすでに壮年に差しかかっていた。


残る二つの候補惑星のどちらを探査するかの選択を迫られる乗組員。クーパーとロミリーは生存信号を発信し続けているラザロ計画の先駆者マン博士の惑星を推したが、アメリアはもう一方のエドマンズ飛行士の惑星へ行くことを強く推した。クーパーはアメリアとエドマンズが恋人関係であることを見抜き、彼女こそ決断に私情を挟んでいると批判する。
(アン・ハサウェイ、宇宙服を着てても、ショートカットでも、美しいです。)


マーフは地球出発時点のクーパーと同い年に成長していた。重力の研究に携わっていて、その研究で重力の方程式に解を見つけられれば、巨大なスペースコロニーを宇宙に打ち上げ、地球に残された人間を宇宙に脱出させられると期待されている。


クーパー、アメリア、ロミリーの搭乗するエンデュランスはマン博士の待つ、氷の惑星へ針路を取り、氷の惑星に降り立ち、マン博士の設営したキャンプに到着する。


冷凍睡眠装置の中で地球からの後発隊を待つマン博士。


マン博士は氷の惑星に着陸してすぐ、この惑星では人類は生存できないことを悟っていた。彼は孤独に死にゆく運命だったが、それを受け入れることが出来ず、氷の惑星が人類の新天地であるかのような捏造データを地球に発信していたのだ。

(氷の惑星のシーンはどれも眼を瞠るほど美しく、そして厳しさがありました。これがCGではなく、地球上のリアルな造形であるのは本当に驚きです。撮影はアイスランドのスナイフェルスヨークトル氷河で行われたそうです。)



マン博士はクーパーを惑星表面探査に連れ出し、クーパーを不意討ち。エンデュランスを奪取しようと惑星外へ離脱し地球に帰還しようとする。
(マット・デイモン、久々の(?)悪役。やっぱり、彼は悪役がはまり役なのでは?)


マン博士は操作ミスにより急激な減圧で死亡する。エンデュランスも事故の衝撃で本来の軌道を外れ、回転しながら氷の惑星に落下しはじめる。


甚大な損傷を蒙ったエンデュランス。地球への帰還、マーフとの再会は叶わなくなった。


クーパーは、アメリア一人をエンデュランスに残し、彼女一人にミッションの全てを託す。エドマンズの惑星で搭載してきた人類の受精卵を用いて絶滅を阻止するのだ。


クーパーは自分を乗せた機体をエンデュランスから切り離し、ガルガンチュアへ落下していく。


クーパーは無数の立方体が幾重にも折り重なった不思議な空間テサラクトにたどり着く。クーパーはそこが、マーフの部屋を通じて地球の過去、現在、未来全ての時間と連結している空間であると気付く。


クーパーは土星の軌道上に建造された巨大スペースコロニー内部の病室で目覚める。マーフの功績でスペースコロニーの建造と打ち上げが成功し地球の人類が救済されたのだ。
(これは、映画の中のシーンではなく、Webから拾ったワームホールが地上に出現した時の概念図。映画でこんなコロニーの姿を観たときは訳が解らなかったけど、きちんとした理論に基づいての再現だったようです。)


クーパーはコロニーの病室で老婆になったマーフと彼女の大勢の子や孫たちとともに再会を果たす。マーフとの約束を果たしたクーパー。マーフはクーパーにエドマンズの惑星へ1人で向かったアメリアを捜索しに行くよう見送る。クーパーは再び小型宇宙船に乗ってコロニーを後にする。

画像は必ずしもストリート一致していないと思いますが、お気になさらずに。 突然のネタバレでしたが、ネタがバレても見応えは充分だと思うので、これを機にご覧になってはいかがでしょうか!!


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by sanaegogo | 2015-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
ふたつのNerhol展 ―IMA CONCEPT STORE と EYE OF GYRE
Nerholと言えば、今やコンテンポラリーアート界に燦然と輝く星のようであり、ひとつのスタイルを確立して世に知らしめようとしている旬のアーティストです。 Nerholは2人組のユニットで、そのユニット名「ネルホル」は、グラフィックデザイナーの田中義久がコンセプトを「練り」、現代アートに軸としてきた飯田竜太が「彫る」ことに由来しています。最近は、どこかとどこかで同時開催みたいな個展が増えてきたような気がしますが、この度もNerhol個展が都内2個所で開催されているので、行って来ました!

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ネルホル個展「アトラス(ATLAS)」
会場:IMA gallery
会期:2014年10月16日(木)~1月30日(金)
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ネルホル個展「シーネリー、シーン(Scenery, Scene)| 風景と景色」
会場:EYE OF GYRE
会期:2014年10月16日(木)~11月20日(木)
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IMA galleryの「アトラス(ATLAS)」は、彼らのこれまでのシリーズ作品である“Misunderstanding Focus”(2012)、“Portrait”(2012)、“Misunderstanding Focus 16:9”(2013)、“Scene to know”(2013)の作品を再構成してひとつのコンセプトへと集約した約40点が展示されています。さらにそれらの作品はそれぞれハードカバーの書物の体裁に纏められていて、立体作品として、写真として、書物として、多角的に鑑賞することが出来ます。


合計36点のNerhol的ポートレートが一堂に会しています。 撮影はカメラを固定して定点で行われているのだと思いますが、被写体の微妙な動きが要素となって、彫り込まれたポートレートの微妙な歪みに眼が行きます。まるで時間がそこで揺らいでいるかのようです。

   

立体的に展示しているものもあります。 この厚みは時間の厚み、経過を示しているかのようです。 彫進める事で、時間を遡っているかのようにもなって、全てのレイヤーが表面に現れる事によって、一旦時系列は消滅しているようです。







積み重ねられたATLASと共に展示された写真作品。 立体作品を撮影した巨大ポートレートです。こうして被写体とそれを取り巻く時系列は様々に姿を変えて観る人の前に出現することになります。




Eye of Gyreでは、彼ら自身が「私たちの作品は素材がもつ元々の要素から大きく離れた物質となっています。その物質感を再検証し、制作された作品の様々な要素を多角的に解釈できるような空間を構成することが今回の試み」と語っている意欲的な展示になっています。

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目線の高さで展示された写真作品は、彫進めた過程の紙の彫残しやその力加減までつぶさに観る事が出来て、制作過程のリアルな一面を垣間見る事ができて迫力がありました。(絵画でいうところの筆致みたいなものが良く判ります。)


こちらは写真作品が中心でした。額装をせずに壁に直貼りしたり、上から吊るしたり、1点1点の作品のスケールが大きく圧巻です。


Nerholの作品に感じるものはとにかく、滲み出るIntelligenceです。行っている行為は、複雑ではあるのですが、よく整理されていて、整然としたコンセプトがそこに付け加えられています。知性ある人は決していたずらに物事を複雑に表現することはせず、行っていることが複雑であるに拘わらず、単純明快に解りやすく表現/説明できると思うんですね。 意図的に小難しい言葉を使って理解の及ばない人を煙に巻いたり、わざと混乱させたり、何かスゴイ事を述べているような振る舞いを見せたりするような事はないと思うのですね。Nerholの制作態度はまさに、複雑なコンセプトの単純明快な提示、可視化のような気がします。対象の顔に向けて、およそ3分間200回ものシャッターを切り続ける。それを時系列にぴっちりと積み上げ、1枚ずつその人の動きに合わせて切り取って剥がし、断面を露出させて彫進めていきます。それは、「かつての肖像画や、レタッチが無限に可能なポートレートの真正性を疑うことから始まった」と田中さんは語っています。数分間撮影し続けるからこそ見えてくる微妙な動きや変化。断面を露出させることによってその時間の中のレイヤーは、つぶさに観察できるようになります。

――“ATLAS”は、消失し続ける“彼ら”の一瞬の姿に焦点を当てている。僕らは、被写体と向き合い、数分間にわたって200回のシャッターを切る。そして、それら全てをプリントし、重ね合わせて、彫りこんでいく。僕らは、“彼ら”の姿に迫ろうと試みるが、まるで手から零れ落ちていく水のように、“彼ら”は僕らから遠く離れていく。まるで人が書き紡いできた物語が、書けば書くほどに、書き記すことのできないものを浮かび上がらせてきたように。

―― 逆説的だろうか? 被写体となった“彼ら”の存在の本質を掴みたいと願うのに、その姿を彫り歪ませることは。しかし、考えてみるに、僕らが生きる社会は、多くのものを、ものすごい速さで消失へと向かわせている。それが現実を記憶する唯一の手がかりにすら思えてくるほどに。物語は、書物として綴じられたとき、どこにでも移動し、あらゆる人の手に渡ることができるようになった。そして、恐らくそれ以前にも増して、書き換えられ、オリジナルを失うことを運命づけられた。僕らは、“彼ら”の姿を写し取り、層を成す時間を遡るように彫り刻み、それを書物のように綴じてみる。そして、諸現象の連続性へ、消え去ることを順番待ちするかのような循環へ、それを差し出す。綴じられた書物のなかで歪む“彼ら”の姿が、この資本主義をベースにした営為の射程を揺るがせることを願いながら。

(「ATLAS」展リリースから抜粋)

テキストを読むと、少々難解なのですが、その具現である作品を観ると、
「断面を見ると 微妙に動いてるんだなぁ。」 とか、
「もしかして全部違うのかな。同じものは2枚とないのかな。」とか、
「物凄い厚み! 時間の厚みを表しているみたい!」とか、
「ポートレートによって彫進め方が違うのはどうしてかな。」とか、
「断面見ると同じ人なのにズレていくのが面白い。」とか、ごく単純な感想が(観る人が大人であるにも関わらず)どんどん出てきて、観る人を捉えるようです。観れば観るほど観察のし甲斐があります。 これこそが、Nerhol自身のように高尚な言葉を持たなくても、知らず知らずのうちにそのコンセプトについて観察し、考えているという事なのではないでしょうか。その整然とした制作プロセスの提示によって、作家の意図するところが観る人にすんなりと共有されているのです。

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by sanaegogo | 2014-11-16 00:00 | art | Comments(0)
Thomas Ruff: photograms | TOLOT/heuristic SHINONOME


グロンスキー、ヴィヴィアン・サッセンと続いて、トーマス・ルフの写真展 「photograms」です。Photogramとは、写真作品の制作手法のひとつで、カメラを使わずに印画紙の上に直接ものを置いて感光させるというもの。1980年代にタルボットがこのフォトグラムを用いて作品を制作している事例が残っていて、それが始まり。その後1900年代に入って手法が確立されて、1920年代初頭にはマン・レイなどがフォトグラムで大量に作品を作っていて、以降一般的になっていったそうです。この秋、ルフについても2個所同時開催で写真展が開催されていて、銀座のギャラリー小柳と東雲のTOLOT/heuristic SHINONOMEで大迫力の写真展を開催しました。 ギャラリー小柳では、フォトグラムではなくて、「ma.r.s. and negatives」という、NASA の火星探査機によって撮影された火星表面の白黒の高解像度デジタル画像を使用して、画像の構図を変換したり、着色加工を施したりして、テクノロジーを駆使した臨場感あふれる作品を展開しているそうです。(私はこちらには足を運んでいないのですが、写真集「Mars」は観る機会があって、写真集もかなり豪華で重厚感があったのですが、あの写真をまとめるとなるとこんな装丁になるんだろうな、という感じで内容もかなり重厚感のあるものでした。



さて、私が観た東雲のTOLOTの方は、前述のフォトグラムの手法で、デジタル技術を駆使して、もはや写真とは思えないような超仔細な世界とその質感を、巨大なサイズの作品で展示していました。もはや写真はデジタル技術と2人3脚というか、抱き合わせというか、フィルムの画像化に現像液が必要なように、現代写真ではデジタルと切り離せない関係にあるのだ、というのを見せつけるというか、ある種証明しようとしているかのような感じです。その質感はまるでエアスプレーで描いた画のようですが、高度なハイテクを駆使して突き詰めていくと、まるでローテクなアナログの表現手法のように見えるというのが何だか矛盾めいていて面白い気がします。 しかもルフがベッヒャー夫妻に師事していたというのがまた面白いですね。 グルスキーといい、ルフといい、ベッヒャー夫妻のあのアナログで緻密な写真には、テクノロジーの芽というか、潜在的テクノロジストをインスパイアさせる何かの要素があるのだとしたら、非常に面白いと思います。 卒業論文のテーマとかにしたら、膨らみそうな感じがします。


『Thomas Ruff: photograms』
2014年10月4日(土)~11月15日(土)
東雲 TOLOT/heuristic SHINONOME

ルフの作品は、「IMA」Vol.9 2014 Autumn の表紙も飾っています。

グロンスキー、サッセン、そしてルフと現代写真を現在進行形で彩っている3人の作家がコンプレックスの3つのギャラリーで同時開催で写真展をすることは、めったにない機会で、10月4日のオープニング・レセプションは3名の作家が一堂に会して、盛況に行われたそうです。 日本の現代写真のシーンも盛り上がってきましたね。



©Thomas Ruff, r.phg.11_Ⅰ, 2014



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by sanaegogo | 2014-10-18 00:02 | art | Comments(0)
ふたつのVivian Sassen展 ― LEXICON と PIKIN SLEE
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私のまわりにヴィヴィアン・サッセンのファンって結構いるんですよね。 ファッションの世界に軸足を置きながら、鮮烈な色彩のアートフォトとしての写真作品も手掛けていて、また、ファッションシューティングの方でも一風変わったハッとするようなショットを数々生み出しています。ここ最近は2個所で同時開催という形式をとる写真展が続いている気がしますが、ヴィヴィアン・サッセンについても例外ではなく、ここ東雲TOLOTのG/P + g³/ galleryと恵比寿のG/P Galleryで同時開催されていて、日本初の個展になるそうです。 ヴィヴィアン・マイヤーはオランダの人で、幼少の頃に南アフリカに滞在していたそうで、(ケニアと言っているテキストもあります)、幼い少女にアフリカの鋭く射抜くような日差しと躍動的なそこに住む人々の記憶はきっと強烈なインパクトを与えたのでしょうね。人格の形成に影響を与えたと言っても過言ではないのでしょう。 なので、「自らのルーツ」として位置づけ、アムステルダムで暮らす今でも、繰り返しそこを訪れ撮影を続けているその行為も容易に理解できます。ヴィヴィアンの写真には強いコントラストと濃厚な色彩があります。 スタジオの写真はあまり見たことがないのですが、今回観ふたつの個展でも、強い明るいライティングを施したような眩しいばかりの光と、その強い日差しによって落とされる漆黒のような濃い影が随所に見られました。質量までも感じてしまいそうな骨太の太陽光は輪郭のはっきりとした存在感のある影を創りだします。 カラーであれ、モノクロであれ、彼女の写真にはその明と暗が力強く存在しています。


LEXICON
会期:2014年10月4日(土)~11月29日(土)
会場:東雲 TOLOT内 G/P + g³/ gallery
http://gptokyo.jp/archives/1789




「LEXICON」という言葉を聞いて、私のボキャブラリーにはなかったので、彼女のバックグラウンドから南アフリカの都市の名前かな?と思っていたのですが、用語集、(特定の分野の)語彙、目録、語彙目録とかいう意味の単語だったのは意外でした。これは、写真集のタイトル『LEXICON』からの作品展示で、人間の根源的な感情をテーマに初期から近年までの南アフリカで撮影された写真を再編成したものだそうです。 なるほど。そこにクローズアップされている南アフリカの現地に住む人々が、一見奇抜なポーズをとって、全身で何かの「言葉」を表現しているようで、その集大成としての「語彙録」なのでしょう。ただ、その肢体のポーズに意図されている感情は、とても複雑で複合的なもので、単純にひとつの言葉を象徴しているだけのものとは思えないほど意味深な雰囲気が続きます。 ひとりの人物が示すポーズ、ふたりの絡み合ったいかにも不自然なその状態の意味するところは、ヴィヴィアン自身の意識にも昇ってきていないような気がします。 どの写真も何かの確認作業のようにじっくりと時間をかけて撮影されているのを見て取れるし、その根源にある何かの言葉(感情)を、語彙(感情の総体)をヴィヴィアン自身が探しているかのようにすら見えます。 「嘆きのポーズ」「Sympathy(共感)のポーズ」「絆のポーズ」「羞恥心のポーズ」自分勝手に写真の中の被写体のとるポージングに名前を与えてみようとすると、いかにそれらが一言では顕しきれない複雑で意味深いものを孕んでいるかに気づき、それがヴィヴィアンの持つLexicon そのものなのだと再確認できて、これは面白い作業でした。



全くの余談ですが、この不自然極まりないポーズを見て、昔一世を風靡した「ヴォーギング」とか「山海塾」とかを少し彷彿とさせるものを感じましたが、これはこの両者の造詣に深い人に言わせればきっと、「単なる見た目の問題ね。」と一笑に付されるのだと思います、が、なにか基本の理念みたいなところで繋がっているような気もします。そしてその鮮やかな色彩と強いコントラストを持つ鮮烈な写真であるにも関わらず、どこか憂鬱で何ものかへの畏怖や畏敬を感じる雰囲気を持つその表現世界は、まさに「光」と「影」のコントラストによって象徴されているものなのでしょう。ある種の精神世界がそこには横たわっています。彼女が写し撮りたいものは、その「明」の部分ではなく、その影にひっそりと身構えている「暗」の部分であるに他ならない気がします。それらの写真はある種の感情を表してはいるのですが、そこに写されている人々は一切の感情を排しているかのようであるのが印象的です。





PIKIN SLEE
会期:2014年10月4日(土)~11月30日(日)
会場:恵比寿 G/P gallery
http://g3gallery.jp/archives/782




Pikin Sleeとは、アフリカのスリナムにあるスリナム川の上流の熱帯雨林の中にある村の名前だそうで、サラマッカ族という部族が暮らしています。彼らの祖先のマルーンと呼ばれる人々は18世紀にオランダの植民地から逃れてきた奴隷だそうです。この村で撮影された写真で構成されたPIKIN SLEEは鮮やかな色彩のLEXICONとは対照的にほとんどがモノクロームの風景ばかりです。風景というか、その村での生活の営みを表している某かのシンボリックな「モノ」の連続です。どこか静物画の絵画のような雰囲気にも通じるその作風はヴィヴィアン・サッセンの新しい境地を垣間見せるものだそうです。 よりプリミティブでありのままで、実生活に眼を向けたような落ち着いた静けさ雰囲気の写真です。 しかしながら、その対象の捉え方にはヴィヴィアンらしいどこか迫力めいたところが感じられて、言葉として何かを表現される前に、そのものとして何かを語っているようです。 シンプルな写真だけに、ストレートに感情移入された生々しさみたいなものがあります。よく右脳は画家、左脳は小説家などと言われますが、このヴィヴィアン・サッセンは、そのアウトプットに右脳しか使ってないのじゃないかな、なんて思います。その写し撮るものだけで雄弁に何かを語っているのですが、それは言葉を介してでなく、言語になる前の感情みたいなもの、と言ったらよいんでしょうか。 雄弁に語ってはいるものの、それは言葉ではうまく表せないのです。 言葉で冷静に表現しようとしても、押し迫って来る何かの感情で溢れてしまい、もはや言葉で表そうとする事にはあまり意味がないという事を思い知るのです。 寡黙さが雄弁にありのままを語っているかのようです。




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by sanaegogo | 2014-10-18 00:01 | art | Comments(0)
アレキサンダー・グロンスキー (Alexander Gronsky) | YUKA TSURUNO GALLERY


I confese… 実は今年の私の写真は、このグロンスキーの影響を多大に受けているようです。だだっ広い風景の中にぽつぽつと点在する人々を散らして、ハイキー気味な写真を撮る。これは、今にして思うと明らかにグロンスキーっぽいと思うのですが、間違いないです。初めてグロンスキーの作品を見たのは、「2013 Summer のVol.4 特集 来るべき写真家のために」でした。
―― 孵化したばかりの作品を理解しようと試みることは、私たちがいま住んでいるこの世界と向き合うことでもあり、ひいては、遠からぬ未来を予測することでもある。
「来るべき写真家」の1人としてピックアップされているように、グロンスキーも確かに若いです。1980年生まれだそうです。もともとは報道カメラマンだそうですが、まるで映画の一場面のために特別に設定した時代や都市の風景のようなどこか違和感の残るランドスケープの写真を撮ります。Vol.4で見た時は、正直自分の中でそれ程インパクトを持って迎え入れた訳ではありません。ただ、雪景色の写真は好きなので、それで印象に残っていたのかと思うのですが、じわじわ、じわじわと来ましたね。 そして、グロンスキーが来るぞ!と知った時、何だかとっても楽しみにしている自分に気が付いてしまった訳です。
そんなこんなで、東雲にあるTOLOTのYUKA TSURUNOで開催されたグロンスキー展に行って来ました。



Alexander Gronsky
アレキサンダー・グロンスキー
YUKA TSURUNO GALLERY
September 6 - November 15, 2014  (*会期を延長しました)
Website
Works in Exhibition
Installation View




『作品の特徴として、グロンスキーは一枚の写真の中に、あらゆる意味での「境界線」を潜ませています。それは、水平線で示される視覚的な境界線だけでなく、郊外と都市、社会主義の遺産としてのインフラと手つかずの自然、私的空間と公的空間、生と死といった様々な境界でもあり、また同時に、それらの全てが一つの画面に収められた、境界のない大地の風景としても提示されています。』
テキストの中に記されているこの「対比」ですが、確かに。ネガティブなものとポジティブなもののコントラストが作品に独特の印象を与えています。『周辺環境と地域住民の関係性を探求する作品』という表現もあるでしょう。ただもっと単純に、このどことなくチグハグな情景は、無理やりに架空の世界を設定した一昔前のSF映画のようでもあり、「近未来的」な情景を感じさせます。 この「近未来的」という言葉もどことなく古びた響きで、グロンスキーの暮らす旧共産圏のイメージとダブるような気がします。ある時点で忘れ去られているかのような近代化です。(余談ですけど、近未来とは結局いつ頃の事なんでしょうね。今はもはや、近未来映画が制作された頃の「未来」をとうに追い越してしまっている現代に生きているって事なんでしょうね。) しかしながら、どこかチグハグで嘘くさいグロンスキーの切り取るその風景は、紛れもなく今現在のロシア・旧ソ連地域で現実にある風景なんです。






写真展はそんな良い意味での違和感に満ちた楽しいものでした。グロンスキの選んだプリントが1枚添えられている写真集を購入してしまったのですが、そのプリント、日本のお客さんには、この写真(左)が人気だったそうなのですが、ご本人のイチオシは、こちらの写真(上)だそうです。勿論私はご本人のイチオシを購入しました。 (もうひとつのも好きだったんですけどね。折角だから・・・・。)




ここで私が勝手にカテゴライズしたグロンスキーの作品をいくつか・・・・。

【snowscape】
殺風景な雪のロシア郊外の風景ですが、社会的なメッセージはあまり表に出ず、ちょっとユーモラスに、ちょっと可愛らしく、ロシアの郊外でそこで暮らす人々が織りなす風景という趣です。画面は白く、寒い戸外でアクティビティーを楽しむ人々がぽつぽつとカラフルに散りばめられています。 ちょっと見ていると、まるでペイント作品のようにも見えてきます。





【Ophelia】
これはただ単に、緑盛んな風景を見て絵画の「オフェーリア」を連想したに他ならないのですが、違うのは、辺りにはゴミが散乱していたり、恋人たちが寛ぐ木立の背後には、殺伐とした原子炉がそびえ立っていたり。人工建造物が創りだす荒涼とした風景と人々の営みが互いに寄り添っている風景です。





【emigration to new planet】
とても目を惹くSituationです。地球ではもはや暮らせなくなった人類が太陽系の外にその活路を見出し移民していて、至極人工的な自然環境の中で、かつて地球で営んでいたような楽しい余暇の過ごし方を全て後天的な環境の中で健気に再現しようとしている・・・・、そんなB級映画のSF映画の一場面を連想してしまいます。 この場所は、きっと大きな透明なドームか何かで覆われているに違いない、と考えが飛躍してしまいそうな人工的な風景が繰り広げられています。




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by sanaegogo | 2014-10-18 00:00 | art | Comments(0)
Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」




マーク・ボスウィックのスライドショーは、もしかして今年観た写真展や絵画の展覧会の中で一番好きで、一番印象に残って、一番いつまでも忘れがたく、一番も一度観たいと願うようなものでした。 こじんまりとしたTaka Ishii Gallery Photography / Film の壁いっぱいに投影された3面のプロジェクションは、眼で見て感じるだけでなく、ボスウィックの創りだした幻想的な現実世界の中に自分自身が唐突に入り込んでしまったような気がします。 スクリーンから僅かに撥ね返って来るプロジェクターの光が皮膚の中から体の中に沁みこんで行きます。 カルーセルが1回転するのに40分くらい、ボスウィックの創りだした色鮮やかなイメージの光に浸っていましたが、カルーセルのカシャ、カシャという音も心地よく、どこからか聞こえてくるボスウィックがしたためたという詩の朗読にも不思議な感じを覚えました。実は「幻想的」とは言ったものの、それとは少し違うのです。自分は現実世界にいるという自覚があるのだけど、どの現実かが解らない非現実的な現実。 (ボスウィックはファンタジーの世界ではなく あくまでも現実の風景を捉えているのです。素晴らしい!) スライドが次々と創りだしていく空気を感じ、空中を漂っている声を感じている・・・っていうような感じ。(上手く言えませんが。) 「聴く」「視る」みたいな能動的な感覚とは違う、もっと自然体な感じ。 Surrounded、包まれている、そんな感覚を覚えるとても心地よい世界観でした。







マーク・ボスウィック(1962年ロンドン生まれ) は、ニューヨークを拠点に活動する『Purple』『i-D』といったファッション雑誌や、数多くのファッションブランドとのコラボレーションなどで知られているファッションフォトグラファー。 近年はファッションの領域を超えて、音楽、映像、詩など様々なメディアを横断的に行き来するような作品を手掛けています。 しかもそのつなぎ目を全くと言っていいほど完璧にかつ自然に融合した独特の不思議な世界観を漂わせています。 彼が撮影した写真作品についても、私の個人的な好みもあるのですが、そのaccidentalな色彩にとても惹かれ、accidentなのか、predictionなのか、その境目もまた見事に曖昧化されていて、自然に馴染んでいます。






光を追い、光が生み出すすべてのもの、色彩、ハレーション、フレア、そして闇までもその術中に収めているようです。一見劣化しているかのように見えるその投影されているスライドの情景に観る人はどことないノスタルジアを覚え、現実の中に身を置きながらそれぞれが抱えている「何処か」に帰っていくような気持ちを想起させられるのでしょう。 3面のプロジェクションもトリプティクスのような構成で、その漠然としたストーリーの中に溶け込んでいくような錯覚を覚えるのかも知れません。
もう会期は終わってしまったのですが、もう一度観たいです。 そして あの感覚の中に浸りたいです。


Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」
2014.09.20 Sat – 10.18 Sat
Taka Ishii Gallery Photography / Film
http://www.takaishiigallery.com/jp/archives/11575/






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作品をもっと紹介したいな、と思っていたら、まとめている方がいたので、ここに紹介します。
http://matome.naver.jp/odai/2137293016689383201?&page=1

Mark Borthwick Project (2010)
http://www.superheadz.com/mark/about/




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by sanaegogo | 2014-10-11 00:00 | art | Comments(0)
ヴァロットン展



バルテュスのポラロイド写真の展示を観に行って、その帰りに立ち寄ったミュージアムショップでヴァロットンの作品に纏わる数々のGoodsを見て、もうすっかり観たくなってしまった、といういきさつの展覧会です。 それまで街のあちこちでポスターになっている「ボール」という作品を目にしていたのですが、それを目にするにつけ、何故か心にざわついた思いがあったような気がしていましたが、それこそがヴァロットンという人の作品の持つ魅力に他ならなかったのですね。





さて、この『ヴァロットン展』、”冷たい炎の画家”というサブテーマが付いていますが、実は個人的には少なからずこのサブタイトルの打ち出すイメージに違和感を感じていました。かなり僭越な発言ですが、炎のようにめらめらとゆらめく動的なものではなく、何かこう張りつめた弦や鉄線のようにぴーんとした静的緊張感を感じたからなのですが、この“冷たい炎”というのは、クロード・ロジェ=マルクス(美術評論家)が1955年にヴァロットンについて語った「フェリックス・ヴァロットン、あるいは氷の下の炎」から引用されたものだということです。画家を表現したキャッチフレーズ的な言い回しは著名になればなるほど、枕詞のようについて回るものですが、それが定着していなかったほど「知られざる」「知る人ぞ知る」画家だった表れのように思えます。このヴァロットン展は、日本初の回顧展で、グラン・パレ、ゴッホ美術館を巡回した後、日本で3か月にわたり大々的に開催されたもので、とても見応えがありました。出品数は小作品の版画が多い事もありますが、134点にものぼり、美しく柔らかい色彩の油彩画から、写真的で言うと黒潰れした画面構成が印象的な版画作品まで、そのバラエティーも素晴らしかったです。





まず油彩画。コントラストが少なく平坦で滑らか、対象を大きくとらえ背景を極力シンプルに表現したその人物画は、まるで雑誌のグラビアページのような印象です。 そして対象を真っ向から捉えつつも、微妙に真正面からの対峙を避けているかのようなその画家の視線があり、そこに言いようもない危うい雰囲気を漂わせています。画家はモデルやその場面に居合わせながらも、当事者になり切れないような何とも第3者的な傍観者、ただ観察している「場」から外れた者であるかのような心境を醸しています。 自分の描くその画面の中に(入って行こうとしても)入って行く事が出来ないような微妙な躊躇いが感じられます。妻や家族を顕した油彩画もそうですし、世の中の世相を描いた数々の版画作品にもそれは感じる事が出来ます。 それは、疎外感という子供じみたある意味拗ねた幼い感覚ではなく、もっと複雑で知性的であるような。 当事者意識や所属意識が持てない人。ヴァロットンにはそんな人の葛藤や苦悩を感じてしまうのは私だけではないような気がします。
思えば、こんなに画家の深層心理みたいなものが投影されている作品もあまりないような。決して心象風景を描いている画家ではなく、むしろどこに存在してもおかしくない場面や実際の社会現象をモチーフとした画家なのに、そこには必ず画家の心理が投影されているのです。 画面の中には必ず彼が存在しているかのようです。しかもそれはいつも第3者的な視線であり、その存在感とは別のところで画の中のストーリーは展開されていくのです。 不思議な空気があり、只ならぬ雰囲気が漂っています。この画家と画家を取り巻く世界の言いようもない距離感がヴァロットンの作品から滲み出ています。気持ちをざわつかせられるのです。シンプルで明瞭な線で描かれたその作風とは裏腹な、非常に複雑なその画家の心の機微を、観る人は知らず知らずのうちに感じ、ヴァロットンの心理(心情というには「情」を感じないので)へ無意識のうちに関心を抱きつつ、その作品を鑑賞しているのでしょう。少なくとも私はそう感じてしまいました。



        


そんな風に常にヴァロットンの冷ややかな視線を感じさせる作品群ですが、まとめて所蔵しているコレクターがほとんどいないので、まとまった作品として見られる機会は本当に少ないと言います。 大作の大きなサイズの油彩画から、新聞や本に掲載された小ぶりの版画まで、その題材とするものの目の付け処が斬新で、1世紀近く時を経た今でも決して古臭い感じがなく、そしてバラエティーに富んでいながら、一貫してブレがないその作品たちは最後まで見ていても飽きることがありませんでした。 中でも私を釘づけにしてしまったのは、版画のシリーズで、リッチなブルジョア達が密室の中で人目から隠れてこっそりと繰り広げる男女の密会の様子を描いた『アンティミテ』という版画。黒潰れしたベタ、諧調がない白と黒の強いコントラスト、「えっ!? そこを?」というような場面を切り取った斬新な構成、そして、偽善的で隠匿された上流社会を表現したその洗練された雰囲気。 ヴァロットンが冷ややかに嘲笑いながら題材として選んだそれらのスキャンダラスな密会の情景。 それらにもう魅せられてしまい、希少な油彩画とかも収録されていたので図録と散々迷った挙句、版画集を購入してしまいました。 観る度に刺激を受けます。

ヴァロットン展、もう会期は終了してしまったのですが、2014年のベスト3には確実に入る見応えのあるものでした。
http://mimt.jp/vallotton/top.php



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by sanaegogo | 2014-09-20 00:00 | art | Comments(0)
イメージメーカー展 @21_21 DESIGN SIGHT



先日 21_21で行われていた企画展 「イメージメーカー展」のレポートです。 随分とバックデートになってしまって、もう会期はとうに過ぎてしまったのですが、切り口というか目の付け処が如何にも21_21らしくて、面白かったです。

企画展「イメージメーカー展」
2014年7月4日(金)― 10月5日(日)
展覧会ディレクター: エレーヌ・ケルマシュター
参加作家: ジャン=ポール・グード、三宅 純、ロバート・ウィルソン、デヴィッド・リンチ、舘鼻則孝、フォトグラファーハル
http://www.2121designsight.jp/program/image_makers/



私はデヴィッド・リンチのリトグラフが楽しみで出かけたのですが、イメージとファンタジーの世界を巧みに創りだしている様々な分野のアーティスト、クリエイターが、それぞれの分野で「イメージメーカー」としてのその世界観を共演しています。 キュレーターに日本文化に精通しているというエレーヌ・ケルマシュターを迎え、彼女がチョイスした国内外のアーティストの意外なバラエティーがまず面白い。映画、デザイン、広告、モード、舞台、音楽など、展覧会に出品した精鋭のフィールドは多岐に渡り、作品として制作したもののみならず、舘鼻則孝氏の手によるエキセントリックな靴(これは言うなれば日用品!)などもケルマシュターの触手に捉えられています。これこそまさに 日常と非現実の世界との境目のない超越したものづくりのアイディアの産物の最たるものではないでしょうか。



さて、どんな展示だったかというと。 まず、デヴィッド・リンチ。 リトグラフの作品が多く展示されていて、まとまったのを見るのはヒカリエで2012年6月に行われていたリンチ展につづいて2回目だったのですが、リンチの若干狂気じみていてそれでいて 茶目っ気がありユーモラスな思考の断片を取り出したようなリトグラフの数々はやっぱり面白い。 体の一部にフォーカスしてクローズアップしたり、その時の思考が文字になって浮遊したり、肢体を機械であるかのようにあらわしたり、リンチムード満載で、ちょっとだけおどろおどろしい感じだけど、コミカルな場面の羅列はリンチ独特の思考回路の中に迷い込んでしまった気分がします。










あえて B級っぽい感じが 如何にもリンチ的です。


この展覧会で初めて知ったのですが、ジャン=ポール・グードというアーティスト。1970年代から広告イメージのクリエーター、イラストレーター、デザイナー、そしてクロスジャンルの美しくも摩訶不思議なハイブリッドな作品を手掛けてきたアーティストです。この人の作品がどれもこれも一級品という感じで圧巻でした。 それは偏に彼が女神と仰ぐ3人のアイコン的モデルの一人グレース・ジョーンズの野性味を帯びたパンチの効いたインパクトによるものに他ならないのですが、パリの地下鉄内のデパート広告を何台もののモニターを繋げてホームに滑り込む電車からの視点を追うように再現された ヴィデオ・インスタレーションの作品に目を奪われました。 セットアップなのか スナップなのか 両者の境目が判らない細部まで緻密に創り上げられた選りすぐりの偶然が連なる世界。そんな感じです。 素晴らしくてそして人の眼を逸らさない「ひき(惹き)」がありました。これは、知らなかっただけに いいものを観せてもらいました。




(全くの余談ですが、私がグレース・ジョーンズを初めてみたのが映画のコナンの中で。(写真) 映画に出てくるオトナの女性と言えば、ふくよかな胸の膨らみがあって当然と思っていた子供の私に、あの中性的で動物的な伸びやかなボディラインは強烈なインパクトを持って記憶に残っていました。)



あとは、やっぱり舘鼻氏でしょうか。あの非現実というか、超現実なフォルムの靴たちが展示されていて、しかも順路の最後では実際にその靴を履いてみる事が出来るという企画には驚きました! ただし、ただ単に突飛な奇を衒ったデザインではなく、エンジニアリング的にもきちんと計算された理にかなったフォルムであり、近未来的なデザインでありながら、それは古き良き時代の日本の花魁の履く道中下駄に着想していると言う事です。 ここにもまた舘鼻氏の独特な視点が介在しているのです。 あと、いかにも21_21らしい選出の顕れだと思います。 靴は実用品なので、鑑賞するアート作品とは違います。 その境目はある時はとても曖昧になってしまいますが、靴が日常で使うある意味道具なのだから、これは紛れもないデザインで、それを展示作品としているのが、やはりDesign Sightたる証ともなっています。 (しかし、この靴を「実用」しているのは レディ・ガガくらいでしょうけど。)






他にも色々ありましたが、やはり特筆するのはこの3名でしょう。しかしながら、出品した6名のアーティスト/デザイナー/クリエイターに共通して言えるのが、このイメージメーカー展の中に見るそれぞれの独自のものの捉え方、ものをみる視点です。 「ものをみる」=「イメージ」、それぞれの視点というフィルターを通って創りだされたオリジナリティとバラエティ溢れる作品の競演。イメージメーカーたちの視線の先にあるものが具体化された、彼らのイメージの中にあるものが現実の世界で実物として一堂に会したような空間に出来上がっていて、その非現実感が非常に面白かったです。

最後に。 珍しく一部を除いては殆どが写真撮影OKの企画展で、コンテンポラリーを題材にした企画展として、これは大いに評価出来るのではないでしょうか。


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by sanaegogo | 2014-08-24 00:00 | art | Comments(0)
バルテュス 最後の写真 ―密室の対話
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上野の西洋美術館でバルテュスを目撃したのは、5月の事でしたが、その時から楽しみにしていたこの三菱一号館でのポラロイドの展示です。老齢で手が利かなくなってしまい、下絵作業での仔細な描線を描くのが困難になったバルテュスが用いていたのがポラロイドで、その自分の頭の中にあるイメージを精巧に再現し確認するために何枚も何枚も撮影されたものが、三菱一号館の展示室ではなく、資料室で展示されています。 まず、その展示室の小ささ。 今回の展示はバルテュスの作品というのではなく、制作のための資料という位置づけの展示なので、この小さな資料室で展示されているという事が、何だかバルテュス自身の秘められた内側の部分を顕しているようで、私自身は、作者が公開することを望んだか望んでいないか(没しているので確認しようがないけど)は別として、この小さな部屋は、生前は密やかに匿われていたであろう彼の秘匿のようなものを こっそりと観るに相応しい気がしています。




この企画自体はニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで写真展として開催されたものを日本に持ってきたもので、ガゴシアンではポラロイドはマッティングをして額装されていたみたいです。 そうなると、この多数のポラロイドの見え方も全然違ったものになるのかも知れないですね。 どちらがどうとは言えないですが、この建物の横の小さな出入り口から入る裏の小さな資料室での展示の方が、このポラロイドを撮影した時のバルテュスの心情により寄っているような気がします。 実際この撮影も、グランシャレのroom107で、幼いモデルと二人っきりで密やかに行われていたようです。




展示の方法もそうですが、観る人によって感じ方が違うであろう展覧会もないように思います。女性ならば、自分の経験を顧みて、まだ固く成長の痛みを伴いながら変化しているであろう幼い胸をさらけ出す少女に何か複雑で不安で危うい思いを感じとるだろうし、男性は、この後、彼女が遂げていく女性としての劇的な変貌の兆しを見て、そこに神秘的なものすら感じられるのかも知れません。(実際ショーケースの中のモデル アンナ・ワーリーは 確実に成長して行っています。) 母親ならあまり賛成は出来ないような光景を目の当たりにしているのかも知れないし、父親ならその娘の勇気を誇らしげに思うのかも知れません。展示室にはひとりもいませんでしたが同年代の少女は? 同じようにモデルに対峙して画を描いたり写真を撮影したりするアーティストは? モデルのポーズを確認するためだけのこれら膨大なポラロイドなのですが、その先に派生していく感じ方や捉え方は多種多様で、それもまたバルテュスのunavoidableな一面を顕しているかのようです。

注目すべきはその「シツコさ」です。何枚も何枚も微妙に位置を変える手や首の角度、ガウンのはだけ具合、などなど。 バルテュスが一枚の画の中の微妙なバランスに拘り、納得のいくまで(だったのかは知る由もないですが)執拗にポーズを求める様子が展開されています。手の自由を奪われた画家の鬼気迫る制作態度と言ったところでしょうが、不思議と全体の流れは静かに粛々とした印象を受けます。 頭に大きな白い布を巻き、顔を隠すようなポーズの写真もありましたが、このシリーズは何だか倒錯めいていて、一言では言い表しがたい世界観を醸し出していました。アンナ・ワーリーは、8歳から16歳まで(1992年~2000年) バルテュスのモデルを務め、イマジネーションを与え続けました。 他の誰もが得難い特別な体験をしたのだと思います。 画家が自分の描く対象を鋭く静かに観察する眼に晒されて、最初はとても緊張したと語っていて、バルテュスも緊張していたそうです。その緊張感がポラロイドを通してこちらにも伝わって来るようです。 実際にモデルを務めた人物の語る生の言葉をテキストとして読み、展示を観ることが出来るのも、同時代に生きていた作家(しかも巨匠)ならではの事で、彼女のテキストがこの展示に一層厚みとリアリティを与えています。テキストの中でアンナ・ワーリーは自分とバルテュスの事を「共犯者」と表しています。 モデル アンナ・ワーリーから見たバルテュスとのその関係性の表現が、まるでこの展示そのものがバルテュスのひとつの作品であるかのような ドラマチックなものにしています。 上野の東京都美術館で「バルテュス展」を観た方は こちらにも足を運ぶことを強くお勧めします。


「バルテュス 最後の写真 ―密室の対話」展
The Last Studies ; Balthus in Tokyo
2014年6月7日(土) ~ 9月7日(日)
三菱一号館美術館 (歴史資料館)
http://mimt.jp/balthus/




こちらは、ガゴシアンギャラリーのもの。



GAGOSIAN GALLERY
BALTHUS
THE LAST STUDIES
SEPTEMBER 26, 2013 – JANUARY 18, 2014
http://www.gagosian.com/exhibitions/balthus--september-26-2013



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by sanaegogo | 2014-07-26 00:00 | art | Comments(0)
study / copy / print | Go Itami
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伊丹豪さんの「study」に続く「consideration (考察)」とも言える写真展「study / copy / print」が中目黒でやっていると言うので観に行きました。「study」とはまた違ったアプローチで、そして、ご本人の「展示されている実物の写真を観てほしい」と言うコメントの通り、これは展示されている画像を観て初めて、伊丹さんの真意が伝わるといった意味を持ったものでした。(何となく、『写真(photo)』と言うよりも『画像(image)』と言う表現を使った方が相応しいと思ったのでそう表現しています。) 心象というよりは現象を作品化する伊丹さんですが、今回はその様相が色濃く出ていて、実験的な試みも作品の中に取り入れられているようです。ご本人も『写真というメディアの中で自己完結させるのではなく、他者の力を借りてこの接近を推し進めてみたい』と語っているように、グラフィックデザイナーにご自身の作品を委ね、拡散や凝縮、再構成や分解などを施し生まれてくる新しいセグメントを導き出そうとしています。 展示の構成は大きくはふたつのテーマに即していましたが、そのひとつがこれ。 もうひとつは、伊丹さん自身の発見から実験し、自分で確認するというもの。自分の作品の次の段階の変容を示す2方向からの試みなのだと思いますが、私自身は後者、つまり、伊丹さん自身の実験→確認のプロセスを経た作品の方が断然印象に残りました。 そこにはその意外な変容を驚きをもって迎える伊丹さんのエキサイトメントみたいなものが感じられたからです。 こちらの方が楽しかったし、自分自身も驚きをもってその作品と向かい合ったからです。





この 黄色のような金色のような粒子は、プリンターの操作ミスから生まれた、とある作品の一部分だそうですが、失敗によってある部分が失われてある部分が生成されているのだそうです。 もともとは樹木の葉の茂った部分なのですが、これまでの作品のように 写実を極めて抽象化されていく、というパラドックスの極みのような気がして、それがついに分子や原子のレベルまで行ってしまったような印象を受けました。 勿論、先にも述べたように、これは意図的になされたものではないのですが、画像の一部分が拡散されて、そのまた一部分が凝縮して見えて、ひとつの作品の中のこの矛盾みたいなものが、伊丹さんの作品らしい、と思えるのです。 最初は、何か着色した細かい砂みたいなものをスキャナーの上にぶちまけて撮影したのかな、と思って観ていたのですが、キャンパス地に出力したこともあって、布地のテクスチャーの力を借りてひとつひとつの粒が立体的にも見えてくるのです。 もっとよく見ると黄色味を帯びた粒のそれぞれに微妙に様々な色彩のバラエティーがあって、それが出力の網点のレベルまで細かくなって、その粒のひとつひとつもそれぞれ更にイエロー、シアン、マゼンタなどの細かいドットに落とし込まれていくと思うと何だかぞくぞくしました。 世の中は、分子や原子や素粒子などで出来ている。 当たり前の事ですが、樹木の一部を写した画像からそんな事まで想像が膨らんでしまいしまた。





唐突にガーナチョコレートですが。 この作品はドイツの画家であり写真家でもあるジグマー・ポルケへのオマージュだそうです。 絵画を写真的にアプローチするとどのような変化が起こるのか、それを確認したくて試みたものだそうです。 バックのストライプはネットから拾ってきた画素数の足りないウェブ素材でそれを大伸ばしにして対象を接写したところ、絵画ではあり得ない無数のごみや塵が映り込んでしまい、これこそが写真であることの意味だ、と伊丹さんは感じたそうです。 なるほど、写真はある意味、作意を超えて勝手に全ての事実を捕えてしまうという一面があります。 (もちろん、そうでない一面もありますが。) この作品はとても複雑で、色々考えていると矛盾だらけでまるで禅問答のようです。 (確か前には『哲学的』と言う言葉を使いました。) 拡大したもの(ストライプ)の上に凝縮されたもの(ガーナチョコや埃、塵)が乗っていて、平面に立体感を感じる部分もあるし、ある部分では立体感は完全に失われてレイヤーのような構成にも見えます。 さほど厚みのないはずの無造作に千切られた外箱の切り口には、もさっとした紙の繊維の確かな重なり(厚み)と僅かにしろ質量のある感じが見て取れます。背景のストライプは平面の、しかもバーチャルな世界の代物のはずなのに、粗い画像にありがちなエッジのもっこりとした感じは、現実にはどこに存在するのかすら判らない立体感を生み出しています。 写真は『真実(実体)を写す』という意味のはずなのに、これは本当に実体なのだろうか、という不思議であり得ない疑問が湧いてきます。 ここに伊丹さんが語っていた『展示されている実物の写真を観てほしい』という言葉の真意を感じました。ネットの画像を観るだけでは知りえない様々なとりとめのない気づきがそこにはあるのです。 仮想の世界から来たもの(ストライプ)を物理的に実体化(紙に出力)して、そこに別の実体(ガーナチョコ)を置いてまた仮想の世界(デジタル画像)に閉じ込めて、それごと全て物理的に実体化(大きく伸ばして作品化)するとそこには仮想の世界のような見え方と映り込んでしまった実体が混在して・・・・。説明できないほどの矛盾を孕んだ作品ではありますが、この作品を漠然としたもので終わらせていないのは、伊丹さんの弛まぬ探究する姿勢とそのプロセスなのだと思います。
この作品などは特にそうだと思うのですが、伊丹さんは、撮った画像に(良い意味で)無駄な思い入れがないように見えます。カメラという機械のファンクションが伊丹さんの眼の機能まで連続して繋がっていて 既に自分自身がカメラのファンクションの一部になってしまっているかのようです。無駄な思い入れがないから、その画像を客観的に見ることが出来て そこに再び何かの発見があるのでしょうね。心象風景を思い入れたっぷりに撮影するのとは全く異なった世界観です。
若干、言葉の上での捏ね繰り回しが過ぎたような気もしますが、言葉の定義を意識しながら表すのはとても難しいものです。 「写真」と言うものも然り。東急ハンズで買ってきたラッピングペーパーを作品に見立てたものもありましたが、撮影をする人だけが写真家というのではない段階に入って来た、というのはここ最近本当に色々なところで取り沙汰されています。 また、写真表現のすそ野が広がってカメラで撮影するだけが写真ではない、とも言われています。『写真とは何なのか』、『写真家とは何者なのか』 伊丹さんは、その定義を模索して行く探求の旅の最中にあるのだ、とひしひしと感じた今回の展示でした。

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study / copy / print
HAPPA / sakumotto
2014年05月30日(金)- 2014年06月14日(土)
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by sanaegogo | 2014-06-14 00:00 | art | Comments(0)