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「食」が楽しい!! いちはら ART×MIX
今年のGWは前半の連休も後半の連休もどっちも天気はばっちりという前評判だったのに、よりによって今日はすっかり曇天の空模様。そんな中、千葉県の市原まで出かけて来ました。市原は友人の実家があって、一度遊びに行ったことがあるんだけど、その時散策した渓流の谷間とか、畦道とか、雑木林、小湊鉄道の線路とか、里山の豊かな自然、清々しい空気の気持ちの良さをとてもよく覚えています。 その市原で地域を巻き込んだ芸術祭が開催されています。 その名も、『ICHIHARA ART×MIX(いちはらアート×ミックス)』。第1回だと言うので、作品数はそんなに多くなかったのですが、小湊鉄道を中心としてバスで各エリアを巡って、“雨ニモ負ケズ”楽しんできました。

名称:中房総国際芸術祭いちはらアート×ミックス
会期:2014年3 月21日[金]- 5月11日[日] 52 日間[会期中無休]
会場:メイン会場:千葉県市原市南部地域[小湊鐵道上総牛久駅から養老渓谷駅の間]
主催:中房総国際芸術祭いちはらアート× ミックス実行委員会[会長 佐久間隆義(市原市長)]
協力:小湊鐵道株式会社
http://ichihara-artmix.jp/

天気が良かったら、田植えが終わった水田の水面に青空が映り込む写真でも撮りたかったのですが、この日は生憎の雨が降ったりやんだりで。それでも傘を広げることなく、帽子で雨除けで凌げたのですが、しかし、ちょっと寒かったです!



雨粒に濡れた睡蓮の葉っぱ。この日はこんなのが似合う感じでした。


ここ数年、地域の村おこしとして芸術祭やアートフェスを開催するところが増えています。越後妻有のトリエンナーレや瀬戸内芸術祭もだんだん有名になってきましたが、いちはらアート×ミックスもそれを目指しているひとつ。主催者の構成員には市長さんのお名前も見受けられます。 このいちはらアート×ミックスは越後妻有を立ち上げた北川フラムさんが企画した芸術祭で、廃校になった小学校の活用や小湊鐵道の列車やバスなど交通の活用などという目的はまあよくある話だなぁ、と思うのですが、ワタシが特徴的だなーと思ったのは、『食』に関することに結構フォーカスとアピールがあることです。地元で採れるおいしいお米やピーナッツ(落花生)を使ったお弁当やカフェご飯を各ポイントで食べることが出来て、各人それを目的に計画を立てる、みたいな、食いしん坊たちの食のスタンプラリーみたいな感じなのが面白いです。勿論、第1回目なので、そんなに豊富なバラエティーはないのですが、今後もこのコンセプトで発展してったら、越後妻有や瀬戸内とは全く違ったアプローチで面白いと思います。



今回みんなの争奪戦(?) (笑)が繰り広げられたのが、このわっぱめし。 左かららっかわっぱなっぱわっぱまっかわっぱ。「らっか」は落花生の「らっか」でアート×ミックススタートの上総牛久駅に売っていて、ここでしか手に入りません。「なっぱらっか」は「なっぱの三色わっぱ」の事で、里見駅に売ってます。 そして、養老渓谷駅 の「まっかわっぱ」。ワタシ達はこのまっかわっぱを狙っていたのですが、養老渓谷駅は小湊鉄道の(芸術祭では)終点の駅。 それに賭けることにしたのですが、途中で計画変更を余儀なくされたのは、想像に難くないと思います・・・・。 (わっぱめしも作品のひとつとカウントされていて、スマイルズ 生活価値拡充研究所 の作品になっています。)



上総牛久駅まで小湊鉄道に乗ってきて、参加者はここで思い思いに行動開始。




長閑な単線の小湊鉄道。スタンド・バイ・ミーの世界ですね。


さて、上総牛久駅の案内所で、指輪ホテルが小湊鉄道の車中で上演するという『あんなに愛しあったのに~中房総小湊鐵道篇』の当日チケットを手に入れる計画だったのですが、朝の7時から並んでいた人もいたほどの人気で敢え無く撃沈! かなり良い評判を聞いていたので残念です。 潔く諦めてひとつめの作品『内田未来楽校』までバスの旅。 会期中は市バスを活用した周遊バスが走っています。



関東地方、しかも東京の隣の県なのに こんな風に木造平屋の校舎が残ってるなんて、なんだかスゴイ。
本格的な田舎です。


内田未来学校の次は湖畔美術館へ。 晴れていたら屋外の櫓のような作品とかも面白かったんだろうけど、この最大の降りはこの湖畔美術館で迎えてしまい・・・。美術館のショップで 大多喜産バジル&市原産トマトのビスコッティをお土産に買いました。
この辺りで養老渓谷までお昼ご飯を我慢するのは危険ではないか? という懸念が生まれていて、美術館のカフェがいい感じのところだったらそこでランチにしてゆっくりしよう!と計画変更をしていたのですが、あまりの雨でカフェは激混み、アート×ミックス的なカフェなら良かったんですが、ピッツェリアだったので、里見の駅まで雨が降ってるうちに移動してしまい、なっぱわっぱを手に入れるべく動くことにしました。そして周遊バスで里見駅へ。
バスの便は結構良い感じです。まぁ、先ほども少し述べましたが、結局のところ、里見駅に到着した時にはなっぱわっぱは売り切れており、お母さんがやさしく結んだおにぎりと胡瓜の浅漬けを食べることに。気の毒がったお母さんがお味噌汁をサービスしてくれました。 アート×ミックスは地元の人や参加する人と触れ合うことも楽しみ方のひとつになっていますが、里見の駅でおじさんやおばさんとおしゃべりしたのは楽しかった。
そしてこの里見駅で本降りになってしまった雨が止むのを待っていると、何やら辺りがザワついてきて・・・・。



ゾンビ 登場!!写真撮らせてもらいました!


朝出発の時、既に完売していた指輪ホテルの当日チケット。この里見駅は単線の小湊線が上りと下りのすれ違いの待合の駅らしく、そのすれ違いの停車時間を利用して上演のために走らせている特別列車にさらにゾンビが乗り込んで停車中に何かパフォーマンスをするらしく、列車に乗ることは出来ませんでしたが、ラッキーにもゾンビ追加投入のパフォーマンスを見ることが出来ました。



コーヒー飲んでスタンバッてたゾンビ姉さんを含め、3人のゾンビが・・・。
乗り込み・・・。




電車は走り去って行きました・・・。




指輪ホテルの臨時列車を見送ったら小湊線はあと1時間ほど来ないので、バスで移動。 お腹がまだちょっと物足りないので、山登里食堂まで。ぽのわプロジェクトがやっている『とぬま』というプログラムで、カフェでシシッチャ(いのしし)サンド、猪肉の山登里カレーなどが食べられます。 が、ワタシ達はサバサンドというなんとも魅力的なサンドイッチをいただく事にしました。



これがサバサンド。焼いた干物のサバがサンドしてあって、ジューシーで美味しかったです!


何故、市原でサバなのか? イノシシは解る。お店のお兄さんに尋ねてみてもいまひとつ「なるほどっ!」という答えは得られませんでしたが、写真を撮ってなくて残念なんですけど一緒に飲んだジンジャーエールの生姜のたっぷりさにワタシとしては大満足でした。 (でもあれは、生姜の苦手な人には大量すぎるのでは? ま、でも生姜苦手ならジンジャーエールは敢えて飲まないのでしょうね。)
おっと次のバスの時間だ!と山登里食堂を出て養老渓谷まで。途中間違ったところでバスを降りてしまいアップダウンの道をテクテク歩く羽目になったのですが、やっと到着。養老渓谷駅です。



趣のある駅舎。
ここは養老渓谷のハイキングの出発駅で、長閑な山間の風景が広がってました。




まっすぐに伸びる線路




養老渓谷


そのまま10分ほど歩いて あそうばらの谷 まで。大巻伸嗣の『おおきな家』という作品があります。 そこに行くまでに立ち寄ったのは、開発好明の『モグラTV 』には笑いました。畑の中の穴の中にモグラの姿をした開発さんが来る人を待ち構えておしゃべりをしてくれます。 穴の中はスタジオになっていて番組がある時は市長さんとかもゲストに来て、穴の中に入るそうです。(笑) この人、1日中誰か人が来るのをこの穴の中で待ってるみたいなんです。 厭世的雰囲気を醸したモグラとのおしゃべり。シュールです。



モグラTV


アートハウスあそうばらの谷」は、ART×MIXのための作品ではなく、養老渓谷にある本来の古民家の雰囲気をできるだけ残しつつ、古民家とアートの融合を図る新しい試みとして改修された築100年以上の古民家ギャラリーです。 企画展もやっているギャラリーで『大きな家』はART×MIXのために制作された作品のようです。靴を脱いで暗く照明の落とされた屋敷の中を歩いていくのですが、屋敷の中にいくつか展示されていた中の最後の作品がとても印象的でした。撮影が禁止だったので説明だけになりますが、板の間の高い梁の上からぼーっと白い球体がゆっくりと生まれ降りてきます。 空中を漂うようにしてそこにある白い球はシャボン玉で、中に何か煙かドライアイスか粒子の細かい何かが入っているようで、球は地面に到着するとふわっと壊れてしまい、そしてふわっと白い何かが立ち昇ります。そしてゆっくりと拡散して消えるのですが、ここだけ時間がゆっくり流れているようで、音もなく静かで、しゃがんでその球の生まれては消えするのを見ていると気持ちが知らず知らず鎮まってくる気がします。こう言う作品、本当に好きなんです。 「漂う」「散る」「消える」それが静かに静かに繰り返される感じ。シャボン玉の中の白い煙のようなものは、空気(大気)より比重が重いのでゆっくりと降りてくるのだと思うのですが、こんな風に科学、化学あと大げさに言えば自然の摂理とか、自然現象、神羅万象を取り込んだ作品であることが、ワタシが好きなもう一つの理由です。



古民家を前庭から撮影。雨が上がったばかりなので、緑が瑞々しいです。



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田植えが終わったばかりの水田。整然と均一な畝の様子が素晴らしい!


里山のピクニックの最後にまたちょっと休憩ということで、ここでもまた「食」作品を堪能・・・・しようと、スマイルズ生活価値拡充研究所の『山覚俵家』にお邪魔することにしました。 ご飯の時間は終わっているのですが、なんかちょっと甘いものでも、と。ここは、季節のまぜご飯セット を出していて、これもとってもおいしそうでした。 お米が自慢だそうです。 残念ながらいくつかあった甘いものは完売してしまっていましたが、ちょっと寒さで冷えていたので、コーヒーをいただいて温まりました。 ちなみにコーヒーはお替り自由。うれしい心遣いです。





働いていたお母さんたちは皆さん どこか垢抜けていて こなれた会話も素敵でした。


ICHIHARA ART×MIXは今年が第1回目で、展示してある作品数は数は少ないですが、「なっぱすごろく 」と銘打って限定食みたいな素朴で美味しいものを食べ歩くという企画も面白いし、各所各所で地元の人や運営をしている皆さんとおしゃべりが出来たのが楽しかったです。小湊鉄道は鉄ちゃん達に人気があるらしいし、養老渓谷は風光明媚でハイキングが最高らしいし、田んぼの畔を散歩するのも楽しそう。 そして、会期も残りわずかですが、これから行く人はお昼に何を食べるかを軸として計画を建てることを強くおススメします。(笑) 今後の盛り上がりに期待します!

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by sanaegogo | 2014-05-05 00:00 | activity | Comments(0)
『機械になりたい』 アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
 


今日は森美術館でやってるアンディ・ウォーホル展。 終了間際だし、G.W.だし、さぞ混んでるだろうなーと思ってたんですが、予想に違わず・・・・・、混んでました。 アンディ・ウォーホルは、(誰しもがそうだと思うのですが)、アート好きな人にとっては一度は通る道です。 斯く言うワタシも過去にどこかでやったウォーホル展に行ったりしてて、クローゼットの奥底を探れば図録やポストカードが出てきます。

森美術館10周年記念展
アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
会期:2014年2月1日-5月6日
会場:森美術館


人気も高く、これまで様々ウォーホルをテーマに展覧会が開催されて来ましたが、今回は展示作品点数約400点。初期から晩年まで包括的に紹介された日本では20年ぶり過去最大級の回顧展だそうで、2012年からシンガポール、香港、上海、北京とアジア各国を巡回してこの度東京にやって来ました。ウォーホルといえば、シルクスクリーンで制作された作品があまりにも有名で、というか、それをもって私達は『アンディ・ウォーホル』というものを認識している感がありますが、”初期から晩年まで”とうたっているその言葉どおり、並べられた作品はシルクスクリーンの他にドローイング、スケッチ、写真、保管していた様々な品、映像作品、広告マンとして仕事をしていた頃のビジネスアート、他のアーティストとのコラボレーション作品と本当に多岐に亘っていて、じっくり観るのに結構な時間がかかりました。 あと特筆すべきはセクションが変わる所々に彼の残した含蓄ある語録の数々です。 これは面白かったです。必見です。 その時その時の彼の思考のベクトルが刻み込まれた短いテキストは、作品の流れと合わせて彼の生きた様を顕していて、その人物像や人生観までも際立たせています。サブタイトルになっている「永遠の15分」は、彼の語録の中の

In the future everyone will be world-famous for 15 minutes.
( 誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。)

と言うもの(1968年)から来ていますが、これが実に深いですね。 謎めいていますね。

退屈を好み・・・・、

I like boring things.
( 退屈なものが好きなんだ。)

オリジナルではなく他人と同じであることを良しとし・・・・・、

But why should I be original? Why can't I be non-original?
( なんでオリジナルじゃないといけないの?他の人と同じがなんでいけないんだ?)

I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.
( みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ。)

マクドナルドを世の中で一番美しいものと言い放つ・・・・、

The most beautiful thing in Tokyo is McDonald's.The most beautiful thing in Stockholm is McDonald's.The most beautiful thing in Florence is McDonald's. Peking and Moscow don't have anything beautiful yet.
( 東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない。)

そんな ウォーホル。 名声を得て不動のものにしてもなお、誰しも(誰でも)有名になれる、と預言めいた事を言う。 あまりにも突出した個性をもってしまった才能の没個性への回帰願望みたいなものなのでしょうか。 いずれにしても自分自身の好むと好まざるとに関わらず、彼自身が超一流の「オリジナル」となっている事には変わりはありません。
そして、展覧会を進んでいくと、こんなテキストに出逢います。

It’s the place where my prediction from the sixties finally came true: “In the future everyone will be famous for fifteen minutes.” I’m bored with that line. I never use it anymore. My new line is, “In fifteen minutes everybody will be famous.”
( 『誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう』僕は60年代にそう予言したけど、それはすでに現実になった。僕はもう、この言葉には飽き飽きしているんだ。もう二度と言わない。これからはこう言う。『誰もが15分以内に有名人になれる、そんな時代が来るだろう』。)

とは、1970年代の末の言葉。突然にこう言い放つのですが、『誰もが15分間なら有名人になれる。』のフレーズも未消化なワタシにはその真意は依然よく解りません。それが『15分以内に』に変わったのはどういう心境の変化なのでしょうか。 「有名になるのは特別な事ではない、誰にでもチャンスはあるんだ」、と言うポジティブなメッセージにも聞こえるし、一方で、言った本人は大して意味を考えて口にしたのではないような気もします。ウォーホルは感覚の人だったのです。実にシュール(超)でエキセントリックです。 そのシュールで鋭い感覚(直感)で多様な色彩のパターンを操り、シルクスクリーンのように数限りなく複写ができる作品を量産しました。内省を重ね、意味の上塗りをして創りあげていくそれまでのアートとは完全に一線を隔した世界観です。もっとも、感覚の鋭さを感じざるを得ないのは、ドローイングを見ても解ります。殆ど2度描きの気配が見うけられず、一気に一発で描き上げられているその作品の数々を見れば、彼がその頃から感覚の人であった事は一目瞭然です。
またある時、ウォーホルはこんな言葉も残しています。

If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me and there I am. There's nothing behind it.
( アンディ・ウォーホルって人間について知りたければ、ぼくの絵や映画を、ただ表面的に見ればいい。そこにぼくがいるから。裏には何もないんだ。)

これを言葉通りに解釈すると やはり彼の言葉は思いつき(という言葉ほど乱暴で雑ではないですが)で口から出てきた 大して意味を成さないもののように感じられます。 ただその時感じた事をストレートに口にして、意味をなさない、というよりは、深い意味(裏の意味)はない、の方が妥当でしょうか。でも またある時には、

I'd prefer to remain a mystery. I never like to give my background and, anyway, I make it all up different every time I'm asked.
( 謎を残しておきたいんだ。自分がどんな人間かは話したくない。だから聞かれるたびに答えを変えるんだ。)

とも言ったりします。 深読みさせるような他意の無い言葉を吐き、そこに意図的なものは実はなかったりする感じに、結果として私たちは翻弄されてしまうのです。 まさに表裏一体とはこの事ではないでしょうか。 裏はないけど謎はある。 今回の回顧展はアンディ・ウォーホルという人の人物像を紐解くアプローチだと思うのですが、彼の人間としての深さとか広さとか言う尺度で考えると、凡人はその巧み(?)な語録にすっかり混乱させられてしまうのです。
彼はこうも言います。

My mind is like a tape recorder with one button-erase.
( ぼくの心は、ボタンひとつで消去できるテープレコーダーみたいなもの。)

どこか自虐的でもあり、スタイリッシュでもあります。

・・・・・と、語録のカッコ良さに引きずられてきましたが、勿論、作品も堪能してまいりました。

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まとまった数のドローイングを観たのは初めてでしたけど、シルクスクリーンの尖がったウォーホル作品とはまた違った味わいのソフトな作品が多くありました。 ネコが好きだったんですね。 眼が大きくくりくりと描かれた可愛いネコたちの甘えたポージングが炸裂してました。



独特の描画法は、「ブロッテド・ライン」(しみつきの線)と言われ、イラストレーターとしても成功を収めたウォーホル独特のものだそうです。今回は図録ではなくて、ドローイング集を思わず購入。



子供向けの作品のコーナー。 色彩が豊かなので、子供の情操教育なんてのにも良いのではないでしょうか。 刺激的なモチーフは一切なく、子供の眼線を意識してか、低い位置に飾ってあったのが心和みます。



希少動物、絶滅危惧種の作品のコーナー。 彼のシルクスクリーン作品でよく見られる奔放で自由な感じのする刷りのズレがあまりなく、きちんとしていて、何処となくデジタルな雰囲気を漂わせています。色彩感覚、秀逸です。



彼の撮影した写真も今回多く展示してありましたが、写真もよかったです。 セレブリティ達のウォーホルならではの距離感で撮影されたスナップは、彼とセレブの間の微妙な距離感を顕しているような気がします。



そして、キャンベルスープ。 これはMoMAでも観ました。 日本の美術館は作品の前で写真が撮れないのが残念ですね。 ましてやマスプロダクト、量産や複製の中にアートを見出した彼なのです。 ウォーホルなら現在の「拡散」という現象についてどのように語ったのでしょうか。

他に、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボ作品で、「Year of Rat」(かな?)というバスキアのネズミが描かれていた黒とグレーの画がとってもキュートでした。イーディ・セジウィックやベルベット・アンダーグラウンドの映像作品など、ウォーホルが生み出した多くのの伝説的作品が一堂に会す、全てを曝け出したような回顧展だったのに、その人物像や心のプロセスに依然「謎」を感じる人は多かったのではないでしょうか。 しかしながら、その「謎」には何だか「釈然」としたものがあるのが、いかにもウォーホルらしいのですが。

≪展覧会構成≫
  1. ウォーホル作品のアイコン的存在、シルクスクリーンによる名作の数々
  2. ウォーホルとセレブリティ
  3. 一流ファッション誌『ヴォーグ』などにも掲載されたドローイング作品
  4. 現代美術史に燦然と輝くウォーホルの彫刻作品
  5. 約25本の実験映像作品を迫力ある展示空間で上映
  6. 天才画家、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボレーション
  7. 伝説のアートスタジオ、ウォーホルの「ファクトリー」を体験型空間として再現!
  8. ウォーホルの私的アーカイブ「タイム・カプセル」から日本に関する品々を本邦初公開!


Warhol Café でチーズバーガーセットも食べてきました!

   


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by sanaegogo | 2014-04-27 00:00 | art | Comments(0)
ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス) | In almost every picture
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今年 2014年の学びは・・・・・。 今、東京藝術学舎のセミナーに通っています。今日はその初日なのですが、本日の内容は、『最新写真集と写真集出版の現在の動向を例にあげながら、過去からの流れをひもときつつ、写真集がこれまでなにを見せて来たのか、これからどこに向かって行くのか、写真集の果たす役割について考えていく。』というもの。 日本と絡めながら海外での写真集のあり方や取り組み方の変遷などのハナシを聴いたのですが、その中で講師の鈴木芳雄さん(aka.フクヘン)と IMA編集長 太田睦子さんから「ファウンド・フォト」についてのメンションがありました。
写真を撮る事が、万人がリーチ出来る娯楽の手段のようになった昨今、写真を撮ること、惹いては家族のスナップのような記録の1種としてではなく、日常を手軽に作品化出来るような雰囲気になっている今日この頃、作家からスマフォでSNSにアップするのが大好きな写真ファンまで、「撮る人」はとっても多様になってきてます。撮る人の飽和から写真表現の新規開拓まで、色々な要素が相まって、写真を撮る事だけが写真表現だろうか、という動きもあったりして、自分で撮るばかりが写真家ではない、と言ったアプローチも生まれてきています。 何もこれは2014年の最近の話ではなくて、もう何年も前から、多分、デジタル化の波に押されて、写真を撮る人層の急増に突き上げられるような形で、それまで「手軽」ではなくもっと「真摯」に写真と向き合ってきた人たち(作家達)の中で、既存との差別化みたいな形でむくむくと台頭してきたのだと察せます。 もっと言えば、もっとずっと前から、こんな風潮が出来る前から、ひとつの表現方法としてファンド・フォトをひとつの作品として再生する事を試みている人がいて、その1人が、ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス)という人です。 思えば、個人的には2007年とかに コンテンポラリー・アートとかのセミナーやトークに出かけるようになってから、この名前は繰り返し聞いてきたのですが、今日、この講義に出て初めて、それが全て繋がって、エリック・ケッセルスのしてきた事として自分の中にやっと認識された気がします。(時間かかりましたねー。) 初めてその名前がワタシのノートの中に出現したのは、2008年の畠山直哉さんの‎AIT でのセミナーの時です。 畠山さんは、その時 彼の最初に出版したKessels Kramerの写真集シリーズ「In almost every picture」の第4巻の事例を挙げてファウンド・フォトについて説明をし、実物も見せてくれました。 この時は、その写真集自体、物凄く印象が深くて、その不可思議な成り立ちと淡々とした世界観に眼を奪われたのを覚えてます。ファウンド・フォトは、もはや、どこの誰のものでもない写真ですが、それを並べることによって、何かの意図が浮かび上がってきて、物凄く想像(妄想といっても良いかも)をかき立てさせられ、自分の中でいくつもの勝手なストーリや状況が湧き上がってくるような 動的感覚を覚えたのを記憶してます。 この日の太田さんのお話は ファンド・フォトだけに特化したものではなかったのですが、その行(くだり)のところで期せずして、この時の事がフラッシュバックのように甦ったので、今日は自分の備忘録として、エリック・ケッセルについて書きます! ( 先にも述べたように、それ以降名前だけは幾度と無く耳にしているのに、何故この時なのか、自分でも不思議ですが。 もうひとつの偶然としては、Webで調べ物をしていて偶然見つけたファウンド・フォトがあまりにも可愛くて、数ヶ月前からPCの壁紙にしているのが、なんと、知らず知らずのうちにこのエリック・ケッセルの見つけたファウンド・フォトだったのです。(冒頭の写真))
ケッセルスは自身のケッセルス・クライマー社からファウンド・フォトを用いて「Useful Photography」と「in almost every picture」という写真集のシリーズを出版しています。「Useful Photography」は、すでにどこかで公開されているものを集めたもので、もともとあったはずの場所から唐突にピックアップされて、写真集の中で何らかの意味や意図を発揮している、というシリーズ。もうひとつの「in almost every picture」は、蚤の市や古書籍店で集めてきたファウンド・フォトを編集した写真集のシリーズで、そこにはどこの誰とも判らない人々の思い出として様々なシーンが淡々と繰り広げられています。 そのイメージの羅列は何かを物語っているようでもあり、その時はさして意味を成さなかったもののようにも見えます。 でも時を経て、その時のその(それらの)写真を写した時の状況を察すると、とても意味深に見えてくるのです。

その「in almost every picture」の中から。
― in almost every picture #9



この黒い犬。 飼い主家族には大変に可愛がられていたことが見て取れます。 可愛らしい専用のベッドが与えられていて、まるでわが子のように常に写真の中では主役として納まっていて、それが時には家の主が座るであろうリビングのソファーであったり、自由に遊び回れる広い庭であったり。飼い主は一生懸命その可愛らしさを写真に収めようとしているのでしょうが、当時のカメラではただただ黒い塊として写るばかり。ついぞ、その顔が写真に残る事はなく、愛されていた犬のシルエットばかり。 どちらを向いているのかさえも確認できず。その時の当事者達は決してふざけている訳ではないのですが、コミカルさが滲み出ていて、並べてみると何とも微笑ましい雰囲気がありますよね。


― in almost every picture #2


これも謎めいた写真です。 街中を走る1台の車。遠くから車を映しています。 これからドライブにでも行くのでしょうか。 車のオーナーやドライバーなら、この撮影距離は不自然で、わざわざどうしてこんな遠距離からこの車を写真に収めたのでしょうか。


と思いきや、車の中から写した写真もあります。写真を撮った人は同乗者なんですね。でも良く観ると撮影された車の運転席は空っぽ。 じゃあ、路肩に停めて撮影したんでしょうか。 それとも この車があの車? でも、この写真だけ車の上にTAXIのサインがついているんです。 そして、運転する人が助手席の人を「何故この位置から?」と謎が深まる写真もあります。


そんな写真は他にもあって、明らかに走っている車を「何故この位置から?」と思われる写真が続きます。 そして、街を抜けて車は山間に入ってきたようです。 どこかに旅行に出かける途中なんでしょうか。


写真は明らかに、ドライバーが助手席に乗せた女性を撮影したものです。 路肩に車を停めて。 空っぽになった運転席がそれを物語っています。 そして、街を離れだいぶ遠くまでやってきたみたいです。



とうとうこんなところまで来てしまいました。 谷間の路肩に車を停めて、ドライバーはまた運転席の女性を写します。 そして、女性は決して車から出て来はしないのです。



これは運転している人? 彼女の旦那さんでしょうか? 女性は足が悪い人なのかもしれません。 この写真も車の中から撮影されているようです。 決して車から出てくる様子はありません。 だったら、あの遠景で写された写真は、一体誰がどういう状況で、どういう意図で撮影したものでしょうか。 2人はご夫婦かも知れないし、お金持ちの足の悪い女性に雇われたドライバーなのかも知れません。 ストーリーはいくつもあるのです。


― in almost every picture #4

さらにドラマチックなのがこの写真。 友達、姉妹、二卵性双生児、いずれかは判りませんが、彼女達はいつも同じ服を着て写真に納まっています。 そしてそれを写真に撮っている「誰か」が常に彼女達の側にいるのです。



おしゃれをして、お揃いの服を身をまとい、そしていつも腕を組んで、楽しそうにカメラに向って笑いかけています。



季節を問わずいつもお揃いです。 こんなにいつもお揃いだったらそれは双子だからだろう、と思いがちなのですが、あまりにも違う背格好。 もしかしたら、恐ろしく仲の良い友達同士なのかも知れません。



そして、色々なところに出かけています。 本当にこの2人(いえ、撮影者を合わせると3人)はいつも一緒なのです。



他の第3者が一緒に写っている写真もあります。 しかも2人の間で2人から腕を組まれ楽しそうに笑っています。



写真は突然 小さい方の彼女1人きりになります。 もう大きい方の女性の姿はどこにもなく、お揃いの服かどうかも確認できません。 それでも彼女は色々な場所に出かけて、笑顔で写真に納まっているのです。 実は写真を撮っていたのは小さい人の婚約者で、あまりにも仲が良い大きい人を内心疎ましく思ってたのですが、2人の仲を引き剥がし、やっとプライベートなデートの時間を得るに至った、というストーリーはワタシの勝手な想像です。もしかして、第3の人物(撮影者)は実は存在せず、いつもお揃いを着て一緒に旅行に行って 居合わせた人にカメラを渡して記念写真を撮ってもらってたけど、ある日大喧嘩して絶交。 それからは1人で旅行に行くようになったとさ、というありがちな話だけかも知れません。

ワタシは実際にこの写真集を持っている訳ではないので、並びも実際こうなのかどうかは定かではなく、#2と#4のストーリーは全くの想像です。 でも、1枚ではただの古びたたまたま発見された写真(ファウンド・フォト)ですが、まとまって展開すると、その時の意図を超えてその想像はどこまでも広がっていくのはとても興味深いと思います。 しかもその想像はファンタジーとかではなく、具体的で実際有り得そうなのが、ファウンド・フォトが主にスナップで、写真がその人のその当時の生活を垣間見せているからなのでしょう。
それにしても、海外では蚤の市や古本屋さんに個人のアルバムや全くもってプライベートな書簡などが売り買いされているそうですが、何故思い出のつまったアルバムが売りに出される事になったのか、何所をどう巡ってここに至ったのか、その点でも想像はぐるぐると駆け巡りますが、それは想像してもしても理由や経緯は知る由もなく、そんな時感じる切ない気持ちに似たものがファウンド・フォトを特別なものに見せるひとつの要因なのかも知れません。 ここで、こんな風に写真集になる事がひとつの奇蹟みたいなものですからね。
最近では、Web上で拾った写真もファウンド・フォトと位置づけられているらしいです。 (もっともここで掲載した写真もWebから拾ったものですし・・・・) そしてそれを作品として再構成している作家も多く見られるようになっているようです。蚤の市やWebsiteで手に入れた写真で写真集や作品を創る。もはや、写真家というのは「写真を撮影する人」ではなくって「写真を作品として世に生み出す人」の事というように意味合いが変わって来ているんですね。

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藝術学舎(京都造形芸術大学・東北芸術工科大学)
写真集を見る、読む、楽しむ。そして作る 自分だけの写真集をつくるところまで!
2014年4月 9日(水) 「写真集が映し出す過去、現在、未来」
講師:太田 睦子、鈴木 芳雄
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テキスト参考:
http://blog.livedoor.jp/talbot2011/archives/52695597.html
http://jmcolberg.com/weblog/extended/archives/conversations_about_photobooks_erik_kessels/
http://www.shanelavalette.com/journal/2008/03/27/erik-kessels-in-almost-every-picture/
http://josefchladek.com/book/erik_kessels_ed_-_in_almost_every_picture_4#image-6
http://www.webinapage.com/2011/01/in-almost-every-picture-by-erik-kessels/
http://www.cartype.com/pages/4859/in_almost_every_picture
http://www.creativereview.co.uk/back-issues/creative-review/2008/february-2008/feature-lost-found


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by sanaegogo | 2014-04-09 00:00 | activity | Comments(0)
Study | Go Itami | POETIC SCAPE
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伊丹豪さんの作品と言えば、ブライトな配色の幾何学体的で不思議な画面構成の写真が持ち味だと思っていましたが、この「Study」では、その味もありつつも、その中に心象風景みたいな、言い様のない何らかの気持ちが入り込んでいるような、そんな印象を覚えました。一見幾何学的で無機質なもののレイヤーのような画面構成の中に、ふと入り込んでしまった何かの情景、そして、それにふっと持って行かれてしまう 何かの気持ち、そんな印象です。 その情景は、伊丹さんが意図的に混ぜ込んだものもあるし、ご本人も知らずに、後から写真を確認して判ったものもあるそうです。
中目黒のPOETIC SCAPE に 伊丹豪さんの 「Study」を観に行ったら、ご本人が在廊してて、土曜日だった事もあって、常連さんや顔馴染みらしき方々も色々いらしていたんですが、見かけない顔の私にも色々と作品の説明やお話をしてくれました。







今回展示されていた作品の中では 「これぞ!」という感じの1枚。 まるでケント紙にきちんとマスキングテープを貼って、色むらがないように丁寧に塗り込められたポスターカラーのような発色の赤に眼が行きます。もちろん、これは修正なしの一発撮りの作品だそうですが、パースを全く取り払っているにも関わらず、遠近感がうっすら残る風景が混在している画面は、不思議な感覚のズレを引き起こします。 その横には、橋げたの隙間から水面を写したという、作品があったのですが、それも全ての遠近感を取り払った中に残る水面揺らぎが風景の中のミクロを顕しているようで面白かったです。 その一連の展示の流れはモンドリアンの絵画を連想させました。 「写真は立体的なものを写すものなのに、全てのパースを取り払ってしまうと平面のレイヤーのようになるのが面白い。」と言うような事を語ってました。 その撮影に対峙する感覚がまさに「Study」なのですね。







私がこの展示で一番惹かれたのがこの写真。これまでは、どちらかというとピントを絞った作品を作ってきましたが、逆に絞りを開いてぼかしつつ意外なところにピントを当てるのもありかな、という試みだそうですが、これも「Study」なのですね。 鉄の手すりの上にうっすらと溜まった雨が木立の影を映していて、そこにピントを当てて撮影したそうです。 近くにピントを当てながら、それは実はそこからもっとも遠くのものにピントを当てている事になっている。 何だかとても哲学的なアプローチです。







この1枚もとても好きなのですが、暗がりの中に浮かび上がる光を集めたグラスの透明な部分とその周りに浮かぶ気泡は、まるで宇宙の深淵のような雰囲気です。 その隣の作品には夜の闇に浮かぶ星空? と思いきや、CDの盤面の傷をクローズアップで捉えたもので、そこには日常の中に宇宙を模した空間が出来上がっていて、さっきのモンドリアンのシリーズといい、写真の並びもとっても洒落てるなぁ、と。







ビー玉とそれが置かれたタオル(ラグマット?)との質感の対比。 光と影の対比。 実物を忠実に捕らえているのに、具体性は消失し、実体はどんどん抽象的になっていきます。何だろう? と自分の視覚をからかわれたような錯覚に陥るのですが、決してデフォルメされている訳でもなく、変容されている訳でもなく、ただただ、実体を極力まで忠実に捉えているのです。 それにしても、この感覚は。 伊丹さんの作品は「視る」という行為を意識させます。







伊丹さんの作品はもしかしたら、認知とか、知覚心理学とかの切り口で掘り下げたら面白いかも知れませんね。曖昧な画像を視ると人は全体像や自分の納得できる形にそのものを持っていこうと視覚や脳を働かせます。 ゲシュタルトの崩壊と再構成です。







そんな理屈はさて置いても、ただ単純に画が美しい。 この浮遊感。 どの作品も漠然としたところがなく、そこには伊丹さんの試行錯誤とチャレンジと発見が作品を彩る要素として見て取れます。 どの作品にも意図があり、何かを探求しようとする作家の姿勢が伺えます。まさに「Study」なのですね。

伊丹豪 展【study】
POETIC SCAPE
2014年2月11日(火・祝)~3月23日(日)


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by sanaegogo | 2014-03-09 00:00 | art | Comments(0)
LAMA Coffeeで 天使とバンドネオン


今年はどう予測しても『貧乏暇なし』ならぬ、『貧乏にして暇もあり』の1年になりそうな気がするので、十数年(いや、数十年?)ぶりに地元密着型の生活をしてみようかな、と思っていた今日この頃。 松が、松姉の友人が茅ヶ崎で『2人展』をやるのを観に来ると言うので、お誘いいただいて私もちゃっかりと観に行ってみた。 地元にいてもなかなかどこのカフェがギャラリーをしてる、とか、ちょっと居心地の良い寛ぎ方のスペースがある、とかいうのは耳に入って来ない。 東京近郊の地方都市出身の人なら解ると思うけど、どこに住んでいても最寄の地下鉄や電車の駅の駅前エリアに所属している暮らしぶりの東京とは、ちと違うのだ。 なので、他所から来た人の方がそんなネタを持ってきてくれる事も多いのです。 なので、ぼちぼち自分でも開拓して、地元密着で行ってみようかな、と。

この日訪れたのは「LAMA Coffee」。 茅ヶ崎にある鉄砲道という道の西の起点あたりに住んでる私は、その鉄砲道をずどーーーんと辻堂方面まで行って、突き当りをちょいちょいと行ったあたりにそのカフェはあります。 古い一戸建てを改造して1階がカフェ、2階がギャラリーになっていて、そこで開催されてます 「MARUU × Black Coffee展 天使とバンドネオン」 に行って来ました。

松姉のご友人はMARUU さんで、サインペンで温かい色彩のイラストを描いています。 この日は財廊していて、いろいろお話をしてきました。 イラストや漫画やラップペーパーのパターンとかを作品にしているのですが、私が気に入ったのはこれ。


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やっぱ、オオカミでしょう。 相当気に入ってポストカードも購入させていただきました。 毛並みを描くように丁寧にサインペンで色を置いていて、その筆致がオオカミの毛並みをふわっと緻密に描き出しています。 首の周りのオオカミ独特のふくよかな毛並みは橙色、水色、黄緑色に塗られていて、ここがMARUUさんの世界ですね。 色合いがとっても可愛いです。 そして好み。 こんな茶色のセーターにこの色合いの巻物は、きっと私が着ても可愛いに違いない。と思います。 そして 水色の三白眼。 これぞオオカミです。 薔薇の花も可愛い。 ひとつひとつ 丁寧な仕事ですね。




もうひとつは、これ。 ウォッカの中の3人姉妹だそうです。 (姉妹だったかどうかは ちょっと覚えていないんですが・・・。 3人娘だったかな。) この3人をウォッカの中に入れてご機嫌を損ねずにいると美味しいウォッカになるそうです。 でも、この3人は性格がとても悪く、悪態をつくので猫はいつでも イライラとしているそうです。
4畳半ほどの2階のスペースでMARUUさんのイラスト作品と Black Coffeeさんのガラス細工が展示されてました。

展示スペースでおしゃべりの後は 階下のカフェでゆっくりとまったり。 結構いろいろなお客さんがやって来ていたりして、常連さんらしき人もいました。 私は折角なのでお店の冠がついたLAMAブレンドとスコーンを。 ちょっとシナモンが利いていて 外はサクサク、中はほっこりの美味しいスコーンでした。地元のこんなスペースで密やかに展示をするのも楽しいかもしれないですねっ!



LAMAブレンドです





2階への階段と夕暮れのカフェスペース
茅ヶ崎あたりにはありそでなさそな 雰囲気のお店です
右端に見えるテーブルは 実はミシン台で足許には懐かしの鉄の幅広いペダルもありました
ご主人は ちょっと平井堅の優しそうな子で ワタシの難関縦列駐車を見守ってくれました


LAMA Coffee & LAMA Space | http://www.lamacoffee.net/

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by sanaegogo | 2014-03-08 00:00 | art | Comments(0)
「惑星探査」 planetary exploration
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今年も1月が「あっ!」と言う間に過ぎて、もう2月になってしまいました。 ここ数年、本当に時間とか月日の経つのが早く感じられますが、これが『加齢』ってやつなんでしょうかね。 昨年(2013年)の今頃は、仕事と仕事の(例年にはない少し長めの)インターバルに入っていて、そして、とっても寒かったのを覚えています。(でも数値的には今年の方が寒いんでしょうか。その辺は定かではなく、あくまでも体感です。) ここ数年、冬に雪が見たい衝動に駆られる事が多くて、学生時代はスキー部に所属してましたが、(「凍ってるね。」世代です。)、その時の感覚とはまた別なものに突き動かされて、1月のこの時期に北海道に雪を見に出かけました。

一番の目的は、厳寒のモエレ沼公園。(写真はWebから取った素敵なモエレ沼) 雪山とか、北海道の陸別町とか、本当の厳寒地をご存知の方は札幌郊外で何を抜かすか、とおっしゃるかも知れないですね。 実際私が学生の時に籠っていた志賀山とかの方がよっぽど厳寒だったと思いますが、雪深いこの時期にそんな所に出かけていく酔狂な人もいないだろうと、ひと気のない雪景色を撮りたかったのです。その時の写真をPhoto Bookにまとめました。その時感じた事も、このPhoto Bookも、転機とまでは行きませんが、何かきっかけというか、とっかかりというか、そんな『何だか解らない何か』を味わったような気がするので、1年経ち、あの時のあの感覚とか、月日を経て、これを作った時感じたざわざわした気持ちのザワつきとかを忘れないように、備忘録として書きとめておこうかと思ったんです。







今まで、折に触れて、何冊かPhoto Bookは作っていますが、今までのはまあよく言う、『心に留まったものを写真に収めています』みたいな、言うなれば継ぎ接ぎ(ツギハギ)のものを後付でテーマに沿って流していった感じのもので、それはそれで「あり」だとは思うのですが、そうではなくて、何かの目的を持ってそこに行って、そこで完結をして、そこから自分の感覚に即したストーリーを与えていく、みたいな作業をしてみたくなったのです。 その場所で感じた感覚をある種のストーリーに置き換えてなぞっていって、かつ、観てくれる人が「観終わった」と感じられるような、上手くは言えないのですが、そんなPhoto Bookです。 観終わって、「ふうん」という、「あ、これで終わりなのか」 みたいなものが多かった今までの自分のやり方とは全く違うものです。 勿論、先にも言ったように、撮り溜めてきたイメージの中で起承転結とか序破急のようにクライマックスを作ってある種のストーリー性を持たせて写真本を創る人は沢山いますし、名だたる作家の方はみんなそうなんだと思うのですが、自分にはまだ写真だけでそこまでの構成する力はないので、ストーリー仕立てに逃げる安直な感じは否めないのですが、無意識に今までとは発想を変えてみたのかも知れないですね。 私にとっては、(あくまでも、私にとっては)、あるきっかけにはなったと感じてます。




2012年の夏にワークショップに参加したのですが、そのフォローアップが昨年(2013年)の夏にあって、そこでポジティブな講評をいただいたのもとても励みになったし、この構成を完成した時のうっすらとした達成感を思い出して、あの時の感覚を忘れないようにしよう、と。 (成功体験と呼ぶにはまだまだではありますが・・・。)

その時のテキストです。
――― これまでのように偶然遭遇した場面ではなくて、そこをリサーチして、そこに赴いて、そこに必然的にあるナニモノかを撮影し、ひとつの流れの中でストーリーのようなものを与えてみる、という事をしたくて、この「惑星探査」をつくりました。
次のページを捲りたくなる、次の展開を知りたくてワクワクする、本全体で何かひとつの完結し、そして余韻がある世界観をあらわす事を目指して、この本をつくりました。
ひと気のない、だだっ広い雪原を撮ってみたくて、北海道の郊外のこの場所を訪れた時、自分の他には周囲に誰もおらず、全く違ったどこか別の惑星に来てしまったように感じました。 遠くに小さく動いている人影を見つけた時に、まるで同志を発見したかのような感覚を覚えました。『この世界には知らない同士だけど私達だけ』 そんな錯覚を感じる事が出来たのです。



















これはこれで、自分のスタイルのようなものがひとつ見つかったような気がしたので、次回作はもう少しテイストの違ったものを考えています。 さっきの話とは矛盾するのですが、クライマックスがあるようでないような、フラットに時間と空間の流れでストーリーが展開していくような、観ている人にストーリーを委ねられるような、そんな本です。 これは、あまり作為的なストーリー性に安易に堕ちて行きたくない、という思いからくるものですが、難しそうですね。 頭で考えるのではなく、まぁ、とにかく選んで並べて、並べ替えて悩んで、だと思うのです。(その前に、撮って、か!そう、撮れたから作る、ではなくて、作るから撮る、なのです。) 『惑星探査』は、もう過去のものとして、次なる何かに向って行きたいと今は思っています。 でも、(何所かは判らないけど)向うべきところへ向っていく軌跡として、色々な人に観てもらえたらいいなぁ、などと感じています。

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「惑星探査」 planetary exploration
撮影: 2013年 冬(2月)
撮影地: 北海道 札幌 モエレ沼公園 円山動物園 北海道大学札幌キャンパス
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余談ですが、フォローアップの後の懇親会で突然、「アナタのは、『星の王子様』に感化されてるよね。ばっちりその世界観だよね。」とコメントをいただきました。 正直全くそんな事は意識してなかったので、かなり意外だったのですが、何だか気持ちの良い「気付き」でした。 自分が全く気付かずしていた事に気付かされるのは気持ちの良いもので、実際少女の頃はかなり「星の王子様」っ子だったので、自分の気持ちに「寄せた」ものであれば尚更です。 「自分でも解らなかったのに見透かされてる?」 と、その洞察力に度肝を抜かれました。

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by sanaegogo | 2014-02-02 00:00 | activity | Comments(0)
Wolfgang Tillmans "Affinity"
Wolfgang Tillmans
ヴォルフガング・ティルマンス
"Affinity"
2014年1月18日(土) - 3月15日(土)
WAKO WORKS OF ART
http://www.wako-art.jp/top.php





ティルマンスに関しての知識というか、造詣はそんなに深くは無いのですが、私の中でティルマンスといえば、窓辺やキッチンのテーブルに無造作に雑多に置かれた日常使う品々の「何気ない」スティルライフの写真です。 ごちゃっと置かれたテーブルの上の唐突な取り合わせの品々や窓のある小さなスペースの上に置かれた萎びかけた鉢植えなど、映画のストーリーの中のあまりきちんとした生活をしていない人の生活観が滲み出るような写真です。 「何気ない」とよく言われますが、私にとってはそれらのヒトコマは何か妙に「意味ありげ」に写ります。 家に帰ってきて、がしゃんがしゃんと物音を立てつつ帰って来た時の儀式のように基本動作を行って、カバンや上着を無造作にソファの上に放り投げ、がちゃがちゃと冷蔵庫を開けて、扉を閉めもせず牛乳のビン(これは外国サイズの大きいやつ)から直接牛乳をがぶがぶ飲み、そしてまた荒々しく扉のポケットに戻し、ばたんっ、と扉を閉める。 ・・・・ような人が住んでいる家かな。 これはちょっと飛躍し過ぎかも知れませんが、そんなイメージを喚起させてしまうような意味深長な写真です。 そして、幅広い感触のシリーズに取り組んでいるティスマンスの中では、この手の写真が一番好きです。密度の濃いカラーと絶妙の対象物の配置。ティスマンスの赴くところにはいつもこんなに絶妙のシーンが展開されているものなのか、と不思議な感さえするのですが、実は光や影の効果を仔細に取り入れて、言わば入念なセットアップの中で撮られている、という話も聞きます。全くの偶然の産物ではないのですね。


©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



この写真はとても好き。 暗い室内で撮影された1枚ですが、窓の外は夜なんだと思うのです。







あとは(コンコルドシリーズも含めて)空にベクトルが向いた写真も好きです。
ティルマンスが天体少年で、
天体観測が彼の写真人生の始まりだったという話は有名ですが、
今回の展示でも密度の濃いカラーの空の写真がありました。



写真集『Neue Welt』から

©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



ティルマンスといえば、前にも述べたとおり、幅広いテーマというか、シリーズというか、で制作をしていますが、どれも本当に持ち味が違います。 多様な表現力でとにかく色々撮る人、というイメージなのですが、どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽいんですよね。 ざっとそのシリーズを挙げてみると・・・・、
● 意味深なムードのスナップ的ポートレート
● 壮大で神々しささえ感じる広い風景
● 日常の窓辺やテーブルの上のスティルライフ
● どきっとするようなヌード
● 宇宙との繋がりを想起させる天文学的イメージ、
● アブストラクトな抽象作品
ざっとこんな感じになるのでしょうか。 今回の『Affinity』でも、これらひと通りのものを観ることができるある意味贅沢な展示でしたが、言い換えれば、この中のどれかひとつのテーマを取り上げるのではなく、全て並べる事が『Affinity』なんでしょうか。 『どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽい』です。彼は何故この展示のテーマを『Affinity』にしたんでしょうか。 興味が沸いてきました。

ティルマンスは、作品を額装して水平を測ってきちんと並べるのではなく、テープやピンで壁に直貼りする展示もよく行うという事で、今回も自ら何日もかけて自分でキュレートをしたということです。『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』のコーナーでは、フォーマットもさまざま、大小さまざまな作品が壁に直貼りされていて、配置も決して人々の眼線上ではなく、その範囲は屈まなければ観れない足許にまで及んでます。


壁にさまざまなフォーマットの写真が直貼りされています。








足許のこんなところにも 貼ってあります。








この『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』はちょっと面白い写真集で、ティルマンスがここ数年ハマッているというレイヤー(多重構造)での表現がふんだんに用いられています。 今回のインスタレーションでも写真集そのままの構成も観ることができました。FESPA Digital とは、毎年世界各国を巡回している大型プリンターのトレードショウみたいですね。フルーツの鮮やかな色彩と印刷機や様々な機材のメタルでハードな質感とか、それらが幾重にも重なって、雑多で半ばカオスで、とりとめなく直感的で、唐突な感じでもある。 これぞまさにティルマンス。このインスタレーションはかなり必見で、ティルマンスらしさを存分に味わえた気がします。



写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』
カラフルでミクスチャーでレイヤー。 ひとつのページの上で 色々な要素が重なりあっていて その密集感ったら。
技術や商業的場面を題材にしているのも どこかシニカルな逆説的、かつ世代に即している面白さがあります。





観終わって、ティルマンスという世界をつぶさに理解できた訳ではないのですが、より深く知りたくなる気にさせてくれる刺激的なインスタレーションで、直感的で弾けるような感覚と静かに内省をするかのような佇まいが共存しているような表現世界です。


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by sanaegogo | 2014-02-01 00:00 | art | Comments(0)
ジョセフ・クーデルカ展
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舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
・・・・とは、かの松尾芭蕉の言葉ですが、クーデルカ展で彼の半生を知ることになり、この行(くだり)を思い浮かべたりしました。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective
2013年11月6日【水】→ 2014年1月13日【月・祝】
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
Press Release →web_koudelka_PR.pdf

もっともクーデルカは芭蕉のように自ら好んで旅を栖とする人生に身を投じた訳ではなく、1968年にワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻を撮影し、それが西側に配信された事から、身の安全を確保するために故郷のチェコスロヴァキアを離れます。 これがクーデルカ的放浪の旅の始まりです。 世界的にその名前を知らしめた(と言っても配信された当時は匿名だったようですが。) 写真が、祖国の変革運動とそれを侵攻して鎮圧したワルシャワ条約機構軍との衝突の記録と言ったショッキングな内容だったので、クーデルカも硬派のジャーナリスト魂の権化のような人物(ある意味キャパのような)だと言う印象があったのですが、それはクーデルカの表現世界のほんの一部だったとクーデルカ展を観て実感しました。
もっともこの頃は『芸術写真』というカテゴリーはあまり明確なポジションがなく、マグナムの会員でも、ブレッソン、アーウィット、ルネ・ブリなど、この頃の写真家達は広告も、報道も色々とこなし、それが後々『アートフォト』という流れに乗り、そのように認められていくようになったという理解でしたが、クーデルカについても例外ではなかったのでしょう。 真正面からダイレクトに被写体を捉えた力強いズドーンと打ち抜いたような観る人を圧倒するインパクトがあります。会場内は膨大な点数の作品が展示されていましたが、そんな中、ごく初期の『初期作品 Beginnings 1958-1961』には、自分の想像していたクーデルカの作品とは全く印象を異にしていました。 構図や対称の配置に、まだ完成されていない試み的なコナレテいない感じがありつつも、その場面の選び方や撮影の技術などには後のクーデルカを予見させるような片鱗と萌芽があると言います。 私は単純に(いつもそうですが)、その画面から来る印象や自分の感覚とかで語る事が殆どですが、学生時代に手に入れた中古カメラで撮りためたというその作品群には、ハードで硬質な印象を醸しているクーデルカのモノクロの作品の中では一層初々しく新鮮に感じられました。

展覧会の構成です。
  1. 初期作品 Beginnings 1958-1961
  2. 実験 Experiments 1962-1964
  3. 劇場 Theater 1962-1970
  4. ジプシーズ Gypsies 1962-1970
  5. 侵攻 Invasion 1968
  6. エグザイルズ Exiles 1968-1994
  7. カオス Chaos 1986-2012

など、約280点あまり、しかも大きな作品ばかり、一堂に会した回顧展です。「ジプシーズ」の圧巻のシリーズや「侵攻」の見せる臨場感溢れる迫力の歴史の証言も観応えがあったのですが、私はやっぱり、「初期作品」かなぁ。あとは、「カオス」のパノラマシリーズ。「エグザイルズ」もいくつかよかったかな。展示を見ている時はあまりピンと来なかったのですが、後でマグナムのWebsiteを観ていたら意外にじわじわ来たのが、この展覧会ではどのカテゴリーに入るのかは不明なのですが、多分、「劇場」とか「実験」あたりのエフェクトを加えた作品です。私がもともと写真に求めるのはドキュメンタリーとかルポルタージュ的なものではないようなのですが、結局、自分にどんな写真が響いて来るのか、人によってクーデルカの感じ方は様々なような気がします。
時代のうねりに巻き込まれ、翻弄されながらも、放浪の中でその居場所、居場所での足跡をダイナミックに鮮やかに切り取っていく事で自分の存在を確認してきたようなクーデルカ自身の半生と照らし合わせると、そのスケール感といい、ボリュームといい、観応えのある回顧展でした。






Beginningsから。パノラマ・フォーマットの作品。 このシリーズでパノラマ作品はこれ以外にも何点かあったのですが、どれも良かったです。背景と前景を隔てている画面を横切る水平線(地平線)と上下左右アシンメトリーに配置された被写体がぎこちなくも初々しいさが顕れているような気がして、でも魅力的な写真の数々でした。




Invasionから。 このシリーズは言わずもがなの感がありますが、ある意味においては、生まれながらに授かった類稀なる才能と千載一遇のチャンスとが交わる接点を手に入れられる人は稀で、それを含めて「才能」というのだと思います。




Exilesより。 クーデルカ展のPRによく使われていた作品です。 この黒い犬は、ワタシの中ではとてもクーデルカっぽく、こう言う写真を撮る人なのだ、と思っていました。 黒いシルエットになってしまった犬は、その容貌の詳細もわからず、こちらを振り向いているのですが、眼がどこにあるのかも判りません。 後ろを振り返っているその黒い犬の姿は何かを象徴しているようでもあり、うっすらとした不気味さにちょっと気持ちがざわついたりします。






Chaosから。 このシリーズは、タテやヨコのパノラマフォーマットの作品が並ぶのですが、何処となく荒涼としていて、殺伐としたシーンばかりが続いていきます。パノラマフォーマットならではの視野のひろがりが、人の気配は見ている自分しかいない、みたいな一人ぼっち感というか孤立感みたいなものを観る者に与えていました。


All images © Josef Koudelka / Magnum Photos


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by sanaegogo | 2014-01-12 00:00 | art | Comments(0)
生誕100年!植田正治のつくりかた
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子狐登場
まるで絵画のような1枚。 これ、『覆い焼き』ですよね。
訳あって、吉田秋生さんという少女マンガ家の描いたある作品のストーリーを思い出させてくれる1枚です。

この写真展を観に行く前日にIZU PHOTOまで足を延ばして、増山たづ子さんの写真展を観に行っていたので、この3連休はとても気持ちが穏かで温かくなるような写真をたくさん観ることができた。 (と言っても、増山たづ子さんの写真には密やかな悲しみを打ち消そうとする静かなる葛藤のようなものもあったのだけど・・・・。) とは、余談になりましたが、東京ステーションギャラリーで『生誕100年!植田正治のつくりかた』を観てきました。

東京ステーションギャラリー
生誕100年!植田正治のつくりかた
     UEDA SHOJI 100th anniversary
2013年10月12日(土)~2014年1月5日(日)
     October 12th , 2013 - January 5th , 2014
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201310_Shoji_Ueda.html

2013年は植田正治の生誕100周年という事で、いろいろなところで関連の写真展をやっていましたね。 結局観に行けたのはこれだけだったのですが、大満足でした。 ベタな表現ですが、植田正治という人がいかに写真を楽しんで撮っていたかがよく伝わってきたし、その写真の多く(というか殆ど全て)は、優しさに溢れ、そのミニマリズムは美しくもあり、観ていると知らず知らず引き込まれていってしまう魅力的なものに写りました。 カラーかモノクロか、とか、その是非を問うつもりはこれまでも毛頭ありませんが、植田正治の極力省略され、デザイン化された作風には、モノクロームのシンプルさがよく合っていると思います。 『汚く矛盾したものから眼を背けて、自分が幸せになれるものだけに目を向けた内向きの写真』という見方もあるのかも知れませんが、それで何がいけない?というきっぱりとしたぶれない植田正治の哲学があるような気がしました。 それどころか、決して逃げていない、挑戦とか、試みとか、そういう攻めの姿勢も貫かれていて、世の中に受け容れられないような突飛で奇抜な題材を使っている訳ではないのに、そう言う『新しさ』ではなく、家族を砂丘に並べて撮影するだけの事で、観る人に今までにない感覚を覚えさせてしまう、そんな親しみやすい『新しさ』が植田正治の写真にはあります。 それは、例えば今の時代にも通用するという斬新さではなく、その当時の斬新さの強度がとても強いと言うか、時代の流れに呼応し順応しているものでもなく、観るものを当時の感覚まで引き戻す力強さというか、吸引力というか、そんなものをもって『今観ても斬新』と思わせる不思議なタイムスリップを感じるような気がします。 子供たちのおかっぱ頭、お母さんの和服姿、男の子達の小さな学生服などが、そんな感覚を引き起こさせるひとつの要因になっているのだと思いますが、ワタシのよく言うところの、『時間軸がぐらぐらする感覚』です。 それだけ撮影された当時の画面の中に引き込まれてしまっているのでしょうね。 これは、上手く言えないのだけど、心地よくもで不思議な感覚で、私はとても好きなのです。 ギャラリーの講評では『一筋縄ではいかないこの写真家』と評していますが、まさに言いえて妙。その通りです。 シンプルでミニマルだけど複雑で多様。 昔なんだけど新しいし、その新しさが古臭くもあり、それがまた斬新。 と、ぐるぐると感覚が掻き混ぜられる気がするんです。解り易いけどその奥は深い。 単純明快だけど知り難い、まさに子供の心のような眼で写し撮られた写真の数々です。 子供達が夜ぐっすりと眠ってみる夢の世界を現しているような印象もありました。
砂丘の写真も多く展示してありましたが、それ以外の植田正治もたっぷりと知る事が出来ました。 特に晩年の昭和のモダニズム風の写真とは表情を異にした妖艶な赤い花の写真などもあり、ちょっと意外な感じもしました。 (優しいお父さんとしての顔以外の植田正治もあったのですね。) 小説家で言えば絶筆にあたる、生前最後のフィルムに撮影されていた数枚の人のいない風景写真で写真展は終わるのですが、これを観る頃には不思議と今までのイメージとは様相を異にした植田正治に出会うに至る訳です。
『前衛的』という言葉すら既にレトロな響きを持ちつつある今日この頃。 鳥取の片田舎で、日本や世界という物理的な広さよりももっと大きな世界観を自分の内面に持ち続けた大らかな作風。 時代に先がけていたその空間表現は『植田調』となり、現代の新しさとは決して混ざり合わない、同化されてしまわない、確固たる個性として、今でも斬新な光を放っていると感じられた訳です。


これを観たら、黒い傘と本を持って、鳥取砂丘へ赴かねばなるまい、と思わせるほどぞくぞくする1枚です。






まさに『砂丘スタジオ』。 お父さんのお遊びに付き合う幸せな家族の姿も存分に見ることができ、幸せな気持ちになれます。




騙し画のような構図。 俄かモデルの子供達もいい味を出しています。 ちょっとグリーンバックの前の撮影のような雰囲気も醸しているのが面白い。




私が初めて植田正治を知ったのはこの1枚。 写美の外壁に大きく飾られてます。 『砂漠に着物? なんで?』 当時、植田正治を知らなかった私の率直な感想。 でも何だか妙に気になって。 あの時からの心のざわつきは、今だから解る。 そう、『なんかいいかも。』って思っていたのです。 巨匠の作品って、その人物に関してはズブの素人にもやっぱり響くものがあるんだ。という証明のようなエピソードと思っています。




この写真、とっても好きなんです。 でも流石にこんな風に遊んでいる子供は都合よくおらず、お菓子の缶をエサになんども土手の上を走らせた、というエピソードを日曜美術館でやってました。

最後に、東京ステーションギャラリー。 東京駅建設当時の赤レンガがむき出しにされている展示室があって、ホワイトキューブが大半を占める日本の美術館にあって、海外の美術館のような雰囲気を漂わせていました。

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by sanaegogo | 2013-12-23 00:00 | art | Comments(0)
「ヤッテミヨウ!」
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もうかなり昔の事ですが、読売ジャイアンツの高橋由伸選手の事を『全然好みじゃないのに何故か気になる。』と言っていたら、『それが本物の恋なのよ。』と言われた事がありました。 全く脈絡がありませんが、この赤鹿麻耶さんの「ヤッテミヨウ!」に感じた気持ちは、まさしくそんな感じかも知れません。 『全然好みじゃないのに何故か惹かれる。』です。雑誌『IMA』が主催している写真展 LUMIX MEETS TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9 を観ての事です。日本で有望な若手写真家9人にフォーカスした写真展ですが、そのうちの1人が赤鹿麻耶さんで、写真展のキービジュアルになる作品『ヤッテミヨウ!』を観てまず感じた事です。
赤鹿麻耶とその友人達が、一見すると意味の無いような色々な事にチャレンジしていて、それを瑞々しく写真に納めています。 その行為の弾けんばかりの元気の良さ、溢れんばかりの好奇心が伝わって来る感じに何故か心が奪われて、思わず見入ってしまう写真でした。 私はそもそも、あまり人物は撮らないし、自分で撮るとしたらと画を想像してみても、きっと肖像画のように唐突にそこに居て、雰囲気で勝負、なんて感じになると思われます。 でもこの「ヤッテミヨウ!」は、とにかく若い世代にありがちな無意味な行動に熱中し、意味なんて考えなくたって、思いついたらやってみる! みたいなはっちゃけた馬鹿騒ぎとその中にある達成感と高揚感みたいなものが、やたらめったら弾けていて、すごい躍動感を感じます。 ストーリー性などは全く無視して、細切れで唐突な羅列で構成されている『次々と』感がまた良いんです。 それに「ヤッテミヨウ!」というタイトルを付けたのがまた絶妙だと思いました。 このシリーズのタイトルが「ヤッテミヨウ!」でなければ、こんなに引っかかる事は無かったように思います。 端的にして軽妙。 いいですねぇ。 どんぴしゃ、な感じがします。 この写真のフォーマットもいいんですよね。画面の構成にばっちり合っていて、上手いなぁ、と思いました。 わざとらしさなく、最もダイナミックに見えるところで切り取られてます。 水中で息を止めて苦しそうな女子軍団の表情に水面の揺らぎが画面に動的な雰囲気を与えてて、微笑ましくさえあります。 色もとってもクリアでキレイ。 定型でないフォーマットが自由な感じをよりいっそう強くしているようです。 自分とは全く違う世界観だけど、とっても納得してしまいました。


LUMIX MEETS
TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9
会場:代官山 ヒルサイドフォーラム
会期:2013年11月23日 - 12月1日
参加フォトグラファー:
  • 赤鹿麻耶
  • 伊丹豪
  • うつゆみこ
  • Kosuke
  • 濱田祐史
  • 水谷吉法
  • 山本渉
  • 横田大輔
  • 吉田和生







  • ≪ 会場での「ヤッテミヨウ!」 展示風景です ≫


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    by sanaegogo | 2013-12-04 00:00 | art | Comments(0)