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― 君がここにいたらいいのに Fiona Tan Ascent





Fiona Tan Ascent|フィオナ・タン アセント

2016年7月18日(月・祝)—10月18日(火)
IZU PHOTO | MUSEUM

http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/208709273.html


Ascent (2016), Fiona Tan, still, Photo: nakano yuko

IZU PHOTOに行くのだから晴れの日だったらそれは気持ちの良い秋の日だっただろうけど、この日のクレマチスの丘は生憎の土砂降り。 家を出た時には茅ヶ崎は降っていなかったのにね。
チケット売り場で何やら人だかりが出来ている。 何度か来てるけど、あまり混んだところを観た事がなかったのに不思議に思っていると、自分たちの番になって理由が解りました。
プロジェクターに不具合があって、今日はメインの映像作品が観られないとのこと。最後の14時45分からの回に修理が間に合えば上映するので、戻ってきてください。と言われ、ちょっと雨を恨む。(因果関係はないみたいなんだけど。)
それでは、先にヴァンジ彫刻庭園美術館の『生きとし生けるもの』を観て、ランチして。
雨足は強くなるばかりで、止む気配はないんだけど、最後の上映は無事行われる事となり。ギリギリセーフで、念願の『アセント』を観て来ました。 これが観られなかったら、ここまで車を飛ばして来た甲斐がなかったけど、本当によかった。

フィオナ・タンの『アセント』は、2014年のIZU PHOTOのMt. Fuji Projectで公募された4,000枚あまりの富士山の写真を彼女のイメージの中で構築されたストーリーに沿って繋ぎ合わされ、紡がれたプロジェクション作品です。

あなたの富士山写真が
フィオナ・タンの作品の一部になります。
http://www.izuphotoproject-fionatan.jp/


時間も季節も時代も場所も撮影した人たちも、みんなばらばらな富士山の写真が、ヒロシと女性の往復書簡のような会話から生まれるひとつの物語に再構築されています。
4,000ものそれぞれの瞬間に立ち会っている富士山。
唯一無二の山であるのに、ふたつとして同じ表情を見せる事なく、ひと時も欠かすことなくそこに在り続ける普遍(不変)の山。
寝転びながら、時にオーバーラップされ、スクリーンの中に現れては消えていく富士の山映像を見ていると、どの山脈にも属さない孤高な霊峰に、「見守られている」という感情が、沸き立たせられ、私たちは富士山の庇護の許ここにいます、という気持ちになります。
4,000枚ものランダムな画像をひとつの物語として紡いで行く、フィオナ・タンの緻密な作業、ばらばらで無関係の写真たちからその1枚が持つ物語を損なってしまうことなく、繋ぎ合わせていくその集中力と根気に、静かなるエネルギーを感じます。


Ascent (2016), Fiona Tan, still


語り口は常に穏やかで優しいものなのですが、語られている話は漠然としたところがなく、むしろ毅然としていていました。
「大切な事だから少し話をしてもいいかな」
とヒロシがちょっと諭すように言うのですが、この口調や問いかけ方がとても好きです。
なにか一筋の意志を持って、はっきりとした物言いなのですが、強制めいたところがなく。
心の奥まで沁みこんで来るような心地よい優しい力強さを持ったその声の主は、長谷川博己さんでした。 やっぱり。
本当に素敵な声、素敵な語りでした。 しみじみと・・・・。
そして、女性の声はフィオナ・タンだったのですが、この声の主は 富士山そのものだったのかも、と思います。彼女の作り出したイメージの中では、富士山はきっと女性なのですね。
もしくは、物語の中に出てきた木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)だったのでしょうか。
女性は誰だったのか、無性に確かめたくなって、観終わった後ミュージアムショップでナレーション・テキストがあるかどうか尋ねてみたのですが、それは無いのだそうです。
図録が2冊出ていて、その中に脚本原案が書いてあったみたいなのですが、それはショップでは案内してもらえなくてとても残念です。
「君がここにいたらいいのに」
ヒロシは呟くのですが、ここ、って一体何処なんだろう。
高く空へと聳え立つ 富士の姿をスクリーンに眺めながら聴いていると、この空間でもない、この時間でもない、どこから聞こえてくるのかも、耳で聞いているのかもわからなくなります。 まるで何処か遠い精神世界の中からの呼びかけのように響いてくる、ヒロシの呟き声を聞いていると、ヒロシの処に行ってあげたい、そんな気持ちになりました。

もう一度、観たいです。


赤嶺優子 撮影 「元旦の富士山 故郷沖縄へ帰る機内から。2016年も頑張ろうと思えました。」
渡邉保明 撮影
渡邉保明 撮影
Photo by Mark Smith, Remote Viewing 75-2
渡邉保明 撮影
遠藤進 撮影
渡邉保明 撮影
渡邉保明 撮影
(* 写真 左上→右上から下へ。 敬称略)


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by sanaegogo | 2016-09-24 00:00 | art | Comments(0)
静かな森に誘われ・・・ サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―
『サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―』
Cy Twombly Photographs Lyrical Variations
2016年4月23日(土)~ 8月28日(日)
DIC川村記念美術館 (千葉県 佐倉)
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/20160828_cytwombly.html


サイ・トゥオンブリーが、その画家、彫刻家としてのキャリアの中で、こんなにも写真が好きでポラロイドやピンホールカメラで生活の中の対象を撮り続けていたというのはあまり知られていなかったようです。(勿論(?)私はこのトォンブリー展でその事を知りました。) 聞けば、その写真作品の殆どは長い間未発表で、トゥオンブリーが密かに持っていたという事。そこには密やかにトゥオンブリーの内面が詰まっているような気がして、彼が自分の心の内を静かに語りかけているような雰囲気がそこに流れていたような気がします。川村美術館は、森の美術館とも呼ばれてて、緑豊かな森を配して密やかに建つその雰囲気もまた、今回のトォンブリー展の独特の雰囲気にぴったりです。都会の喧騒から時間をかけて 彼が待つ森の美術館まで訪ねていくという行為自体から鑑賞が始まっているようです。



今回は、トゥオンブリー(1928年-2011年)が1951年から2011年までの60年間で撮影した写真作品の中から100点を展示されていています。写真の他、絵画(3点)、彫刻(4点)、ドローイング(4点)そして版画(18点)など、トゥオンブリーが様々なメディアを通して表現した中での、共通性、一貫性などが自然と入って来るような流れで展覧会は構成されています。

『変奏のリリシズム』というタイトルもとても洒落ていて、展覧会全体の静かでありながらどことなくリズミカルな構成をとても良く表していて、言い得て妙です。変奏とは、音楽で言うところの、ある主題をいろいろな技法によって形を変えて表すこと。様々な表現を用いながらトゥオンブリーの内面世界(リリシズム)が編成され、ひとつの形となって創り上げられています。全体としてもそうなのですが、こと写真の並びについては、それぞれの写真の横の間合い、縦の間合い、並べられている被写体のお互いの関連にもこの変奏の表現が生かされています。 ひとつの写真から次の写真へと視線を移すときの壁の余白。 「この余白にもトォンブリーのリリシズムが現れているから、そこにも注目してくださいね。」と、偶然立ち話をする事が出来た学芸員の方が言っていました。私は、トォンブリーの写真から立ちのぼるふわっとしたメッセージを感じようしていて、そこまでの思考には至らなかったのですが、会場内は都内の美術館とは違い人の混み合いはまるでなかったので、時間をかけて余すところなく全てを感じ取り理解しようと時間をかけて鑑賞している人が多いように思いました。 そんなゆったりとした雰囲気も、今回の展覧会にぴったりだったと思います。

ふわっとしたメッセージというのは、その理由がトォンブリーが好んで使用していたのがポラロイドやピンホールカメラだったからというのに他ならないのですが、ピントが甘く、対象の境界線がじんわりと滲むようになるのには、更にこれにトォンブリーならではの工夫と創作作業が加えられていたようです。ポラロイドカメラで撮影した写真を厚紙にプリントし、その台紙の粗めの質感がふわっとした画像の雰囲気を更に強調しています。更には80年代に製造されたロースペックのコピー機を使って、オリジナルの写真を拡大し、色彩の滲みや紙への浸透を自分なりに気に入った効果に調整していたそうです。こんなことからも、トォンブリーの自身の写真作品へのこだわり、日常的な身の回りの被写体を好んで撮影していたのにもかかわらず、単なる記録的な意味や時間が空いた時の息抜きではなく、写真にしっかりと向き合い、自分の表現したい内面性をきちんと創り込んできたのだ、という事が解ります。写真の出来栄えとしてはどことなく技術的には稚拙な雰囲気が漂っていて、古代ローマの遺跡や古い絵画にノスタルジアを感じていたというトォンブリーの美意識をよく表しています。

気に入った作品をいくつか挙げるとすれば、まず、このズッキーニ。 するっとした感じで画面に横たわっているズッキーニを見れば、俄かにはズッキーニと判らない程寄って撮影してあり、抽象化してあります。このするっとした造形になんだかとっても艶めかしさみたいなものを感じます。






ズッキーニの全貌はこんな感じ。
自然のままに収穫されたそのフォルムは、やっぱりどこか艶めかしい。



あと、これを挙げる人も多いと思いますが、チューリップ。これはとても朧気なんですけど、そんな中でチューリップの花びらの実はとても肉厚な様が見て取れたり、曖昧な世界に放つ花の存在感みたいなものにギャップを感じて、見入ってしまいます。




何といっても、画像の資料としてはネットに出ていないのですが、このパン。(図録が届いたので撮影しました。) このパンの写真を手許に置いておきたくて図録を買ってしまったと言ってッも過言ではない感じです。普段当たり前のように食べているひと塊のパンがこんなにリリカルに表現されている事に感動しました。アーティストというものはその生活の暮らしぶりも美しいとはよく言いますが、トォンブリーの日々の暮らしの美しさもこの1枚から想像が出来て、何だか色々な意味でとっても印象に残ります。




余談ですが、会場の最後に1枚のトォンブリー自身が写ったプロフィール写真がありました。 トォンブリーが写っているので、彼の撮影ではない事は明らかなのですが、妙に眼を惹くものがあって。 撮影を見てみたら、ブルース・ウェーバーでした。お互いに親交があった(のかな?)のも意外な感じでしたが、(タイプが違うので)、やっぱりブルース・ウェーバーもいい写真撮るんだなー、なんて、再確認。




さらさらと時間の粒子が流れるような、そんな雰囲気の中の鑑賞。良い1日でした。


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by sanaegogo | 2016-08-20 00:00 | art | Comments(0)
シャルル・フレジェ 「YÔKAÏNOSHIMA」



Le Forum, Maison Hermès
YÔKAÏNOSHIMA by Charles Fréger


銀座メゾンエルメス
「YÔKAÏNOSHIMA」 シャルル・フレジェ展
2016.2.19(金)~ 5.22 (日)
http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/

フレジェを知ったのは、WILDER MANN (2010-2011) を雑誌で観た時なのですが、この時から既に気になっていたのかも知れないのですが、その引っ掛かりはあまり自分の中で意識されないものだったんですね。 でも、色々な場面でこのWILDER MANNを眼にする度に、じわじわとその存在感が増していくのを感じてました。 見れば見るほど気になっていくのです。 そのフレジェがこのWILDER MANN の制作意図を踏襲した形で日本で撮影された写真展があるというので、これはもう、是非行かねば!と。

行って来ました。Maison Hermès の Le Forum です。 フレジェが「妖怪の島」と名付け、日本列島58か所で古来から風習として残る仮面神や鬼、風土風習に根付いた祭事や儀式の村人の仮装の姿を取材したものです。 実は、「妖怪」と聞いて、これはちょっと違うのでは? と感じたのですが、「妖怪」について、改めて紐解いてみると、【妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。(ここから→) 妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想に深く根ざしており、その思想が森羅万象に神の存在を見出す一方で、否定的に把握された存在や現象は妖怪になりうるという表裏一体の関係がなされてきた。(wikipediaより)】ということ。「妖怪=水木しげる」的に考えていた私の方が、発想が貧困だったようです。 日本には仏教が伝来する遥か昔から、八百万の神を深く信仰していました。それはもっと昔のアニミズムにも深い関わりがあります。 ここに登場する神や鬼たちは、自然界のあらゆるものに宿る精霊の姿で、仏教思想の洗練された雰囲気はなく、もっと風土や風習に泥臭く密着した何かです。それが21世紀の現代でもこの超近現代国家の日本でもまだ残っていて、生活や営みと共に信仰されているという事実にぞくぞくします。原始から綿々と続いている伝統があるのです。それがフレジェの力を借りて、銀座のど真ん中に一堂に会し、イキイキとその姿を現しています。 土着の鬼神や獣神であったり、折口信夫の言う「まれびと」であったり、歳神様であったりが、色鮮やかな仮装をした村人たちの身体を借りて、その土地や、その季節に次々と登場する、とても立体的なインスタレーションでした。会場構成は建築家の松島潤平によるもの。 日本の地形をなぞれる様な感覚を体験できるこの構成もとても秀逸で、この展示において明らかにその効果を発揮しています。


© Nacása & Partners Inc.


しかし、何といっても、このフレジェの撮影した1枚1枚がとにかくイイんです。物語り的な余韻を含むものとか、心象風景、コンセプチュアルな写真、そういうものとは完全に一線を画していて、民俗学の資料写真のような、または、カタログ的な画一的なフォーマットの羅列でありながら、1枚1枚の中に収められている原始の神の姿は躍動的で、また、ものすごく魅力的で、飽きさせることを知りません。真正面からずどんと被写体を捉えたこのシンプルな構図の写真にむしろ新鮮さすら感じることに驚きます。観る人を圧倒させるような迫力がある訳ではないのですが、湧き出てくる力を感じるような感覚です。 それは偏に古来から受け継がれてきた伝承の力というのが大いにあるとは思うのですが、それを存分に引き出したのがフレジェなのです。


© Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d’entreprise Hermès
この獅子がとてもお気に入り。 どことなくユーモラスで、この愛嬌がたまりません。


改めて、風土と共に生きて来た農耕民族の五穀豊穣を願う豊穣祈願の真摯な祈り、自然を司る神々への尊敬や畏怖の念、日本にもまだまだ残るプリミティブな伝統を目の当たりにして感じるこの高揚感は自分でも不思議で、どこからそんな気持ちが湧き上がってるのか解らないのですが、ちょっと興奮しました。「獣人(ワイルドマン)」は、ヨーロッパで撮影された前キリスト教時代といわれる原始の伝統ですが、日本の歳神の文化とも多くの共通点を持っています。WILDER MANNを観た時のあの心のざわつきは、きっと私の日本人としてのDNAの中に潜む、そんなアニミズムが知らず知らずのうちにすぐられていたのかも知れないな、と感じています。



「Namahage」 Ashizawa, Oga , Akita prefecture (Japan), YÔKAÏNOSHIMA series, 2013-2015




© Charles Fréger

鹿児島県トカラ列島の悪石島に伝わる来訪神行事に登場するボゼです。諸説あるようですが、昔々、海を渡って来た異形の姿をした異国の人間がまれびととして伝承されているという話を聞いたことがあります。

7月にはYÔKAÏNOSHIMAの写真集が刊行される予定だそうです。この写真展を観て、断然欲しくなってしまったのと同時に、WILDER MANNに魅了される自分をしっかりと認識することができたので、2冊とも手に入れないという理由はもうどこにもない感じです。


Facebook Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207778281193422


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by sanaegogo | 2016-04-24 00:00 | art | Comments(0)
あの時代(とき)のホリゾント ― 菊池武夫×田口淑子 Special Talk




2016.04.16 Sat - 05.22 Sun
あの時代(とき)のホリゾント
植田正治のファッション写真展
Exhibition of UEDA Shoji’s Fashion Photographs Those Screens, Those Times
http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2016/0416_3617.php
Facebook Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207715580145935







植田正治の写真の中でもファッション写真をフィーチャーした写真展です。植田正治の写真家としての年譜を辿ってみると、
1932年: 東京へ行きオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月間通う。鳥取に帰郷し自宅で植田写真場を開業。
1939年: 「少女四態」を発表。
1946年: 戦後第1作「童」が朝日写真展覧会特選に入選
1947年: 写真グループ「銀龍社」に参加
1948年: 「小狐登場」発表。
1949年: 「パパとママと子供たち」2作を発表。
1949年頃: 砂丘シリーズのひとつ「本を持つボク」発表。
1950年: 「ボクのわたしのお母さん」発表。
1950年: 「妻のいる砂丘風景(III)」発表。
1955年: 代表作「童暦」のシリーズ撮影を開始。(~1970年)
1958年: ニューヨーク近代美術館でのエドワード・スタイケンによる企画展に「雪の面」を出品
1975年: 九州産業大学芸術学部写真学科に 教授待遇で就任 (~1994年)
1978年: アルル・フォト・フェスティバルに招待される。作品数点がフランス国立図書館のコレクションに入る
1979年: 島根大学教育学部非常勤講師就任(~1983年)
1983年: 最愛の妻を亡くし、同年、広告業界のアートディレクターであった次男、充氏の提案により、砂丘を背景にファッションブランドTAKEO KIKUCHIのカタログを撮影。

・・・・こうして振り返ると改めて、海外でも「UEDA-CHO」として高い評価を得た後、最晩年にファッション・フォトグラファーとして新しい展開を見せていた事を知ることが出来ます。きっかけは最愛の奥様の死。 まるで無気力になってしまい、何か月もカメラを手にしない日々が続いたそうです。しかし、世界的写真家が、身内の縁というものがあったにせよ、ファッション誌のために写真を撮り下ろすなんて、なんとも贅沢な時代だったのですね。そこに加担した人たちのエネルギーというか、パワフルさというか、雑誌にはそんな力があったのでしょうね。



この写真展では、転機を迎え、ファッション界で再び息を吹き返し、イキイキと砂丘で撮影を再開した後の植田正治さんと関わりがあった方々をゲストに招いてのトークショーが企画されていますが、何といっても菊池武夫氏でしょう。 私自身も数年前、鳥取砂丘と植田正治美術館を旅した時に購入した思い出深い写真集である〈TAKEO KIKUCHI AUTUMN AND WINTER COLLECTION '83 - '84〉からここまで、何かが繋がっていたと思うと、勝手に感慨深い思いがこみあげてきます。



菊池武夫さんは、タケ先生と呼ばれていて、とても素敵な方でした。お話を進める元ハイファッション編集長の田口淑子さん。85年にトップモデルだった小林麻美をモデルに鳥取砂丘で撮影が行われた時のエピソードを色々とお話してくれました。その時の紙面には、詩人の清水哲男さんがテキストを書いたそうです。もうこれはモード誌の域を完全に超えていますね。お茶目でいたずら心があった植田正治さんのくすっと微笑んでしまう様なエピソード、昔家族をモデルに砂丘で写真を撮っていた頃のように、何かおもちゃを持ってくるようクルーやスタッフに指示を出して、田口さんが持参したLP盤のレコードを空に向かって投げて撮影したことなど、当時の貴重な記録写真を交えてお話してくださいました。そして、私はとても、この、田口さんが「おもちゃとしても楽しく、植田正治の写真にフィットするようなモダンでシンプルで、それでいて何か温かみがあるものを。」と一生懸命考えてLP盤を選んだ、というくだりにひとしきり感激してしまったのです・・・。 空に投げられた何枚ものLP盤は、植田正治さんの「砂丘モード」の世界観にとてもよくフィットしていました。



タケ先生は植田正治さんご本人というよりは、ご子息のアートディレクターの充さんとのご関係が深かったようで、充さんを通した植田正治さんという人物像をお話してくださいました。 充さんがいかにお父様を愛していたか、父の仕事の環境を整え、思う存分好きな写真を撮れる場を創りだす事にプロとしての厳しい目を向けられていたか、いかに深い愛情で繋がっていた親子だったのかを知ることが出来ます。 中盤からは、植田先生の最後のお弟子さんの瀬尾浩司さんも加わり、植田先生と充さんのプロとしての厳しい仕事ぶりのエピソードをユーモアを交えて。 登場したどの方も、愛情に溢れていて、それは偏に植田正治さんの自分を取り巻く人への愛情深さが連鎖し、増幅していたのでしょうね。



トークの主役はあくまでも植田正治さんとご子息の充さんだったのですが、菊池武夫さんはダンディでカッコよく、とっても素敵でした。全身白の出で立ちは嫌味なところがなく、まさにお洒落な伊達男。今は廉価で買うことが出来るファスト・ファッションが主流で、ともすれば私自身もそれに流されているきらいがあるのは否めませんが、私にもかつて、服を着こなす、という事を楽しみ、自分の個性に合うブランドを選び純粋に服を着る事を楽しんでいた時代があったというのを思い出させてくれます。 高い服(もの)を買うのが豊かさではない、と最近ではよく言いますが、虚栄や見栄のためではなく、丹精込めてつくられた服を吟味して選び、その服が心底似合う様な人間性や環境を手に入れて行く事で得られる心の豊かさ、みたいなものも確かにあった時代のような気がします。(安きに流れない、といった事でしょうか。) トーク終わりに菊池武夫さんと帰りのエレベーターが一緒になり、「とても楽しいお話をありがとうございました。」と声をかけさせていただくことが出来たのも、思いがけない出来事でした。「ありがとう。」と言ってくださったタケ先生、とっても素敵でした。






この1枚は、トークの最後に「別離(わか)れの旗」のエピソードで紹介されました。 先立った最愛の奥様を慕(おも)い、砂漠の果てに向かって別れの旗を振る植田正治さんの心境なのだそうです。






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by sanaegogo | 2016-04-16 00:00 | art | Comments(0)
エッジの利いた 江戸のポップカルチャー 俺たちの国芳 わたしの国貞




ボストン美術館所蔵
俺たちの国芳 わたしの国貞

2016.3.19 SAT – 6.5 SUN
Bunkamura ザ・ミュージアム

http://www.ntv.co.jp/kunikuni/



とても久しぶりの Bunkamuraです。江戸時代、歌川一門で鎬を削った兄弟弟子、歌川国貞と歌川国芳の作品が一挙に展示されています。その数、作品数にして170点、枚数にして350枚というもの。見応えがあったなぁ、とは思いましたが、そんな点数が展示されていたとはオドロキです。 展示されている作品は全て ボストン美術館の収蔵品で、ボストン美術館開館以来の大規模な回顧展(?)になるそうです。キュレーターの方、さぞかし奮闘したに違いありません。 ボストン美術館は世界有数の浮世絵コレクションを誇っていて、所蔵されている作品数は国芳国貞だけで1万4千枚を超えるというから、これもオドロキです。それもオドロキですが、何故本家本元の日本はこんなにも大量の浮世絵を手放してしまったのか、何故ボストンにあるのか、どうしてそうなっちゃったのか、それこそがオドロキでした。
国芳は、寛政9年、1797年生まれで、文久元年、1861年 没、国貞は、天明6年、1786年生まれ、元治元年、1865年没、共に江戸末期を華やかに、艶やかに彩った浮世絵師です。その作品も 150年も経っているとは思えないほどの素晴らしさで、「えっ? これって版木が残ってて刷り直したやつ?」と見紛うばかりのものでした。
そもそも「浮世絵」って、「現代風の絵」って意味だそうなんだけど、所謂現代のコンテンポラリー・アート(現代美術)とは違って、もっと庶民にとっつきやすく、解りやすかった風俗画で、決して美術館で鑑賞するような手のものではなかったのです。ヴィンテージとしての付加価値が付いたとはいえ、海外の美術館の収蔵品になり、こうして日本で凱旋展覧会が開かれるようなクオリティをもつものが、巷に溢れていたなんて、江戸時代、やっぱり侮れない、と再確認、再認識した次第。文化水準が本当に高かったのね、と思うと何だか誇らしげな気持ちです。(と言っても私は相州相模の国の出身ですが・・・。)
展覧会の構成もとても解りやすく工夫されていて、 国芳と国貞の作風が現代に生きる私たちにも例えやすいようカテゴライズされています。国芳のファン層は男気のあるヤンキー達。義理と人情を重んじて、年下には温情を目上には礼節を良しとしたちょっとやんちゃな男衆に人気だから「俺たち」。一方、国貞は、流行に敏感な洒落乙達に人気で、雑誌のモデルやメディアの中のスターやアイドルに憧れ、真似てみたりするファッション大好き女子たちを描いたから「わたし」。今でも沢山いますよね、そんな老若男女がそこら中に。

わたし的には国芳は「ドラマチックなセットアップ」。とにかくどの画も画面の中の構成が躍動的でかつばっちりとキマッていて、歌舞伎の題材になっている古典の物語のクライマックスの場面を絵巻物のようにトリプティクスの中に凝縮して表現しています。遠近法を持たない日本画(特に絵巻物かな)独特の視点の使い方で場面の展開までも一挙に描き上げてしまうダイナミックさが魅力です。











そして国貞は「日常スナップ」みたいな印象。ゴージャスな衣装に身を包んだ花魁道中を着こなしの手本にしたり、(まあ一種の)セレブリティのように非日常的な着こなしとある種のオーラに憧れたりしたんでしょうか。アイドルのプライベートショットみたいなものを彷彿とさせるものもあります。シュッとしたポージングではなく、リラックスしてふと日常に垣間見るチャーミングな仕草とかを自然体の雰囲気で描いたものも多く、当時流行っていたという弁慶縞の着物に身を包んだおしゃれ大好き女子を題材とした作品に心が和んだりします。












Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207577178925991
(この日は内覧会に先立ってのトークショーにも参加。 展覧会をイメージしたスペシャルドリンク(アルコール)付きで、私は国芳をチョイスしたら、多分自分では絶対頼まない グラスホッパーが出てきました!)

と、それぞれの魅力、見どころは色々ありましたが、共通して言えるのがその色の何とも言えない風合いです。ちょっとくすんだ和紙の上に重ねられたグラデーションや抑え目ながらも鮮やかな色彩。冒頭でも言いましたが、これが150年も経っている画の発色とは! 俄かには信じられない感じ。浮世絵というと「モナリザ」のように描かれた役者絵や江戸を離れた風光明媚な風景画がまず想像されてしまうほど自分の中での浮世絵感は貧困だったのですが、これを観て一気に払拭されました。江戸の伊達と粋をたっぷりと楽しんで、タイムスリップして、エッジの利いた江戸の町に行ってみたくなりました。(笑)

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by sanaegogo | 2016-03-30 00:00 | art | Comments(0)
Cathedrals of Culture, Wim Wenders



『Cathedrals of Culture』(邦題: もしも建物が話せたら)
2016年3月21日(日) 渋谷アップリンク
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
監督:ヴィム・ヴェンダース、ミハエル・グラウガー、マイケル・マドセン、ロバート・レッドフォード、マルグレート・オリン、カリム・アイノズ
http://www.uplink.co.jp/tatemono/
Facebok Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207446864188204


「これまでにない新感覚のドキュメンタリー映画」と各所で紹介されているこの作品。新感覚、それはとてもよくこの作品を言い表していると思いました。(ドキュメンタリー映画なので、それは自然の流れなのかも知れないのですが)、6編のオムニパス形式の中で、クライマックスを捉える事が難しく、淡々と時間の流れに沿って目の前の映像を受け入れていくといった鑑賞は、まるで美術館に行って、美術作品を観た後のような感覚が残るような気がします。 ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー作品はいくつか観て来ましたが、ドキュメンタリーとして撮影しているのですが、ドラマチックなストーリー性がふんだんに盛り込まれていて、演技を指示したり、台詞を与えている訳ではないのに、シーンの創り方や登場人物の本質の引き出し方が卓越している、と感じられるような作品ばかりです。 今回もその雰囲気は保ちつつも、建築物が主役なので、そこに登場する人物や関係者が更に客観的なものになっていて、当事者めいた登場人物がまるでいないのが、この映画を不思議な雰囲気にしているようです。 言わずもがなですが、建物はたんなるものを内包する箱ではなくて、そこには、機能というものがあるのですが、建物を使う人々もまた、(この「使う」と言うのは、そこで働く人も利用する人も含めた意味での「使う」なのですが。) この機能の一部であるかのように表現されています。 原題は「Cathedrals of Culture」。「もしも建物が話せたら、私たちにどのような言葉を語り掛けるのだろうか」をテーマに制作されているので、邦題は「もしも建物が話せたら」になっていますが、この「Cathedrals of Culture」の意味を考えた時、物語りはますますミステリアスな様相を呈するような気がして、建物の心の声を聴くことで、ヴェンダース監督が表現したかった真の意味は何だろ、と考えてしまいます。それを掘り下げて考えるには、建物達の語る言葉はあまりにも自分の感情を押し殺して控えめなような気がしてしまうのは、建築物という存在があまりにも恒久的すぎるからなのかも知れません。(まるで遥か昔からの村の歴史を語る長老のように。) 観終わってから、「だから何だ?」と感じた人も多いのかも知れませんが、それも理解できる気がします。なぜなら、建物は、自分の意志や意見や、喜びや悲しみ、感じることをあまり語ってはいないからです。ただ淡々と、自分がそこに存在する事を語っています。


監督:ヴィム・ヴェンダース
ベルリン・フィルハーモニー (ドイツ・ベルリン)
ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策を遂行していた安楽死管理局のあった通りに面して建てられています。建てられた当時は辺りは街らしい佇まいはまるでなく、この建物だけがぽつんとそこにあった、と建物は語っています。








監督:ミハエル・グラウガー
ロシア国立図書館 (ロシア・サンクトペテルブルク)
18世紀後期、皇帝エカテリーナ2世によって建てられたロシア最古の公共図書館。そこで働いている女性たちが、館内を血液や体液のように巡って、蔵書や図書カードを細胞の新陳代謝のように整理していた姿が描かれています。








監督:マイケル・マドセン
ハルデン刑務所 (ノルウェー・ハルデン)
ノルウェーにある世界一人道的であると言われる刑務所。独房には最新型テレビと小型冷蔵庫が完備されていて、太陽がよく差し込む大きめの窓もあります。運動場を囲む高い壁には、ノルウェーのグラフィティ・アーティストのドルクが手掛けた壁画が描かれています。「私は刑務所。」と、全てを許し、受容するようなその刑務所は女性として語っていました。





監督:ロバート・レッドフォード
ソーク研究所 (アメリカ・サンディエゴ)
ソーク研究所は、ポリオの予防接種を開発したことで有名なカリフォルニアの研究所。ロバート・レッドフォードは、自身が11歳の時にポリオに罹患したそうです。映画『普通の人々』で見た郊外の美しい自然風景を彷彿とさせて、穏やかで静かなその映像にいつしか心地よい眠りに誘われました。





監督:マルグレート・オリン
オスロ・オペラハウス (ノルウェー・オスロ)
建築を手がけたのは、ノルウェー現代建築の巨匠スノーヘッタ。海の間近に建ち、氷山の造形をしたオペラハウスで、屋上からはオスロフィヨルドや市内を一望することができます。訪問者は誰でも自由に、地上から屋上へと続くゆったりとしたスロープの上を歩くことができ、市民の散歩道としても愛されていて、建物はその愛情を一身に享受し、喜びに満ちていました。








監督:カリム・アイノズ
ポンピドゥー・センター (フランス・パリ)
シャルル・ド・ゴール政権で首相を務めたポンピドゥーが推進した開発計画によって建設されました。彩色されたむき出しのパイプとガラス面で構成された外観は、現代的を通り越して前衛的で、建物自体がひとつの芸術作品のよう。パリが芸術の中心地として返り咲き、フランス政府がコンテンポラリーアートを支援していることを内外に知らしたい、といった威信を背負ったプライドが滲み出ていました。








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by sanaegogo | 2016-03-22 00:00 | movie | Comments(0)
アニー・リーボヴィッツ 「WOMEN: New Portraits」




アニー・リーボヴィッツ
「WOMEN: New Portraits」
世界10都市巡回展
TOLOT/heuristic SHINONOME


2016年2月20日(土)~3月13日(日)
www.ubs.com/annieleibovitz-jp



「WOMEN:New Portraits」は、アニー・リーボヴィッツが15年前より制作を始めたプロジェクトで、1990年には写真集も刊行されています。女優や歌手、バレエダンサーなど、素晴らしいパフォーマンスで活躍する女性、アーティスト、政財界の重要人物、学者、実業家として名を成した女性、ビジネス・パーソンとして第一線で働く女性など、様々な分野で功績をあげた女性のポートレートを撮影したものです。その被写体にはイギリスのエリザベス女王もいるのには驚きです。 でもきっとアニーならば、エリザベス女王にも負けず劣らずのオーラを放っての撮影現場だったのでしょう。 彼女自身、物凄い存在感なのですが、不思議と威圧感みたいなものは感じないのは、モデルとなった女性が委縮することなく自然で穏やかな表情で写っているので解ります。 静かな雰囲気の中にも凛とした表情を捉えているのは、きっと、彼女が撮影しながら送っているパワーのなせる業かも知れません。こんな風に彼女の写真を観たことがなかったので、雑誌の見開きページで感じるものとは全く別の世界があり、とても良かったです。 彼女がモデルに送ったパワーを写真の中の女性たちが増幅させているのか、何だか元気をもらった気がします。
Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207248592351532



会場の設えの雰囲気はちょっとニューヨークの古い倉庫を改造したスタジオのようで(Tolotももともと倉庫なのですが)、アニーの写真のちょっとクラシックなトーンにとてもよくフィットしていました。 マルチディスプレイで大きく映し出された2面の画像の前にざっとランダムに椅子が置かれていて、オーディエンスは満足いくまでそのふたつのディスプレイの前に思い思いの角度で座り、スライドショーを楽しみます。自然光が入ってきてもディスプレイに映し出されたアニーの写真の中の落ち着いた光の感じとよく馴染んで、世界10都市を巡回するこの写真展ですが、日本での開催が冬だったというのもいい感じの巡り合わせのような気がします。(アニーの写真には秋とか冬の空気が漂ってます。)



もうこれも色々な機会に口にしているので、聞き飽きたかも知れないですが、アニーは、屋外でのロケの時、映画ばりの撮影機材でセッティングをするそうなのですが、ローアングルで下から舐めるように、そして巨大扇風機でぶわーっと風を吹かせ、モデルのクラシックなドレスや長い髪をなびかせるカットが私の大好きなシチュエーションです。風が吹き抜ける荒野に凛として立つ風と共に去りぬのスカーレット・オハラだったり、嵐が丘のキャッシーの姿を彷彿とさせるのです。


私の好きなアニーは ロケーションといいカメラアングルといい まさに、こんな感じ。
これに風が吹いて 髪がなびけば 最高。



スライドショーの傍らには、通路沿いのウォールに、様々な女性のポートレートが展示されていますが、正面から撮影された女性はどの被写体も真っ直ぐにアニーが構えているであろうカメラを見据えていて、その視線が印象的です。被写体の放つ静かな光みたいなものと同時にアニーの存在感までもその写真の中に感じれるように思います。高い地位を得たビジネス・パーソンの女性が立派な執務室のデスクで微笑みを向けている写真もあって、ここに至るまでの厳しい道のりにあって、何か大切なものを失わずにいた人格の高さみたいなものを垣間見る気がします。



中にはポーズをとって全身を写したものもあるのですが、中でも素敵なのは、やはりこれ。写真展のメインビジュアルにもなっていますが、ミスティ・コープランドの1枚です。話は逸れるのですが、ミスティ・コープランドは、世界最高峰バレエ団の一つ、アメリカン・バレエ・シアター初のアフリカン系アメリカ人のプリンシパルで、その波乱万丈の生い立ちと経歴をどこかで読んだことがあって、逆境の中を時にはしなやかに、時には葛藤をもって、体系的にアフリカン系の女性には不向きだとされていたクラシック・バレエの世界で最高峰に登りつめた女性です。「美しい」というシンプルでかつ全てを包括する形容詞で表現するのに相応しい1枚だと思います。


Misty Copeland, New York City, 2015
© Annie Leibovitz from WOMEN: New Portraits

・・・と、妄想や理想、希望なども含め、好き勝手に語ってしまいましたが、漠然とですが、その実態とそんなにはかけ離れていないような気がしてます。アニーの写真にはそんな風に、その生み出される過程に想像力を掻き立てるような何かがある気がします。(3月13日まで。)




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by sanaegogo | 2016-02-27 00:00 | art | Comments(0)
文化庁メディア芸術祭 受賞作品展


第19回 文化庁メディア芸術祭
受賞作品展
Exhibition of Award-wining Works
2016.2.3 – 2.14 国立新美術館
http://j-mediaarts.jp/

もう19回になるのですね、文化庁メディア芸術祭。 久々に受賞作品展を観に行って来ました。 新美では、アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門、マンガ部門の大賞、優秀賞、新人賞などが賑やかに展示されていますが、関連イベントとして、セルバンテス文化センターやスーパーデラックス、六本木ヒルズのTOHOシネマなどで作品の上映やトーク、シンポジウム、ワークショップなど六本木界隈を回遊出来るような感じで様々な催しが展開されていて、まさにメディア芸術のお祭りですね。 今年はスーパーデラックスで行われた 「ラウンジトーク&ライブパフォーマンス「新たな語りへの挑戦~深化する映像・アニメーション~」」というのに行ってきたのですが、最後の最後、大取に上映されたアニメーション部門の大賞の上映を終電前にご飯を食べたいという生理的欲求に負けて見逃してしまったので、それを観に新美の作品展に出かけて来た、という次第です。


その作品がこれ。
アニメーション部門大賞
Rhizome
短編アニメーション(11分25秒)
Boris LABBÉ [フランス]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/animation/rhizome



私たちが生命を得ているこの宇宙もその構成単位をどんどんどんどん小さくしていくと顕微鏡でしか見る事の出来ない細胞単位まで細分化されていくということ、そして、その宇宙の中の小さな単位でしかない惑星の中では、小さな原子から形を成し、それが様相を変化させながら分裂と再構成を繰り返し、様々な個体を形成し、多様な生命体を育んできたこと、そんな事を彷彿とさせるダイナミックな作品で惹き込まれました。スクリーンに蠢く細かな物体は無機質なもので、私たちの想像できる生命体とはかけ離れたものなのですが、宇宙の始まりだったり、太陽系の形成だったり、その中の惑星の進化だったり、自分の身体の中のひとつの細胞の中の出来事だったり、この世のあらゆるところで繰り広げられている活動のように感じられ、そのスケール感がマクロなのかミクロなのか、捉えどころがありません。これは制作技術に素養のある人だったら、もっと面白いんでしょうね。 膨大なプロセスの創案、工程の技術的マネージメント、制作過程の尋常でない作業量など解らないなりに想像してみても、「宇宙の創造」規模のような気がします。作者の制作意図を読み取ろうとして観るのは難解なのですが、その哲学が可視化されておるので、単にスクリーンを観ているだけでも充分に楽しめるし、惹き込まれます。その最小単位としての図案を見ると実に味わいがあって、そのギャップにも心がざわめきました。





あと、これはスーパーデラックスでのプレゼンで観たのですが、
エンターテインメント部門新人賞
group_inou 「EYE」
ミュージックビデオ(3分32秒)
橋本 麦/ノガミ カツキ [日本]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/entertainment/group_inou-eye

インターネットの世界に無数に落ちている画像、その最たるものであるGoogle Street Viewから丹念に世界中の画像をピックアップし、繋ぎ合わせ、仮想現実の世界をひたすら移動していくというもの。誰しもが簡単にアクセスできるものを素材にしていることから、オープンソースとした事を知った上で鑑賞すると、作品自体により自由な広がりを感じられます。フォトグラフ(静止画)の分野でも、Doug RickardのA New American Picture ( http://www.dougrickard.com/a-new-american-picture/) など、ストリート・ビューから切り取って来た世界のどこかで実際に存在した場面の画像で自分の世界を構築し、作品としているようなムーヴメントがありますが、この作品は映像化されている事で、より迫力と臨場感が増しているような気がします。これはgroup_inou の「EYE」という楽曲のPVとして制作されたもので、誰でもYou Tubeとかで鑑賞することが出来ます。





そしてこれは、個人的な思い出の中の琴線に触れ、関心を持った作品なのですが、
アート部門大賞
50 . Shades of Grey
グラフィックアート
CHUNG Waiching Bryan [英国]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/art/50-shades-of-grey

学生時代、誰も望まないのに必修科目となっていたFORTRANによるプログラミングの授業に苦しめられた経験があり、見た瞬間、もう過去の前世紀の遺物と化したような古臭いコンピューター言語が、こうしてアート部門の大賞を受賞しているのを見ると、少なからず、強制的に学習させられた遠い昔の経験が示す意味を考えたりしてしまいます。コンピューターに侮辱され、演習レポートを突き返してくる担当教授を逆恨みしてボロカスに言っていた、あの頃。 今、前時代的になることへの恐れを抱くFORTRANを前に、今ではそれよりは遥かに高度なテクノロジーを日常的に、直感的に使いこなしている自分に 優越感を覚えたりしました。(全く作品の持つ意味とは関係のないところでのハナシだとは思いますが・・・。)
Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207155939475268






最後に、
アート部門優秀賞
(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合
写真、ウェブ、映像、書籍
長谷川 愛 [日本]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/art/im-possible-baby-case-01-asako-moriga
何だかとてもハッとさせられる作品でした。実在の同性愛カップルの遺伝子情報を用いて、両者の子供たちの考えられ得る姿を創りだし、家族写真にしたもの。芸術的アプローチといえども、これが遺伝子解析プログラムを用いてのシミュレーション(模擬実験)なのだとすれば、科学において実験とは何かを実現するためのプロセスであり、何を最終形としているのかを考えると、ちょっと空恐ろしい気がしてきます。しかしながら、その作品の中にいるその実在の同性愛カップルと架空の子供たちの様子はいかにも幸せそうで、そのギャップが何かを問題提起している感があります。フィクションとノンフィクションの境界を勇気をもって具体化した、社会派の作品であることと、この架空の家族の満ち足りた表情が何とも言えない気持ちを呼び起こします。






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by sanaegogo | 2016-02-12 00:01 | art | Comments(0)
五百羅漢が 鬼才村上隆によって現代に蘇る | 村上隆の五百羅漢図展

村上隆の五百羅漢図展
2015年10月31日(土)― 2016年3月6日(日)
森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/index.html

この五百羅漢図展、2015年の夏、ご縁があってるるぶ.comに原稿を書かせていただいたのですが、今日やっと、観に行く機会を得て行って来ました。展覧会の概要については、こちらでまとめさせていただいてますので、ご一読くださいませ。
http://www.rurubu.com/season/autumn/art/column.aspx
「五百羅漢が 鬼才村上隆によって現代に蘇る」と題して書かせていた立たのですが、全長100mにもおよぶ現代に蘇った五百羅漢が繰り広げる白虎、青龍、玄武、朱雀と続くビビッドな仏教世界はまさに圧巻でしたっ!! 村上展らしく、撮影OK、SNSにアップOKと言う事で写真に収めようとしたのですが、これはそれではつまらないな、と思い、拙い動画で撮って参りましたし、そうした人も多かったのではないかな、と思います。



スーパーフラットの提唱者である村上隆が実は芸大の日本画科の出身で、日本で初めて日本画の分野で博士号を取得したというのはご存知の方も多いと思いますが、日本画の分野のひとつの仏画で用いられるモチーフが登場するという事以外、メディアも表現方法も何もかも、所謂日本画とは一線を画していて、狩野派とか、土佐派とか、琳派とか、(近代の流派は良く解らないのですが)、そんな風に、村上派を確立した創始者とその地位を確固たるものにした記念すべきものになったのではないでしょうか。 これほどの大規模展示は、規模だけで語っても、そうそう実現するものではないような気がします。
村上隆について、あの作風を見て、あれがアートとか芸術とかいう類のものなのだろうか、と感じる人も多いかと思います。それは、ピカソのキュビズムの画を見て、「あれなら自分も描ける」と思うメンタリティーと同じのような気がします。 描かれているモチーフの中にはDOBのようないかにもキャラクターっぽいものも含まれてはいますが、それを埋めている色彩の乗せ方、配色、レイアウト、構成、どれをとっても唸るほど精緻でかつ感覚的、なようでいて実はかなり計算しているのかもと思わせる匠な要素が満載です。 一度でも絵筆を取って絵画なり、イラストなりを制作した経験がある人なら、村上隆という人の溢れる才能のようなものを、そこに見て取る事が出来ると思います。 これは、好きとか嫌いとかの話ではなく、確固たる確立された芸術家としての技量なのだと思います。


《達磨大師》 2007年
アクリル、プラチナ箔、カンバス、板にマウント 1601×3510×50mm(六曲) 個人蔵
Courtesy Blum & Poe, Los Angeles
(これって、私が初めて村上隆をきちんと芸術家なのだ、と認識した達磨大師。)


そして、縦横無尽のごとく繰り広げられる独特の仏教世界はどんだけの想像力の広がりがあれば描けるんだろうかと、その創出するエネルギーの大きさはものすごいものだな、と感じた訳です。まあここで、「あれって沢山の学生使って描いたんでしょ」という意見も出そうですが、実は第3者、人の手を使ってなお、完璧に仕上げるのは、全て自分でやるのより遥かに難しいと、様々な分野で経験したことのある人は、それに気が付くと思います。 「村上さま ご指示どおり」とか書かれた指示書というか、設計図みたいなものが沢山展示されていましたが、それも興味深く拝見してきました。 とにかく、大勢の人の手を使って仕上げられているのに、細部に渡って適当にされている箇所が全くないのは圧巻です。 なぜ細部を写真に撮って来なかったのか、今となっては悔やまれますが、マーブル模様のように仕上げられたその画面の色彩はとにかく美しかったのです。

村上隆のファンの人はもちろん、懐疑的な人でも、ここまでの大作を描き上げる環境が整って、これだけのものが展示できる場があって、そんなものを観られる機会もそうそうないと思うので、是非その眼で観てみたらいいんじゃないかな、と思います。




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by sanaegogo | 2016-02-12 00:00 | art | Comments(0)
天空の渚


天空の渚
野町和嘉
Gallery 916
2016.1.15 – 2.14
http://gallery916.com/exhibition/theshoreofthefirmament/


「写真が私たちに与えてくれた楽しみの一つに、見たことのない世界との出合いがある。遠く離れた場所にどんな風景が広がっているのか、そこでどのような暮らしが営まれているかを写真は正確に描写し、私たちに届けてくれる。」
と、この展示に寄せたForewordでタカザワケンジさんも記しています。
ナショナル・ジオグラフィックやマグナム・フォトの写真にあるようないわゆるジャーナリズムにのっとった写真は、時として発するエネルギーが私にとって強すぎて、まさに「写真の力」みたいなインパクトを受け留めきれない時がままあるのですが、野町さんのこれを観に行きたいと思った動機のひとつに、撮影地が中南米のメキシコ、ボリビア、チリ、アルゼンチンを巡る旅だったというのがあります。
昔観た映画で、「The Motorcycle Diaries」というのがあって、若き日のエルネスト・チェ・ゲバラがアルゼンチンからチリ、ペルーと旅をするストーリーなのですが、その映画に感化されていて、この写真展にその世界観を感じられるかしら、と思ったからです。まあ、それは私の早とちりで、ロードムービー的な構成ではなかったのですが、内容は充分に素晴らしいものでした。
南米やラ米の持つあの独特の情感が巨大とも言える写真の中から滲み出ていました。特にやはり、難破船を捉えたあのシリーズは、頑強な巨大船が静かに滅びていく時間をも捉えているようで、こんな世界の誰も知らない片隅で朽ちていくその様を目の当たりに出来るのも、また、違った形の「写真の力」とも言えるのかも知れません。野町さんの写真には、思考が事実だけで埋め尽くされてしまうような、見せつけられる「提示」はなく、どこか余白があり、そこに情緒めいたものを感じる事が出来て、自分の中の内なる旅みたいなものとオーバーラップさせることを許容してくれるように感じました。それは偏に風景写真が中心の構成だったからと言えるとは思いますが。



朽ちていく難破船は、火災にあって座礁して放置されたものだそうです。
どんよりよした空とあり得ない場所に佇む船の記憶。ドラマチックでセンチメンタル。




一番好きなシリーズ。
こんな光景をこの眼で見たい、と思いました。
ここに佇んでいる自分の姿を想像しました。




南米、ラ米によく見られる精緻な彫り物の装飾を施した教会の天井。
隅々まで埋め尽くされたキリスト教世界。


同一のフォーマットが淡々と、しかも1枚1枚が圧巻で、それは、あの916の空間にとてもフィットしていたと思います。大きくプリントしたのは、 EOS 5Ds 約5060万画素とタイアップした商業的な側面もありましたが、細部にわたるその再現力、描画力は素晴らしいものでした。何枚か写しだされた光景の部分の写真を撮ってみたのですが、まるで、自分がそこに行って自らの眼で見て来た風景のように映し出されていて、自分自身もその風景の中に佇んでいたような錯覚を感じます。視覚体験がそこに行ったかのような体験にすり替わってしまうのです。自分が今よりもっと若く、色々な選択肢を選べるような年代で、男性として生まれていたら巡ってみたかった未踏の地への旅を野町さんはここに届けてくれたのです。



イギリス船籍
1889年アイルランド建造
Load Lonsdale号

1909年にフォークランド諸島にて火災の後
チリ・マゼラン海峡 ブンタ・アレナス海岸に放棄された




パタゴニアの風景。
いつかは訪れてみたいけど、叶うのかな。




高地の南米にある水辺の写真も多くありました。




天空にある渚、です。



Facebook: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207073589656574
会場の風景もアップしてあります。
https://www.facebook.com/sanaegogo/videos/10207080054858200/



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by sanaegogo | 2016-01-31 00:00 | art | Comments(0)