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立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう






translation / performance|川久保ジョイ
[立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう/Touch a girl, code of art,
history and a lie through the show]

2015年4月25日(土)19:30
http://blanclass.com/japanese/archives/20150425/



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横浜のちょっと外れにあるBlanClassで行われたちょっと変わったイベントに行って来ました。 川久保ジョイとペドロ・イノウエが2人で行うトーク・パフォーマンスで、ペドロが英語による口述での物語りをして、ジョイがそれを通訳したり、PCのプロジェクションで翻訳したりしてオーディエンスに伝えていきます。ペドロは日本語が話せないので英語で物語りをします。英語が解らないオーディエンスはジョイの伝える日本語の訳出だけが頼りで、その場のコミュニケーションの精度は全てジョイの通訳にかかっています。滔々と自分についてのストーリーを語るペドロの話には虚構やファンタジーのような昔話が入り混じって来て、「おや?」と思うような展開になって来ます。それはジョイによって故意に、あるいはおざなりさから発せられたもののように感じられ、ペドロの語る物語のちゃんとした説明なのか?という疑問も湧いてきます。 やがてジョイは増々おざなりになってきて、それでも熱心に耳を傾けるオーディエンスに対し、自分がこの場をコントロール出来ると感じ始めたのか、場を支配しているのは自分であるかのような振る舞いを見せ始めます。声には出さず、タイピングをしてスクリーンの上でオーディエンスに指令を飛ばし、オーディエンスを操り始めます。この場の流れを完全に支配してしまったのです。




ジョイの暴走なのか、ペドロの虚言なのか、
真実を知っているのは話者のペドロでもなく、オーディエンスでもありません
果たしてジョイもペドロの言う事を、言葉の置き換えだけでなく、
その意味を理解していたのか、と考えた時、
もはやもう何が真実なのか・・・・。



とても興味深い内容のパフォーマンスでした。 このパフォーマンスのアイディアの発端は、とある海外のアーティストのトークの時に川久保さん通訳として登壇したそうなんですが、
ちょっと誤訳をいくつかしてしまって、でも(英語を理解する人以外)聴衆の殆どはそれに気が付かず、何事もなかったように話が進んで行ってしまって、両者の介在者になっている自分だけが、この場での事実(真実)をコントロール出来得る存在なのだという事を感じてしまった事による、と言う事をパフォーマンスが一段落した時語っていました。



たまりかねて、自分で自分の話していることを文字にするペドロ


オーディエンスの側にも様々な状況があると思います。 例えば私。 英語は仕事柄使用頻度がまずまず高いのですが、帰国子女でもバイリンガルでもないので、自分の分野の中だったら会話も出来るし、海外旅行に行っても困らないくらいは話せます。 でも、完璧に全ての言葉をピックアップ出来る訳ではないので、未だに私が聞いたペドロの話す内容とジョイの訳した言葉の齟齬が、ジョイの作為なのか私の力量不足なのかが解らない状態で、これは本人と話して確認しておくべきだった、このもやもや感をすっきりさせるために、とちょっと後悔しています。 それは少なからず、自分に対する不信にも繋がっていくような気がして、自分の語学力に自身のない人は、人間不信に陥るか、自信喪失に陥るか、自分の至らなさを確信して落ち込むか、多少なりとも不安定な精神状態に追い込まれます。 もっと解らない人は、ジョイの通訳を鵜呑みにするでしょうし、もっと出来る人はジョイを明確な不信感を持ってその場の胡散臭さを理解することも出来るのでしょう。 ここでは英語という話せる人も多い世界的共通語のような言葉を使用していますが、これがもっとマイナーな言語でそれを理解する人がその場にいなかったら、もはや何が真実なのか誰もジャッジできず、無意味な状況が創りだされていく訳です、とペドロはパフォーマンスの後に語ってました。 異言語間のコミュニケーションにはそんな危うさが常に潜んでいて、同じ現実を共有する事の難しさが常に付きまといます。




流石にスペイン語まで良く解る人はオーディエンスの中にはいなかったのでは?
ジョイは もはや自分で通訳するのではなく、 電子翻訳にその場を委ねたりもします


ここでは誰もが実感しやすい言語というメディア(と言っていいのか?)を媒体としていますが、例えば、色の認識とか。 バナナを見てジョイが「これは黄色」と言ったとします。黄色と言われたから黄色だし、私もバナナは黄色だと思っている。でも、ジョイの見ている黄色が私の見ている黄色と同じだと鵜呑みに出来るのでしょうか。「黄色だ」と言われただけで、自分と同じ黄色を見ていると言う事にはならないと思うと、共有している認識はとても危ういものに感じられて、所詮究極は人は何も共有出来てはいない、などとセンチメンタルな気分にもなってしまいます。 (川久保さんがそのトークでバナナの話をした訳ではなく、あくまでも比喩ですが・・・)
ちょっと話の筋が逸れたような気がするので元に戻すと。外国語の通訳と言う事ではなく、例えば絵画や写真作品を観て。 作家の制作意図や作品の世界観を解説し評するテキストがあります。 それが作者ではなく著名な第3者によって書かれたものなら、そのテキストこそが作品を理解する術となってしまい、作者の意図までもがそのテキストに委ねられてしまうようになります。 これは、没後何年かの後に研究されてきた近代までの大家の作品にありがちな事です。
例えば、新聞の記事や社説も、世界で起こるある事件や史実を通訳のようにあくまでも介在者としての立場で記者は記事に書き、世の中に知らしめます。 もしそこに記者の先入観や私見が入ってしまったとしても、その事実の起こった状況に明るくない一般市民はそれを鵜呑みにするしかないのです。
今日のこのパフォーマンスはあくまでもパーフォーマンス(演技)で、評論家や記者の方々にジョイがここでとったような行為があるとは思いませんが、可能性は排除できるものではないと言うのも事実でしょう。
通訳という行為だけにとどまらず、何かを伝える時に介在者がそこにいれば(介在するものを必要とする状況ならば)その危険性はいつでも付きまといます。
きっとこんな風に考えるのは、私がペドロの言っている事を全て完璧に理解できなくて、疑心暗鬼になっているからだと思います。 そういう意味でも、受け手によってこのパフォーマンスで考えるところは千者万別だとなんだと思います。あの場で起こった事(タネ明かしの前)の認識も千者万別と言う事になるのでしょう。(私の場合は、後半ジョイのオーディエンスをコントロールし始める暴走行為は、極端な可能性の事例提示という事で認識されて、そこに危機感や違和感はあまり感じなかったのです。) 「現実の認識の共有」という事からは飛躍しすぎなのかも知れませんが、「共感する」という事は案外容易く出来るのかも知れないけど、「認識の共有」って、ダイレクトに出来ない場合も多くて、そういう時はとても危ういものを孕んでいるんだなぁ、とか、考えてしまいました。 そして、その「認識の共有」のための努力というか、手続きというか、そういうもの(この日は通訳という形で表現されていたと思います)の存在感を改めて感じた、そんな次第です。


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by sanaegogo | 2015-04-25 00:00 | activity | Comments(0)