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Chandigarh @ CoSTUME NATIONAL│LAB
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青山のコスチューム ナショナルで開催されていた ホンマさんの久々の(?) 写真展『Chandigarh』がとても良く、余韻を残しています。 インド北部のパンジャブ州に位置するチャンディーガルという街で撮影されたもので、ホンマさんでインドというのも意外だったのですが、その撮影された光景は、ガンジス川で沐浴をする雑踏とかではなく、畦道で牛を牽く人々というのでもなく、法服を身にまとったインテリジェンス漂う知識人達というのがまたとても意外でした。これは2本あるうちの映像作品。もう1本はバスターミナルを行き交うバスや利用者のいかにもインドらしい活気のある様子を朝から晩まで記録したものです。



写真展(映像作品もあったので、作品展と呼ぶ方が相応しい?)の全貌はこうです。入り口を入って左手の展示室には、高い目線で窓からの眺望を写した写真。これはこの街の合同庁舎から撮影されたものだそうです。視線の先にはこの街の象徴的な建造物である高等裁判所(ハイコート)の建物があります。そしてその両サイドには、そのハイコートを再び高い位置から捉えたもの。近代的な建築なのだけど、鈍くカラフルな色彩で塗り分けられていて、建物としては興味をそそられる雰囲気なのだけど、どこかインド的ではないような雰囲気。その不思議な違和感にますます何かそそられるものを感じます。両サイドのその写真にはパトランプを付けた車両や制服や法服の人々が日差しを避けての立ち話や何処かに移動していく様が見て取れて、ここが司法関係の建物だということが判ります。







もう一つの部屋では映像作品が上映されていて、ひとつはその鈍くカラフルな建物の敷地内で法服の人々が休み時間に談笑しながら、あるいは足早に行き交っている情景をスローモーションのようなゆっくりとしたスピードで写しだされています。画面のスローな動きとは対照的に流れているのは少し速いテンポで激しい曲調のインドの音楽。(ポップスなのか古典なのかはちょっと判らない。) もうひとつは街のバスターミナルを行き交う生活者達の世話しない様子。これはタイムラプスの映像のように撮影されていて、目まぐるしく動き回る生活者達を捉えながら、記録されていて、すこしぎくしゃくとした動きの映像は街の喧騒にとても良く合っていました。部屋の中央に置かれたソファーで左右に入れ替わりに映像が始まるのですが、映像は唐突に終わり、もう一方が唐突に始まり、また唐突に終わり、そしてもう一方が始まり、それを繰り返しています。

その色彩の効果とインパクトのある音楽の効果もあったのだと思うのですが、ふたつの映像作品のうちひとつめに紹介した司法の建物を捉えた映像を何度も何度も見たくて、ちょっと長居をしてしまったような気がします。レイヤーのように重なり合ったそのカラフルな壁はまるでバレエの舞台袖のように、そこから入れ代わり立ち代わり、その時間、そこに居合わせた人が登場します。法服のたっぷりと使われている黒い布の動きに合わせて揺らめく様が、スローモーションと良く合っています。談笑する顔、厳しい表情、無表情な人までも、その写しだす表情は豊かで、しかも司法関係の公的機関で働いている人々らしく、隙がなく、どことなくオーラのようなものを発していて、どの人にフォーカスしても様になっています。 ホンマさんの作品はいつもそうだと思うのですが、上手く自分の感じたことをぴたりと言い表せないもどかしさがあります。 何の前情報もなくふらっと観に来て、その撮影地がインドだという違和感が気になってはいたのですが、ホンマさん、インド、司法関係のインドらしからぬ建物という私のなかのミスマッチ感を最高に刺激するのがこの映像作品だったのかも知れません。

後でいろいろ読んで知った事ですが、この「チャンディーガル」というインドの都市は、ル・コルビジェが何もない更地の状態から都市計画を行ったコルビジェ建築の代表的事例にもなっている都市なのだそうです。(このことは「チャンディーガル」と聞いただけでコルビジェや建築に詳しい人なら言わずと知れた事なのだと思いますが。) 建設されたのが1950年代で、当時のインドとしては画期的な計画であり、コルビジェらしいモダニズムと機能美を追求した建造物は今でも都市に住む人々に愛着をもって利用されているそうです。レイヤー状に見えた対比の強い色彩の「ブリーズソレイユ」は、存在感を放ち美しく、それこそ言いようのないオーラを放っていました。私がどうにも気になっていたその映像の建物は最初の写真の部屋で遠巻きに撮されていた建物と同じものだったというのも観ていた時には繋がらず、あの違和感の正体のキーワードはコルビジェであり、ホンマさん、インド、インドらしからぬ建物という方程式は、「コルビジェ」によって解かれたようです。




ル・コルビュジエが設計したチャンディーガルにある最高裁判所(ハイコート)
カラフルなブリーズソレイユがそれを見る方向によってレイヤーになっています
ブリーズソレイユ(brise-soleil)とは建築用語で窓や壁の前面に取付けられる日照調整装置をいうそうです。






横から見たブリーズソレイユは、どことなく非現実的な空間に感じられ、舞台装置のようでもあります。







壁の向こうから 道化師や大道芸人とかが現れて 横切って行きそうな雰囲気です。




ホンマさんが何故インドのこの地を撮影地に選んだのかはこれで納得がいきました。そうしてあの作品を振り返ってみると、あの映像は、建物の持つエネルギー、そこで活動をする人たちのエネルギー、(動であっても静であっても)、などを端的で最良な方法で切り取って、持って帰って来たものだろうと感じました。ある種の思い入れで彼の地に赴くも、それと対峙すると過度な感情移入はせずある一定の距離感から観察的な態度を示すようなツンデレな感じがそこにあった気がします。




余談ですが、今回の展示、写真の展示方法はダブルクリップでの壁への直貼りでした。数年前参加したグループ展でその時に出した作品に額装のイメージがなかったのでやはりダブルクリップで引っかけて直貼りをするという暴挙に出ました。設営の時「写真に相当インパクトがないと直貼りは難しいよ。」とグループ展の他の参加者に半ば「やっちゃった!」感で迎えられたのを今でも覚えてますが、やっぱり、直貼りかっこいいですね。


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by sanaegogo | 2015-02-11 00:00 | art | Comments(0)
ホンマタカシ写真展「北欧建築とか。」 @ BoConcept
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「ニュー・ドキュメンタリー」を観た時は自分なりに好き勝手にReviewを書いていたものですが、何となくですが躊躇されるような感じもあるので、感想文的なもので記録に留めておこうかと思っています。
デンマークのファニチャーストアBoConcept(ボーコンセプト)で開催されているホンマタカシ写真展「北欧建築とか。」を観てきました。これはホンマタカシ氏がカーサ ブルータスの北欧建築の特集のために2002年に撮影されたもので、撮影されているのはアルネ・ヤコブセン、マッティ・スーロネン、フィン・ユール、エリック・グンナー・アスプルントそれにアルヴァ・アアルトなどが手掛けた建築で、北欧家具のBoConceptらしく建築と言っても内容は私邸や小学校など家具の配置やその住まい方が伝わってくるような生活に寄り添った写真を中心に展示されています。クライマックスやピークを持たずフラット(均一かつ均質)で淡々としたホンマさんの撮影する写真のスタイルは、撮影する人とされる対象の独特の距離感を醸しだしていて、その雰囲気は、shayで内気ではあるけれどちょっと遠巻きに暖かい視線を遣ってくるような、穏やかで心優しい、そしてちょっと人見知り気味な北欧の人々の雰囲気にとても似合っているような気がします。 (北欧の人々への勝手なイメージですが・・・。)



お店に入るとまず目につくのが、アルヴァ・アアルトの自邸の写真。(この写真、好きです。)そこからずっと各セクション毎にホンマさんの写真が展示してあります。 最初は1周ただぐるっと観てみましたが、ふと見ると、店内に居合わせた女性がなにか目録のようなペーパーを持っている様子。 『それ、どこでもらったんですか?』と訊ねると、「そこにありますよ。」と。この作品マップはお店を入った直ぐそこにあって、これによると私は逆行していたらしいです。ホンマさんが一発目に据えた写真は、ヤコブセンのモスキートチェアでした。(ホンマさんが順番を決めたかどうかは定かではないですが・・・・。) スワンチェアやエッグチェアは見た事がありましたが、モスキートなんてのもあったんですね。 1957年にムンケゴー小学校を設計した時にヤコブセン自らデザインした児童達のための家具だそうです。 ミッドセンチュユリー後期ですね。 いい時代です。 このムンケゴー小学校の講堂(?)のようなところに無造作にこのモスキートチェアが置きっ放しにされた写真もありましたが、これも眼を惹きました。



以前ワークショップ「RRREECCONNSSSTRUCCTT」(番外編)に参加した時に、1枚選んで切り刻ませていただいた写真もありました。 これは、「家具の彫刻家」と称されたフィン・ユールの自邸だったようです。その時、がさっと出された写真の束から、(ミッドセンチュリー好きである事もありますが)ひと際目を惹いたので選んだのを覚えています。開口部が大きい窓から弱い光がやんわりと差し込んでいて、表は寒いけどおうちの中は温かい、と言う北欧の住まいの感じがとてもよく伝わってきたのです。
因みに、今回のタイトル「北欧建築とか。」ですが、この"とか。"が表しているのは、そこにはきのこの写真がそそっと紛れて展示されているところから来ているらしいのですが、(きのこもまたずっと追いかけているシリーズのひとつですよね。) この作品マップにはそのきのこの写真の位置までは落とし込まれてていません。 きのこ写真の在り処は十数点の作品を観ていくと、『あれ、こんな所に。』『あら、ここにも。』とテレビボードの上やディスプレイの片隅にこそっと置いてあります。それはまるで、森の中でのきのこ狩りさながら、きのこが何所にあるか探しながら観て歩く楽しみもありました。 (擬似きのこ狩り体験) "とか。"についてこんな仕掛けは如何にもホンマさんらしいような。

ホンマタカシ写真展「北欧建築とか。」
2012年10月30日(火)~11月30日(金) 11:00〜20:00
ボーコンセプト南青山店
Admission Free

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by sanaegogo | 2012-11-21 00:00 | art | Comments(0)
RRREECCONNSSSTRUCCTT


今日、川内倫子さんのワークショップの第1回目があり、その受付で先日のホンマタカシさんの「RRREECCONNSSSTRUCCTT」で預けていた作品を受け取れる事になっていたので、(ホントは各自取りに来てください、だったんだけど、ワタシはこの日に来る事になっていたので、わがままを言ってそれまで預かってもらっていたのだ。) ピックアップして参りました。 その時の作品です。
これは、ホンマタカシの写真を各自好きなようにホンマさんに切り刻んでもらって、並べ替えて再構成すると言うもの。 ワタシはこの北欧風のスタイリッシュな部屋の写真を選んで、マチスやピカソに描かれているあり得ない感じの部屋に再構成してみたかったのですが、あまり大胆には出来なかったかな・・・・。 その時に既に終了した回の他の作品例とかも見せてもらったのですが、傾向はいろいろとあったようです。 そんな中でも多く眼についたのは、テクスチャーが細かいビルや街の写真をピースの濃淡とかを使って、形もでこぼこにしたり、短冊状のものを編み込んだりもして、全く新しい違ったテクスチャーに変える、と言ったものが多かったような気がしましたが、ワタシは画面は四角いのを保ちつつ、パーツもある程度原型を確認できるほど保ちつつ、がらがらぽんしたかったので、そんな感じとはある種見た目自体も違っているし、それ(もとの写真が見て取れる事)がつまらないと言えばそう言えるのかも知れないし、ま、ホンマさんの評価の程は分かりませんが、こんな感じのものを作ってみました。 どの写真を選ぶか、それをどう切ってもらうか、そのピースをどう構成させるか、そんな作業は加齢によって(かな?)硬くなった感受性にとても良い刺激になったし、試行錯誤は楽しいものでもありました。 これって、写真を選ぶ時の最初の段階で、ある程度漠然と完成形が見えてるんですよね、きっと。それをどう意識にのぼらせて形にしていくか、その作業なんですね。 ばらばらになったピースの山は決してもとの写真ではなくて、そこからまた新しいものを生み出そうとすれば生み出せるもんなんです。なので、これは、すでに(もはや)ホンマタカシの写真ではなくて、ワタシの拙い作品になってしまったと言えるのでしょう。自分の可愛い作品を好き勝手に弄繰り回す参加者たちのそんな作業を見ているホンマさんは、ある意味Challengingでもあり、自虐的でもあるような・・・。(笑)
今年は、すっかり仕事脳になってしまった頭をアーティスト脳にほぐしていく、と言ったような事が楽しめているような気がします。Creativityから受ける刺激、大切ですね。

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by sanaegogo | 2012-08-04 00:00 | activity | Comments(1)
よい子のための写真教室 番外編
(ホントはもうあんまり書いちゃいけないのかも知れないけど・・・・) この日は『よい子のための写真教室』の補講があったので、ちょいとオブザーバーで参加してきました。もともと予定されていたうちの1回がホンマさんの出張でNGになったので、順延になった回に都合が悪かった受講生のために行われた回でしたが、苦楽を共にした(?)1班の面々のうち2名の発表も見届けたかったし、最後まで残った全員(脱落した人もいました)の最終回の発表も見たかったので、オブザーバー参加を希望してたんですが、そんな風に思う人は案外多かったようで、ホンマさんから傍聴OKが出たばかりか、先日リムアートで行われた「RRREECCONNSSSTRUCCTT」と言うイベントのちっちゃい版を出席者・傍聴者のために開催してくれると言う何とも粋な計らいもあったりして・・・・。 この「RRREECCONNSSSTRUCCTT」は、都合が合わず参加出来なかったんですが、『ホンマさん自身がオリジナルの写真印画紙を、縦もしくは横の複数の短冊状にカットしてバラバラにして、解体された写真から一枚の新しい写真を「再構築」する』というイベントで、『分割されたイメージの中から好きな断片をいくつか選び、自分で並び順番を考え、自由につなぎあわせて世界にたった一枚のオリジナルの写真を制作する』というもの。参加費は、確か1枚5,000円、2枚で9,500円でしたが、この日は無料。何と言うことでしょう! しかも補講を傍聴したいと希望した後からご本人のオファーでこの番外編が実現したので、全く予想もしていなく、これはCMではないですが、お金では買えない価値がある。Priceless なプレミアイベントとなった気がします。 ホンチャンのイベントの時はファンの子は、写真がモッタイナサ過ぎて刻む事が出来ない人も現れたようです。 ワタシは北欧風の素敵なお部屋の写真を、マチス、ピカソをイメージして再構築してみました。 写真は撮影のために預けてきてしまったので、まだ手許には届いていませんが、戻ってきたらそれもご披露したいと思います。

そんな訳で、今回は、その後の呑み会(打ち上げ?)のハナシ。 何度目かの座席シャッフルがあった時、ホンマさんのお隣に座ったのですが、それまで、何人かの皆さんにみてもらってた定期券サイズの写真の出力を、ホンマさんにみてもらう機会がありました。 とある目的でPortfolioをつくろうと思っていて、並び順を考えるために小さいサイズを持ち歩いていたのですが、実はちょっとホンマさんにみてもらう写真の系統ではなかったのは事実。でもこの際だから、と思って勇気を持って、「突然ですけど、ワタシ、写真持ってるんです。みてくださいっ!」と。ホンマさんは、「おっとー!すごいタイミングで出してきたね。」と笑っていましたが、ざっとみてくれて、感想は、「前から写真は撮ってたの?」と言う言葉を皮切りにあれやこれやと。逐一記すのも無粋でどうかと思うので、割愛しましすが、色々撮ってきた中で、今回まとめようと思っていた自分の写真の傾向が全くホンマイズムとは違うものであったこともありますが、「(前略)写真に写る範囲は機械によってコントロールされてしまうものだから、その対象以外にも意図せず、予期せず写りこんでしまったものとかに面白さが含まれているのだと思う。だから、トリミングしてそれを排除してしまうのではなく、トリミングによってそんな余計なところに溜まった面白さがクローズアップされるのが面白いから。」と言ったようなアドバイスをいただきました。ワタシはまだとにかく色々なものを色んな風に撮っている段階だし、写真家ではWSでは『古典』みたいな扱いをされていたブレッソンもやっぱり好きだ、と言う事も正直に告白したし、ホンマさんウケ狙いで迎合したような中途半端な写真をみてもらうより、こんな写真も撮ってますと、対極にあるような今回の写真達をみせる事になったのも、ある種その時の運命と言うか、とにかく、なるようになれ的にお話をさせていただいたのは良かったと思ってます。そんな訳でホンマさんに会える、こんな風に呑めるのはもうこれで最後かも知れませんが、秋の繁忙期を前に、今年イチオシのエピソードになった事は間違いありません。

そんな訳で、portfolio こちらにアップロードしてみました。明日あたり最後のプリントが届いて完成です! 今回はこんな感じ。 次回はまた違う感じになると思いますが・・・・。(様々なものに影響されつつ 少しずつ変化してるから。)
Slideshow: http://www.flickr.com/photos/30000710@N07/sets/72157630387834582/show/



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by sanaegogo | 2012-06-30 00:00 | activity | Comments(2)
よい子のための写真教室 vol.5
ソフィ・カル(Spphie Calle)というアーティストがいます。写真とテキストを組合わせて私的で個人的なエピソードを公に暴露し、自分に纏わる事実を作品として制作して発表しています。純然たる写真家というのでは勿論ないし、テキストを取入れた写真のアートディレクターと言うのでもなく、どちらかと言うと、『私小説家』それも谷崎潤一郎的なものを感じるのは私だけでしょうか。(もしくは、センスの良い露出狂でしょうか。) 自分の日常のみならず、他人の日々の行動までも暴露し、作品として構成します。そこにはドキュメンタリー作品に見られるようなある種の問題提起や啓蒙のようなものは一切ありません。見る人が見れば、『ふうん・・・・。』で終わってしまうような状況の羅列を、意味あり気な(意味のある)作品にしているのは、偏に彼女のプレゼンテーション能力と作品構成の秀でた力量です。"感想『ふうん。』"をそれだけで終わらせずに、全く関係のない第3者に関係のないものと思わせず、その世界に観るものを引き込んでいるのは、ただただ作品構成の力と言えます。ソフィ・カルは写真の作品に多くテキストを用いる事でも知られていますが、テキストがあるから作品の説明が成されているという事ではありません。この場合のテキストは作品の伝わらない部分の補足説明では決してないのです。ソフィ・カルにとっての写真とテキストはどちらが正でどちらが副というのでもなく、テキストは写真と言うある意味客観的な事実を観る人が自分の事のように感じられる手助けをしていますし、写真はテキストで著された自分と関係ない誰かの私的な出来事を体験できる視覚的入口として働いていて、相互に作用していると言えるようです。
と、まぁ、くどくどと言うよりは、ソフィ・カルと言う人。自分だけの私的で個人的なエピソードを告白し暴露する行為を作品としたり、荒唐無稽なゲーム感覚で全くの第3者を勝手に作品の素材としたり、時には人々がぎょっとするような事をやっておきながら、抒情詩的な世界を描き出すエキセントリックなアーティストであり私小説家、と言ったところでしょうか。 それがどうして作品として成り立つのか、それは偏に、他の人にはどうでもいいような心情に観る人をぐっと引き寄せる構成力やそれを直接的に説明をすることなしに的確につたえるプレゼンテーション能力なのではないでしょうか。

≪盲目の人々≫
生れつき目の見えない人たちに「これまでに見たものの中で一番美しいものは何ですか?」と言う質問をし、回答を得た人の顔写真とその人の選んだ"一番美しいもの"についてのその人コメント、それに誰でも撮れるような写真でそれをビジュアル化したものを並べて展示して、『見る』こととは、『美を感じる』こととは何かを1年間にわたるプロセスの後に示したもの。見る、と言う行為は体の機能を超えて個人の中に主観的に存在するものなのだ、美と言う概念はどんな状況でも持ち得るものなのだ、と言う事を示していますが、その盲人の「見た美しいもの」がどのようなものであって、カルの示したもの通りであるかどうかは確認不可能で、誰も知る由もありません。その完全に語りつくさない部分にカルの作品の余韻のようなものが充分に感じ取れます。
≪限局性激痛≫
ソフィ・カルが政府奨学金を得て日本に滞在した92日間を、当時一緒に暮らしていた恋人との再会を心待ちにしつつも捨て去られてしまうに至るカウントダウンを綴ったもの。私小説家的な作品。また、失恋の痛手を拭う為に他人の不幸な話とそれを聞いて傷を癒していく過程のソフィのモノローグのようなテキストにより、ソフィの思い出の中に取り込まれ、まるで自身の体験をなぞるかのように感じられます。
≪ヴェネツィア組曲≫
長く無目的な放浪の旅から帰り、他人がどのような生活をしているか興味を持ち始めたソフィ・カルは、街で見かけた見知らぬ男を尾行し行動を記録し始めます。その男がヴェニスに行く事を知り、自分もその男をつけてヴェニスに行くことにします。そこでホテルの部屋は宿泊客の性格や性質を最もよく表している事に気づき、ヴェニスのホテルでメイドとして働く事にします。メイドとして働きながら宿泊客の部屋の様子や荷物などを撮影し"Suite Venitienne"として発表し反響を呼びました。
≪手帳の男≫
リベラシオン誌に掲載。偶然に拾ったアドレス帖から、そこに記されている人全員にインタビューを行い、アドレス帖の持ち主である「ピエールD」の人物像を浮び上がらせる行為を発表しました。 手帳の持ち主からは掲載後講義の文書が届いたようです。
≪ダブル・ゲーム≫
複雑な仕組みのゲームのような作品。ソフィ・カルをモデルにして描かれた小説の中の人物の奇抜な日々の生き方を、ソフィ自身が「作られたキャラクター」としてその奇抜な生活をなぞって行くと言うもの。その中の「色彩ダイエット」では1週間の食事で決められた色を順番に食べて、週末には6人の招待客を呼び自分を含め1週間7色全色のメニューを使ってパーティーを開きます。 また、もうひとつの取り組みとしては、アルファベットの1文字を選び、その文字で始まる単語に沿った行動を行ったりしています。自分ではコントロール出来ない偶然の作り出したルール、規則性と言うようなものに身を委ねて、行動を制限し、窮屈にし、雁字搦めにされてルールに「服従」する事で相反する要素である自己的なものが浮び上がって来ていると言えます。
≪探偵≫
自分の母親に依頼し探偵をやとってもらい、自分を尾行し追跡し、写真に収めさせ、それを作品として発表しました。
≪Last Seen≫
美術館から盗まれた美術品を題材として、その作品を偲んで思い出をキュレーターやガードマンなどの関係者と一緒に再構築して綴ったもの。これは、4年間シリーズとして続きました。

順不同ではありますが、彼女のこれまでの作品を列挙してみました。年代は順不同、個展であったり写真集であったりアウトプットの方法もばらばらで整理されていませんが、ざっと一読すると、彼女は、一言では語りつくせない、様々な要素や側面を孕んだ不思議な立ち居地でやってきている事が判ります。とにかく奇想天外な発想と行動力を持ったアーティストなのです。

・・・・と言う訳で、よい子の写真教室です。今回もポストモダン。前回は短絡的なものを出して踏んではいけない地雷のようなものが理解できたので、今回はじっくりと最終形にいたるまでのプロセスを練ってカタチにしたつもりです。今回は「プロファイリング」を試みてみました。自分ではそれと知らずに求めに応じて(撮った)出した写真で、どれだけその人物の人となりが見えてくるものなのか。 簡単な4つのお題を出して写真を4枚提出してもらって、その後、(敢えてその後)、その4つがそれぞれ示していたものが自分の中でどの位のパーセンテージを占めているか、合計が100になるように配分するようお願いしました。写真そのものがその質問に結びつかないようにするため、敢えて写真の提出完了を待って、次の段階で質問をしています。 100%を割り振ってもらう項目としては、①自分自身のこと、②仕事のこと、③健康管理や食生活のこと、④自分の好きなものや世界のこと、の4つでそれぞれの写真と対応しています。それを各パーセンテージに応じて短冊にして、試しに並べてみました。本当は、今回は前回のブラッシュアップと言う回だったのですが、前回のものがあまり良くなかった(私のような)受講者は、こうしてガラガラポンで変えてきた人も多く、するともう泣いても笑っても今回が最後なので、私のこの回のように「試みに・・・」なんてのはありえない感じなのですが・・・・。 あまり奇抜な発想もなく自分のやり易いところから手繰り寄せて行くと良いのかな、と前回感じ、学生の頃心理学を専攻していた事を思い出し(笑)、そのプロセスを取り入れて写真を素材にして何か顕れて来ないかな、と考えたわけです。しかし。素材が集まらなかったら元も子もないと思ったので、1週間で、頼んだ先にやってもらえるように簡単なお題で簡単な質問にしてしまったので、結果はあまりぱっとしないかな、と言うのは懸念されていた事なのです。しかし、しかしながら。 プレゼンでしどろもどろになって纏まりのない事を言ってしまわないように、ある程度言うことの骨子もまとめて臨んだりしたので、結果、内容がぱっとしない割には、さっさとスルーと言うのは免れて、それで、参考例としてホンマ先生から出てきたのが、このソフィ・カルだった訳です。 これを記すにあたり、ネット中ではありますが、色々彼女の取組みを見ると少なからず心理学的要素が含まれていると思ったので、私のやった事は彼女と近からず遠からずだったのかも知れません。ただ観る人の関心を得るところは完全に欠如はしてる感じですが。前回から今回まで、作業できる猶予は約10日間。その間に提出依頼と質問と2段階のプロセスを踏んで、纏めなければならなかったので、質問数が少なく簡単にせざるを得なかったので、もっと意地悪だったり、抽象的な質問だったり、困らせるようなものだったり、心の裏の部分などを垣間見れる質問だったらもっと面白い内容になったかも知れません。と、自分でも言いましたが、ホンマ先生にもそれは指摘されました。(多分ソフィのように犯罪ぎりぎりまで出来れば面白いのだと思います。)不思議な事に、それまで全然思いもしなかった事が、不思議とホンマ先生を前にして発表するあの段になるとすっと降りてくる時があるのです。 「抽象的な質問にしたらよかった」、と言うのも、あの場で突然気がついた事で、多分そうした方がよかったんだと思われます。あと、何となく自分で漠然と思っていたこと、人物はいらなかったかな。これも、講評を得てはっきりしました。『人物を最初に示して、どれがどれか当てるとか、でもいいんじゃないのかな。』と言われ、そう来たか!と。 それは実はアイディアの中にあったのだけど、この時はそのゲーム感覚で陳腐になりそうな気がして、敢えて排除した案だったのです。ソフィのようなゲーム感覚も「アリ」だった訳です。その時に何がハマるかはその時になってみないと解らない。 ハマれば爽快感と達成感のようなものを感じることが出来るけど、ハマらなかった時のあの穴があったら入りたい気持ちったらない。目も当てられない感じです。写真を集めたのはいいけど、全くそれらのサンプルに関心がない人をどうそこに引き寄せるか。その工夫が一番難しい点でした。そしてホンマ先生に指摘された『質問を作るのは、案外難しく、センスが問われるもの。』として例に挙がったのがこのソフィ・カルの≪盲目の人々≫だったわけです。ただ今回は、段階を踏んで取り組んだ事が判ってもらえたようで、内容がぱっとしない割には色々講評してもらえました。
偶然を排除した規則の中から生まれる偶然性とそれが作り出す規則性。禅問答のようですが、ただ写真を撮影するだけの次に与えるプロセス。そんなものをこのワークショップを通じて体感しました。 写真の良し悪しは個人の好み、それはそれであるのですが、誰がいつ、どういう心境で見ても良いと評価できる理論的観点もある。と言う事をホンマ先生は普及させたいのだ、と感じられる毎回でした。作品自体に何か裏打ちされた意味や規則性を根本にした訴える何かがあれば、その捉え方には観る人のその時の個人的な気分とか心情とかのフィルターで見え方が左右される事はなく、そして、単なる私的な感情の羅列というスパイラルから脱出するのです。それは、写真そのものの力で1枚勝負の絶対価値のような『決定的瞬間』では成し得ないもので、数枚の数点の意味を持った連なりで作られていくような気がします。写真の見せ方はより概念的になって、それを理解するにはカルの作品のようにある程度の説明(予備知識)が必要な場合がありますが、それは決して作品の足りない部分を補うものではなく、見た目の印象だけで写真を見ていく(発表していく)次の時代に入ろうとしている、そんな事をこのワークショップで体感する事ができた気がしています。




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by sanaegogo | 2012-05-27 00:00 | activity | Comments(0)
よい子のための写真教室 vol.4
もはや写真は、単なる『撮影』とか『画を創る』と言う域は脱していて、写真を素材としてた次のカタチ、写真を扱ってのアクションとか取り組みを表現する、そんな風に変容して行っている過渡期と言えるのだと思います。『何を今更』と思う人もいるかも知れませんが、これは単に、したり顔で、知った風に先端を行っているかのようにカッコつけて言いたい訳ではなくて、また、その変容を意識していない人を批判しているとかではなく、単に今更ながらの自分自身の気づきの点を記しているだけの事です。 やっと前々から取り沙汰されているそんな時流を肌で感じる、まさに「実感」、自分が実体験をする機会を得たのです。とりわけデジタル写真の普及と扱いが簡単になったカメラ機能の向上、それを受けたような形で膨らんでいく写真の「共有」に伴って、飽和状態に陥っているんですよね、きっと。その飽和状態、膠着状態を打破しようとしている人もいれば、ぱっと見の変化はないけど、だからこその存在感や安定感で魅せている人もいて、飽和と言う言い方も出来るし、百花繚乱と言う感じもします。またまたある側面からみると、絵画、静止画、動画、CG、デジタル、フィルム、2次元、3次元、造形、インスタレーション、建築など、ジャンルについても、「マルチ」「クロス」などと言われるように、常に複合的な要素があって、その境界線は曖昧なものになってきています。
と、滔々と既に多く語られている事をなぞってしまいましたが、さっきも述べたように、あくまでもこれは今更ながらの個人の実感で、「知ってるつもり」と「体験した」は全然違いますよねー、と言うハナシです。 (体験しても消化出来ていない状態ではありますが・・・・。)
さて、かなり前段が長くなりましたが、そんな訳で、今回は『ポストモダン』の世界に突入いたしました。 文字どうり『近代以降』、まさに『現代』です。 写真を撮影して目的とするだけでなく、方法や手段として用いよう、と言うような課題が出されました。セットアップして撮ったり、撮った写真を加工したり、はたまた自分で撮った写真を用いなくてもOKとか、『毎日の日常を気ままに撮ってます!』などと言う領域とは趣をまるで異にしているし、その領域に果敢に踏み込んでいく事こそがホンマ先生の、このワークショップの真骨頂なのだと思います。個人的には全く踏み入った事のない領域。 そりゃ写真を加工してカードにして友達に贈った事などはある。セットアップとかはとっても関心があるんだけど、未だにチャレンジした事はない。 そんな状態で自分にしてはとてもハードルの高い課題だったのだけど、結果もそれを表わすように惨憺たるものでした。 まあ、どの位惨憺たるものだったのか、ワタシの番(この日は全ての受講生の中でトップバッターでした。) のやり取りの様子は仔細に書くのは控えますが、タカザワさんに至っては一言も発せずワタシの番は終了。慈悲深い哀れみをこめた視線が目に焼きついてます。
自分なりに振り返ると、まず、良くなかったのは『取り組む姿勢』でしょうか。 時間はたっぷりあったのに、何をしようか考えあぐねていて、課題提出のその日中に仕上げて提出したのです。 他の受講生(班員)達からの『見た目』のウケは悪くなかったし、自分でも、小学生だった頃の”8月31日の奇跡” (夏休み最終日の8月31日のLast Minutesに素晴らしい作文や絵とかが仕上がって窮地を脱した事、ありませんか?) が久々にそして再び、などとちょっぴり高揚もしたんですけど。
『他の人のを観て、どう思いますか?』 ホンマ先生は理解不足の受講生には時々そう言う問いかけをする。で、ワタシもその問いかけを受けて、『短絡的だったと思います。』と言うしかなかったです。 この日の発表に欠落しているもの、それを自分なりに考えると、それは、段階を踏んだ手順とかプロセスみたいなものかなーと思ってます。見た目は良かったのかも知れないですが、そこに至るまでの試行錯誤が全くなく(当たり前です。『閃き』と言う威を借りたただの思い付きなんですから・・・・。)、観る人に画面を覗き込ませるような複雑な情報がまるでなくて見たまんま、判りやすいと言えば体裁がよいけど、観る人に意味を考えさせるような訴えかけがない、と言ったところでしょうか。 うすうすはこうなる事を予感してはいたのですが、やっぱり付け焼刃は通用しないんですね。 ホンマ先生にキレイに見透かされてしまって・・・・。反省してます。
発表の順番も相当不運だったと思ってます。順繰りに廻ってはいるのですが、この日はもう廻ってこないだろうと思っていたトップバッターで。1番目に飛び出したのが、全く課題を出した意図を汲んでいないので、ホンマ先生はコメントに窮しているようでした。 『他の人のを見てから、また戻ってきましょう。』と言って、そのままスルーされるかと思ってたら、本当に戻ってきてくれたので、それはそれで気持ち的に助かりました。 その日の流れを作るはずのトップバッター。 既に流れの出来ているところでの自分の順番だったら、駄目なりにもうちょっと食い込めたのかなー、とも思います。
自戒ばかりのレポートですが、提出した課題4枚です。 ポストモダン ― 加工する ―です。

『写真の視覚的なものにもうひとつ何か加えたら立体的になるのではないか、と考えました。自分の撮った写真の中から4枚選び出して、同じ声を付け加えて再撮影しています。歌手、外国人、架空の人それにおじさんです。同じ「オゥッ」でも何となく聞こえ方が違ってきます。PCの中での加工だけではつまらないので、噴出しをひとつ作って使い回して、あえて工作っぽくしました。』(それには理由があって、プロジェクター投影に堪えられるほどフォトショップを使いこなせてないから。あと、実は結構丁寧に再撮影してて、吹き出しにはスポットを当てて明るく浮き出るようにしてます。とほ。)









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by sanaegogo | 2012-05-12 00:00 | activity | Comments(0)
よい子のための写真教室 vol.3
「よい子のための写真教室」3回目に行って来ました。1回目は福島の現場中でしたが最終日だったので、今回は現場中ではあったものの横浜だったので、全回出席が原則のこのワークショップ。綱渡り的に出席できてます。 今回の課題は、「ニューカラー」。これはホンマ先生独特のカテゴリー分けで、1981年に出版された『The new color photography』と言う写真集に由来していて、その写真集には凡庸な風景や何と言うこともないモノを曖昧に狙って撮影した写真が納められています。撮影者の立場や立ち位置をはっきりとさせず、客観的でありながら撮影者独自の視点を顕した写真です。少し混乱します。まず、この「客観的」と言うのと「作者独自」と言うのが矛盾するような気がするし、「どう写真を撮るかというよりもどう世界を見るか」、と言ってもその「見方」はあくまでも客観的なものとされていて、そこに撮影者の主観や意図が入る事は想定していません。あくまでも中立的で無機質な立場で覗かれた世界です。代表的な写真家で言うと、スティーブン・ショア。隅々までピントがあった均一で等価な画面で郊外のニュータウンやスーパーマーケットやレジャーランドのような無機質で味気ない街の風景を『Uncommon Places』と言う本に纏めています。ニューカラー双璧となるもう1人が、ウィリアム・エグルストンです。エグルストンは1976年に初めてMoMAでカラー写真による展覧会を行った写真家でこの人をもってミスター・ニューカラーと言わしめたニューカラー魁の人、先鞭をつけたニューカラーの旗手です。そう言う意味では、ショアの映し出した等価値の世界観はどちらかと言うとニュー・トポグラフィックスの趣を多く含んでいるのだ、と色々整理した今では判ります。でもこの課題を与えられた時、どちらかと言うとショアの写真に物凄く引っ張られてしまいました。ワークショップの中で、ショアか、エグルストンか、ショア的か、エグルストン的か、と言うのが多く語られましたが、多分、多分ですが、ワタシはエグルストンの写真の方が普段の自分のスタイルに近く、これまで撮ってきた写真も断然エグルストンだったんですね。で、逆にショア的なものにとても惹かれて、ワークショップでお題を与えられて、そのために撮影をするのであれば普段の自分でないスタイルで出してみたいな、と漠然と思ったんだと思います。でもエグルストン的視点からはいまひとつ離れることが出来ずにごちゃまぜになってしまった。ニューカラーと言われてまず頭に浮かんだのは、この写真でした。で、まずこれを出した訳です。



前回お題を与えられてもいいのが出てこずに、過去のライブラリーの中から何枚か提出した経緯があるので、これではいかんっ、と思って今回はちゃんとカメラを持ち歩いてWS用に撮影する事にして、その中での1枚目がこれ。





でもこれって、(前の写真もそうですが)、広い画ではありますが画面が等価値ではなく中心が生まれてしまっています。(中心と言うのは、文字通り『中心』と言う事ではなく、注目点、注視するポイントが生まれていしまっている事。) ニューカラーと言えば、色の重なりとか色で構成されている画面が真骨頂なのですが、色のバラエティーがなかったので、この水色のポールの写真がきっかけでシリーズで撮影する事に。



この赤いポールの写真は、かろうじてニューカラー的に引っかかったようです。ランダム(に見える)な配置が面白くて、色々な角度から撮影した中の一枚がこれです。画面の調子も飛んでしまっていて、これは結構『もらいっ!』と言う感じで、当日のウケも良かったように思えます。



ホンマ先生に自ずから、『これは一番よくないです。』と言われたのがこの写真。実は課題提出の写真を選んでいる時にこの(↓)写真と迷ったのですが、last minutesで上のにしてしまったのですねー。ちょっと後悔。この写真には「無意味さ」みたいなものはなにも無いです。



他にも何枚かあったんですが、あまりどんぴしゃな感じが持てなかったので、シリーズで何とか全体の雰囲気作り、と思ったのが間違いでした。ここで割愛した写真も、上の黄色いコーンの写真も出して後悔しました。

ホンマ先生は、スルーする写真はあっけなくスルーしてしまうし、自分に響く写真に関しては物凄くコメントしてくれます。でも今回のように写真を見たまま比較的黙り込み、果てはタカザワさんに『困った時には振る・・・・』と言って振られてしまって。ま、でも良い意味で解釈すれば、ホンマ先生の中にもやもや感を残せただけでも、スルーされるよりは励みになったかな、と。そんな中でも『写真としてカッコイイだけど、上の消失点まで入れない方が断然ニューカラーだったかなー。』と言ってアドバイスをいただいたので、試みにそのようにしてみました。 確かに・・・・。今回提出の写真はどれも説明しすぎ、意図が判りすぎ、と言うコメントをホンマ先生からもタキザワさんからもいただきました。こうすると、ぐっとニューカラーな感じがして来ました。



大胆にもばっさりとやってみました。 この切り方はアドバイス無しではなかなか成し得ません。でも確かに空間の感じとか距離感とか、曖昧な無意味さはぐっと増してます、



『これも奥まで見せない方がよかった。』とアドバイスされて切ってみました。『ここだけの視線』がよりクローズアップされるようになりました。
ここで、自分でも誤解しないようにしたいな、と思うのは、写真の良し悪しを言われている訳ではなくて、あくまでもワークショップのお題であるニューカラー的かどうか、と言う観点で物事は語られてます。なので、何でもカンでも自分の写真をこのようにすれば良い、と言われている訳では決してない、と言う事。それをすると混乱の元だし、自分のスタイル、志向(嗜好)を超えたところでいかに与えられたお題を遂行できるか、と言う事がワークショップなどに参加する醍醐味なのだ、と心得ました。そう言う意味では、今回のお題は、ぱっとしない結果には終わりましたが、課題に呼応して撮影したこと、自分なりに課題にあうシーンを探したと言う作業が実行出来た事はよかったと思います。
最後に、ニューカラーのキーワード:
どう写真を撮るかよりどう世界を見るか、距離感、空間、レイアウトの関係性、無意味なものに存在感を与える、色の重なり、uncommon、等価値、中心(注目点)がない、客観性、撮影者の立場をはっきりさせない、色を構成する、平面的、自分だけの発見、自分だけの視点、意味から離れる
など。 ニューカラー、踏み入れば、本当にその奥は深い深い感じです。

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by sanaegogo | 2012-04-14 00:00 | activity | Comments(2)
よい子のための写真教室 vol.2
ホンマタカシさん主宰の『よい子のための写真教室』は今回で2回目。前回の1回目は受講生の自己紹介とテキストである『たのしい写真―よい子のための写真教室』の導入部分の講義がありました。前回ホンマさん(今後はホンマ先生とします。)は、「ブログやツイッターで事細かく書かないでくださいねー。」と言ってましたが、ま、全体像のリポートと言うよりは個人的な個人の提出作品についてのやり取りの記録と考察(?)なので、ま、いっかなー、と勝手に思うことにしました。お題の内容はテキストとなっているその著作を見れば何となく判るような気もするので、これもオフレコ勝手に解禁で。第2回までの課題は、『"決定的瞬間"を撮影せよ!!』と言うもので、そのお手本となるのはもちろんかのアンリ・カルティエ=ブレッソンです。ブレッソンは1932年から1952年に撮影された写真を集成して1952年に『決定的瞬間』を出版しました。この『決定的瞬間』は、仏語英訳の"The Decisive Moment"を和訳したものなのですが、そもそもの原題(仏語)は、"Image à la sauvette"で『逃げ去る映像』の意味だそうです。(因みに、この"Image à la sauvette"をGoogle翻訳してみたら、『ちゃめっ気たっぷりの写真』と出てきました。『逃げ去る映像』も意訳なのかな?)『決定的瞬間』を何とするか。この捉え方がそれぞれだったのですが、期せずしてこの『ちゃめっ気たっぷり』と言うのがブレッソンの写真の反復と同調のリズム感、流れる情景の一瞬を面白味、楽し味を込めて切り取った愉快爽快さをよく顕している言葉だったな、と感じます。ホンマ先生になぞなぞ的に、何がブレッソンっぽいか、と問われ、色々と答えを探しましたが、自分としての答えは・・・・、「流れるように目の前を過ぎていく光景の一瞬を、おやっ!とか、あれーっとか言う絶妙の構図を一瞬にして切り取り、そこにリズムや躍動感や、止まっている対称だとしても画面自体の動的な雰囲気を醸し出そうと試みる事。例えば、8mmフィルムとかだったら、次のコマが想像できるような、期待できるような、そんなヒトコマを撮影する事。『決定的瞬間』って、"構図の妙"と"次の瞬間の展開への期待感"っていうか、そんな感じだと思ってます。ブレッソンのそれを一瞬に感じるチカラはスゴイです。感覚的なものも必要なんでしょうねー。」と言うところで落ち着き、過去のライブラリーの中からいくつか選択してこの日に臨んでみました。

まず1枚目。


電車の中で眠りに落ちて、目覚めたら自分以外全員が男性、そして乱れまくって寝ていたのです。意識するより咄嗟にカメラを出して撮影しました。あの時の反射神経は自分でも今でも驚くし感心します。ブレッソン的瞬発力です。反復などのリズム感はないですが、余りにも乱れた構図がある種の破壊的リズム感を出してます。前回課題を撮影してくるように、と言われたにも関わらずの半袖の写真は、以前のものだと言う事は一目瞭然。なので、撮影者コメントの時に、「ブレッソンのような街撮りスナップを撮りたくて、カメラを持ち歩いていた時の写真です。」と聞かれてもいないのに言い訳・・・・。でもそれは事実、本当の事なのです。ブレッソンは余りにも魁過ぎて、今となってはもうある種の年配の方々に熱狂的なファンを残すのみ、とホンマ先生は言ってましたが、ワタシ自身を振り返って考えてみれば、ワタシも今でもその街撮りスナップに傾倒・熱中している訳ではないなー、と今日改めて感じました。きっと、どんな世代の若者でも音楽(今は洋楽って言葉はあるんでしょうか。)を聴き始めた年頃の頃、その入り口は何であったにせよ、ビートルズやストーンズまで遡って、辿ってきた道筋をなぞり直すような好奇心に襲われ、そして動かされるけど、ワタシにとってのブレッソンもきっとそんな感じに近いのだと思ったりしました。
本当はこれは自分にとってはトッテオキの写真だったので、これまでこういったワークショップ系のものに提出するのは控えていたんですが、ホンマ先生だし、出し惜しみをしている場合じゃないな、と『決定的瞬間』として提出した次第です。Esquire Digital Photograph Awards の最終選考にも残った記念すべき1枚でした。残念ながらダメだったんですが、『受賞した際のコメントを用意しておいてください。』とメールをいただいて、舞い上がったもんでした・・・・。それと同時に今回これにこの1枚を提出した事によって、この頃の呪縛から解き放たれたような気も、何だかしています。


本当は出そうと思っていた写真が、以下の3枚目も含めて分散拡散型(決して嫌いではない、むしろ好き)の画面だったので、急遽これに変更しました。両足が上に上がっているのにぴたっと止まっているような、だけど画面からはみ出しそうになっちゃって、画角から飛び出してどっか行っちゃいそうになってるおじさんのポジションが面白くて、(今なら「おちゃめ」と言う表現を使おうかしら。)出しました。これも半袖丸出しで、課題遂行しなかったの、バレバレですね。


因みに、最後まで迷ったのがこの写真。原宿です。拡散画面で好きな写真です。 この写真に関する評価は終ぞ知れず・・・・・。 制限された枚数に絞り込むのは、いつもながらToughな作業です。


3枚目はこれで、ブレッソンの写真の中に、いくつかの窓からオンナの人が顔を出しているものや北京での窓の写真、それに紳士が(確か・・・)電車の窓っぽいところからこちらを見ているのがありますが、それにインスパイアされていたと思います。結構この写真も好きです。サンライズ出雲を撮影したものです。これは駅のホームにいたら偶然やってきた写真を咄嗟に撮ったものですが、チャンスがあったら、もう1度、真正面から撮影しに行ってみたいものです。

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by sanaegogo | 2012-03-25 00:00 | activity | Comments(0)
ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー

ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー
東京オペラシティー アートギャラリー
2011年4月9日(土) ― 6月26日(日)
http://www.operacity.jp/ag/exh129/
http://www.asahi.com/event/homma/

楽しい、そして何だか少し考えさせられ、気持ちが少しざわざわするような感覚で観終えた写真展だった。ホンマタカシさんは、言わずと知れたコンテンポラリーの写真家であり、そのバックグラウンドは藝大卒であったりするアカデミックな芸術家的側面とか、木村伊兵衛賞を受賞した正統派写真家の側面であったりとか、超老舗の広告代理店に勤務経験があるアドマンであったりとか、モード誌のゴージャスなモデルを撮影するスタジオカメラマンであったりとか、今は大学院の客員教授をしているようなマルチな人で、コンテンポラリーの美術家として名を馳せているけれど、巨匠と言う近寄り難い雰囲気も(多分)なく、その作品はとてもシンプルで、この写真展は是非観てみたかったのだ。

ニュー・ドキュメンタリーと言うテーマは、聞いた時、始めは、何かな? と思ったものの、観終わってみてその意図が判ったような気がした。ドキュメンタリーのようで、ドキュメンタリーでない、とも言い切れず、ドキュメンタリーかも知れない・・・・、のような空気感をファウンド・フォトの手法を織り交ぜながら醸し出していく。詳細なレビューはプロの方が(ネットや雑誌の)色々なところで原稿を寄せているので、そちらを読んでいただいた方が良いと思うけど、人の家の家族写真を、見知らぬ人の思い出の写真を、その中から展示されている写真達を選び出すその行為がホンマの写真作家としての表現であり、「撮影」とはまた異なった写真家としての仕事なのだ。当たり前の事だけど、写真展が1枚の秀逸な写真の集合体として成り立っているのではなくて、複数枚を並べて、展開させて何かを問う、何かを顕す、事で成立するのだー、と言う事を目の当たりにした感じ。ピックアップする嗅覚をお持ちなんだよねー。何気ない風景が、何と言うことも無い子供の所作を写した写真が、ホンマに選ばれ並べられていく事により魅力的な光を放つようになる、フィクションか? ドキュメンタリーか? どちらともとれる光景をフィールドワークと言う架空ではない条件の中で意味有り気に撮影し展示する。既にある写真をなぞる様に撮影し直す、とか、面白いなーと思いましたねー。(折しも夏に予定されている作品研究会の発表会に出す写真をいままでのものの中から選ぶ作業をしているワタシ。自分としてはすごくタイムリーな感じでわくわくした。)

とは言え、ヒトコト。これが写真展として、作品群として成り立つのは、やはり、ホンマタカシと言う人の学術的裏打ちのあるバックグラウンドとフィールドを限定しない精力的なアウトプット、つまりこれまでの彼の実績があるからこそ、成り立つものなのだ、と言う事はひしひしと感じられる。(あ、否定的な意味ではなくね。) 遅筆なワタシには珍しく、会期はまだたっぷりあるし。(長いからね。) 小難しい事は忘れて自然体で観るととっても面白い不思議な写真展だと思う。是非。


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by sanaegogo | 2011-05-03 00:00 | art | Comments(0)