Francis Alÿs (フランシス・アリス展) メキシコ編 at MoT
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以前近美で行われた『ヴィデオを待ちながら』という展覧会を観に行って、例えばアンビエントな映像や映画のようなストーリー仕立てのMV、それにCGを駆使したPVなどを観て、友達と某かの感想を言いあったり、どこが気に入ったかを話したりするのとは全く違う次元の、『実験的』で難解でとっつき難い映像作品を観て来ました。そんな中でも親しみやすく(と、感じました) 素で楽しみながら観たのが、フランシス・アリスの《リハーサル1》という映像作品。(フランシス・アリス (ラファエル・オルテガとのコラボレーション) 《リハーサル1》1999-2004年 Courtesy the artist and Galerie Peter Kilchmann, Zurich) ちょっとバカバカしくて、品よく言えばウィットに富んでいて、思わず笑っちゃうような作品だったのをよく記憶してます。展覧会も最終段階に入り、難解な作品のラインナップにオーバーヒートしそうな頭に心地よい可笑しさだったのをよく覚えてます。そのフランシス・アリスを都現美でやると言うので、あの時のような作品をまた観たいなー、と思い出かけて参りました。

Francis Alÿs フランシス・アリス展
第1期: MEXICO SURVEY メキシコ編
2013年4月6日(土) ― 6月9日(日)
Museum of Contemporary Art Tokyo [Press Release]
http://www.mot-art-museum.jp/alys/

まあ、あの時のように全てが全て「ちょっと可笑しい」作品ばかりではなかったですが、やはりこのフランシス・アリスという人は、「詩的でウィットに富んだ表現」では定評があるようです。ベルギーに生まれて、現在はメキシコに在住して制作活動を行っています。ここ最近人間の内面を深く見つめる様な展覧会を観る事が続いたせいもあるかも知れませんが、非常に外に向かっていて何かを発し問いかけているような作品達だったように感じました。都市の中に潜む様々な問題にフォーカスを当て、その社会的問題、政治的問題をあぶりだす皮肉/風刺のこもったユーモアには、個々の個人的な事柄ではなく、社会の中で社会の方を見て制作をしている姿勢がよく顕れています。(語弊があるかも知れませんが)またこの『メキシコの都市』というのが、こういったsituationの作品によく合うんだと思います。何でもありの雑多で坩堝的な状況は、彼に制作をインスパイアするには絶好の場所なのだと思います。
いくつか気に入った作品を。

≪ Turista/観光客(1994) ≫


"大工や配管工に並んで、自分の表現行為(制作)をひとつのサービスとして提供している。"
と、フランシス・アリスがアーティストとしての姿勢を表明した作品。
背の高いアリスと周りの小柄な労働者達の何だかちょっと滑稽な対比がいいですよね。


≪ A Story of Deception/虚偽の物語 (2003-2006) ≫


地平線まで続く道の彼方には蜃気楼。
進めども進めども決して到達できない。
そんな表現をアリスはラテンアメリカの近代化の歴史となぞっているようですが、
私はただ単純にこんな風景が好きで、ただ見入ってしまいました。


≪ Sleepers/眠るものたち (1999-present) ≫


アリスが撮り続けている路上で寝ている人々(時々、犬)をデュアルのプロジェクションで見せています。
物凄いローアングルから撮っていて、犬目線、寝てる人目線が面白いです。
しかし、路上で寝ている人と犬の何というバラエティーの豊富さ!
これこそ、先に述べた、『メキシコシティはぴったりの街』というのを如実に顕してます。


≪ Patriotic Tales/愛国者たちの物語 (1997) ≫


ソカロ広場に立つポールの周りをアリスと羊たちがぐるぐると回っています。
羊が1匹、1匹、また1匹と輪から外れていき、やがてアリス自身もいなくなってしまうそうです。
実はその前に、1匹1匹増えていくくだりがあったそうなんですが、私は見逃しています。
しかも私は、アリスが居なくなるところも見逃していて、
実は、羊が1匹ずつ輪を外れていくのに、羊の数が減らずにずっとポールの周りを回っている、
という作品だと思っていました。
これも実際の政治的事件というかエピソードに准えてます。


≪ Tornedo/トルネード (2000-2010) ≫


(確かどこかで55分という表記を見た気がするのですが)一番時間を割いた作品です。
空いていれば、クッションが置かれたマットの上で寝っ転がって鑑賞する事ができます。
寝ている姿勢で観ると自分も竜巻の中に入っていくようです。
よく観るとフライヤーには、竜巻に飛び込んでいくアリスの姿が映っているんですね。
竜巻のゴーゴーという音が何処となく、ホワイトノイズのようにも聴こえてきて、心地よい感じさえします。
思えば私は砂漠が好きなんです。
砂漠のサンドベージュと空のペールブルーのコントラストが好きです。
アリスの反復運動が心地よい退屈です。


≪ Choques/衝撃 (2005) ≫


曲がり角で交錯する男と犬。男とカート。 『カット』のサインを出すように現れる別の男。
これらが9台の異なったカメラから撮られていて、その9台のモニターが展示室の順路に散りばめられ配置されてます。
私は2台目を見て作品の流れは理解したのですが、何台目かにまた犬目線のカメラの映像が出てきて、
それには思わず笑ってしまいました。


と、こんな感じですが、フランシス・アリス、深く読めばそこには政治不安や社会問題が見て取れるのですが、単純な見たままの感想や感じ方を受け容れてくれる余地があるシンプルさと明解さも同時に持っていると思います。内容は深いのですが、ちょっとリラックスして観られる作品です。 (って、そういうのばっかり好んで並べてしまいました。もっと社会派のぴりぴりしたのも他にありましたけど。悪しからず。)

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# by sanaegogo | 2013-05-04 00:00 | art | Comments(0)
『目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。』 フランシス・ベーコン展 @東京国立近代美術館
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フランシス・ベーコンを観終った後、うっすらと混乱した感覚と熱に浮かされたような気分で、今まで見たこともない世界を目の当たりにしてしまったような気がしました。抽象的でかつ具体的。"技法""画法""流派"みたいなものに捕われていない、カテゴライズ出来ない世界を観てしまった気がしました。『今までのどれでもなく、誰にも似ていないし、誰の流派(流儀)でもない。』表現世界です。



抽象画家と称されるフランシス・ベーコンですが、その画には全くと言って良いほど、その抽象性に作為的なものが一切感じられないのです。例えば同じ抽象画家として知られている20世紀の巨匠ピカソですが、ピカソの画に作為的なわざとらしさが感じられる、と言う事ではないんです。でもベーコンの画には何と言うか、上手く言えないんですが、『こう描くべきもの。』みたいな誇張された技法がなく、不思議な感覚でねじれ、ゆがむその描写された肢体が誇示されているばかりで、それを観ていると、ベーコンはそこに何が見えていたのかと本当に難解なものを見たもやもやした気分になります。(例えば、ピカソのキュビズム。あれは、「ひとつの対象を色々な角度から見てかつ一つの画面に収めている」、と言うある意味一定のルールに則って描かれている画法ですが、ベーコンにはその様なルールめいた作為が感じられない、と言う事を言いたい訳です。) と、述べたそばから反対の事を言うようですが、そんなベーコンの画にも繰り返し出てくる表現があります。半透明の体、体の中にぽっかりと開けられた口や穴、枠線のようなただの線描と化した背景、などです。でもこれらは、マイノリティー(唯一彼)であるが故、その表現の方法には"○○イズム"と言ったような名前も与えられていませんし、その出現の意図はベーコンにしか説明できないものになっています。もしかして当の本人ベーコンも解らないような事かもしれません。偏に、フランシス・ベーコンと言う人の心の中や考えていた事は、『いと知り難し』と言う事なのでしょう。自分に関するコメントや説明などを殆どしていない人物だ、と言うのも聞いていますし、そんな彼の一面が期せずしてこのミステリアスさを造り出しているのかも知れません。寡作な人ではなかったようですが、ある時期、自ら沢山の作品を破壊してしまったと言う事です。しかし、その理由もどこにも語られていないそうです。
本展はその残された作品の中から『身体』にフォーカスして作られていますが、その中にも少なからずベーコンの変化を見て取ることが出来ます。消え入りそうな半透明の体や描きかけかとも思えてしまいそうな線のみの中途半端な背景、画面は暗くどちらかと言うと精神世界を表現しているかのような時期、それがある時期から背景はマットに塗りつぶし、その色合いは美しく、オドロオドロしさとはかけ離れた爽やかな発色、その中に以前よりよりしっかりと描かれているねじれてゆがんだ身体の一部。この時もその身体の全貌は難解で、『デフォルメ』と言う単純な言葉では顕せない感があります。なのに何故か眼を惹き、眼を奪われてしまう。何故か。それはつぶさには解らないのですが、それを紐解くのに医学や脳科学それに心理学をもって語られているのも、ベーコン作品のひとつの特徴と言えるのではないでしょうか。(あとはちょっと宗教学。信者としてではなくベーコン自身の宗教に対する考え方として。) 個人的には、どちらの時代のものもかなり気になります。特に最後の部屋の三幅対(トリプティック)は圧巻で、圧倒されました。(例えベージュや黒であろうと)美しい発色の地色の中にごろんと唐突に投げ出された身体の一部。その身体部分の筆致を観ると、印象派のような淡いなだらかな優しい諧調が見て取れるのも不思議なコントラストでした。作品に圧倒されて、珍しく図録を購入したのですが、このトリプティックスは図録の中でも再現されていて、3枚の画が山折り、谷折りで図録の中に折り込まれていて、引き出すとトリプティクッスになるのでした。晩年のベーコンはやはりこの繊細な発色が作品の命。と言う事で、制作物には相当に気を遣っているようです。
話は展示に戻りますが、彼の前期の作品の展示には、作品保護のためにガラスが使用されています。これはベーコンが好んでそのように指示していたと言う事です。作品と観る人を隔たたせるガラスの存在を好んだようです。通常は映りこみを嫌ってガラスは用いない作家が多いようですが、ベーコンはあえてガラスを用いる事で、その隔たりを強調していました。 観ている人もその作品に自分の姿が映りこむ事で、ベーコンの世界との隔たりを意識したり、逆に自分の姿を映し込ませ作品に同化させて、それ(自分自身)もろとも鑑賞していた人もいたのかも知れません。こんなところからも、ベーコンが鑑賞する画家と言うよりも体験する画家であると言う事が伺えます。その何とも説明がつかない『何故?』『何故?』だらけの一連の作品を鑑賞するには『感じ取る』しか術がないように思われます。画面に広がる不具合を自分の中でどうにか調整しようと、観る人は感覚を刺激され、神経をざわつかさせられるのです。でもその不可解さは、先に述べたように、ベーコンの観る人に対しての作為や意図的なものがない故に、(大袈裟に言えば)最も単純なルートで直接、ダイレクトに五感に訴えかけてくるのかもしれません。
『目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。』とのミッションを仰せつかって鑑賞したフランシス・ベーコン展でしたが、いやぁ、未消化な部分を多分に残しつつも、これを観ることが出来て良かったです。しかしながら、私としては、ミッションをコンプリートさせるには、もう少し、購入した図録と首っ引きの更なる考察が必要なようです。

■ ■ ■ FRANCIS BACON
フランシス・ベーコン展
http://bacon.exhn.jp/index.html
(● バナーは東京国立近代美術館のウェブサイトからお借りしました。)


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# by sanaegogo | 2013-04-27 00:00 | art | Comments(0)
「マーティン・パーが語る・・・・・写真を撮るってなんて楽しいんだろう」
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©赤々舎


過日、表参道ヒルズのスペースオーでやっていたPHOTOGRAPHY展。そこでカラー作品で人気のある6名のフォトグラファーによる写真展を観て来たのだけど、その時その中で私が良いなー、と思ったのは、ライアン・マッギンレーだったかな。若さと勢いを無意識に感じていたのだと思いますが、 (バックデートで記事とかをアップしてた関係で) 最近ではじわじわとマーティン・パーの写真が一番良いなーと、まさにじわじわと、きてます。ライアンの若さを弾けさせているような写真とはまったく路線を異にしていて、歳を重ねていい感じで熟成されたマーティン・パーの皮肉っぽい御茶目さに眼が行きます。マーティン・パーは英国人ですが、(*そう、"イギリス人"ではなくて、"英国人"と表したくなります。) その"趣味の良いスタイリッシュな悪趣味"に何とも言えない『味』のようなものを感じつつ、かつ、そこに捉えられている英国のちょっとposhで、笑えるような事をマジでやっている愛すべき一般英国people。そのコミカルで意図しない愛嬌がいい感じで表現されてます。

さて、そのマーティン・パーが来日して色々と各所でイベントをしていたのですが、その中で、日経のSPACE NIOで行われたトークショーに行って来ました。

ENJOY PHOTOGRAPHY
写真をもっと楽しく撮る、観る、飾る、知る
第1回 「マーティン・パーが語る・・・・・写真を撮るってなんて楽しいんだろう」
2013年4月24日(水) 19:00-20:30
日経 SPACE NIO
協力:IMA メディアプロジェクト / 企画:GOLIGA
http://academia.nikkei.co.jp/special/

そう、マーティン・パーの写真からは、彼が写真を撮る事を本当に心から楽しんでいるのが伝わってくるし、本人の語り口からもその気持ちが溢れるように湧き出ているのを感じる事が出来ました。とっても楽しい人です。日本には良く来日されているようで、通訳を交えたトークもとても上手。ここ最近は少し足が遠のいていたようですが、久々の来日を彼は本当に楽しんでいるようでした。 私は仕事が片付かず、30分ほど遅れて入ったのですが、会場はとても和やかな雰囲気で、ジョークと笑いに包まれ話はとても弾んでいました。

今回は赤々舎から出版された『 Life's a Beach 』のプロモーションも兼ねているそうです。日本通のマーティン・パーですが、写真集を日本の出版社で出版したのは初めてだそうです。

実に楽しいトークでした。ひとつのことを語るのにストレートには行かず、必ずちょっとひねって冗談や明るい皮肉を織り交ぜて話す彼独特の話しっぷり。スライドで見せてくれた写真もそんな彼のテイスト満載で、中でも世界各地のスタジオの笑っちゃうような背景の中で写した自身のポートレイトはサイコーに面白かった。ホント、クオリティーの高いオフザケです。こんな人柄の彼があのシリアスなムードの『マグナム』の一員だと言うのはまさに軽いミスマッチだけど、彼の写真を含め、この辺りがかのカルティエ=ブレッソンをして"別の太陽系から来たようだ"と云わしめた由縁なのでしょう。最後にサイン会とちょっとしたPhoto Sessionがあったのですが、写真に写る彼のファンと一緒に背の高い彼が腰を屈めて、どの人とも一様にcheek to cheekで写真に納まっている姿を見ると、そのお茶目さにすっかりファンになりました。
マーティン、また来てね! See you soon!

― 後日追記
最後に行われたQAの時に、1人の人が、『ある時点でモノクロからカラーに転向されたようですが、何故カラーに変えたのですか? もう一度モノクロに戻ろうとかは思わないのですか?』と質問したのですが、マーティン・パー氏は即答で、『何故なら、この世の中には色が溢れているからです。』と明解な答えをくれました。そして、『もう少し自分が歳をとったりしたら、周囲の人を驚かすために突然またモノクロに戻るかも知れませんけどね。』と茶目っ気たっぷりに付け足しました。このくだりってホントに彼が写真を撮る事を楽しんでるのが顕れているなーと思って。そして、いたずらっ子の彼の性分がよく解るなー、と思って、とても印象深く、書き添えておきたいと思いました。

(関連: PHOTOGRAPHY @表参道ヒルズ vol.2)

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# by sanaegogo | 2013-04-24 00:00 | activity | Comments(0)
『美術手帖』×『芸術新潮』「フランシス・ベーコンを編集する。」
鈴木芳雄。ブルータスの名物副編集長時代から「フクヘン。」として名を馳せ、いまもコンパクトカメラ片手に世界中を飛び回る、永遠のスーパーエディター。
(2011年 鈴木芳雄写真展「シヤシン、フクヘン。」テキストより)

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そのフクヘンが最近青山ブックセンターの『青山ブックスクール』で『本・現場・美術』と言うセミナーをやってます。今回はこれの番外編第1回。この度、巷で盛り上っている近美で開催中のフランシス・ベーコン展について、美術手帖と芸術新潮が同時にベーコン展の特集記事を組んだのです。普通なら「被らないように」と言う力学が働きがちな業界で、同時に大々的に特集を組むのはとても稀有な事らしく、この機会にこれをネタに色々出版裏話とか2社(2誌)が互いに互いをどのように意識しているか、なんて話をさせてしまおうと、フクヘンが話を訊く、と言う企画です。近美に展覧会を観に行く前に色々勉強してから行こう!と思い立っていた私は、予てからのフクヘンファンだった事もあり、『今でしょう。』とばかりに出かけてきました。

本・現場・美術 番外編 第1回
フランシス・ベーコン特集刊行記念
『美術手帖』×『芸術新潮』「フランシス・ベーコンを編集する。」
岩渕貞哉(美術手帖編集長) × 米谷一志(芸術新潮編集長) × 鈴木芳雄
2013年4月23日(火) 19:00~21:00
青山ブックセンター本店
http://www.aoyamabc.jp/culture/fukuhen-wkspex1/

本当は4月6日に予定されていたのですが、この日はその前から関東が大荒れで外出は控えてくださいと各局の天気予報が口を揃えて警戒を促していたので、ABCも異例の延期。結果、天候は大して荒れなかったんですが、まあ、英断と言えるでしょう。改めまして、平日の開催だったのですが、行かれてよかった。(安堵)
始めに両誌の編集長が紹介されたのですが、始めに岩淵編集長が、その後米谷編集長が紹介されました。美術手帳の創刊が1948年創刊、芸術新潮が2年後の1950年。と言う事で、米谷編集長の方が年長なんですが岩淵編集長を先に紹介します、とのコメントがフクヘンから。この辺りの(きちんと意図を伝える)さり気ない配慮やそれを伝える事で登壇者2人やオーディエンスに与える安心感。フクヘン、流石です、と思いました。私は美術手帖は特集が面白そうな時に購入したり(何てったってちょっと廉価ではないのでね、時々しか。)して読んでますが、残念ながら芸術新潮は読んだ事がないので、つぶさにその2誌の違いとそれぞれの特徴などは言えないのだけど、今回の特集の取り組み方について、それぞれの編集長がプレゼンをし、それをフクヘンがまとめてくれました。


(画像は青山ブックスクールのサイトから引用 http://www.aoyamabc.jp/culture/fukuhen-wkspex1/)


【美術手帖】裁判的 証言的 映画的 傍聴席的 (読者は証言を聞いている)
【芸術新潮】演劇的 対話的 舞台的 観客的 (読者はストーリーの展開を見ている)

なるほど。美術手帖は文字が多く、(これは創刊からの誌風だそうですが)、出来る限りの情報を詰め込んで理解してもらい検証してもらう、と言うスタンス。芸術新潮は内容の中に演出や効果を施して当事者的な目線を引き出そうとしている。と言う違いでしょうか。各編集長のその基本姿勢に則った誌面の作り方、拘りなど競うようにして(しかし嫌な対抗意識もなく)語っていたのは興味深いものがありました。 美術手帖は、ベーコンのあのカオスの坩堝のアトリエを密室として捉え、ベーコンの制作を事件として捉え、あたかもサスペンスを仕立てるように展開させたそうです。方や芸術新潮はアトリエを編集部肝いりの演出で再現し、ビジュアルからそれにまつわるエピソードを展開していったそうです。表紙の作り方にも特徴が顕れていて、BTはただ事実をどばんと全面に『フランシス・ベーコン』、いかにも事実のみ、芸新は『20世紀のカリスマ フランシス・ベーコンを解剖する』とまるで電車の中の吊り広告みたいではないですか! 写真家の起用も対比されました。ベーコンと言うとモデルを使わずに写真を基に制作をする事を好んだことで知られていますが、BTは杉本博史が写真家の立場とかつての古美術商(評価する人)としての立場と両面でベーコンを語り、芸新では、セザンヌのアトリエを撮影している事で知られる鈴木理策がその目線で筆を寄せていています。面白かったのは、芸新の米谷編集長は自らベーコン展が(一般向けに)始まってから近美に足を運び、実際のジョージ・ダイアの前にゲラを持参して色校をやったそうです。(編集者ってすごい!と思いましたね。) と、この様な数々の面白い話を引き出しつつも、フクヘンがちょいちょいとベーコンにまつわるエピソードを披露してくれて、あっと言う間に予定の時間は過ぎていったのでした。それにしても、本当に、鈴木芳雄と言う人の持つ膨大なデータベースと言うか、知識と言うか、ネタと言うか、身近なものから高尚なものまで、するすると水が湧き出るように語られるその情報は凄いですね。しかも、書籍を読んで知っていると言うだけでなく、彼はその場所に行き、自分で見て、自分の体験の一部、自分が観て聞いた話としてそれを持っている。そして、それを伝える言葉は判りやすく、難解であることで知識人ぶりを誇示するのではなく、個人的に言えば理想的な知識人の姿だと思います。
と、まあ、話は尽きないのですが、ここであの時語られた事を垂れ流し的に記していてもしょうがないのでこの辺(全然言えていないですが)にしておきますが、20世紀のカリスマ フランシス・ベーコンを今現在美術愛好家に人気を博している2誌がそれぞれの論点で特集している。その違い。その対比。学生だったらこれだけで同時代の面白いレポートが書けそうですよね。学生さん、腕の見せ所です。(ワタシのメモもまるで学生が授業で取ってるみたいなものになっちゃいました。)
フクヘンからは数々のベーコンとそれを(時代をまたいで)取り巻く人々の興味深いエピソードも聴けたし、満足の2時間でした。こうなってくると、本当に3月21日に京都造形芸術大学・東北芸術工科大学の外苑キャンパスで行われた、脳科学者の茂木健一郎さんとフクヘンのベーコンについての対談を聞き逃したのが悔やまれます。

(● 画像は、『青山ブックスクール』のページからお借りしました。)

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# by sanaegogo | 2013-04-23 00:00 | activity | Comments(0)
第2回パブリック・シンポジウム 「こんなデザイン美術館をつくりたい!」
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© 国立デザイン美術館をつくる会 2013


『そろそろ、日本に国立のデザイン美術館が必要なのではないでしょうか。』と言う一生さんの掛け声のもと、第2回のパブリック・シンポジウム「こんなデザイン美術館をつくりたい!」が仙台メディアテークで開催されました。第1回の「国立デザイン美術館をつくろう!」は東京ミッドタウンホールで行われました。今回2回目にして東京を飛び出し、地方都市での開催となったのは、
(仙台メディアテーク+伊東豊雄氏+仙台+「みんなの家」)×デザインマインド=仙台開催!
と言ったような方程式があったものと思われます。
一生さんが、デザインミュージアムを考える会であるからこそ、仙台メディアテークで伊東豊雄さんをお迎えしてシンポジウムをやりたかった念願がかなった、とおっしゃっておりました。恐らく東京から新幹線に乗ってまで参加した人はそうそういなかっただろうと思いますが、仙台メディアテークを見てみたかったのと伊東豊男さんのお話を聞きたかった、というのがあります。

シンポジウムは3部に分かれてまして、登壇者は以下のとおりです。
(以下、敬称略で。)

10:30~12:00 SESSION1 【クリエーターのアイデア】
中村勇吾(インターフェースデザイナー)
関口光太郎(現代芸術家)
大西麻貴(建築家)

13:00~14:30 SESSION2 【一般から寄せられたアイデア】
宮島達男(現代美術家)
五十嵐太郎(建築史家)

15:30~17:30 SESSION3 【総括】
浅葉克己(アートディレクター)
伊東豊雄(建築家)
三宅一生(デザイナー)
青柳正規(美術史家/国立西洋美術館長)


全てのSessionにわたって 佐藤卓(グラフィックデザイナー)と 深澤直人(プロダクトデザイナー)がモデレーターを務め、最後のSession3には加えて第1回でもモデレーターをされていた 柴田祐規子(NHKアナウンサー)が今回も進行をしました。当初の予定にはなかったのですが、Session1、Session2の登壇者も全て壇上にあがり、総勢11名を束ねるのはさぞかし大変でしたでしょう。そんな事もあったのかなかったのか、結果的に伊東豊雄さんのお話は殆ど伺うことが出来ず、個人的にはここ仙台で開催したのだから、もっとこの場で伊東さんのお話を(多少、国立デザイン美術館をつくる、と言う開催の趣旨からズレたとしても)聞きたかったなぁ、というのが本音のところです。
Session1は【クリエーターのアイデア】と題して、21_21の『デザインあ展』にも参画していた(というか、TV番組「デザインあ」の監修のお1人ですが)中村勇吾さんがユビキタスで網の目のように広がっていくデザインミュージアムや水平垂直方向にメタボして進化していく美術館の在り方などについて語りました。 ネットワークの利用と拡張みたいな観点でお話をして、話を聞いていると、本当に自由。何か既成概念に囚われずにアイディアを口にしていく事が素晴らしいと思いました。絵空事のような事を絵空事で終わらせず、それを具現化する方法論も持っている、そんな感じです。夢と現実を繋げるのは優れた思考力と実行力なのですね。若手築家の大西麻貴さんも、アイディアとして移動するミュージアム的な話をして、最初は正直『何じゃそりゃ?』と訝しい感じもしましたが、話を拾う方に柔軟な発想があると全貌が見えてくるものですね。佐藤卓さんのフォローで、コンセプトの点では何となく理解が出来ました。そしてこの『移動遊園地のように移動する美術館』と言うのが、案外中村勇吾さんの提唱したユビキタスな感じと共通するものがあるのではないかな、と感じた訳です。本筋とはズレるのですが、御三方の話を聞いて、漠然としたものを漠然としたまま終わらせない粘り強い思考力とある種の解決力みたいなものって、クリエイターと呼ばれる人には必須の素養なのだなと切に感じました。ある種突飛な発想が出来なければクリエイティブではないし、それを実際に実現させて何かを産みださないと、これもまたクリエイティブとは言えない訳です。空想と現実の世界をバランスよく軽々と行ったり来たりしている人たち、御三方の話し方、ふとそんな印象を受けました。
Session2の【一般から寄せられたアイデア】。この時間帯はお昼をカフェで満喫し、お腹も膨れたところで、メディアテーク内を見学するためにスキップしてしまいまして・・・・。登壇者の五十嵐太郎氏と宮島達男氏には申し訳ないことをいたしました。一般からのアイディアのディスカッションという事で、これも面白い内容だったに違いないのですが、残念ながら我々は席を外してしまい、その内容は知る由もありませんでした。
さて、そんなこんなで天王山。Session3 【総括】です。伊東さんの自分の仕事についての理念や何をどう考えて(広義な)ものづくり、デザインをしているかが語られる事を期待していたのですが、構成上仕方がないとは思いますが、何となく不完全燃焼で、せっかく仙台メディアテークで行われたのに、その理念を聞かずんば、という感じは否めませんでした。この会場をシンポジウム会場に選んだのですから、多少この度は『国立デザイン美術館』から逸れても良いのではなかろうか、と感じました。それどころか、恐らく、伊東さんの掘り下げて行くであろう話しは、ひいては『国立デザイン美術館』設立の根幹に関わるところまで話が及んだのではないかと拝察されます。(時間が充分であればですが。) そんな中で、やはり『みんなの家』についてのお話には重点が置かれていました。『みんなの家』は作品性だけがデザインの全てなのか、という問いかけの許、①人々が集まって語り合い、心の安らぎを得る、②一緒に作り上げる、③拠点になる、そんな目標というか、目的で推進されている活動だそうです。無数の試行錯誤をひとつひとつカタチにしていく。そんな試みで、それこそまさにシンポジウムが探っていく方向性にヒントを与える話であったはずです。何となくですが、伊東さんは話し足りず、もっと発信したいと壇上で思われているようにお見受けいたしました。(僭越ながら) 最後に地元仙台、東北の被災地という地元の方々からQ&Aのセッションがありました。(こう思うと、東京勢が聴衆として大挙して押し寄せるような事がなくてよかったのだと思います。) 復興のために東北以外の人たちも応援や支援をしているけど、観光(外部から来てそこに何かを残していく)重視という考え方に陥っていて、その場で残すべきもの(伝統文化)などを失ってしまうのではないか、という懸念が地元にはあるようです。自分達(東北の人々)の日常を切り取って提示した上で、そこに観光という切り口で切り取っていく事は出来ないのだろうか。伊東さんはそんな事を語っておられました。『アフォーダンス』という言葉を取り出していましたが、これは今後のキーワードになりそうな予感がします。"体験に基づいて,説明なしで取り扱うことができる何か。" それを残していく事、踏まえて新しいものを作っていく事が重要なのだと示唆していました。
東京仙台の2回のシンポジウムで、こんなミュージアムを作りたい、という設立における基本姿勢が語られてきましたが、次回からは、では具体的にどうすればよいか、どう段取っていくか、どう方策を講じていくか、など、具体的なディスカッションに移って行くことを、個人的には期待しています。それは、シンポジウムとしてはぱっとせず、面白くないトピックなのかも知れません。でも、これまで数々のデザインに関わる方々の意見やアイディアを聞いてきたのですから、今度は少し踏み込んだ方法論みたいなものも必要な気がします。例えそれが理想と現実のコンフリクトを産み出す事になっても、それは避けて通れない道なのではないでしょうか。性急すぎるのも良くありませんが、同じところで足踏みをしているような事でもいけないと思うのです。僭越ではありますが、そんな風に思います。例えば今度は国立デザイン美術館に対して懐疑的なネガティブな人を招いて、討論めいた事をして問題点を洗い出してみるとか、そんな中でも得るものは必ずあると思います。

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# by sanaegogo | 2013-04-21 00:05 | activity | Comments(0)
仙台メディアテーク


2012年の仕事でさんざん足を運んだ仙台にこんな形で再び訪れることになるとは、ゆめゆめ思いませんでしたが、酔狂が高じて、仙台メディアテークで行われた 国立デザイン美術館をつくる会 第2回シンポジウム 「こんなデザイン美術館をつくりたい!」に行ってまいりましたよ。 第1回はミッドタウンホールで開催されたのですが、第2回目はここ仙台メディアテークが会場です。"国立デザインミュージアムをつくる"という「国立(National)」というくらいですから、国と行政を巻き込んだ大事業の歩みを発足の時から見られると言ったようなことはあまり機会がないので、来し方行く末を見届けてみたい、という気持ちに駆られ、パブリック・シンポジウムの全回参加を目指しています。・・・・と、いうのも大いにあるのですが、今回わざわざの参加を決めたのは、仙台メディアテークを見てみたかったというのも大いにあります。仙台メディアテークは、2000年に竣工し、2001年開館した建築家伊東豊雄の設計(デザイン)による建築です。伊東豊雄さんは、このメディアテークなどの設計が世界的に評価されて昨年2013年にプリツカー賞を受賞されています。更に、メディアテーク自体に訪れて、実際に見てみたかったというのもありますが、今回の第2回シンポジウムでは、伊東豊雄さんご本人が登壇されるというので、それも目的のひとつとして大いにありました。(あとは終了後の牛タンでしょうか。大いに。)
メディアテーク(mediatheque)という名称は造語で、親戚にあたる言葉で何となくお馴染みなのは、ディスコティーク(discotheque)でしょうか。これは、フランス語が語源で、『disc(o)‐「レコードの」+bibliothèque「図書館」』だそうです。メディアテークはというと、「メディアの」+「図書館」。そう、仙台メディアテークは基本的には「図書館」だったのです。私はここがアートスペースだとばかり思っていたので、これはちょっと少なからず衝撃でした。『図書館だったんだぁ・・・・。』、と。そしてその仙台市図書館は、それはそれは素晴らしく素敵でした。あんな素敵な図書館を持っていると言うだけで、仙台市は自分達の文化的水準の高さを自慢してよいと思います。そして、『デザイン・マインド』を持っているという事も。勿論、図書館以外にも、今回シンポジウムを行ったような多目的なスペースや志賀理江子の「螺旋海岸」が開催されていたギャラリースペースもあります。ギャラリーやシアター、メディアを活用できるスタジオが、各メディアを媒体としてアーカイヴされている情報を閲覧できるライブラリー機能と混在している訳です。(仙台メディアテークの理念・サービス:http://www.smt.jp/smt/about/idea/) 施設内に設置されているちょっとしたベンチ、DVD閲覧用のカウンター、学習スペースなどもとてもスタイリッシュでデザイン性に優れていて観て回るのも楽しくなります。 この時、デザイン性とは文字通り見た目と機能両面においてです。ホントに地元自慢の公共施設ですね。メディアテークの周辺にはアートやデザイン系のお店もどんどん集まって来ているそうです。まさに、ひとつの秀逸な外観と機能を持つ建築物が地域の人々のデザイン・マインドを刺激して、波紋のように広がって行く様をみている感じがします。そんな意味からすると、第2回シンポジウムがここで行われたのはとても理に適った事なのかも知れません。
個人的な話では、設計者の伊東豊雄さんとは2011年に東京国際フォーラムで行われたUIA2011でご一緒させていただきました。『ご一緒』といっても、方やホールAで行われたテーマセッションとUIAワークプログラムという所謂専門家向けの講演の登壇者。大会全体では最も敬意を払われる登壇者のひとり。方や私はそれをコーディネートするいち運営コーディネーターだったのですが、(コーディネーターは壇上でセッションの進行を取りまとめる人という意味もありますが、私はただの講演の運営を準備調整する人です。)、舞台袖で拝見する伊東さんの優しい感じのお人柄に触れ、美しいプレゼン資料を拝見し、すっかりファンになってしまった次第です。
仙台メディアテークは、日本が欧州や北南米に負けないような、地域の文化水準を高め、バックグラウンドを固めていく中心地となり得るような夢を背負っているような気がします。それが東京ではなくて、地方都市だからこそ、なおよい。伊東さんは建物のみならず、市民や子供たちが知らず知らずのうちに、敷居の高いものとは感じずに、アートやデザインに触れ素養として身に付けていけるような環境をも作り出しているのですね。東京にはもう沢山そんな場所があるのかも知れないけど、東京じゃなくたって身近にこんな素晴らしい市民の憩いの場所があるなんて、仙台市民、羨ましい気がしました。北欧デザインのような洒落たベンチでお弁当を食べながら、楽しそうに借りてきた本についてあれこれ話している中学生の姿が印象的でした。
(肝心のシンポジウムについて話す前に、かなりの文量を割いてしまったので、シンポジウムの内容については、改めてお届けすることとします。)

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この日は何と、仙台は雪が降っていたんですが、シンポジウムが終わる頃はすっかり青空で、
メディアテークに映った空が素晴らしく澄み渡り、青々と眼に眩しかったです。




シンポジウム会場の椅子。
スタッキングチェアにも こんなデザインが施してあって、心憎いばかりです。


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# by sanaegogo | 2013-04-21 00:00 | activity | Comments(0)
Francis Bacon @Taka Ishii Gallery Photography / Film


今、近美で開催されているフランシス・ベーコンの回顧展が熱いですね。何故か無性にこのフランシス・ベーコンが気になるかと言うと、それにはちょっとした個人的理由が・・・・。今年の1月くらいでしょうか。近美でフランシスコ・ベーコンのアジア発となる大回顧展が行われる事がニュースになり始めた頃、『フランシス・ベーコン? 聞いた事ある名前だな。』と思ったのは私です。その記事を読むと、「その人生が20世紀とほぼ重なるベーコンは、ピカソと並んで、20世紀を代表する画家と評されており、生誕100年となる2008年から2009年には、テート・ブリテン(英国)、プラド美術館(スペイン)、メトロポリタン美術館(アメリカ)という世界でも主要な美術館を回顧展が巡回しました。」とあるではないですか。私はそこでちょっと愕然とした訳です。その画を観ると見た事があるようなないような感じであまり記憶はなく、今更ながらに、この後に及んで、巨匠ピカソと並び称されるような20世紀を代表する画家と評されている作家の事をちっとも知らなかったのか。その事実に愕然としてしまったと同時に、なんかちょっと恥を知る感じがしちゃいまして。恐らくひとつの理由としては、その主要作品の多くが既に美術館に収蔵されていて、個人蔵の作品はオークションで非常に高値をつけているので、展覧会を開催するのが難しく、かつ日本には全部で5点しか作品がないそうなので、そんな事に拠るのでないかと。ま、そんな事はさて置き、この歳になってしかも大概の巨匠は知っていると思ってたのに、この段になって新しい名前を知るとは。滅多にない事なのか、果たして今後も頻繁に起こりうる事なのか、それは解りませんが、と言った理由から、このフランシス・ベーコンにはかなり興味を持ったと言う訳です。 (自分にとって全く持って新しい新規の情報とし展覧会を観ることが出来る訳ですから。)
世間がこの展覧会について色々と盛り上がっているようなので、近美を観に行く前にちょっと色々勉強していこうから行こうかな、と思い、今日はタカ・イシイで開催されている「Francis Bacon」展です。





EXHIBITIONS
Francis Bacon
Dates: March 9 – April 6, 2013
Location: Taka Ishii Gallery Photography / Film
http://www.takaishiigallery.com/jp/archives/7527/





色々なところで様々な人たちがフランシス・ベーコンについて何かしているのを見ると彼を語る切り口の多様性とか、薀蓄の及ぶ範囲の広さみたいなものが判る気がしますが、このタカ・イシイで行われている写真展(?)は、ベーコンが制作のアイディアの得るのに使用した数々のコンタクトプリントが展示されていて、もはや、ベーコンの作品ではなく、ポージングや状況演出の指示を出したのはベーコンでしょうけど、撮影者に至ってはこの展示では特に特定されてはいません。ベーコンは名前のある写真家に撮影を依頼していましたが、当時のニューヨークで活動していた無名の写真家にも撮影をさせてたそうです。展示されているコンタクトシートはベーコンの作品が産みだされる素の素、みたいなもので、そこには漠然としたベーコンのイメージが試み的に存在しているだけで、物理的には何も手をくだしたものではないのです。 それすらも、フランシス・ベーコン展として成立してしまうところに、底知れない凄さ(名前の大きさ)みたいなものを感じました。 リスペクトされているんですね。
また、物理的にはそうなのですが、コンタクト・シートをみていると、彼の思考、志向、嗜好、指向、と沢山の試行を垣間見る事が出来ます。言わばネタ帖のようなもので、ベーコンがモデルそのものよりも写真を基に制作をしていた事から、その『写真』の立ち居地を考えてみる、と言う事なのかもしれません。写真と作品とのある種の関わり方ですね。この事から言うと、これらのコンタクトシートは、美術館の展示でよくあるような『・・・のための習作』なんて題名がつく「彼の作品」と呼べるものなのかも知れません。 水泳帽を被った男性二人の不思議な格闘風景、やはり水泳帽を被った水着姿の女性の奇妙なポージング、ある役柄を言われ何らかの情景を再現している男女の役者の様な人たち、などがコンタクト・シートの中で跳びまわり躍動してますが、ベーコンの中で「身体」は最も重要な要素で、何を考え、何を想定してこの撮影を行うに至ったのか、などを勝手に想像したりしているとなかなか興味深いものがあります。特に『水着で格闘』『水着でポーズ』のシリーズはその捉える瞬間がかなり独特のもので、『ポーズ』の方は確実にベーコンがポーズを指示してシャッターを切っていたと思われるので、あの奇妙な肢体表現がベーコン的表現の真骨頂なのかな、と思いました。
なるほど、このコンタクト・シートの要素がどのように彼の絵画にその徴を刻んでいくのか、本編(近美のベーコン展)を観るのがますます楽しみになってきました。

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# by sanaegogo | 2013-03-30 00:00 | art | Comments(0)
「デザインあ展」で・・・。 @21_21 DESIGN SIGHT
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会期は6月2日までたっぷり。子供連れでも友達同士でも、いつもの美術館やギャラリー巡りとはちょっと違う、はしゃげる誰かと行ったらいいんじゃないかなー。 と言う事で、ワタシ等も行って参りました。 かなーり盛り上がっている『デザインあ展』です。

タイトル: 企画展「デザインあ展」
http://www.2121designsight.jp/program/design_ah/
会期:2013年2月8日(金)〜 2013年6月2日(日)
会場:21_21 DESIGN SIGHT
主催:21_21 DESIGN SIGHT、公益財団法人 三宅一生デザイン文化財団、NHK エデュケーショナル

協力: 株式会社アマナ、株式会社アマナイメージズ、キヤノン株式会社、キヤノンマーケティングジャパン株式会社、ジャパンマテリアル株式会社、ベンキュージャパン株式会社、マックスレイ株式会社、ヤマハ株式会社
展覧会ディレクター: 佐藤 卓、中村勇吾、小山田圭吾
参加作家: 阿部洋介(tha ltd.)、岡崎智弘、緒方壽人(takram design engineering)、折形デザイン研究所、studio note、Perfektron、plaplax、山田悦子(むす美)、他


そうそうたる顔ぶれですね。 さて、言わずと知れたNHKのEテレでやっている『デザインあ』のスピンオフ企画ですが、実は本物の放送の方は観た事がないのです。(だって、土曜日の早朝でしょ。) 21_21のウェブサイトで紐解くと、偏に「デザインマインド」を育てる事を目的とし、ディレクターの佐藤卓さんはじめ、中村勇吾、小山田圭吾などの「デザイン」と言う土壌で活躍する面々が、『これは子供向けなのか?』と言うようなクオリティで、かつ、反対から視ると子供の眼線まで姿勢を低くしてよく考えられているのが解ります。ワタシが何故この『デザインあ』に関心を寄せたかと言うと、(的外れな意見だとは思いますが)、オボロゲながら覚えていて子供心に大好きだったあの『カリキュラマシーン』を髣髴とさせる雰囲気を感じたからなのです。 行ってみるとカリキュラマシーンとはちと趣旨が違うのは直ぐに判ったけど、あの子供を対象としながら手加減しない、手抜きをしない、オトナのダイナミズム満載の番組構成と言うか、子供向けと言いつつも作り手のオトナの茶目っ気や面白がっている様が垣間見られるところと言うか、オトナに提示する並みの冗談尽くしの勢いとか、そんなものを共通点として感じたのであります。 きっとこれ、作ってるオトナは結構面白がって楽しんでますよ。 なので、子供の「デザインマインド」を育てると言う意味もあるでしょうけど、大人の「デザインマインド」を再確認すると言うか、再構築すると言うか、今からでも遅くない的な、子供向けの隠れ蓑を着た、「デザインマインド」を忘れているまたは知らない大人達へのメッセージでもあるような気がしました。 大人は理解しようとする、子供は感じようとする、そしてどちらも楽しむ、そんな感じです。
今、21_21では別建てで『デザイン』と言うものの定義を考え提示しようとしていますが、説明書を読まないとスマフォが使えない大人達を尻目に、iPadを与えただけで巧みに使いこなす子供たち。 大人が一生懸命アタマで考えて定義付けしようとしているものを子供達の柔らかい感受性は直感的に汲み取る事が出来る、そして大切なのはその良質な『マインド』に触れる機会を数多く提供する事、そんな取り組みを目指しているようです。 ひいてはそんな機会を創造する事で大人もその恩恵を受けているのですから、これは、21_21が言うように、まさに「デザイン教育の可能性に注目した、子どもと大人の双方に向けた展覧会」なのです。




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# by sanaegogo | 2013-03-23 00:00 | art | Comments(0)
螺旋海岸 志賀理江子トークイベント
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『螺旋海岸』と言う不可思議なタイトルの写真展を被災地宮城県の仙台メディアテークで開催したと言う事が気になって、志賀理江子さんのトークショーに出かけてきましたが、話を聞いたり、スライドショーで彼女の写真を観てみると、名前は勿論知ってましたが、私はそんなに志賀理江子の写真についてよく知っていて某かの感想を抱いていると言う訳ではなかった事を改めて知りました。『螺旋海岸』という言葉が生み出す不思議な想像力と言葉の持つ独特の雰囲気がずっと気になっていただけで、写真展で展示された写真を観ていて某かの印象があり『あ、このトークショー、行ってみたい。』と思った訳ではなかったんですね。(しつこいですが)私の関心の全てはこの『螺旋海岸』と言うタイトルのネーミングに尽きる、と言う感じでしたが、この造語には何か言い様のない秀逸なものと心を引き寄せる何かを感じてたんですね。タイトルについて、トークショーの中で彼女は、『螺旋階段を造りたくて、人に相談したら、物凄く難しいと言う事が判り、途方にくれて北釜の海岸に寝転んでいたら、そこらじゅうに生えている松の木が下から見上げるとまるで、螺旋階段のようだった。なので、この海岸は螺旋階段がたくさんある海岸で、だから”螺旋海岸”だと思った。』と語っていましたが、この想像力の膨らみ方の方向と言うか、不思議な飛躍と言うか、はすごいなーと思いました。何と言うこともないエピソードが発端でこの如何にも意味あり気な言葉を作り出し、それを写真展を象徴するタイトルにまで押し上げて(造りこんで)、それを据えてしまう。 ある意味迷いの無いというか、自分の世界に対する揺るぎない『思い込み』の強さ、というか、そんなモノを感じました。(観てはいないので、何とも言えませんが)、メディアテークでの写真展もそんな内容だったようです。

VACANT
「螺旋海岸 | notebook」「螺旋海岸 | album」刊行記念
志賀理江子トークイベント



さて、トークショーですが、物凄い濃厚なトークでした。志賀さん本人は客席の反応などを見ながらインタラクティブにやりたいと言いつつ始まったのですが、結果、2時間弱、何かが降りてきて彼女に何かを語らせているような雰囲気で、(正直)まとまりはあまりないのですが、とにかく淀みなく話し、自分の中の未解決な部分や未消化な事とかをあれよあれよと言う間に曝け出し、『どうだ!』と言う感じの話し倒しの感じでした。 何となくですが、自分の感受性を自分で持て余してしまっている印象を受けました。志賀さんの持っている未消化で未解決な部分(大部分)が彼女の生きていく旅ならば、さぞかし生きづらい人生なのかな、などと、余計なお世話の印象を持ちました。 またその難解な彼女の語り口を彼女のファンの人々は一生懸命解ろうと、汲み取ろうとするのです。 何だか痛々しかった。
ご存知の通り、2009年頃から志賀理江子は度々宮城県の北釜を訪れて、その土地に魅せられてそこでの生活に自分を投入し、集落の行事の撮影や年寄りの伝承を記録していくといった作業に没頭するようになります。期せずして先の東日本大震災で壊滅的なダメージを受けてしまった土地ではありますが、この頃の志賀理江子始め、周囲の人たちは勿論、やがて訪れる大惨事を知る由もありませんでした。螺旋海岸は東日本大震災への鎮魂と言う意味合いではない、とトーク中にも言っていましたが、写真家として、フィールドワークに入ったその土地が向かえる事になる大きなこの出来事を当事者として体験する事が出来たのは、ある意味千載一遇の必然的な偶然だったのだと思います。その一連の流れの中に大震災はあった訳で、唐突にその部分だけフォーカスして見て欲しくない、と言うような彼女の意図は理解できます。 ましてや予てからのテーマというか、彼女の追いかけているものが『生と死』それにまつわる矛盾と葛藤というものなので、フィールドワークの果てに訪れた大震災は、余りにも出来すぎの偶然のようになってしまったのかも知れません。
新国立美術館でも4月1日までの展示の「アーティスト・ファイル2013」で、この螺旋海岸のシリーズが展示されるようですが、やっぱりワタシはメディアテークのを観てみないとこのトークショーについては何も解らないな、と思いました。志賀さんは震災の集大成ではないとは言っていましたが、仙台の被災地のあの地の、メディアテークと言う会場で行った独特の展示方法。 スポットを当てないので、夕方になると写真にも影が射しまるで墓標のようだったと聞いています。それを見なければ何を言っても中途半端になってしまう気がしました。

≪関連記事≫
志賀理江子 螺旋海岸: http://www.smt.jp/rasenkaigan/
ART iT 志賀理江子インタビュー イメージに身体が触れる ―架け橋としての歌 :
http://www.art-it.asia/u/admin_interviews/yVsfhQi1o0evIK8nJOD3
Artist File 2013 志賀理江子 : http://artistfile2013.nact.jp/shigalieko/index.html
artscape 考えるテーブル 志賀理江子 連続レクチャー :
http://artscape.jp/report/curator/10016599_1634.html

この写真が 現地の展示で地元の方を始め多くの人から一番反響のあった写真だそうです。 怖い・・・。



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# by sanaegogo | 2013-03-10 00:00 | activity | Comments(0)
the Future @ Theater Image Forum
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ザ・フューチャー the Future
ミランダ・ジュライ 監督/主演 Miranda July
イメージフォーラム Theater Image Forum
http://www.the-future-film.com/MirandaJuly.html

ちょっと前にネットで見て気になっていたこの映画。それから程なくして失念していたのですが、再びネットで見て、俄然見たくなってしまって、思い立って行ってきてしまった。ワタシにぐさっと刺さってきたのは、この映画のイントロダクションに書かれていた 『同棲4年目を迎えた35歳の女性ソフィーと恋人のジェイソン。ある日、2人は怪我をした小さな猫を見つけ、パウパウと名づけて最期を看取ると決める。そのことをきっかけとして2人の心境や生活はゆるやかに変化していく。お互いやりたいことをやろうと、仕事を辞め、インターネットを解約して、自分の内なる声に耳を傾けて生きようと決意する。』と言うこの導入。私自身、もう35歳はとうに過ぎてしまっているし、多分今の生活でネットを解約するなんて事はありえないし、考えてもいない。でも、妙に心に刺さってきたのは、『お互いやりたいことをやろうと、(―飛ばして―)、自分の内なる声に耳を傾けて生きようと決意する。』の、この部分。 そう、やりたい事をやろう。 自分の心の声に正直に生きよう。 と、ここまで程"自由へのはばたき"的で"何もかも振り捨てて"感はないものの、これから先は自分のやりたい事をやっていこう、と少なからず決心した経緯もあっての事だったと思います。自分自身、まさに本編で言うところの「始まりの途中」に立った、と言う状況です。そんな訳で、この一文で得られる情報しか持たず劇場に向った私でしたが、ストーリーは想像していたものとは若干異なったものでした。 「あり」か「なし」か、と問われれば、「あり」でしょう。全編に流れる緩やかなトーンは好きな感じのストーリーです。ファンタジー的な要素がありつつも、リアリティー溢れる作品です。 リアリティーのあるファンタジーとも言えます。
(ここからは、みてない人にはネタバレかも、です。)
パウパウを引き取るまでの30日間、ソフィーとジェイソンは、猫を飼い始めると色々と束縛が生じるのでそれまでにやりたい事をやろう(済ませておこう)と決め、仕事を放り投げ、ネットを解約し、それぞれの行動を起こそうとします。 そんな中で、2人の些細な事からの諍い、心のすれ違い、近くに居るのにお互いが見えなくなってしまうような孤独感、そんなものが襲ってきたりしますが、すこしずつ解り合って、いたわり合って距離を縮め、今まで知らなかったお互いの部分を発見したり、見直したりもしながら、互いに大切な存在であると再確認し、そうこうしている内にパウパウを引き取る日が訪れ、猫が居ようと居まいと束縛される事はなにもないのだ、束縛とは互いの意識の中にあって、状況の中にあるのではないのだ、と気付かされる・・・・、みたいなストーリーだと思ってましたが、そうではありませんでした。 やりたい事をやる、とか、自分の内なる声に耳を傾けて生きる、と言うのはある意味何かからの自立(自律)だと思うのですが、主人公ソフィーはどうもこの手のメンタリティーと言うか覚悟がなかったようで、何故だか、自由な状況を避けるようにジェイソンではない男性の許へ逃げ込んでしまいます。(ジェイソンのようなある種の柔軟性も持ち合わせていなかったのかも知れません。) 「君は最初の印象と何だか違うね。もっと自立した人のように感じていた。」と言うようなセリフをその男に言われるソフィーですが、そんなソフィーを責めるとかだらしない(←淫らと言う意味ではなく)と呆れる事は出来ない気がします。 それでもそれが等身大の35歳と言うものなのかも知れないし、迷いなのかも知れないし、人はそうそう信念にそって強く生きれるもんでもないような気もします。 一方ジェイソンは、また違う気付きをします。 自分達の人生は残り少ないどころか、まだ始まってもいない。 自分はまだ何かを始めてもいないのだ、と。それが「始まりの途中」です。これ(この感じ方の違い)って単純に男女差とかによるものなのでしょうかね。興味深いところです。 結局は、ソフィーも男の許を出て再びジェイソンの許に立ち寄る事になるのですが、止まった時を自らの意志で動かしたジェイソン、自分の心の声を聞きジェイソンのところへ戻るソフィー。 でも、結局はパウパウを助けられなかったのが、私にとっては結構衝撃でした。(そう来たか!そう来てしまったか!) 物語は時としてパウパウの眼線で語られていて、そして、パウパウは何の心配もない世界に行ってしまい、そこで語りかけるのです。 「もう待たなくてもいいし、もう猫ですらない世界にいます。」 パウパウとの生活は始まりませんでした。 2人が予想していた「束縛」はもうそこにはなくて、あの時日常だったものですら実は危ういもので、いつまでも続く保証なんてなかったと言う事を2人が実感するのはこれからなんでしょう。何もしないでただ流れていくだけの時間なんてものはないのです。放っといても時間が流れてしまうこと自体凄い事なのに、何も無い様で何かが変化しているのに気づけないだけなんです。
観終わって何か明確な答えを出すような映画ではなく、メッセージもちらちらと見え隠れしているだけでずばんと全面に出て来る訳でもなく、おせっかいな激励ちっくなところがない分、観終わってももやもやが続くようなストーリー。私は結構好きです。

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# by sanaegogo | 2013-03-03 00:01 | movie | Comments(0)
JR展 Could art change the world? @watari-um
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JR展
世界はアートで変わっていく
Could art change the world?
(ワタリウム美術館)
2013 年2月10日(日)-2013年6月2日(日)
11時より19時まで[毎週水曜日は21時まで延長]
主催 ワタリウム美術館
助成 在日フランス大使館 アンスティチュ・フランセ

これは、一介の街角の落書き小僧から出発したグラフィティーアーティスト フランス人のJRの(日本、アジアではなく)世界初の個展です。そして、ワタリウムとしては、昨年よりスタートした震災後の展覧会三部作の最終章です。
JR(ジェイアール)(1983年生まれ)は、フランス出身のアーティストで、ある日パリのメトロで拾った1台の28mmのカメラを用いて自分自身や他のグラフィティ・アーティスト達の行為を記録し始めると言うところから自分自身の制作活動を始めています。そうして撮影した写真を街角の壁にゲリラ的に貼り付け、街角のストリートを『歩道ギャラリー』と銘打って発表を続けてきました。 それは単に自分自身のメッセージを他に知らしめるという自己顕示欲からではなく、世界中のストリートに誰でもアクセスできるギャラリーを作り、そこに新しい交流が生まれる事を期待してのことです。それは、自分の存在を知ってもらいたいと言う犬のマーキングのような行為ではなく、ある意味、世の中に対しての問題提起とも言えるものです。『自分は仕掛け人』と言う意識からでしょうか、彼自身も自分の名前を『JR』と言う匿名的なものにしていて、会場で流れていたムービーの中のJRは、街角で夜に紛れて自分の写真を大伸ばしにして、糊でべたべたと壁に貼りまくり、スプレーで落書きも施すのですが、顔は目隠し処理されていて、よくあるTVの裏社会で生きる人にインタビューしたり、容認できないような行為をして街をウロつく若者をあつかったドキュメンタリーもののような様相を呈していました。 街への落書き行為は決して誉められたものではないのですが、それを意味あるプロジェクトにまで昇華させて、2011年には「世界を変えるアイデア」に授与される「TEDプライズ」を受賞しているのは、偏に彼の真摯な信念を持った取り組みの姿勢とプロデュース力だと思います。展覧会としては、第54回ヴィネチア・ビエンナーレ(2007年)、「時代の肖像展」(テート・モダン、2008年)、「パリ・デリー・ボンベイ展」(ポンピドゥー・センター、2011年)と言った錚々たる展覧会に参加していますが、個展はこれが始めて。これは、この展覧会に先駆けて、2012年11月に気仙沼から福島まで東北の被災地を巡り行った「インサイドアウト」計画が遂行された事による縁なのでしょう。
展覧会の構成は、彼の活動を時系列で追っていて、
  • Beginings  始まり
  • Portrait of a Generation  ある世代のポートレイト
  • Face2face  向き合って
  • Women are heroes  女性たちはヒーロー
  • Inside Out インサイドアウト・プロジェクト
と続きます。
どれも本当にエキサイティングで面白いのですが、『Women are heroes  女性たちはヒーロー』の映像作品がすごくよかったです。 あと、大伸ばしにした粗さが作り出す写真とドットの感じ。 あれがJRって感じですかね。 今回、会場で自分の写真を撮ってもらえるのですが、近くにいた大学生(?)のグループが、自分の写真をめいめい持って記念写真を撮ったりしていたのですが、写ってる顔もそれを持って笑っている本人達も、みんなイイ顔してたなー。
『世界各地で弾圧や貧困、差別のもとで暮らす人々を撮影し、それを現地の人たちと壁に貼る活動』 それ全てがJRの作品であるという事は、いかにも『現在』らしく『現在進行形』らしいです。 かつては、美術作品の墓場と言われた事もある美術館ですが、狭いギャラリーを飛び出し、スラム街の裏路地をギャラリーにして生まれた作品(プロジェクト)が、またギャラリー(美術館)に凱旋するのは、何かがループしているようでちょっと面白い感じではないですか。 ワタリウムにいて、何となくインターネットをブラウズしているような不思議な気分にもなりました。 リアルな空間もサイバーな空間も飛び越えて、忽然と顕れる人々のプロフィール。 そのテンポも小気味好い感じです。



INSIDE OUT PROJECT:
http://www.insideoutproject.net/


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# by sanaegogo | 2013-03-03 00:00 | art | Comments(0)
雪景色を求め 北の大地へ (後日談)
今日で2月も終わりですが、あっと言う間に春めいて来ました。とは言え、北の国では依然厳しい積雪に見舞われているらしく、私が札幌に行った時は概ね穏やかでとってもベストのタイミングだったようです。
この札幌旅行の間は、何とも言えない不思議な気分になっていて、北の大地に居ながらにして、何かが動き出し、何かが始まろうとしている、そんな気分でした。 滞在中、色々なところから色々な連絡が入り、物事が動き、そしてそれが3月になろうとしている今、流れ出そうとしています。北の国で感じた春の訪れ。 何かが芽吹いていく感覚。風景や気候の事ではありません。 自身の気持ちやステイタスです。("status"は、「地位」とか「組織内の高い立場」、ではなくて、自分自身の「変化する状況」や「立場」の意。) そう言う意味でも、何だかとってもいい旅だったような気がして来ました。後になってこの頃の思い出を振り返る時、きっと感慨深く忘れられないエピソードになっているとじんわりと思います。
3月から、新しい環境で、楽しみつつ頑張ります。 そして、Let me see what will happen.

























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(詳しくは 北の大地旅行 1日目 (小樽) からどうぞ ・・・・> コチラ )

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# by sanaegogo | 2013-02-28 00:00 | traveling in Japan | Comments(0)
雪景色を求め 北の大地へ (雪の円山動物園)
早いもので、今日もう帰ります。 札幌に来てすすきのにも大通り公園にも繁華街には寄り付かない旅ですが、今日は円山動物園に行く予定。 帰りの飛行機の時間が夜なので旭山動物園も行こうと思えば行けるのですが、今回はちょっと寂れた人のいない雪の動物園をイメージしてて、円山動物園に行く事にしました。 午前中、チェックアウトの時間までホテルでゆっくり。初日、2日目と雪の中を歩き廻ったので、普段使っていない筋肉がちょっとお疲れ気味。股関節と内腿のインナーマッスルに疲労感があると言う事は、知らず知らずのうちにボーゲンのような感じで歩いてたのかな。
ホテルを出て、東西線にのって円山公園駅へ。観光案内に円山公園から動物園までのバスの時刻表を貰いに行ったら、案内のお姉さんが『バスは便が悪いので、歩いていっても10分くらいですよ。』と言ってました。なので円山公園駅に着いたら、お姉さんの言うとおり動物がたくさん書いてある通路とサインボードを頼りに徒歩で動物園に向いました。実は、時刻表を見ると丁度いい、急げばちょっと乗れそうな時間にバスがあったのですが、バスターミナルの位置が判らないからこの時間的余裕でバス停まで行き着けるかが不明で、それよりも私は小樽でおっきな転倒をやらかしていて、(これはホント骨折したかと思った。かなり腫れてしまって、慌てて湿布を買って癒していた次第。) 急いで滑ってまた転んだらダメージに耐えられる自信がない・・・・、と思ったのです。(因みにこの転倒は、前後への転倒は歩き方に気を付けてたし心得てるのでダイジョブなのですが、雪の轍のように盛り上がった所に乗り上げて横に滑ったのです。 交差点の真ん中で。 なので、横から地面にどすんと落ち、腰から落ちました、横向きに。)
でも、これは間違いだったようで、この円山公園を突っ切って行く円山動物園までの道のりが今までのどの道よりも難関で悪路でした。確かに距離はそんなにないのだと思うのですが、北海道神宮 裏参道と言う道らしく、人の歩く道はまったく除雪がされておらず、人に踏み固められた気配もあまりなく、20~30分待ち時間があってもバスで行くべきだった・・・、と後悔しました。『歩きで行った方がいいですよ。』とお姉さんが笑顔で言ったのに・・・・。 『バカッ。』ツブヤキながら更に内腿に負担をかけつつ踏ん張り歩く雪の細道。そうして、途中何回か挫けそうになり立ち止まりつつ、円山動物園に到着しました。
円山公園で会いたかったのは、雪と共に生きる北の動物達。オオカミやシロクマ達。これまで晴れていた札幌はこの日は雪が降り頻ってます。雪の屋外で体に雪を積もらせながら静かに佇む動物達。北の動物は何故か寡黙で、凛としていて、そして健気。動物園の中は人影も疎らで、他の人を気にする事もなく心行くまでオオカミ達と見つめ合い語り合っていました。オオカミは何故だかこっちを見て、何かもの言いたげな眼をしているんですが、その心は知り難し、です。円山動物園。何だか切ない感じもしましたが、雪の動物園はひっそりとそこにありました。 夏はきっと子供連れとかで賑わうんでしょうね。









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(北の大地旅行 (後日談) に続く ・・・・> コチラ )

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# by sanaegogo | 2013-02-14 00:00 | traveling in Japan | Comments(0)
雪景色を求め 北の大地へ (北海道大学キャンパス)
モエレ沼から環状通東駅のターミナルまで戻るバスを待ちながら、ガラスのピラミッドの中でひと休み。冬の間はここのレストランは休業していて、持参したパンを齧りながら足の疲れを癒したりしました。
再びバスと電車を乗り継いで札幌まで戻ると既に夕方の4時近く。 二条市場を覗いてみるにはちょっと遅すぎるし。中途半端な時間だけど、北大のキャンパスまで足を延ばす事にしました。そう言えば、ちらっとですけど、大学を受験する時、日本でも外国でも雪の降るところにキャンパスがある大学に行きたいなー、と憧れた事がありました。 具体的にはここ北海道大学か金沢大学。どちらも国立なので、教科によって成績にムラがあった私には既に国立受験が無理な感じではありましたが。北海道大学のキャンパスはかつて訪れた事があるような気になっていましたが、多分それは記憶違いで、あれは北海道庁旧本庁舎だったような(?)だったのかなー。
北大はれっきとした観光地として位置づけられているようで、外部から来る学生以外の人に配る用のキャンパスマップまで用意されているのには驚きました。インフォメーションセンターみたいなセクションもあって、何かを案内してもらう前に『学生じゃないんですが・・・・』みたいな前置きは不要だったようです。そのせいかキャンパスの中は、学生と思しき人をはじめ、旅行者、社用で来てついでに観光してる(ような)人、もしくは学内に仕事で来てる人、近所の人、果ては犬の散歩をしている人など様々な感じの人が往来していました。 勿論、広いので、学内を車もばんばん行きかってます。 なので、まるでちょっとした北欧の田舎町のようにも見えてきて、森があったり、その森には川が流れていて西洋風の建物はそこかしこに建っていたりと、まるでノルウェーとかに来た気分になりました。 (ちなみに、ノルウェーには行ったことないのですが。 あくまで"イメージ"です。)
キャンパスのシンボルでもあり有名なポプラ並木にも行って来ましたが、ここは2004年9月の台風で甚大なダメージを受けたそうです。今ではかなり復活していますが、この台風で持ち堪えた開拓当時から植えられているものは、樹齢100年にもなるそうですよ。













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(北の大地旅行 3日目(丸山動物園) に続く ・・・・> コチラ )

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# by sanaegogo | 2013-02-13 00:01 | traveling in Japan | Comments(0)
雪景色を求め 北の大地へ (モエレ沼公園)
今度恵比寿の写美でマリオ・ジャコメッリの写真展があるみたいですね。(マリオ・ジャコメッリ 写真展 THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE 03/23(Sat) -2013/05/12(Sun) ) この旅行のひとつの目的に 一面の雪野原に行ってそこにぽつりぽつりとある雪に埋もれたもの達を撮って来たい、というのがありましたが、それはもしかしたら、(そこそこ)遠い記憶の中でこのジャコメッリの写真にインスパイアされていたのかも知れません。(ジャコメッリは2008年にも写美でやっていて、それを観に行きました。) そんな雪野原を求めて、モエレ沼公園に行って来ました。
モエレ沼公園は、彫刻家イサム・ノグチがその原型を設計した札幌市の郊外にある公園で、1988年に着工して2005年に完成したそうです。半円状のモエレ沼の内側を中心に、沼の岸も含んでいて、公園の中にはイサム・ノグチが構想していた「プレイマウンテン」の他、「モエレ山」「サクラの森」「モエレビーチ」「海の噴水」などが点在しています。このモエレ沼はもともとはゴミの埋立地だったそうです。そこを訪れたノグチは、予てから「大地を彫刻する」という着想を基に公園計画などに興味を持ってましたが、この地にそんなノグチの構想を具体化するべくダイナミックに設計されたのがモエレ沼公園です。
札幌から地下鉄東豊線に乗って環状通東駅まで。そこのバスターミナルから中央バスに乗ってモエレ公園東口まで。バスターミナルでのバスのアクセスが良ければ、1時間のローカルな旅です。この環状通東駅のバスターミナルは鉄道網ではカバーされていない地域に向うバスが集まるところで、石垣島で言ったら離島ターミナル、ニューヨークで言ったらバス・ディーポみたいなもんでしょうか。
モエレ公園東口で降りて、『モエレ沼公園こちら』みたいなサインボードを期待していた私は、それまでバスで進んできた道と雪だらけの歩道があるのみのその様子にちょっと唖然としました。 人もいないし、どこに何があるのか目印になるものがない。あたりは雪だらけで、夏だったら目印になると思われるモエレ山の姿もまるで判らない。ここまで来れば何とかなるだろうと高を括っていた私はうっすらと焦り始め、バス停を中心に20mくらいの範囲でウロウロすると自動販売機の中身を補充交換している人を発見。駆け寄って、『すみません。モエレ沼公園ってどっちの方向ですか?』と訪ねてみると、『私地元じゃないので、詳しくないんです。』と言うツレなすぎる返答。仕事で販売機の中身を替えるだけに来ているその人を責めても仕方がない。遭難覚悟で範囲を30mくらいに広げてみると公園の駐車場の入り口を発見。でも、公園の雰囲気の風景は見当たらず、覚悟を決めて車道から離れていく方向に伸びた真っ直ぐな道を歩いていく覚悟をした訳です。
疑いながら、15分くらい歩いたのかなー。 公園の入り口であるガラスのピラミッドについに到着。
そこは私の期待を裏切りませんでした。 一面の雪景色。広い雪原の中にぽつりぽつりと見える人影。 空気は冷たく緊張感があり、暖かなお陽様の光がありながらシンとした静寂も同時にそこにあります。 人々は遠くで動いてますが、まるでサイレント映画のようで、何処となく非現実的。かといって、自然のままの人を寄せ付けないような厳しさはなく、そこは明らかに何かが柔らかく形づくられています。思い描いていた風景に出逢えて、感激でしたが、この風景は今までもこれからもここにあり続けていて、ただ単に私が他所(よそ)からやってきただけなんだなー、と思ったりもしました。ここにあるのを知っている人と、これを求めてここに足を運んで来た人は、いつでもここで会える風景なんですね。 そんな風景をこれからもたくさん見つけたり、足を運んでこの眼で見たりしたいな、などとも思ったりしました。

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(北の大地旅行 北海道大学 キャンパス に続く ・・・・> コチラ )

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# by sanaegogo | 2013-02-13 00:00 | traveling in Japan | Comments(0)
雪景色を求め 北の大地へ (小樽)
雪景色が見たくて、この寒い中、今年もまた雪国への旅、札幌です。 札幌はこれまでに仕事や遊びで数回訪れてますが、今回は行きたいところは決まってるんですが、どこをどんな風に廻るかはふわっと決めて、郊外まで足を延ばすつもりで気儘に出かけてきました。 (まず最初の難関と言えば羽田から飛行機が飛び立てるかどうかです。)
札幌はこの日は良いお天気。新千歳空港も問題なし、と言う訳で時間通りに羽田を出発。すると12時半頃には新千歳空港に着きます。午後はたっぷりあるけど到着日なので中途半端。 それじゃ、先ずは何度も行った事のあるので半日使うにはもったいないなーと思っていた小樽に行こう! そしてお寿司を食べちゃおう!と思い立ち、札幌駅に向う電車を札幌で降りず、そのまま小樽まで。今回もキャリーバッグと共に急ぎ最初の目的地に向う運びとなりました。
札幌を過ぎて小樽に向うJR線(名前は知らない)の中で、車窓から外を見るのに好きな場所があります。トンネルに入る前、海沿いを、それもかなりの海沿いを走るところがあって、雪が降り積もった何日も利用者がなかったような小さな駅を通過したりします。(その場所に電車が止まっているのを未だかつて見た事がないです。) 電車の窓の下は直ぐに波打ち際、と言う感じのロケーションなのですが、真冬に訪れる時、いつもこの雪が波打ち際に降り積もった海の中で、何人かの人が波乗りをしているのです。 アザラシのような真っ黒のウェットスーツ(多分ドライスーツ)を来て、ボードに跨って静かに波を待っているんです。 これはもう、ビックリであり、感激、感涙ものです。何故そこまでして、波乗りをしてるんでしょうか。自分を追い込んで、ある種の世界へ到達するべく精神性を求めてるんでしょうか。それはまさに修行です。 たいして(と言っては失礼ですが)いい波も立ちそうにないその見るからに凍えるような海の中で、どんな心境でひたすらと波を待っているのか。測り知れない感じです。 でも、これ、もしかして、私がサーファーだと思っているだけで、もしかして海女さんとかなんでしょうか。北海道の一部(知床や羅臼とか)では1月もウニのシーズンらしいから、何となくここら辺でもそんなのがあるのかな、という感じもしてきてしまいました。
さて、小樽に着いたら、目的はお寿司を食べる事。勿論そのウニです。着いて早々遅いお昼ご飯で美味しいお寿司に舌鼓を打ち、小樽を散策しました。 この日は丁度「小樽雪灯りの路」が開催されていて、ぶらぶらと歩いているうちにあちこちにだんだんと灯りが灯されて、あっと言う間に暖かな光に街中が満たされました。 小樽は初めてじゃないけれど、こんな風な景色に遭遇したのは初めて。今まで知ってたのとはまた違った新しい街の印象に、何だか旅の幸先の良さを、札幌まで戻る電車の中でじんわりと感じたりしました。




























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(北の大地旅行 2日目(モエレ沼公園)に続く ・・・・> コチラ )

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# by sanaegogo | 2013-02-12 00:00 | traveling in Japan | Comments(0)
写真の視点から解き明かすフェルメール絵画の秘密
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フェルメール風。と言うか、どっちかと言うとレンブラント、でしょうか。

もうかなりのバックデートになるんですが、TOKYO INSTITUTE OF PHOTOGRAPHYの72Galleryでやった「写真の視点から解き明かすフェルメール絵画の秘密」と言うのを聞きに行ったので、その事もちゃんと書いておくことにします。講師は美術家で版画家で写真もやる北川健次さん。この方の事は失礼ながら存じあげていなかったのですが、クリストにオブジェ作品を誉められていたり(1993年)、ランボーを主題とした作品で、フランスで開催された展覧会にピカソ、クレー、ミロ、ジャコメッティ、 ジム・ダイン、メープルソープなどと並んで選出されたり(2008年)その実績は素晴らしい方のようです。
私は、絵画と写真を横断的に縦断的に扱った感じの話が好きなんですが、これもフェルメールを写真の視点から解き明かす、と銘打っていて、ちょっと関心を寄せた訳です。フェルメールはカメラの眼を持つ画家みたいな事をよく言われますが、ライティングの手法もはっきり確立されていない頃からまるでスタジオで撮影した写真のような絵画を残してますよね。事実、(このトークに行ってはっきり意識したのですが)、フェルメールの書いている室内は左に窓があり、そこから光が当たり、室内に色々な影や光のハレーションを起こしているのが圧倒的に多いんですよね。あの部屋はアトリエと言うか、フェルメールにとってスタジオだったんですね。
実は、話としては(氏の人柄もあり)とても面白かったのですが、期待したものとは内容が少し違っている気がして、で、今までここにアップもせずスルーしていたのですが、先日脳科学者の茂木健一郎氏がやはりフェルメール絵画について語っていて、その判り(解り)やすい話を聞いて、北川氏の言わんとしていた事が見えてきた、と言う次第で・・・・。北川さんは福井県の出身のようなのですが、こんな事を言っては何なのですが、独特のイントネーションでお話になり、あまり言葉が頭の中に入ってこなかったんですよね。あと、四方山話的に挿入されるエピソードと言うかコネタがあまりにも面白くて、話がどんどん膨らみ、流れ、色々楽しい話も伺えました。でも、それが本題をみっちりと言う感じではなくなってしまった要因のひとつとも言えるのですが、ま、総じて話は面白かったです。結局、物凄く要約してしまうと、フェルメールは写真で言うと常にピントが微妙にボケている状態を画面に描いていて、それを人間の生理行動としてピントを合わせて視ようと集中するところに、彼の画が人を惹き付ける要因があると言うのです。(北川さんの言いたかったこの結論は茂木さんが端的に解説していました。) フェルメールは、カメラで言うとピントを画面より前にズラシたところで合わせた画を描いているので、その場合、カメラだとボケが生じたところに光玉が出来るその場所に、ちゃんと光玉を描いていると言うのです。 なるほど、よく視てみると白い絵の具を使って、光の玉をチラチラと散りばめたりしています。 つまり、写真の原理で画を描いているんですね、やっぱり。 トークではフェルメールがカメラオブスクラを使用していたかどうかを実証と言うか体験するために実際にカメラオブスクラを覗かせてもらって、フェルメールが見たであろうその装置を通した時の光の神秘性を体験したりしたんですが、みな装置自体に盛り上がってしまったりしました。
実はそのトークの前に展示してある北側氏の写真を観ていたら、『今日の参加者ですか? 作者です。』とご本人に話しかけられたんですね。で、色々と話していて話の流れで、私が、『カメラの事はあまり詳しくないんです。』と言うフレーズを言うに至ったんですね。その後、氏がギャラリーの人に『今日は写真を撮る人どの位くるの?』と訊ねていたのを小耳に挟んだので、直前で話そうとしていた内容を変えたのかもしれません。写真撮らない人だと思われてしまったのね、きっと。
とは言え、このカメラオブスクラ体験と氏の話は面白かったのは間違いはないです。ただ、私はライティングの事とか、もっと聴きたかったんですね。





ご存知 ≪真珠の耳飾の少女≫です。
画面のあちこちに「白い光玉」描かれていますよね。
これは、真珠や眼が光に反射した時のハレーションぽいから、比較的判りやすいですよね。




これは、≪レースを編む女≫
これもなかなかファンの多い作品です。




これなんかは今まで何度も観てたけど気がつかなかったのですが、レースを編むその鈎針のところとか、
ちょっと光沢のあるような布の上とか、女の襟元とか、さりげなく「白い光玉」が描かれていてます。



これは、≪牛乳を注ぐ女≫
フェルメールを有名にした作品のひとつですよね。




この画はパンのところに「白い光玉」満載だそうなんですが、
ネットから画像をもらう限りでは、皆サイズが小さいので、そこまではつぶさに判りませんね。
(そもそもフェルメールは実際の画のサイズもかなり小さいから・・・・。)




話がどんどん流れていって別の話題にすり替わっていったひとつのトピックとして、この画のこの部分。
ただの壁のシミ・汚れなんですが、何だか海辺の風景がのようではないですか?
何でもダリ作のこの画にそっくりな画があるそうで、氏はしきりに、
『ダリはこの画のこの部分を知っていたに違いない。それであの画を描いたのだ。』
と熱く語っていました。画の題名もきちんとおっしゃっていたのですが、
その福井のイントネーションで自分の知らない言葉だったので、
頭の中で耳から聞いた音(声)が文字として再生されなかったのです。
何て言ってたんだろう。 調べようとしてたんだけど、調べようがありませんでした。


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# by sanaegogo | 2013-02-10 00:00 | activity | Comments(0)
Robert Mapplethorpe (ロバート・メイプルソープ) flowers
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折しもレスリー・キーが問題の男性写真集で警視庁保安課に逮捕された事件が数日前にありました。まあ、それと同列に扱っては余りにも失礼、次元が違うのですが、かつて刺激的で過激な性描写の写真の数々を世に残してこの夭逝したロバート・メイプルソープの写真展に行って来ました。しかし、今回は彼のそういったシリーズではなくて、彼が残した花の写真です。自分自身、性器が露出した系の写真は男でも女でも苦手なのですが、(とは言え、エゴン・シーレとかは好きなのですが・・・(矛盾))、今回はその体(てい)のものではなく、私が好きな系、花の写真です。メイプルソープは生涯いくつかのシリーズの写真を精力的に撮影してます。主に4つ。それはスティルライフ、ポートレート、ヌード、セックスの4つで、今回はそのうちのスティルライフの写真、印象的に構図の中に配置された花の写真展です。

Robert Mapplethorpe (ロバート・メイプルソープ)
flowers 写真展
■会期:2013年2月1日(金)~14日(木)
■会場:別館2階=西武ギャラリー

メイプルソープのシリーズのうち、SMプレイやゲイの絡みの写真などは彼のいち側面である過激なセンセーションを物語るようなものですが、彼の花の写真だけは、何故だかそこに静かな精神世界があり、構図と配置を旨とした日本の華道や日本庭園の作庭のようなものと通じるような気がしていて、自分の中では過激なセックスやヌードを撮った他の写真とは一線を画しているような気になっています。と言っても、前に挙げた理由から、パンクな感じの生々しい写真はあんまり見ていないので、それほど彼の写真を数多く見ている訳ではなく、メイプルソープと認識して見てきた写真の殆どが花の写真だったという背景が個人的にあります。(あとはポートレイトも若干かな。)
殆どがスクエアフォーマットで統一された100点余りの写真達が順路にそって連なっていく様はまさに圧巻で、その点数の多さにもかかわらず、花の質感・透け感、花弁の奥に作り出された陰影、活けられた花全体のフォルムなどが均質になっていて、撮影技術のみならずその画面を作り出す技量の卓越さには眼を奪われました。写真展や写真集の構成を考える時、ストーリーやその意味、意図などを(後付でも?) 何か明確にして打ち出して観る人に訴えないといけない、との考えに固執しがちな一面がありますが、メイプルソープのこれらの花の写真にはそう言った説明的なものは一切無く、あえて言うならその根底に一貫して流れているのは彼の持つ美意識と対象となる花に投影した自身の心象世界があるのみ、と言った感があります。その鉄壁の美意識が、ともすればエロくグロいだけになりがちなショッキングな性的素材の写真を撮るにしても、彼の写真をある種の芸術性が顕れているものに高めている、と言った事もあるようです。光、影、花、それをとり巻く空間、余白、全てが絶妙にして完璧でした。メイプルソープの花というと黒く潰した背景にそこだけ光を受けて浮かび上がった花、という印象が強かったんですが、今回この「Flowers」を観て、その背景に映る影の様相もとても印象的でした。どこの何が落としている影なのだかはその写真からは知れないのですが、その影の形状、作り出す構図・配置もまた完璧でした。花の作り出す丸みや柔らかいアールの花びら、茎のしな垂れようとは対照的に幾何学的な影が背景に写しこまれていて、『計算』と言う言葉は似つかわしくないのかも知れませんが、まさに「The Complete Flowers」と言えるのでしょう。そのcompletedな構図が試行を尽くされた上に生まれたものか、はたまた直感的なものなのかは知る由もありませんが、そこに彼の美意識の全てが集約されています。
デパートの催事場としては、順路も工夫さえていて変化がありました。今回はカラーの写真も数点展示されていて、カラーのものを見たのは初めてでしたが、これも良かったです。

このチューリップ(1987年)は、彼自身が自分の余命を知った後に自身の生きた証として撮影されたものだそうです。メイプルソープは1989年3月9日に42歳の若さでエイズによりこの世を去っています。(1986年にエイズの宣告を受けたそうです。) 当時、ゲイカルチャーや性の解放運動をアートとして表現し後押しするような風潮がありましたが、メイプルソープもこの流れに乗っていたひとりだったそうです。そのゲイカルチャーの美意識が彼を早世させることになったのは、なんとも皮肉な話だと思います。


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# by sanaegogo | 2013-02-08 00:00 | art | Comments(0)
荒木経惟展 "淫夢"
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代官山のTSUTAYAでやっている荒木経惟展 "淫夢" を観ました。『写真画報』のイベントでアラーキーがIMPOSSIBLE社のポラロイドで撮影して来た写真を展示したもの。この"淫夢"と言うタイトルはIMPOSSIBLE社にちなんでいるそうです。

荒木経惟展 "淫夢"
2013年1月29日(火) - 2月17日(日)
蔦屋書店2号館 1階 ブックフロア
http://tsite.jp/daikanyama/event/001505.html

アラーキー、と気安く呼べるほど荒木経惟については、詳しくなく追っかけたりはしていません。だいたいの色々なエピソードは知ってますが、写真集などを手にとって観た事とかはあまりないんですね。 まぁ、どちらかと言うと、絵画のような、テキスタイルデザインのような、映画の一場面のような写真に眼が行きがちなので、当然の事といえば当然かも。好きか嫌いかを問われたら、嫌いではないです。でも、大好きでもない感じ。強いて言えば、苦手。 「アラーキー、いいよねぇ。」と言う感じではなく、その作品群の全貌をよく知らないのです。 あまりにもストレートに色々なものを提示してくるから、受け留める体力が私にはないのかもしれません。ともかくも、今更 荒木経惟、と表するのも何となくそぐわない気もするので、ここでは、アラーキーと呼ばせていただきます。
アラーキーは、その制作の点数が多い写真家としても有名で、作品のテーマによってカメラを替える事でも知られています。そして、実は、インスタントフィルムでの撮影も以前から行っているそうです。ヌードや妖しいポーズのポートレイトなど、アラーキーの写真というとふっと思い浮かぶある種の世界がありますが、撮影した後、誰の眼にも触れる事なくこっそりと確認できて大切にしまっておけるインスタントフィルムで撮影していたと知ると、雰囲気がいっそう秘密めいた感じに助長されて、ますますエッチっぽい感じがしました。展示されている写真の中には妖しいイモリのような生物に全周包囲されてにじり寄られている少女の人形や股を広げて陰部を曝け出している女性の写真もありました。まあ正直、あのポーズの女の人を撮影する衝動に駆られる男性フォトグラファーの気持ちは未だに今ひとつ理解し難く、そこに何を観るのか、逃れ様もない真実、なにか崇拝する気持ちにも似たもの、とでも言ったところなのでしょうか、そこまでまだ私の理解は及んでいないようです。イモリと女の子の何枚かの写真は、アラーキーが少年のように頭の中でにわかストーリーを作りながらあれこれ動かして撮ってたんだろうか、と思うとちょっと可愛らしい感じがしました。
写真画報には記載してあったのかも知れませんが、これらの写真が最近撮られたものなのか、どの位以前のものなのかは判りません。インスタントフィルムの製造が2008年に終了しているのでその辺り、5年前そこそこの話なのかも知れませんが、このノスタルジックな感じはスゴイですよね。デジタルの進歩に伴って、写真で細部にわたって仔細に再現できるようになりましたが、これらの写真の画面は再現どころか、ある意味きちんと再現されていないようであり、それを見ると人は見たままの様に鮮明だったり仔細だったりしないので、なんだかもやもやとした気分になるんだと思います。 そのもやもや感を「昔懐かしい感じ」「ノスタルジック」「味がある」など表現は様々ですが、そんな風に感じるんだと思います。 デジタルの紛れも無く再現した真実を「どうだっ!」と提示したようなものは、ある意味視覚にとって何か余地や余白、バッファーのようなものが無くて、ある種の刺激がないのだと思います。何か再現しきれていないもやもや感。昨今、デジタルのハイテク技術を駆使して、撮った写真をローテクの頃の再現しきれていない感じに味付けをするのは、何だか矛盾を孕んでいますが、判るようで判らないもやもやをしたい欲求を抱えている人間の性分としては当然の回帰現象なのかも知れません。そんな事を考えました。



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# by sanaegogo | 2013-02-05 00:00 | art | Comments(0)
こころの眼 L'Imaginaire d'après nature.
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今日はもう3月3日で、恐ろしいほどのバックデート&遅筆になってしまいましたが、この日、アンリ・カルティエ=ブレッソンの「こころの眼」を観に行って来ました。

アンリ カルティエ ブレッソン Henri Cartier‐Bresson
こころの眼 L'Imaginaire d'après nature.
2013年1月8日(金) ― 2月10日(日)
12時 ― 20時
CHANEL GINZA NEXUS HALL

最近自分の変化も鑑みて、以前は自分が写真を撮る事に精一杯でそれに尽力してましたが、ここ1年でかなり色々(自分としては)新しい作家・写真家を知ったりして。 写真展といえば20代の頃キャパやこのブレッソン、ドアノー、ブラッサイ、マン・レイ、エリオット・アーウィットなどを観に行ったりしてはいたものの、そこで流れが止まっていた感じもあるので、今となっては、例えば『写真撮ってるの。』とか自分の事を言い、『どんな作家が好き?』と聞かれ、『ブレッソンとかブラッサイ。』とか答えると前世紀の遺物と思われやしまいか?というような懸念を持ったりしてました。(思えば、みんなモノクロでフィルムがメインの人たちだ。) その後、色々な同時代の写真家を知るようになり、ワタシの中のアーカイブもかなり増えてきましたが、やっぱり思ったのが、月並みですが好いモノは好い、好きなものは好きだと言う事でしょうか。 これを観に行って、数年前に観た時と何か感じ方が違ったりするのかな、色褪せて見えたりつまらなく見えたりするのかな、などと思ってたのですが、古くから親しくしていた友人に久しぶりに再会したような、そんな気分になりました。 そしてこれからも、『好きな写真家は?』と聞かれたら、『ブレッソンとかアーウィット』と胸を張って言おう!と思いました。 好きなモノは増えるけど減らないのです。逆に言うと色々と以前よりは知恵がついた今でさえ、ブレッソンはワタシの中で色褪せてはいなかった、と思える写真展でした。
今回の写真展では、「決定的瞬間」 「ジャーナリスト的旅の写真」 「アーティストのご友人のポートレイト」 など、数は少なかったですが ブレッソンが網羅されてましたよ。展覧会名は彼の実際の著書からとられていて、決定的瞬間を撮影するに至った彼の撮影術(カメラの操作の事だけでなく)の軸となっている幼少期からの彼の『眼』を書き下ろしたものです。今はしょっちゅうは会えないけれど、昔大好きだった大切な友達。今では自分の心を占めている時間も少なくなってはしまったけど、決して忘れる事は出来ない懐かしい恋人。そんな感じの空間でした。

CHANEL GINZA NEXUS HALL:
http://www.chanel-ginza.com/nexushall/2013/hcb/





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# by sanaegogo | 2013-02-05 00:00 | art | Comments(0)