平林奈緒美の国連萌え に萌える!
平林奈緒美さんといえば、その名前をご存じの方も多いかと思いますが、MUJI、東芝dynabook、journal standardなどのグラフィックを手掛けたグラフィックデザイナーです。が、しかし、やはりこの名前を聞いて思いつくのは資生堂時代の仕事でしょう。ロンドンでの1年間のデザインスタジオ「MadeThought」への出向を経て2004年に資生堂を退職しています。 その後のアートディレクターとしてのご活躍は皆さまご承知の通りです。資生堂時代は自分の名前で仕事をしていた訳ではないのですが、その後、帰国後の2005 年1月に独立してからは、それ以降の活躍に伴って、資生堂時代の仕事にも脚光を浴びるようになったみたいです。この日は、今通っている芸術学舎の講座で、『写真集を見る、読む、楽しむ。そして作る 自分だけの写真集をつくるところまで!』の講師で「写真をレイアウトする、印刷する」と題してお話をいただきました。
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アートディレクターという仕事にとって、写真は何かの目的のための素材であることが多い。故に、写真そのものを忠実に再現するだけでなく、印刷方法であったり、製本であったりという方法で、そこに演出を加えることもあります。写真を紙に落とし込む、ということについて、お話をしたいと思います。
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『写真を紙に落とし込む』ですか。 これまで何度となく行ってきた作業ですが、こんな風に捉えた事はなかったので、(と言うか、それ自体を何か定義付けるような明確な目的意識とか持ってなかったなぁ。) とても楽しみにしていたのです。内容は予想に違わずとても面白く、ご本人のキュートな雰囲気とも相まって、あっという間に時間は過ぎていきました。フクヘンこと鈴木芳雄さんとの掛け合い(?)もベストマッチで、2人ともとても楽しそうにお話いただきました。(と言ってもご本人は人前で話をするのはとっても苦手で、ともすれば、たとえ少人数でも、人に会うのも気が向かない、と言っていました。)話が弾むというのは、話があちこちにぽんぽんと展開するという事で、要点を、と言われてもなかなか難しいのですが、シンプルなテーマである『写真を紙に落とし込む』と言う事は十分に伝わりました。 それにしても、この『写真を紙に落とし込む』という端的で明白なテーマのとりかたも 平林さんのお人柄を表しているようですね!

アート本とアイドル・グラビア本とフォトブック(写真集) 初めての融合
平林さんが初めて写真集というものについて意識させられた写真集。それは、マドンナの「SEX」。1992年10月にワーナーブックスより発売されて、日本では1992年11月に同朋舎出版から発売されていますが、これは修正版で輸入は事実上禁止されました。表紙はアルミで出来ていて、デザインに秀でた秀逸な装丁、これまでの常識に囚われない自由な構成、有名人の奔放な振る舞い、おまけに撮影したのはスティーブン・マイゼル、という、マドンナという超一流のアイコンを撮影して纏めた本を見て「アート本としての括りにも写真集としての括りにもなり得るんだ」、と平林さんは思ったそうです。


印刷物が好きならペン型マイクロスコープを持つべし
ポケットマイクロスコープともいい、印刷物の網点を見るものです。印刷物の網点を見るのに必要な倍率は20倍ほどなので、25~30倍くらいのものを持っていると楽しいそうです。 50倍、100倍もあって網点も大きく見えるそうですが、見える範囲が狭く扱いが難しいので、相当明確な用途がないと不要かも。 網点が見えない時はグラビア印刷で、雑誌の世界で言う「グラビア」というのは「芸術印刷といえばグラビア」だった時代の名残だそうです。網点が見えるのは、オフセット印刷で、マイクロスコープでオフセット印刷を覗いてみると、CMYKの世界が広がり、それを見ているだけで写真集を作るに伴った色々な知恵や事情が見て取れる、と平林さんは言います。「ただし、本屋でやったら嫌われるだろうなぁ」(一同爆笑) とは、平林さんご本人の談です。


予算のない中での仕事との向き合い方
「製作費」というちょっと生々しい話も出ました。 いつも予算が潤沢な仕事ばかりではないので、常にlow-cost/high-qualityの工夫をしているそうです。それは、ただ安く上げることを目標とするのではなく、high-costを承知でもある部分は譲れないものがあり、それを実現するために他の費用を抑えるといったもので、ページのPP貼り、写真の上だけにPP加工を施したもの、バーコ印刷、金銀の発色をきれいにしたいなら比較的廉価な女神インキのものを指定せよ、など、第1線で制作にかかわってきた人ならではの四方山話を聞くことが出来ました。 ご自身の信念としている「今までのノウハウに頼らず 一から仕事に向き合う」というのもこの姿勢の顕れなのですね。


写真集とアート本の境界線
写真集とアート本との明確な違いは、自分で調査や掘り下げの作業をしてその結果というか集大成として生み出されるものが写真集なのではないか、と語っていました。期せずして平林さんの口からも、カメラを使用しない写真とか、ファウンドフォトの話が出ました。 平林さんご本人はベッヒャーの給水塔のような写真集が好きだそうです。 カタログのように同じカテゴリーの対象物が同じ調子で撮影されたものが淡々としかもしつこいくらいに収められている写真集に萌えるそうです。 ティルマンスのコンコルドや杉本博史のジオラマシリーズについては、フクヘンと大いに盛り上がっていました。 そして、最近は医療系の博物館にハマっていて、人知れず素材を集めて全国各地の医療系の博物館を巡っているそうですが、そんなのあるんですか? 見たことないですが・・・。(笑) この時ティスマンスの写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』についても楽しそうに語ってました! (私も好き!)


e0168781_324138.jpgさて、そんなこんなですが、今日最もフォーカスしたいのが、この平林奈緒美さんの考えるカタログ的写真集の具体的事例 「(fig.1) UN UNITED NATIONS - COLLECTION, TEXT and IMAGES」です。 これは、普段は仕事としてのアートディレクションはしているけど、自分の作品は創った事がない、という平林さんの処女作(笑)で、BCCKSが立ち上がった時に依頼されて無理やり創った写真集だそうで、国連萌えでもある平林さんの「淡々としかもしつこいくらいに収められている写真集」というワールドを具現化したものです。 これが物凄くイイッ! ワタシ的には、その萌えている姿に萌えました。これには平林さんが密かに収集した国連軍の車両や兵器、それにNYの国連本部の中の様子、代々の国連総長などの肖像写真が収められていて、国連のツアーで参加したという国連軍の出で立ちをした コスプレ中の平林さんまでいて、内容は笑えるのですが、実際は笑えないほどスタイリッシュです。 唸ってしまいます。 これを冗談っぽく作れるなんてすごすぎる。 ミニカーを撮影した平林さんご本人による写真もまた素晴らしい! 写真は普段から趣味、というスタンスではなく、あまり撮影はしないそうなのですが、国連軍の車両などが同じ光で、同じように淡々と羅列されている様はミニマムで構成されるカタログ式写真集として充分に成立しています。 写真そのものに訴えかける力がないとなかなかこれは成立しないと思うのですが、「国連が好きすぎて」という平林さんの気持ちの顕れなのだと思うのです。






































実にブレや迷いがない明確なテーマを持った写真集です。 実に潔い。 こんな写真集もやっぱり「あり!」なんだなぁ、と今更ながらに気づかせてくれる貴重な出会いでした。一方で、手の込んだ構成やともすれば難解な制作理念みたいなものがなくても、作品として通用する機会は充分にあるんだ、という編集というもの重要性を改めて目の前に提示されたような気もしたりしました。

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# by sanaegogo | 2014-05-14 00:00 | activity | Comments(0)
「食」が楽しい!! いちはら ART×MIX
今年のGWは前半の連休も後半の連休もどっちも天気はばっちりという前評判だったのに、よりによって今日はすっかり曇天の空模様。そんな中、千葉県の市原まで出かけて来ました。市原は友人の実家があって、一度遊びに行ったことがあるんだけど、その時散策した渓流の谷間とか、畦道とか、雑木林、小湊鉄道の線路とか、里山の豊かな自然、清々しい空気の気持ちの良さをとてもよく覚えています。 その市原で地域を巻き込んだ芸術祭が開催されています。 その名も、『ICHIHARA ART×MIX(いちはらアート×ミックス)』。第1回だと言うので、作品数はそんなに多くなかったのですが、小湊鉄道を中心としてバスで各エリアを巡って、“雨ニモ負ケズ”楽しんできました。

名称:中房総国際芸術祭いちはらアート×ミックス
会期:2014年3 月21日[金]- 5月11日[日] 52 日間[会期中無休]
会場:メイン会場:千葉県市原市南部地域[小湊鐵道上総牛久駅から養老渓谷駅の間]
主催:中房総国際芸術祭いちはらアート× ミックス実行委員会[会長 佐久間隆義(市原市長)]
協力:小湊鐵道株式会社
http://ichihara-artmix.jp/

天気が良かったら、田植えが終わった水田の水面に青空が映り込む写真でも撮りたかったのですが、この日は生憎の雨が降ったりやんだりで。それでも傘を広げることなく、帽子で雨除けで凌げたのですが、しかし、ちょっと寒かったです!



雨粒に濡れた睡蓮の葉っぱ。この日はこんなのが似合う感じでした。


ここ数年、地域の村おこしとして芸術祭やアートフェスを開催するところが増えています。越後妻有のトリエンナーレや瀬戸内芸術祭もだんだん有名になってきましたが、いちはらアート×ミックスもそれを目指しているひとつ。主催者の構成員には市長さんのお名前も見受けられます。 このいちはらアート×ミックスは越後妻有を立ち上げた北川フラムさんが企画した芸術祭で、廃校になった小学校の活用や小湊鐵道の列車やバスなど交通の活用などという目的はまあよくある話だなぁ、と思うのですが、ワタシが特徴的だなーと思ったのは、『食』に関することに結構フォーカスとアピールがあることです。地元で採れるおいしいお米やピーナッツ(落花生)を使ったお弁当やカフェご飯を各ポイントで食べることが出来て、各人それを目的に計画を立てる、みたいな、食いしん坊たちの食のスタンプラリーみたいな感じなのが面白いです。勿論、第1回目なので、そんなに豊富なバラエティーはないのですが、今後もこのコンセプトで発展してったら、越後妻有や瀬戸内とは全く違ったアプローチで面白いと思います。



今回みんなの争奪戦(?) (笑)が繰り広げられたのが、このわっぱめし。 左かららっかわっぱなっぱわっぱまっかわっぱ。「らっか」は落花生の「らっか」でアート×ミックススタートの上総牛久駅に売っていて、ここでしか手に入りません。「なっぱらっか」は「なっぱの三色わっぱ」の事で、里見駅に売ってます。 そして、養老渓谷駅 の「まっかわっぱ」。ワタシ達はこのまっかわっぱを狙っていたのですが、養老渓谷駅は小湊鉄道の(芸術祭では)終点の駅。 それに賭けることにしたのですが、途中で計画変更を余儀なくされたのは、想像に難くないと思います・・・・。 (わっぱめしも作品のひとつとカウントされていて、スマイルズ 生活価値拡充研究所 の作品になっています。)



上総牛久駅まで小湊鉄道に乗ってきて、参加者はここで思い思いに行動開始。




長閑な単線の小湊鉄道。スタンド・バイ・ミーの世界ですね。


さて、上総牛久駅の案内所で、指輪ホテルが小湊鉄道の車中で上演するという『あんなに愛しあったのに~中房総小湊鐵道篇』の当日チケットを手に入れる計画だったのですが、朝の7時から並んでいた人もいたほどの人気で敢え無く撃沈! かなり良い評判を聞いていたので残念です。 潔く諦めてひとつめの作品『内田未来楽校』までバスの旅。 会期中は市バスを活用した周遊バスが走っています。



関東地方、しかも東京の隣の県なのに こんな風に木造平屋の校舎が残ってるなんて、なんだかスゴイ。
本格的な田舎です。


内田未来学校の次は湖畔美術館へ。 晴れていたら屋外の櫓のような作品とかも面白かったんだろうけど、この最大の降りはこの湖畔美術館で迎えてしまい・・・。美術館のショップで 大多喜産バジル&市原産トマトのビスコッティをお土産に買いました。
この辺りで養老渓谷までお昼ご飯を我慢するのは危険ではないか? という懸念が生まれていて、美術館のカフェがいい感じのところだったらそこでランチにしてゆっくりしよう!と計画変更をしていたのですが、あまりの雨でカフェは激混み、アート×ミックス的なカフェなら良かったんですが、ピッツェリアだったので、里見の駅まで雨が降ってるうちに移動してしまい、なっぱわっぱを手に入れるべく動くことにしました。そして周遊バスで里見駅へ。
バスの便は結構良い感じです。まぁ、先ほども少し述べましたが、結局のところ、里見駅に到着した時にはなっぱわっぱは売り切れており、お母さんがやさしく結んだおにぎりと胡瓜の浅漬けを食べることに。気の毒がったお母さんがお味噌汁をサービスしてくれました。 アート×ミックスは地元の人や参加する人と触れ合うことも楽しみ方のひとつになっていますが、里見の駅でおじさんやおばさんとおしゃべりしたのは楽しかった。
そしてこの里見駅で本降りになってしまった雨が止むのを待っていると、何やら辺りがザワついてきて・・・・。



ゾンビ 登場!!写真撮らせてもらいました!


朝出発の時、既に完売していた指輪ホテルの当日チケット。この里見駅は単線の小湊線が上りと下りのすれ違いの待合の駅らしく、そのすれ違いの停車時間を利用して上演のために走らせている特別列車にさらにゾンビが乗り込んで停車中に何かパフォーマンスをするらしく、列車に乗ることは出来ませんでしたが、ラッキーにもゾンビ追加投入のパフォーマンスを見ることが出来ました。



コーヒー飲んでスタンバッてたゾンビ姉さんを含め、3人のゾンビが・・・。
乗り込み・・・。




電車は走り去って行きました・・・。




指輪ホテルの臨時列車を見送ったら小湊線はあと1時間ほど来ないので、バスで移動。 お腹がまだちょっと物足りないので、山登里食堂まで。ぽのわプロジェクトがやっている『とぬま』というプログラムで、カフェでシシッチャ(いのしし)サンド、猪肉の山登里カレーなどが食べられます。 が、ワタシ達はサバサンドというなんとも魅力的なサンドイッチをいただく事にしました。



これがサバサンド。焼いた干物のサバがサンドしてあって、ジューシーで美味しかったです!


何故、市原でサバなのか? イノシシは解る。お店のお兄さんに尋ねてみてもいまひとつ「なるほどっ!」という答えは得られませんでしたが、写真を撮ってなくて残念なんですけど一緒に飲んだジンジャーエールの生姜のたっぷりさにワタシとしては大満足でした。 (でもあれは、生姜の苦手な人には大量すぎるのでは? ま、でも生姜苦手ならジンジャーエールは敢えて飲まないのでしょうね。)
おっと次のバスの時間だ!と山登里食堂を出て養老渓谷まで。途中間違ったところでバスを降りてしまいアップダウンの道をテクテク歩く羽目になったのですが、やっと到着。養老渓谷駅です。



趣のある駅舎。
ここは養老渓谷のハイキングの出発駅で、長閑な山間の風景が広がってました。




まっすぐに伸びる線路




養老渓谷


そのまま10分ほど歩いて あそうばらの谷 まで。大巻伸嗣の『おおきな家』という作品があります。 そこに行くまでに立ち寄ったのは、開発好明の『モグラTV 』には笑いました。畑の中の穴の中にモグラの姿をした開発さんが来る人を待ち構えておしゃべりをしてくれます。 穴の中はスタジオになっていて番組がある時は市長さんとかもゲストに来て、穴の中に入るそうです。(笑) この人、1日中誰か人が来るのをこの穴の中で待ってるみたいなんです。 厭世的雰囲気を醸したモグラとのおしゃべり。シュールです。



モグラTV


アートハウスあそうばらの谷」は、ART×MIXのための作品ではなく、養老渓谷にある本来の古民家の雰囲気をできるだけ残しつつ、古民家とアートの融合を図る新しい試みとして改修された築100年以上の古民家ギャラリーです。 企画展もやっているギャラリーで『大きな家』はART×MIXのために制作された作品のようです。靴を脱いで暗く照明の落とされた屋敷の中を歩いていくのですが、屋敷の中にいくつか展示されていた中の最後の作品がとても印象的でした。撮影が禁止だったので説明だけになりますが、板の間の高い梁の上からぼーっと白い球体がゆっくりと生まれ降りてきます。 空中を漂うようにしてそこにある白い球はシャボン玉で、中に何か煙かドライアイスか粒子の細かい何かが入っているようで、球は地面に到着するとふわっと壊れてしまい、そしてふわっと白い何かが立ち昇ります。そしてゆっくりと拡散して消えるのですが、ここだけ時間がゆっくり流れているようで、音もなく静かで、しゃがんでその球の生まれては消えするのを見ていると気持ちが知らず知らず鎮まってくる気がします。こう言う作品、本当に好きなんです。 「漂う」「散る」「消える」それが静かに静かに繰り返される感じ。シャボン玉の中の白い煙のようなものは、空気(大気)より比重が重いのでゆっくりと降りてくるのだと思うのですが、こんな風に科学、化学あと大げさに言えば自然の摂理とか、自然現象、神羅万象を取り込んだ作品であることが、ワタシが好きなもう一つの理由です。



古民家を前庭から撮影。雨が上がったばかりなので、緑が瑞々しいです。



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田植えが終わったばかりの水田。整然と均一な畝の様子が素晴らしい!


里山のピクニックの最後にまたちょっと休憩ということで、ここでもまた「食」作品を堪能・・・・しようと、スマイルズ生活価値拡充研究所の『山覚俵家』にお邪魔することにしました。 ご飯の時間は終わっているのですが、なんかちょっと甘いものでも、と。ここは、季節のまぜご飯セット を出していて、これもとってもおいしそうでした。 お米が自慢だそうです。 残念ながらいくつかあった甘いものは完売してしまっていましたが、ちょっと寒さで冷えていたので、コーヒーをいただいて温まりました。 ちなみにコーヒーはお替り自由。うれしい心遣いです。





働いていたお母さんたちは皆さん どこか垢抜けていて こなれた会話も素敵でした。


ICHIHARA ART×MIXは今年が第1回目で、展示してある作品数は数は少ないですが、「なっぱすごろく 」と銘打って限定食みたいな素朴で美味しいものを食べ歩くという企画も面白いし、各所各所で地元の人や運営をしている皆さんとおしゃべりが出来たのが楽しかったです。小湊鉄道は鉄ちゃん達に人気があるらしいし、養老渓谷は風光明媚でハイキングが最高らしいし、田んぼの畔を散歩するのも楽しそう。 そして、会期も残りわずかですが、これから行く人はお昼に何を食べるかを軸として計画を建てることを強くおススメします。(笑) 今後の盛り上がりに期待します!

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# by sanaegogo | 2014-05-05 00:00 | activity | Comments(0)
『機械になりたい』 アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
 


今日は森美術館でやってるアンディ・ウォーホル展。 終了間際だし、G.W.だし、さぞ混んでるだろうなーと思ってたんですが、予想に違わず・・・・・、混んでました。 アンディ・ウォーホルは、(誰しもがそうだと思うのですが)、アート好きな人にとっては一度は通る道です。 斯く言うワタシも過去にどこかでやったウォーホル展に行ったりしてて、クローゼットの奥底を探れば図録やポストカードが出てきます。

森美術館10周年記念展
アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
会期:2014年2月1日-5月6日
会場:森美術館


人気も高く、これまで様々ウォーホルをテーマに展覧会が開催されて来ましたが、今回は展示作品点数約400点。初期から晩年まで包括的に紹介された日本では20年ぶり過去最大級の回顧展だそうで、2012年からシンガポール、香港、上海、北京とアジア各国を巡回してこの度東京にやって来ました。ウォーホルといえば、シルクスクリーンで制作された作品があまりにも有名で、というか、それをもって私達は『アンディ・ウォーホル』というものを認識している感がありますが、”初期から晩年まで”とうたっているその言葉どおり、並べられた作品はシルクスクリーンの他にドローイング、スケッチ、写真、保管していた様々な品、映像作品、広告マンとして仕事をしていた頃のビジネスアート、他のアーティストとのコラボレーション作品と本当に多岐に亘っていて、じっくり観るのに結構な時間がかかりました。 あと特筆すべきはセクションが変わる所々に彼の残した含蓄ある語録の数々です。 これは面白かったです。必見です。 その時その時の彼の思考のベクトルが刻み込まれた短いテキストは、作品の流れと合わせて彼の生きた様を顕していて、その人物像や人生観までも際立たせています。サブタイトルになっている「永遠の15分」は、彼の語録の中の

In the future everyone will be world-famous for 15 minutes.
( 誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。)

と言うもの(1968年)から来ていますが、これが実に深いですね。 謎めいていますね。

退屈を好み・・・・、

I like boring things.
( 退屈なものが好きなんだ。)

オリジナルではなく他人と同じであることを良しとし・・・・・、

But why should I be original? Why can't I be non-original?
( なんでオリジナルじゃないといけないの?他の人と同じがなんでいけないんだ?)

I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.
( みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ。)

マクドナルドを世の中で一番美しいものと言い放つ・・・・、

The most beautiful thing in Tokyo is McDonald's.The most beautiful thing in Stockholm is McDonald's.The most beautiful thing in Florence is McDonald's. Peking and Moscow don't have anything beautiful yet.
( 東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない。)

そんな ウォーホル。 名声を得て不動のものにしてもなお、誰しも(誰でも)有名になれる、と預言めいた事を言う。 あまりにも突出した個性をもってしまった才能の没個性への回帰願望みたいなものなのでしょうか。 いずれにしても自分自身の好むと好まざるとに関わらず、彼自身が超一流の「オリジナル」となっている事には変わりはありません。
そして、展覧会を進んでいくと、こんなテキストに出逢います。

It’s the place where my prediction from the sixties finally came true: “In the future everyone will be famous for fifteen minutes.” I’m bored with that line. I never use it anymore. My new line is, “In fifteen minutes everybody will be famous.”
( 『誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう』僕は60年代にそう予言したけど、それはすでに現実になった。僕はもう、この言葉には飽き飽きしているんだ。もう二度と言わない。これからはこう言う。『誰もが15分以内に有名人になれる、そんな時代が来るだろう』。)

とは、1970年代の末の言葉。突然にこう言い放つのですが、『誰もが15分間なら有名人になれる。』のフレーズも未消化なワタシにはその真意は依然よく解りません。それが『15分以内に』に変わったのはどういう心境の変化なのでしょうか。 「有名になるのは特別な事ではない、誰にでもチャンスはあるんだ」、と言うポジティブなメッセージにも聞こえるし、一方で、言った本人は大して意味を考えて口にしたのではないような気もします。ウォーホルは感覚の人だったのです。実にシュール(超)でエキセントリックです。 そのシュールで鋭い感覚(直感)で多様な色彩のパターンを操り、シルクスクリーンのように数限りなく複写ができる作品を量産しました。内省を重ね、意味の上塗りをして創りあげていくそれまでのアートとは完全に一線を隔した世界観です。もっとも、感覚の鋭さを感じざるを得ないのは、ドローイングを見ても解ります。殆ど2度描きの気配が見うけられず、一気に一発で描き上げられているその作品の数々を見れば、彼がその頃から感覚の人であった事は一目瞭然です。
またある時、ウォーホルはこんな言葉も残しています。

If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me and there I am. There's nothing behind it.
( アンディ・ウォーホルって人間について知りたければ、ぼくの絵や映画を、ただ表面的に見ればいい。そこにぼくがいるから。裏には何もないんだ。)

これを言葉通りに解釈すると やはり彼の言葉は思いつき(という言葉ほど乱暴で雑ではないですが)で口から出てきた 大して意味を成さないもののように感じられます。 ただその時感じた事をストレートに口にして、意味をなさない、というよりは、深い意味(裏の意味)はない、の方が妥当でしょうか。でも またある時には、

I'd prefer to remain a mystery. I never like to give my background and, anyway, I make it all up different every time I'm asked.
( 謎を残しておきたいんだ。自分がどんな人間かは話したくない。だから聞かれるたびに答えを変えるんだ。)

とも言ったりします。 深読みさせるような他意の無い言葉を吐き、そこに意図的なものは実はなかったりする感じに、結果として私たちは翻弄されてしまうのです。 まさに表裏一体とはこの事ではないでしょうか。 裏はないけど謎はある。 今回の回顧展はアンディ・ウォーホルという人の人物像を紐解くアプローチだと思うのですが、彼の人間としての深さとか広さとか言う尺度で考えると、凡人はその巧み(?)な語録にすっかり混乱させられてしまうのです。
彼はこうも言います。

My mind is like a tape recorder with one button-erase.
( ぼくの心は、ボタンひとつで消去できるテープレコーダーみたいなもの。)

どこか自虐的でもあり、スタイリッシュでもあります。

・・・・・と、語録のカッコ良さに引きずられてきましたが、勿論、作品も堪能してまいりました。

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まとまった数のドローイングを観たのは初めてでしたけど、シルクスクリーンの尖がったウォーホル作品とはまた違った味わいのソフトな作品が多くありました。 ネコが好きだったんですね。 眼が大きくくりくりと描かれた可愛いネコたちの甘えたポージングが炸裂してました。



独特の描画法は、「ブロッテド・ライン」(しみつきの線)と言われ、イラストレーターとしても成功を収めたウォーホル独特のものだそうです。今回は図録ではなくて、ドローイング集を思わず購入。



子供向けの作品のコーナー。 色彩が豊かなので、子供の情操教育なんてのにも良いのではないでしょうか。 刺激的なモチーフは一切なく、子供の眼線を意識してか、低い位置に飾ってあったのが心和みます。



希少動物、絶滅危惧種の作品のコーナー。 彼のシルクスクリーン作品でよく見られる奔放で自由な感じのする刷りのズレがあまりなく、きちんとしていて、何処となくデジタルな雰囲気を漂わせています。色彩感覚、秀逸です。



彼の撮影した写真も今回多く展示してありましたが、写真もよかったです。 セレブリティ達のウォーホルならではの距離感で撮影されたスナップは、彼とセレブの間の微妙な距離感を顕しているような気がします。



そして、キャンベルスープ。 これはMoMAでも観ました。 日本の美術館は作品の前で写真が撮れないのが残念ですね。 ましてやマスプロダクト、量産や複製の中にアートを見出した彼なのです。 ウォーホルなら現在の「拡散」という現象についてどのように語ったのでしょうか。

他に、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボ作品で、「Year of Rat」(かな?)というバスキアのネズミが描かれていた黒とグレーの画がとってもキュートでした。イーディ・セジウィックやベルベット・アンダーグラウンドの映像作品など、ウォーホルが生み出した多くのの伝説的作品が一堂に会す、全てを曝け出したような回顧展だったのに、その人物像や心のプロセスに依然「謎」を感じる人は多かったのではないでしょうか。 しかしながら、その「謎」には何だか「釈然」としたものがあるのが、いかにもウォーホルらしいのですが。

≪展覧会構成≫
  1. ウォーホル作品のアイコン的存在、シルクスクリーンによる名作の数々
  2. ウォーホルとセレブリティ
  3. 一流ファッション誌『ヴォーグ』などにも掲載されたドローイング作品
  4. 現代美術史に燦然と輝くウォーホルの彫刻作品
  5. 約25本の実験映像作品を迫力ある展示空間で上映
  6. 天才画家、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボレーション
  7. 伝説のアートスタジオ、ウォーホルの「ファクトリー」を体験型空間として再現!
  8. ウォーホルの私的アーカイブ「タイム・カプセル」から日本に関する品々を本邦初公開!


Warhol Café でチーズバーガーセットも食べてきました!

   


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# by sanaegogo | 2014-04-27 00:00 | art | Comments(0)
ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス) | In almost every picture
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今年 2014年の学びは・・・・・。 今、東京藝術学舎のセミナーに通っています。今日はその初日なのですが、本日の内容は、『最新写真集と写真集出版の現在の動向を例にあげながら、過去からの流れをひもときつつ、写真集がこれまでなにを見せて来たのか、これからどこに向かって行くのか、写真集の果たす役割について考えていく。』というもの。 日本と絡めながら海外での写真集のあり方や取り組み方の変遷などのハナシを聴いたのですが、その中で講師の鈴木芳雄さん(aka.フクヘン)と IMA編集長 太田睦子さんから「ファウンド・フォト」についてのメンションがありました。
写真を撮る事が、万人がリーチ出来る娯楽の手段のようになった昨今、写真を撮ること、惹いては家族のスナップのような記録の1種としてではなく、日常を手軽に作品化出来るような雰囲気になっている今日この頃、作家からスマフォでSNSにアップするのが大好きな写真ファンまで、「撮る人」はとっても多様になってきてます。撮る人の飽和から写真表現の新規開拓まで、色々な要素が相まって、写真を撮る事だけが写真表現だろうか、という動きもあったりして、自分で撮るばかりが写真家ではない、と言ったアプローチも生まれてきています。 何もこれは2014年の最近の話ではなくて、もう何年も前から、多分、デジタル化の波に押されて、写真を撮る人層の急増に突き上げられるような形で、それまで「手軽」ではなくもっと「真摯」に写真と向き合ってきた人たち(作家達)の中で、既存との差別化みたいな形でむくむくと台頭してきたのだと察せます。 もっと言えば、もっとずっと前から、こんな風潮が出来る前から、ひとつの表現方法としてファンド・フォトをひとつの作品として再生する事を試みている人がいて、その1人が、ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス)という人です。 思えば、個人的には2007年とかに コンテンポラリー・アートとかのセミナーやトークに出かけるようになってから、この名前は繰り返し聞いてきたのですが、今日、この講義に出て初めて、それが全て繋がって、エリック・ケッセルスのしてきた事として自分の中にやっと認識された気がします。(時間かかりましたねー。) 初めてその名前がワタシのノートの中に出現したのは、2008年の畠山直哉さんの‎AIT でのセミナーの時です。 畠山さんは、その時 彼の最初に出版したKessels Kramerの写真集シリーズ「In almost every picture」の第4巻の事例を挙げてファウンド・フォトについて説明をし、実物も見せてくれました。 この時は、その写真集自体、物凄く印象が深くて、その不可思議な成り立ちと淡々とした世界観に眼を奪われたのを覚えてます。ファウンド・フォトは、もはや、どこの誰のものでもない写真ですが、それを並べることによって、何かの意図が浮かび上がってきて、物凄く想像(妄想といっても良いかも)をかき立てさせられ、自分の中でいくつもの勝手なストーリや状況が湧き上がってくるような 動的感覚を覚えたのを記憶してます。 この日の太田さんのお話は ファンド・フォトだけに特化したものではなかったのですが、その行(くだり)のところで期せずして、この時の事がフラッシュバックのように甦ったので、今日は自分の備忘録として、エリック・ケッセルについて書きます! ( 先にも述べたように、それ以降名前だけは幾度と無く耳にしているのに、何故この時なのか、自分でも不思議ですが。 もうひとつの偶然としては、Webで調べ物をしていて偶然見つけたファウンド・フォトがあまりにも可愛くて、数ヶ月前からPCの壁紙にしているのが、なんと、知らず知らずのうちにこのエリック・ケッセルの見つけたファウンド・フォトだったのです。(冒頭の写真))
ケッセルスは自身のケッセルス・クライマー社からファウンド・フォトを用いて「Useful Photography」と「in almost every picture」という写真集のシリーズを出版しています。「Useful Photography」は、すでにどこかで公開されているものを集めたもので、もともとあったはずの場所から唐突にピックアップされて、写真集の中で何らかの意味や意図を発揮している、というシリーズ。もうひとつの「in almost every picture」は、蚤の市や古書籍店で集めてきたファウンド・フォトを編集した写真集のシリーズで、そこにはどこの誰とも判らない人々の思い出として様々なシーンが淡々と繰り広げられています。 そのイメージの羅列は何かを物語っているようでもあり、その時はさして意味を成さなかったもののようにも見えます。 でも時を経て、その時のその(それらの)写真を写した時の状況を察すると、とても意味深に見えてくるのです。

その「in almost every picture」の中から。
― in almost every picture #9



この黒い犬。 飼い主家族には大変に可愛がられていたことが見て取れます。 可愛らしい専用のベッドが与えられていて、まるでわが子のように常に写真の中では主役として納まっていて、それが時には家の主が座るであろうリビングのソファーであったり、自由に遊び回れる広い庭であったり。飼い主は一生懸命その可愛らしさを写真に収めようとしているのでしょうが、当時のカメラではただただ黒い塊として写るばかり。ついぞ、その顔が写真に残る事はなく、愛されていた犬のシルエットばかり。 どちらを向いているのかさえも確認できず。その時の当事者達は決してふざけている訳ではないのですが、コミカルさが滲み出ていて、並べてみると何とも微笑ましい雰囲気がありますよね。


― in almost every picture #2


これも謎めいた写真です。 街中を走る1台の車。遠くから車を映しています。 これからドライブにでも行くのでしょうか。 車のオーナーやドライバーなら、この撮影距離は不自然で、わざわざどうしてこんな遠距離からこの車を写真に収めたのでしょうか。


と思いきや、車の中から写した写真もあります。写真を撮った人は同乗者なんですね。でも良く観ると撮影された車の運転席は空っぽ。 じゃあ、路肩に停めて撮影したんでしょうか。 それとも この車があの車? でも、この写真だけ車の上にTAXIのサインがついているんです。 そして、運転する人が助手席の人を「何故この位置から?」と謎が深まる写真もあります。


そんな写真は他にもあって、明らかに走っている車を「何故この位置から?」と思われる写真が続きます。 そして、街を抜けて車は山間に入ってきたようです。 どこかに旅行に出かける途中なんでしょうか。


写真は明らかに、ドライバーが助手席に乗せた女性を撮影したものです。 路肩に車を停めて。 空っぽになった運転席がそれを物語っています。 そして、街を離れだいぶ遠くまでやってきたみたいです。



とうとうこんなところまで来てしまいました。 谷間の路肩に車を停めて、ドライバーはまた運転席の女性を写します。 そして、女性は決して車から出て来はしないのです。



これは運転している人? 彼女の旦那さんでしょうか? 女性は足が悪い人なのかもしれません。 この写真も車の中から撮影されているようです。 決して車から出てくる様子はありません。 だったら、あの遠景で写された写真は、一体誰がどういう状況で、どういう意図で撮影したものでしょうか。 2人はご夫婦かも知れないし、お金持ちの足の悪い女性に雇われたドライバーなのかも知れません。 ストーリーはいくつもあるのです。


― in almost every picture #4

さらにドラマチックなのがこの写真。 友達、姉妹、二卵性双生児、いずれかは判りませんが、彼女達はいつも同じ服を着て写真に納まっています。 そしてそれを写真に撮っている「誰か」が常に彼女達の側にいるのです。



おしゃれをして、お揃いの服を身をまとい、そしていつも腕を組んで、楽しそうにカメラに向って笑いかけています。



季節を問わずいつもお揃いです。 こんなにいつもお揃いだったらそれは双子だからだろう、と思いがちなのですが、あまりにも違う背格好。 もしかしたら、恐ろしく仲の良い友達同士なのかも知れません。



そして、色々なところに出かけています。 本当にこの2人(いえ、撮影者を合わせると3人)はいつも一緒なのです。



他の第3者が一緒に写っている写真もあります。 しかも2人の間で2人から腕を組まれ楽しそうに笑っています。



写真は突然 小さい方の彼女1人きりになります。 もう大きい方の女性の姿はどこにもなく、お揃いの服かどうかも確認できません。 それでも彼女は色々な場所に出かけて、笑顔で写真に納まっているのです。 実は写真を撮っていたのは小さい人の婚約者で、あまりにも仲が良い大きい人を内心疎ましく思ってたのですが、2人の仲を引き剥がし、やっとプライベートなデートの時間を得るに至った、というストーリーはワタシの勝手な想像です。もしかして、第3の人物(撮影者)は実は存在せず、いつもお揃いを着て一緒に旅行に行って 居合わせた人にカメラを渡して記念写真を撮ってもらってたけど、ある日大喧嘩して絶交。 それからは1人で旅行に行くようになったとさ、というありがちな話だけかも知れません。

ワタシは実際にこの写真集を持っている訳ではないので、並びも実際こうなのかどうかは定かではなく、#2と#4のストーリーは全くの想像です。 でも、1枚ではただの古びたたまたま発見された写真(ファウンド・フォト)ですが、まとまって展開すると、その時の意図を超えてその想像はどこまでも広がっていくのはとても興味深いと思います。 しかもその想像はファンタジーとかではなく、具体的で実際有り得そうなのが、ファウンド・フォトが主にスナップで、写真がその人のその当時の生活を垣間見せているからなのでしょう。
それにしても、海外では蚤の市や古本屋さんに個人のアルバムや全くもってプライベートな書簡などが売り買いされているそうですが、何故思い出のつまったアルバムが売りに出される事になったのか、何所をどう巡ってここに至ったのか、その点でも想像はぐるぐると駆け巡りますが、それは想像してもしても理由や経緯は知る由もなく、そんな時感じる切ない気持ちに似たものがファウンド・フォトを特別なものに見せるひとつの要因なのかも知れません。 ここで、こんな風に写真集になる事がひとつの奇蹟みたいなものですからね。
最近では、Web上で拾った写真もファウンド・フォトと位置づけられているらしいです。 (もっともここで掲載した写真もWebから拾ったものですし・・・・) そしてそれを作品として再構成している作家も多く見られるようになっているようです。蚤の市やWebsiteで手に入れた写真で写真集や作品を創る。もはや、写真家というのは「写真を撮影する人」ではなくって「写真を作品として世に生み出す人」の事というように意味合いが変わって来ているんですね。

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藝術学舎(京都造形芸術大学・東北芸術工科大学)
写真集を見る、読む、楽しむ。そして作る 自分だけの写真集をつくるところまで!
2014年4月 9日(水) 「写真集が映し出す過去、現在、未来」
講師:太田 睦子、鈴木 芳雄
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テキスト参考:
http://blog.livedoor.jp/talbot2011/archives/52695597.html
http://jmcolberg.com/weblog/extended/archives/conversations_about_photobooks_erik_kessels/
http://www.shanelavalette.com/journal/2008/03/27/erik-kessels-in-almost-every-picture/
http://josefchladek.com/book/erik_kessels_ed_-_in_almost_every_picture_4#image-6
http://www.webinapage.com/2011/01/in-almost-every-picture-by-erik-kessels/
http://www.cartype.com/pages/4859/in_almost_every_picture
http://www.creativereview.co.uk/back-issues/creative-review/2008/february-2008/feature-lost-found


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# by sanaegogo | 2014-04-09 00:00 | activity | Comments(0)
Study | Go Itami | POETIC SCAPE
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伊丹豪さんの作品と言えば、ブライトな配色の幾何学体的で不思議な画面構成の写真が持ち味だと思っていましたが、この「Study」では、その味もありつつも、その中に心象風景みたいな、言い様のない何らかの気持ちが入り込んでいるような、そんな印象を覚えました。一見幾何学的で無機質なもののレイヤーのような画面構成の中に、ふと入り込んでしまった何かの情景、そして、それにふっと持って行かれてしまう 何かの気持ち、そんな印象です。 その情景は、伊丹さんが意図的に混ぜ込んだものもあるし、ご本人も知らずに、後から写真を確認して判ったものもあるそうです。
中目黒のPOETIC SCAPE に 伊丹豪さんの 「Study」を観に行ったら、ご本人が在廊してて、土曜日だった事もあって、常連さんや顔馴染みらしき方々も色々いらしていたんですが、見かけない顔の私にも色々と作品の説明やお話をしてくれました。







今回展示されていた作品の中では 「これぞ!」という感じの1枚。 まるでケント紙にきちんとマスキングテープを貼って、色むらがないように丁寧に塗り込められたポスターカラーのような発色の赤に眼が行きます。もちろん、これは修正なしの一発撮りの作品だそうですが、パースを全く取り払っているにも関わらず、遠近感がうっすら残る風景が混在している画面は、不思議な感覚のズレを引き起こします。 その横には、橋げたの隙間から水面を写したという、作品があったのですが、それも全ての遠近感を取り払った中に残る水面揺らぎが風景の中のミクロを顕しているようで面白かったです。 その一連の展示の流れはモンドリアンの絵画を連想させました。 「写真は立体的なものを写すものなのに、全てのパースを取り払ってしまうと平面のレイヤーのようになるのが面白い。」と言うような事を語ってました。 その撮影に対峙する感覚がまさに「Study」なのですね。







私がこの展示で一番惹かれたのがこの写真。これまでは、どちらかというとピントを絞った作品を作ってきましたが、逆に絞りを開いてぼかしつつ意外なところにピントを当てるのもありかな、という試みだそうですが、これも「Study」なのですね。 鉄の手すりの上にうっすらと溜まった雨が木立の影を映していて、そこにピントを当てて撮影したそうです。 近くにピントを当てながら、それは実はそこからもっとも遠くのものにピントを当てている事になっている。 何だかとても哲学的なアプローチです。







この1枚もとても好きなのですが、暗がりの中に浮かび上がる光を集めたグラスの透明な部分とその周りに浮かぶ気泡は、まるで宇宙の深淵のような雰囲気です。 その隣の作品には夜の闇に浮かぶ星空? と思いきや、CDの盤面の傷をクローズアップで捉えたもので、そこには日常の中に宇宙を模した空間が出来上がっていて、さっきのモンドリアンのシリーズといい、写真の並びもとっても洒落てるなぁ、と。







ビー玉とそれが置かれたタオル(ラグマット?)との質感の対比。 光と影の対比。 実物を忠実に捕らえているのに、具体性は消失し、実体はどんどん抽象的になっていきます。何だろう? と自分の視覚をからかわれたような錯覚に陥るのですが、決してデフォルメされている訳でもなく、変容されている訳でもなく、ただただ、実体を極力まで忠実に捉えているのです。 それにしても、この感覚は。 伊丹さんの作品は「視る」という行為を意識させます。







伊丹さんの作品はもしかしたら、認知とか、知覚心理学とかの切り口で掘り下げたら面白いかも知れませんね。曖昧な画像を視ると人は全体像や自分の納得できる形にそのものを持っていこうと視覚や脳を働かせます。 ゲシュタルトの崩壊と再構成です。







そんな理屈はさて置いても、ただ単純に画が美しい。 この浮遊感。 どの作品も漠然としたところがなく、そこには伊丹さんの試行錯誤とチャレンジと発見が作品を彩る要素として見て取れます。 どの作品にも意図があり、何かを探求しようとする作家の姿勢が伺えます。まさに「Study」なのですね。

伊丹豪 展【study】
POETIC SCAPE
2014年2月11日(火・祝)~3月23日(日)


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# by sanaegogo | 2014-03-09 00:00 | art | Comments(0)
LAMA Coffeeで 天使とバンドネオン


今年はどう予測しても『貧乏暇なし』ならぬ、『貧乏にして暇もあり』の1年になりそうな気がするので、十数年(いや、数十年?)ぶりに地元密着型の生活をしてみようかな、と思っていた今日この頃。 松が、松姉の友人が茅ヶ崎で『2人展』をやるのを観に来ると言うので、お誘いいただいて私もちゃっかりと観に行ってみた。 地元にいてもなかなかどこのカフェがギャラリーをしてる、とか、ちょっと居心地の良い寛ぎ方のスペースがある、とかいうのは耳に入って来ない。 東京近郊の地方都市出身の人なら解ると思うけど、どこに住んでいても最寄の地下鉄や電車の駅の駅前エリアに所属している暮らしぶりの東京とは、ちと違うのだ。 なので、他所から来た人の方がそんなネタを持ってきてくれる事も多いのです。 なので、ぼちぼち自分でも開拓して、地元密着で行ってみようかな、と。

この日訪れたのは「LAMA Coffee」。 茅ヶ崎にある鉄砲道という道の西の起点あたりに住んでる私は、その鉄砲道をずどーーーんと辻堂方面まで行って、突き当りをちょいちょいと行ったあたりにそのカフェはあります。 古い一戸建てを改造して1階がカフェ、2階がギャラリーになっていて、そこで開催されてます 「MARUU × Black Coffee展 天使とバンドネオン」 に行って来ました。

松姉のご友人はMARUU さんで、サインペンで温かい色彩のイラストを描いています。 この日は財廊していて、いろいろお話をしてきました。 イラストや漫画やラップペーパーのパターンとかを作品にしているのですが、私が気に入ったのはこれ。


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やっぱ、オオカミでしょう。 相当気に入ってポストカードも購入させていただきました。 毛並みを描くように丁寧にサインペンで色を置いていて、その筆致がオオカミの毛並みをふわっと緻密に描き出しています。 首の周りのオオカミ独特のふくよかな毛並みは橙色、水色、黄緑色に塗られていて、ここがMARUUさんの世界ですね。 色合いがとっても可愛いです。 そして好み。 こんな茶色のセーターにこの色合いの巻物は、きっと私が着ても可愛いに違いない。と思います。 そして 水色の三白眼。 これぞオオカミです。 薔薇の花も可愛い。 ひとつひとつ 丁寧な仕事ですね。




もうひとつは、これ。 ウォッカの中の3人姉妹だそうです。 (姉妹だったかどうかは ちょっと覚えていないんですが・・・。 3人娘だったかな。) この3人をウォッカの中に入れてご機嫌を損ねずにいると美味しいウォッカになるそうです。 でも、この3人は性格がとても悪く、悪態をつくので猫はいつでも イライラとしているそうです。
4畳半ほどの2階のスペースでMARUUさんのイラスト作品と Black Coffeeさんのガラス細工が展示されてました。

展示スペースでおしゃべりの後は 階下のカフェでゆっくりとまったり。 結構いろいろなお客さんがやって来ていたりして、常連さんらしき人もいました。 私は折角なのでお店の冠がついたLAMAブレンドとスコーンを。 ちょっとシナモンが利いていて 外はサクサク、中はほっこりの美味しいスコーンでした。地元のこんなスペースで密やかに展示をするのも楽しいかもしれないですねっ!



LAMAブレンドです





2階への階段と夕暮れのカフェスペース
茅ヶ崎あたりにはありそでなさそな 雰囲気のお店です
右端に見えるテーブルは 実はミシン台で足許には懐かしの鉄の幅広いペダルもありました
ご主人は ちょっと平井堅の優しそうな子で ワタシの難関縦列駐車を見守ってくれました


LAMA Coffee & LAMA Space | http://www.lamacoffee.net/

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# by sanaegogo | 2014-03-08 00:00 | art | Comments(0)
「惑星探査」 planetary exploration
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今年も1月が「あっ!」と言う間に過ぎて、もう2月になってしまいました。 ここ数年、本当に時間とか月日の経つのが早く感じられますが、これが『加齢』ってやつなんでしょうかね。 昨年(2013年)の今頃は、仕事と仕事の(例年にはない少し長めの)インターバルに入っていて、そして、とっても寒かったのを覚えています。(でも数値的には今年の方が寒いんでしょうか。その辺は定かではなく、あくまでも体感です。) ここ数年、冬に雪が見たい衝動に駆られる事が多くて、学生時代はスキー部に所属してましたが、(「凍ってるね。」世代です。)、その時の感覚とはまた別なものに突き動かされて、1月のこの時期に北海道に雪を見に出かけました。

一番の目的は、厳寒のモエレ沼公園。(写真はWebから取った素敵なモエレ沼) 雪山とか、北海道の陸別町とか、本当の厳寒地をご存知の方は札幌郊外で何を抜かすか、とおっしゃるかも知れないですね。 実際私が学生の時に籠っていた志賀山とかの方がよっぽど厳寒だったと思いますが、雪深いこの時期にそんな所に出かけていく酔狂な人もいないだろうと、ひと気のない雪景色を撮りたかったのです。その時の写真をPhoto Bookにまとめました。その時感じた事も、このPhoto Bookも、転機とまでは行きませんが、何かきっかけというか、とっかかりというか、そんな『何だか解らない何か』を味わったような気がするので、1年経ち、あの時のあの感覚とか、月日を経て、これを作った時感じたざわざわした気持ちのザワつきとかを忘れないように、備忘録として書きとめておこうかと思ったんです。







今まで、折に触れて、何冊かPhoto Bookは作っていますが、今までのはまあよく言う、『心に留まったものを写真に収めています』みたいな、言うなれば継ぎ接ぎ(ツギハギ)のものを後付でテーマに沿って流していった感じのもので、それはそれで「あり」だとは思うのですが、そうではなくて、何かの目的を持ってそこに行って、そこで完結をして、そこから自分の感覚に即したストーリーを与えていく、みたいな作業をしてみたくなったのです。 その場所で感じた感覚をある種のストーリーに置き換えてなぞっていって、かつ、観てくれる人が「観終わった」と感じられるような、上手くは言えないのですが、そんなPhoto Bookです。 観終わって、「ふうん」という、「あ、これで終わりなのか」 みたいなものが多かった今までの自分のやり方とは全く違うものです。 勿論、先にも言ったように、撮り溜めてきたイメージの中で起承転結とか序破急のようにクライマックスを作ってある種のストーリー性を持たせて写真本を創る人は沢山いますし、名だたる作家の方はみんなそうなんだと思うのですが、自分にはまだ写真だけでそこまでの構成する力はないので、ストーリー仕立てに逃げる安直な感じは否めないのですが、無意識に今までとは発想を変えてみたのかも知れないですね。 私にとっては、(あくまでも、私にとっては)、あるきっかけにはなったと感じてます。




2012年の夏にワークショップに参加したのですが、そのフォローアップが昨年(2013年)の夏にあって、そこでポジティブな講評をいただいたのもとても励みになったし、この構成を完成した時のうっすらとした達成感を思い出して、あの時の感覚を忘れないようにしよう、と。 (成功体験と呼ぶにはまだまだではありますが・・・。)

その時のテキストです。
――― これまでのように偶然遭遇した場面ではなくて、そこをリサーチして、そこに赴いて、そこに必然的にあるナニモノかを撮影し、ひとつの流れの中でストーリーのようなものを与えてみる、という事をしたくて、この「惑星探査」をつくりました。
次のページを捲りたくなる、次の展開を知りたくてワクワクする、本全体で何かひとつの完結し、そして余韻がある世界観をあらわす事を目指して、この本をつくりました。
ひと気のない、だだっ広い雪原を撮ってみたくて、北海道の郊外のこの場所を訪れた時、自分の他には周囲に誰もおらず、全く違ったどこか別の惑星に来てしまったように感じました。 遠くに小さく動いている人影を見つけた時に、まるで同志を発見したかのような感覚を覚えました。『この世界には知らない同士だけど私達だけ』 そんな錯覚を感じる事が出来たのです。



















これはこれで、自分のスタイルのようなものがひとつ見つかったような気がしたので、次回作はもう少しテイストの違ったものを考えています。 さっきの話とは矛盾するのですが、クライマックスがあるようでないような、フラットに時間と空間の流れでストーリーが展開していくような、観ている人にストーリーを委ねられるような、そんな本です。 これは、あまり作為的なストーリー性に安易に堕ちて行きたくない、という思いからくるものですが、難しそうですね。 頭で考えるのではなく、まぁ、とにかく選んで並べて、並べ替えて悩んで、だと思うのです。(その前に、撮って、か!そう、撮れたから作る、ではなくて、作るから撮る、なのです。) 『惑星探査』は、もう過去のものとして、次なる何かに向って行きたいと今は思っています。 でも、(何所かは判らないけど)向うべきところへ向っていく軌跡として、色々な人に観てもらえたらいいなぁ、などと感じています。

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「惑星探査」 planetary exploration
撮影: 2013年 冬(2月)
撮影地: 北海道 札幌 モエレ沼公園 円山動物園 北海道大学札幌キャンパス
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余談ですが、フォローアップの後の懇親会で突然、「アナタのは、『星の王子様』に感化されてるよね。ばっちりその世界観だよね。」とコメントをいただきました。 正直全くそんな事は意識してなかったので、かなり意外だったのですが、何だか気持ちの良い「気付き」でした。 自分が全く気付かずしていた事に気付かされるのは気持ちの良いもので、実際少女の頃はかなり「星の王子様」っ子だったので、自分の気持ちに「寄せた」ものであれば尚更です。 「自分でも解らなかったのに見透かされてる?」 と、その洞察力に度肝を抜かれました。

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# by sanaegogo | 2014-02-02 00:00 | activity | Comments(0)
Wolfgang Tillmans "Affinity"
Wolfgang Tillmans
ヴォルフガング・ティルマンス
"Affinity"
2014年1月18日(土) - 3月15日(土)
WAKO WORKS OF ART
http://www.wako-art.jp/top.php





ティルマンスに関しての知識というか、造詣はそんなに深くは無いのですが、私の中でティルマンスといえば、窓辺やキッチンのテーブルに無造作に雑多に置かれた日常使う品々の「何気ない」スティルライフの写真です。 ごちゃっと置かれたテーブルの上の唐突な取り合わせの品々や窓のある小さなスペースの上に置かれた萎びかけた鉢植えなど、映画のストーリーの中のあまりきちんとした生活をしていない人の生活観が滲み出るような写真です。 「何気ない」とよく言われますが、私にとってはそれらのヒトコマは何か妙に「意味ありげ」に写ります。 家に帰ってきて、がしゃんがしゃんと物音を立てつつ帰って来た時の儀式のように基本動作を行って、カバンや上着を無造作にソファの上に放り投げ、がちゃがちゃと冷蔵庫を開けて、扉を閉めもせず牛乳のビン(これは外国サイズの大きいやつ)から直接牛乳をがぶがぶ飲み、そしてまた荒々しく扉のポケットに戻し、ばたんっ、と扉を閉める。 ・・・・ような人が住んでいる家かな。 これはちょっと飛躍し過ぎかも知れませんが、そんなイメージを喚起させてしまうような意味深長な写真です。 そして、幅広い感触のシリーズに取り組んでいるティスマンスの中では、この手の写真が一番好きです。密度の濃いカラーと絶妙の対象物の配置。ティスマンスの赴くところにはいつもこんなに絶妙のシーンが展開されているものなのか、と不思議な感さえするのですが、実は光や影の効果を仔細に取り入れて、言わば入念なセットアップの中で撮られている、という話も聞きます。全くの偶然の産物ではないのですね。


©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



この写真はとても好き。 暗い室内で撮影された1枚ですが、窓の外は夜なんだと思うのです。







あとは(コンコルドシリーズも含めて)空にベクトルが向いた写真も好きです。
ティルマンスが天体少年で、
天体観測が彼の写真人生の始まりだったという話は有名ですが、
今回の展示でも密度の濃いカラーの空の写真がありました。



写真集『Neue Welt』から

©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



ティルマンスといえば、前にも述べたとおり、幅広いテーマというか、シリーズというか、で制作をしていますが、どれも本当に持ち味が違います。 多様な表現力でとにかく色々撮る人、というイメージなのですが、どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽいんですよね。 ざっとそのシリーズを挙げてみると・・・・、
● 意味深なムードのスナップ的ポートレート
● 壮大で神々しささえ感じる広い風景
● 日常の窓辺やテーブルの上のスティルライフ
● どきっとするようなヌード
● 宇宙との繋がりを想起させる天文学的イメージ、
● アブストラクトな抽象作品
ざっとこんな感じになるのでしょうか。 今回の『Affinity』でも、これらひと通りのものを観ることができるある意味贅沢な展示でしたが、言い換えれば、この中のどれかひとつのテーマを取り上げるのではなく、全て並べる事が『Affinity』なんでしょうか。 『どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽい』です。彼は何故この展示のテーマを『Affinity』にしたんでしょうか。 興味が沸いてきました。

ティルマンスは、作品を額装して水平を測ってきちんと並べるのではなく、テープやピンで壁に直貼りする展示もよく行うという事で、今回も自ら何日もかけて自分でキュレートをしたということです。『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』のコーナーでは、フォーマットもさまざま、大小さまざまな作品が壁に直貼りされていて、配置も決して人々の眼線上ではなく、その範囲は屈まなければ観れない足許にまで及んでます。


壁にさまざまなフォーマットの写真が直貼りされています。








足許のこんなところにも 貼ってあります。








この『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』はちょっと面白い写真集で、ティルマンスがここ数年ハマッているというレイヤー(多重構造)での表現がふんだんに用いられています。 今回のインスタレーションでも写真集そのままの構成も観ることができました。FESPA Digital とは、毎年世界各国を巡回している大型プリンターのトレードショウみたいですね。フルーツの鮮やかな色彩と印刷機や様々な機材のメタルでハードな質感とか、それらが幾重にも重なって、雑多で半ばカオスで、とりとめなく直感的で、唐突な感じでもある。 これぞまさにティルマンス。このインスタレーションはかなり必見で、ティルマンスらしさを存分に味わえた気がします。



写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』
カラフルでミクスチャーでレイヤー。 ひとつのページの上で 色々な要素が重なりあっていて その密集感ったら。
技術や商業的場面を題材にしているのも どこかシニカルな逆説的、かつ世代に即している面白さがあります。





観終わって、ティルマンスという世界をつぶさに理解できた訳ではないのですが、より深く知りたくなる気にさせてくれる刺激的なインスタレーションで、直感的で弾けるような感覚と静かに内省をするかのような佇まいが共存しているような表現世界です。


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# by sanaegogo | 2014-02-01 00:00 | art | Comments(0)
ジョセフ・クーデルカ展
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舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
・・・・とは、かの松尾芭蕉の言葉ですが、クーデルカ展で彼の半生を知ることになり、この行(くだり)を思い浮かべたりしました。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective
2013年11月6日【水】→ 2014年1月13日【月・祝】
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
Press Release →web_koudelka_PR.pdf

もっともクーデルカは芭蕉のように自ら好んで旅を栖とする人生に身を投じた訳ではなく、1968年にワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻を撮影し、それが西側に配信された事から、身の安全を確保するために故郷のチェコスロヴァキアを離れます。 これがクーデルカ的放浪の旅の始まりです。 世界的にその名前を知らしめた(と言っても配信された当時は匿名だったようですが。) 写真が、祖国の変革運動とそれを侵攻して鎮圧したワルシャワ条約機構軍との衝突の記録と言ったショッキングな内容だったので、クーデルカも硬派のジャーナリスト魂の権化のような人物(ある意味キャパのような)だと言う印象があったのですが、それはクーデルカの表現世界のほんの一部だったとクーデルカ展を観て実感しました。
もっともこの頃は『芸術写真』というカテゴリーはあまり明確なポジションがなく、マグナムの会員でも、ブレッソン、アーウィット、ルネ・ブリなど、この頃の写真家達は広告も、報道も色々とこなし、それが後々『アートフォト』という流れに乗り、そのように認められていくようになったという理解でしたが、クーデルカについても例外ではなかったのでしょう。 真正面からダイレクトに被写体を捉えた力強いズドーンと打ち抜いたような観る人を圧倒するインパクトがあります。会場内は膨大な点数の作品が展示されていましたが、そんな中、ごく初期の『初期作品 Beginnings 1958-1961』には、自分の想像していたクーデルカの作品とは全く印象を異にしていました。 構図や対称の配置に、まだ完成されていない試み的なコナレテいない感じがありつつも、その場面の選び方や撮影の技術などには後のクーデルカを予見させるような片鱗と萌芽があると言います。 私は単純に(いつもそうですが)、その画面から来る印象や自分の感覚とかで語る事が殆どですが、学生時代に手に入れた中古カメラで撮りためたというその作品群には、ハードで硬質な印象を醸しているクーデルカのモノクロの作品の中では一層初々しく新鮮に感じられました。

展覧会の構成です。
  1. 初期作品 Beginnings 1958-1961
  2. 実験 Experiments 1962-1964
  3. 劇場 Theater 1962-1970
  4. ジプシーズ Gypsies 1962-1970
  5. 侵攻 Invasion 1968
  6. エグザイルズ Exiles 1968-1994
  7. カオス Chaos 1986-2012

など、約280点あまり、しかも大きな作品ばかり、一堂に会した回顧展です。「ジプシーズ」の圧巻のシリーズや「侵攻」の見せる臨場感溢れる迫力の歴史の証言も観応えがあったのですが、私はやっぱり、「初期作品」かなぁ。あとは、「カオス」のパノラマシリーズ。「エグザイルズ」もいくつかよかったかな。展示を見ている時はあまりピンと来なかったのですが、後でマグナムのWebsiteを観ていたら意外にじわじわ来たのが、この展覧会ではどのカテゴリーに入るのかは不明なのですが、多分、「劇場」とか「実験」あたりのエフェクトを加えた作品です。私がもともと写真に求めるのはドキュメンタリーとかルポルタージュ的なものではないようなのですが、結局、自分にどんな写真が響いて来るのか、人によってクーデルカの感じ方は様々なような気がします。
時代のうねりに巻き込まれ、翻弄されながらも、放浪の中でその居場所、居場所での足跡をダイナミックに鮮やかに切り取っていく事で自分の存在を確認してきたようなクーデルカ自身の半生と照らし合わせると、そのスケール感といい、ボリュームといい、観応えのある回顧展でした。






Beginningsから。パノラマ・フォーマットの作品。 このシリーズでパノラマ作品はこれ以外にも何点かあったのですが、どれも良かったです。背景と前景を隔てている画面を横切る水平線(地平線)と上下左右アシンメトリーに配置された被写体がぎこちなくも初々しいさが顕れているような気がして、でも魅力的な写真の数々でした。




Invasionから。 このシリーズは言わずもがなの感がありますが、ある意味においては、生まれながらに授かった類稀なる才能と千載一遇のチャンスとが交わる接点を手に入れられる人は稀で、それを含めて「才能」というのだと思います。




Exilesより。 クーデルカ展のPRによく使われていた作品です。 この黒い犬は、ワタシの中ではとてもクーデルカっぽく、こう言う写真を撮る人なのだ、と思っていました。 黒いシルエットになってしまった犬は、その容貌の詳細もわからず、こちらを振り向いているのですが、眼がどこにあるのかも判りません。 後ろを振り返っているその黒い犬の姿は何かを象徴しているようでもあり、うっすらとした不気味さにちょっと気持ちがざわついたりします。






Chaosから。 このシリーズは、タテやヨコのパノラマフォーマットの作品が並ぶのですが、何処となく荒涼としていて、殺伐としたシーンばかりが続いていきます。パノラマフォーマットならではの視野のひろがりが、人の気配は見ている自分しかいない、みたいな一人ぼっち感というか孤立感みたいなものを観る者に与えていました。


All images © Josef Koudelka / Magnum Photos


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# by sanaegogo | 2014-01-12 00:00 | art | Comments(0)
お正月から mayday ― ゼログラビティ 観た
今年2014年の"恒例の元旦映画の会"は、Gravity(邦題:ゼログラビティ)。これはある種の賭けです。お正月にこの映画を観に行くかどうかにはそれなりの葛藤がありました。 ストリーの結末は判らないんだけど、何だかとんだ事になっていそうな状況の映画。そして、1年の計は元旦にあり、という言伝えも捨てて置けないし。 観終わって、希望を見出せるのか、絶望を感じざるを得ないのか。むむむ。
まだまだロードショウは続くので、ネタバレ的なコメントが残せないのが映画ネタの辛いところ。 しかしながら、この映画はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニの二人芝居で、3Dの映像は、その美しさもさることながら、アポロ11号の乗組員のバズ・オルドリンも認めるほど現実の宇宙空間のようで、映像技術の秀逸さも話題になっています。 実際見てみると確かに今まで観たスペースものに比べて、リアルだし、TVニュースで観た事もある身近(と言うと違うのかも知れないけど)な状況を膨らませていると言う感じがして、自分とは全く接点のない映画の中の虚偽の世界と言うよりは、世の中で誰かがこんな目に合う可能性があるのかも、と匂わせる感じがしました。 そう言う意味では、これからは、映画のスペースものというジャンルもアクションものみたいに、現実に起こり得る状況の極端な例っていう捉え方で制作られていくのかも知れませんね。 その先鞭として記憶すべき映画を観たのかも知れません。ファンタジーではない、リアルなスペース映画、それを撮ろうと考えた着想がすごい!と思います。 そう言う意味では、かつての『ライトスタッフ』(1983)とか『カプリコン・1』(1977) とか『アポロ13』(1995)もその範疇なのかも知れないけど、これら国家計画をベースにして国の威信を著わしている作品と一線を隔しているのは何といっても、サンドラ・ブロックの至極個人的な心理描写とそれを仔細に表現した彼女のドラマチックな演技なのだと言えるのではないでしょうか。 広い広い宇宙の中で、国家を背負ってそこにいるのに、主人公ストーン博士の心を占めているのは、あまりにも個人的状況への葛藤や後悔、意欲も動機付けも何もかも個人的なもの。 大きな括りのなかの個人ではなく、個として存在する1人の人間。宇宙の中に自分がいる事の高揚感とか遣り甲斐みたいなものは一切感じられなく、それをこの広大な宇宙の描写の中で、大きな地球との対比の中で見せていくところが印象的です。しかしながら、そこは酸素なし、重力なしの宇宙空間。 地球生還までの壮絶な困難の数々、そして犠牲。 ある者の希望にはある者の犠牲があって成り立っている事もあるんだ、とつくづく思いました。 もっとも犠牲になったものが必ずしも絶望を感じていたかどうかは、ジョージ・クルーニ ファンとしては救いでしたけど。 真の意味での『達観』を知る瞬間だったのでしょう。 (おっと、ネタバレ注意) 絶望のような状況の中でも人は知らず知らずのうちに生へのエネルギーを発し、生存に賭けるあらゆる手段を講じようと動く。 一方では全ての状況を悟り、宇宙規模の視野で先を見通し、瞬時に判断し悟る人間の心理。 そんなものが誰もが暮らす空のその上の大気圏の外で繰り広げられています。 『なんかキラキラしてるー。 人工衛星かなー。』なんて子供達が見上げた空の上で実際起こっているかも知れないことだとしたら・・・・。 そのコントラストを考えると何だかものすごい。 スペースものの新境地を切り開いた記憶すべき映画だと思いました。

ストーリーに関してはあまりコメントしない代わりに、ワタシなりのダイジェストで。



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実は余談があって、茅ヶ崎の田舎では、何故か『字幕+3D+レイトショー』という組み合わせがなく、そんな事も知らず109シネマズに行った私たちは『字幕』は譲れず、結果、映画館3軒目にしてようやっと。 元旦で道が空いてたからよかったけど、元旦早々、結果オーライのギリギリの状況。 お陰で3Dでは観られず。 やっぱ3D観なきゃですよねー? 折角出かけたのに見逃すかっ!?のピンチの中、力を合わせて策を講じてなんとか滑り込みセーフ。 しかし、必見の3Dは諦めるハメに。 字幕を諦めるか、3Dを諦めるかの選択と判断。 そんな、『1年の計は元旦にあり』。

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# by sanaegogo | 2014-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
生誕100年!植田正治のつくりかた
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子狐登場
まるで絵画のような1枚。 これ、『覆い焼き』ですよね。
訳あって、吉田秋生さんという少女マンガ家の描いたある作品のストーリーを思い出させてくれる1枚です。

この写真展を観に行く前日にIZU PHOTOまで足を延ばして、増山たづ子さんの写真展を観に行っていたので、この3連休はとても気持ちが穏かで温かくなるような写真をたくさん観ることができた。 (と言っても、増山たづ子さんの写真には密やかな悲しみを打ち消そうとする静かなる葛藤のようなものもあったのだけど・・・・。) とは、余談になりましたが、東京ステーションギャラリーで『生誕100年!植田正治のつくりかた』を観てきました。

東京ステーションギャラリー
生誕100年!植田正治のつくりかた
     UEDA SHOJI 100th anniversary
2013年10月12日(土)~2014年1月5日(日)
     October 12th , 2013 - January 5th , 2014
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201310_Shoji_Ueda.html

2013年は植田正治の生誕100周年という事で、いろいろなところで関連の写真展をやっていましたね。 結局観に行けたのはこれだけだったのですが、大満足でした。 ベタな表現ですが、植田正治という人がいかに写真を楽しんで撮っていたかがよく伝わってきたし、その写真の多く(というか殆ど全て)は、優しさに溢れ、そのミニマリズムは美しくもあり、観ていると知らず知らず引き込まれていってしまう魅力的なものに写りました。 カラーかモノクロか、とか、その是非を問うつもりはこれまでも毛頭ありませんが、植田正治の極力省略され、デザイン化された作風には、モノクロームのシンプルさがよく合っていると思います。 『汚く矛盾したものから眼を背けて、自分が幸せになれるものだけに目を向けた内向きの写真』という見方もあるのかも知れませんが、それで何がいけない?というきっぱりとしたぶれない植田正治の哲学があるような気がしました。 それどころか、決して逃げていない、挑戦とか、試みとか、そういう攻めの姿勢も貫かれていて、世の中に受け容れられないような突飛で奇抜な題材を使っている訳ではないのに、そう言う『新しさ』ではなく、家族を砂丘に並べて撮影するだけの事で、観る人に今までにない感覚を覚えさせてしまう、そんな親しみやすい『新しさ』が植田正治の写真にはあります。 それは、例えば今の時代にも通用するという斬新さではなく、その当時の斬新さの強度がとても強いと言うか、時代の流れに呼応し順応しているものでもなく、観るものを当時の感覚まで引き戻す力強さというか、吸引力というか、そんなものをもって『今観ても斬新』と思わせる不思議なタイムスリップを感じるような気がします。 子供たちのおかっぱ頭、お母さんの和服姿、男の子達の小さな学生服などが、そんな感覚を引き起こさせるひとつの要因になっているのだと思いますが、ワタシのよく言うところの、『時間軸がぐらぐらする感覚』です。 それだけ撮影された当時の画面の中に引き込まれてしまっているのでしょうね。 これは、上手く言えないのだけど、心地よくもで不思議な感覚で、私はとても好きなのです。 ギャラリーの講評では『一筋縄ではいかないこの写真家』と評していますが、まさに言いえて妙。その通りです。 シンプルでミニマルだけど複雑で多様。 昔なんだけど新しいし、その新しさが古臭くもあり、それがまた斬新。 と、ぐるぐると感覚が掻き混ぜられる気がするんです。解り易いけどその奥は深い。 単純明快だけど知り難い、まさに子供の心のような眼で写し撮られた写真の数々です。 子供達が夜ぐっすりと眠ってみる夢の世界を現しているような印象もありました。
砂丘の写真も多く展示してありましたが、それ以外の植田正治もたっぷりと知る事が出来ました。 特に晩年の昭和のモダニズム風の写真とは表情を異にした妖艶な赤い花の写真などもあり、ちょっと意外な感じもしました。 (優しいお父さんとしての顔以外の植田正治もあったのですね。) 小説家で言えば絶筆にあたる、生前最後のフィルムに撮影されていた数枚の人のいない風景写真で写真展は終わるのですが、これを観る頃には不思議と今までのイメージとは様相を異にした植田正治に出会うに至る訳です。
『前衛的』という言葉すら既にレトロな響きを持ちつつある今日この頃。 鳥取の片田舎で、日本や世界という物理的な広さよりももっと大きな世界観を自分の内面に持ち続けた大らかな作風。 時代に先がけていたその空間表現は『植田調』となり、現代の新しさとは決して混ざり合わない、同化されてしまわない、確固たる個性として、今でも斬新な光を放っていると感じられた訳です。


これを観たら、黒い傘と本を持って、鳥取砂丘へ赴かねばなるまい、と思わせるほどぞくぞくする1枚です。






まさに『砂丘スタジオ』。 お父さんのお遊びに付き合う幸せな家族の姿も存分に見ることができ、幸せな気持ちになれます。




騙し画のような構図。 俄かモデルの子供達もいい味を出しています。 ちょっとグリーンバックの前の撮影のような雰囲気も醸しているのが面白い。




私が初めて植田正治を知ったのはこの1枚。 写美の外壁に大きく飾られてます。 『砂漠に着物? なんで?』 当時、植田正治を知らなかった私の率直な感想。 でも何だか妙に気になって。 あの時からの心のざわつきは、今だから解る。 そう、『なんかいいかも。』って思っていたのです。 巨匠の作品って、その人物に関してはズブの素人にもやっぱり響くものがあるんだ。という証明のようなエピソードと思っています。




この写真、とっても好きなんです。 でも流石にこんな風に遊んでいる子供は都合よくおらず、お菓子の缶をエサになんども土手の上を走らせた、というエピソードを日曜美術館でやってました。

最後に、東京ステーションギャラリー。 東京駅建設当時の赤レンガがむき出しにされている展示室があって、ホワイトキューブが大半を占める日本の美術館にあって、海外の美術館のような雰囲気を漂わせていました。

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# by sanaegogo | 2013-12-23 00:00 | art | Comments(0)
カメラばあちゃんに教えてもらった事






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増山たづ子
すべて写真になる日まで
2013年10月6日(日) – 2014年3月2日(日)
IZU PHOTO MUSEUM
http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/118680489.html
IZU PHOTO MUSEUMで開催している、増山たづ子「すべて写真になる日まで」を観に行って来ました。 私が増山たづ子さんの事を知ったのは、いつの事だったのか、もう思い出せないですが、当時使っていたペンタックスのコンパクトカメラ(フィルム)だけで撮った写真でいつか作品展をやりたい! 『カメラばあちゃんみたいに!』 と言っていたのを覚えています。 とは言っても、彼女がどんな事をしていたのかは知っていたけど、その写真そのものは観た事がなかったのです。 なので、この写真展の開催が告知されてからここに至るまで、本当に楽しみにしていたのですねー。
カメラばあちゃんとして知られている増山たづ子さんは、ダム開発計画で沈み行く縄文時代から続く村、徳山村をピッカリコニカで撮影して、手書きのメモが付いた600冊のアルバム、10万カットの写真でその変遷を記録するという偉業を成し遂げました。 それは意図された偉業ではなく、小さなことからコツコツと真摯に取り組んできた事の結果であるだけです。 写真に写っている村の人々、子供も大人も、皆飾らない日常の姿をたづ子さんの構えるカメラの前にさらけ出しています。 たづ子さんの個人的なアルバムが立体的な大きな展示になってしまった、と言えるほど、その写真の中の笑顔は親密な親しげな微笑や笑いでいっぱいです。 『作品』づくり、なんて意識は毛頭無く、ただひたすらに、村の人々に一声かけ、会話をして、笑顔を交し合い、撮影された真っ直ぐで素直な写真ばかりです。 村の記録と言っても、第3者的に外側から客観的に写した記録写真ではなくて、そこには皆がたづ子さんの方に向って視線を遣っている撮影者とのインタラクティブな写真ばかりが壁一面に並べられています。 その笑顔の自然さは、もう一級品です。 一声かけてカメラに視線をもらって写真を撮るのがある種の『演出』なのだとしたら、たづ子さんの場の雰囲気作りは名演出です。 ピッカリコニカで写真を撮り始めてから徳山村を離れるまでの8年間、作為的なものはなく、『村の姿を残しておきたい』という純粋な気持ちで写真を撮り続けていたたづ子さんですが、多くの写真を観ていると、はっとするほど構図が素晴らしいものとか、背景の納め方とバランスが絶妙、みたいな写真も観られるようになり、たづ子さんの写真の腕前の上達が何となく見て取れるのも楽しい感じがしました。 ボツの写真がどの位あるのかな、という事も関心がありましたが、それはあまり触れられていませんでした。 殆ど全ての写真が1回だけのシャッターで、あの素晴らしい素直な構図と写る人の笑顔を写真の中に納められているのだとしたら、これは素晴らしい事ですよね。でも察するに、そうなんだと思います。 『作品づくり』なんて微塵も意識していない真っ直ぐさが、きっと数々の場面を邪心無く写真の中に納めさせたのでしょう。 そんなたづ子さんの写真との向き合い方は、多少なりともスケベ心がある自分に、大切な事を再認識させてくれた気がします。
ダムはやがて本当に着工して、村は底に沈む。 ("浮いてまう" とたづ子さんは言い表してますが。) そんなネガティブな状況の中、村の中の人間化関係がぎすぎすしてしまった事もあったみたいですが、写真に写る村の人々は皆笑顔で、生き生きとしています。 『国は一度決めたことは必ずやる。 戦争もダムも。』と、何とも含蓄のある言葉をたづ子さんは残していますが、全てを受け容れる決意と強さが、この笑顔や村の様々な表情、風景をより鮮明な記録として残させたのでしょう。 たづ子さんの写真にはある種の芯の通ったぶれない気持ちがあり、取り組み続けた力強さがあります。
今やアート、美術、芸術の文脈で語られるようになった『写真』ですが、本来の気持ち、あるべき姿勢、忘れてはいけない喜び、そんなものを思い起こさせてくれるたづ子さんの写真です。


《櫨原(はぜはら)分校》1983年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《花盛りなのに》1985年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《戸入分校》1985 / ©IZU PHOTO MUSEUM


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# by sanaegogo | 2013-12-22 00:00 | art | Comments(0)
「ヤッテミヨウ!」
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もうかなり昔の事ですが、読売ジャイアンツの高橋由伸選手の事を『全然好みじゃないのに何故か気になる。』と言っていたら、『それが本物の恋なのよ。』と言われた事がありました。 全く脈絡がありませんが、この赤鹿麻耶さんの「ヤッテミヨウ!」に感じた気持ちは、まさしくそんな感じかも知れません。 『全然好みじゃないのに何故か惹かれる。』です。雑誌『IMA』が主催している写真展 LUMIX MEETS TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9 を観ての事です。日本で有望な若手写真家9人にフォーカスした写真展ですが、そのうちの1人が赤鹿麻耶さんで、写真展のキービジュアルになる作品『ヤッテミヨウ!』を観てまず感じた事です。
赤鹿麻耶とその友人達が、一見すると意味の無いような色々な事にチャレンジしていて、それを瑞々しく写真に納めています。 その行為の弾けんばかりの元気の良さ、溢れんばかりの好奇心が伝わって来る感じに何故か心が奪われて、思わず見入ってしまう写真でした。 私はそもそも、あまり人物は撮らないし、自分で撮るとしたらと画を想像してみても、きっと肖像画のように唐突にそこに居て、雰囲気で勝負、なんて感じになると思われます。 でもこの「ヤッテミヨウ!」は、とにかく若い世代にありがちな無意味な行動に熱中し、意味なんて考えなくたって、思いついたらやってみる! みたいなはっちゃけた馬鹿騒ぎとその中にある達成感と高揚感みたいなものが、やたらめったら弾けていて、すごい躍動感を感じます。 ストーリー性などは全く無視して、細切れで唐突な羅列で構成されている『次々と』感がまた良いんです。 それに「ヤッテミヨウ!」というタイトルを付けたのがまた絶妙だと思いました。 このシリーズのタイトルが「ヤッテミヨウ!」でなければ、こんなに引っかかる事は無かったように思います。 端的にして軽妙。 いいですねぇ。 どんぴしゃ、な感じがします。 この写真のフォーマットもいいんですよね。画面の構成にばっちり合っていて、上手いなぁ、と思いました。 わざとらしさなく、最もダイナミックに見えるところで切り取られてます。 水中で息を止めて苦しそうな女子軍団の表情に水面の揺らぎが画面に動的な雰囲気を与えてて、微笑ましくさえあります。 色もとってもクリアでキレイ。 定型でないフォーマットが自由な感じをよりいっそう強くしているようです。 自分とは全く違う世界観だけど、とっても納得してしまいました。


LUMIX MEETS
TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9
会場:代官山 ヒルサイドフォーラム
会期:2013年11月23日 - 12月1日
参加フォトグラファー:
  • 赤鹿麻耶
  • 伊丹豪
  • うつゆみこ
  • Kosuke
  • 濱田祐史
  • 水谷吉法
  • 山本渉
  • 横田大輔
  • 吉田和生







  • ≪ 会場での「ヤッテミヨウ!」 展示風景です ≫


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    # by sanaegogo | 2013-12-04 00:00 | art | Comments(0)
    Crystallize


    吉岡徳仁の「Crystallize」を観て、吉岡徳仁の世界を堪能。 その後、ミュージアムショップに行って、「Crystallize」の図録をみていたら、その時に初めて知りました。今回の図録、川内倫子さんが撮りおろしたものだったんですねー。
    吉岡徳仁の作品の硬度のあるクリスタルや結晶を素材に、川内倫子がふわっとした柔らかな表現で撮る。それは、吉岡徳仁の作品でもあり、川内倫子の作品でもある贅沢な図録です。2人のともすると相反するそのマチエール(というか何というか・・・・)の融合、もしくは化学反応が眩いばかりです。 どちらも光と透明感があり、時にはほの白く、時には虹色にきらきらと、そしてじんわりと輝いています。
    きっとお互いの作品にお互いがインスパイアされているんでしょうね。 認め合った作家同士のジャンルを越えた仕事という感じがとても素敵です。


    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Swan Lake≫
    白鳥の湖を聞きながら、白い展示室の中で 結晶はだんだんと成長していきます。




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪ROSE≫
    結晶に取り込まれ、自身も結晶になっていきそうな薔薇
    かすかに確認できる色彩は 「永遠」に臨む薔薇の最期のかすかな声のようです。





    ≪ROSE≫
    周りを取り巻いているのは、無数の白いストローで創られた≪Tornado≫。





    ≪Spider’s Thread≫
    白い結晶は雪のように冷たくも見えるし、どことなく温かみも感じます。




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Rainbow Church≫
    クリスタルのプリズムから柔らかく溢れ出る虹の光。





    ≪Rainbow Church≫




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Rainbow Chair≫
    虹色の光玉。 なんて素敵・・・・。姿を変えた虹の形です。





    ≪Rainbow Chair≫





    ≪VENUS≫
    パリで開催されたMaison&Objetで開催された個展でのRose。
    ショパンの練習曲ハ短調作品10-12 「革命のエチュード」、「幻想即興曲」、「バラード1番」による結晶絵画





    ≪VENUS≫




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    # by sanaegogo | 2013-11-24 00:00 | art | Comments(0)
    吉岡徳仁 クリスタライズ ―自然から生み出される。

    「虹の教会」の中で佇む、拙シルエットです。厳かで神秘的な空間です。




    最後に観たこれまでの作品やプロジェクトを紹介するムービーの中で、吉岡徳仁は、「透明なものに惹かれる」と言っていました。 きらきらとした透明感のある結晶や光学ガラス、水、ほの白いファイバーの森、かつて少女が御伽の国にあると夢見ていたような世界観を吉岡徳仁は創造しています。 けれど、男性の彼が作り出すその世界は、少女じみたところはなく、凛としていて、夢の中というよりもむしろ妙に現実感というかリアリティがあって、「創生している」と言った意思的なものを感じる不思議な感覚があります。 これは彼の創作は常に、自然界に存在するさまざまな原理を取り入れ、それを具現化する試みや考え方を基に行われているからだと言えます。 artificial だけど その根源は常にnaturalであり、naturalなartifactであるという、禅問答のようなスパイラルがそこにはあります。 「結晶」という自然現象を巧みに駆使して、自然物とも人工物とも言えない、まさに「自然から生み出されている」人工物、両者の狭間に生まれる特別な存在として、彼の作品はそこにあり、輝きを放っています。 その世界観の美しさ、透明感にうっとりしますが、それを作り出したのが吉岡徳仁という人物だというのが意識されるのか、どこか男性的で力強くもあるように感じるのは、好んで使われているmaterialが、結晶という危ういもののみならず、クリスタルや光学ガラスのような強固なものも多く用いられているからでしょうか。 子供の頃に、透明なものに妙に惹かれて、それをしげしげと覗き込んだり、形の加減でプリズムのように創り出される七色の光の虹を見るため、頭や視線を一生懸命くるくると動かしていたことを思い出します。



    展覧会の構成です。

    ウォーターブロック ― Water Block

    このガラスのベンチは、パリのオルセー美術館の印象派の部屋にもインストールされているのは有名です。 艶やかで流麗な形のその塊は、人為的な手が一切加えられていない自然によって自然に形作られたフォルムそのものです。 これから繰り広げられる吉岡徳仁の、「自然の力は、人々に想像を超えた驚きをもたらしてきた。」という世界観を象徴するものでもあります。


    白鳥の湖|結晶の絵画
    ― Swan Lake | Crystallize Painting

    音楽を聞かせながら水槽の中で自然結晶を成長させていく、「クリスタライズド プロジェクト」。 (Crystallize = 形を与え、結実させる) チャイコフ・スキーの「白鳥の湖」の音色に呼応して形状を変化させるという結晶絵画は、自然の生み出す作為を超えた造形です。


    ローズ ― Rose

    赤い薔薇を覆い尽くすように成長していく「結晶」は、薔薇の生命を吸い取ってしまうがごとく形作られていきます。 雪の女王に息を吹きかけられ、凍りついてしまったかのようです。 結晶の中に閉じ込められてしまった薔薇の瀕死でかすかな色彩をみていると、ある種の「残酷」さがあったりとか、「永遠」であったりとか、色々な印象が交錯します。


    蜘蛛の糸 ― Spider’s Thread

    蜘蛛の糸のようにフレームの中に張られた7本の糸で空中に描き出された椅子に結晶が生成され、だんだんと椅子としてのその形を露わにしてきます。会期中徐々に成長を重ね、誰でもない自然の力によって創生されていくその椅子は、紛れもなく「万物」のなかのひとつです。


    虹の教会 ― Rainbow Church

    アンリ・マティスが建てた南仏のヴァンスにある「ロザリオ礼拝堂」のオマージュである「虹の教会」は500個ものクリスタルで出来たプリズムを用いて、自然光から虹を創り出しています。 そのステンドグラスの前に立つと、神聖な光で身体が包まれているような気持ちになれます。 プリズムを通して投影された自然光は七色の帯に分かれていき、自然の摂理を改めて意識する事が出来ます。 自然の生み出す「分散」が体験できます。白の濃淡や透明なもので構成された展示の中でこの虹の七色は唯一の色彩で、その色彩の純粋さが際立っているように感じられます。










    レインボーチェア|レイ オブ ライト
    ― Rainbow Chair | Ray of Light

    クリスタルプリズムからつくられた透明のベンチ。 艶やかで流れるようなフォルムのベンチに座って、ステンドグラスの窓から生み出される光の虹を眺めるていると、どこからともなくやって来た厳かな光に包まれて光と一体になっている気持ちになれます。 座っている人はみんな、代わる代わるにステンドグラスの方へ歩み寄って、注がれる光を浴びていました。








    最後にこれまでのプロジェクトやデザイン作品、インスタレーションの記録をスクリーンで観て終了しますが、これは50分ほどのもので、すっかり堪能はしましたが、作品がもっと観たかったなぁ、という感じはあります。しかしながら、この「Crystallize」は吉岡徳仁の紛れもなく過去最大規模の個展で、展示の規模よりも観る人の「もっと観たい!」気持ちの方があるかに上回ってしまっているのですね。 会場を埋め尽くすようにストローが敷き詰められた圧巻のインスタレーション 「Tornado ― トルネード」からもその大規模さが垣間見られるけれど、ネットでは楽しそう(?)に設営をする吉岡さんの画像がたくさん見受けられています。 「私も設営に参加したかった」 と本気でそう思ってしまいました。



       


    これはもう、"White-out"状態ですね。 遭難注意。







    TOKUJIN YOSHIOKA
    Crystallize
    吉岡徳仁 ― クリスタライズ
    東京都現代美術館 Mot
    2013年10月3日[木]― 2014年1月19日[日]
    Press Release





    2008年に21_21 DESIGN SIGHTで開催された「 Second Nature 」展も、2010年 森美術館での「SENSING NATURE ネイチャーセンス」展も見逃しているので、これは本当に会期が始まる前から楽しみにしていたのです。
    会期はまだまだ充分あります。 是非。


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    # by sanaegogo | 2013-11-23 00:00 | art | Comments(0)
    寺山修司の『摩訶不思議な客人』


    今月10月29日まで銀座のアルマーニタワーでやっているTOKYO 1970 Japanese Photographers 9 で寺山修司の写真を観ました。 寺山修司といえば、かの『天井桟敷』の主宰にして、「言葉の錬金術師」と異名をとった天才文筆家にして芸術家ですが、演劇も文章も含め、『作品』というものを初めて観ました。大学生くらいになると、前衛的な感じに憧れる学生は皆、一度は寺山修司を語っていた、という記憶があります。 文系男子なのに、経済学部や法学部には進まず、英米文学を専攻し、インドアなのにシュッとして割と綺麗な顔をしてこざっぱりとしていながら、どこか屈折していて尖がったとっつき難い、村上春樹を愛するような男子学生がよく語っていた、というステレオタイプな印象があります。(今でいう、秋葉系とは全然違う感じですが・・・・。)
    TOKYO 1970では9名の写真家が1970年代頃の東京にインスパイアされて当時撮影された作品を並べたものですが、その中で断然目が釘付けになったのは、寺山修司です。 キュレーターの長澤さんのテキストを読むと、TOKYO 1970は寺山修司を軸にして、少なからず彼と関わりのあった8人の写真家を横軸縦軸に据えて構成されたものです。もう他界された方も混じっていて、それが1970年代で時間がストップしてしまったような空間の雰囲気を醸しだしています。 寺山修司は『摩訶不思議な客人』。 まず間違いなくその作品は摩訶不思議です。奇妙奇天烈です。エキセントリックでシュール。 この手の言葉はどれもばっちりハマります。 写真に納まる摩訶不思議な人たちは、全く意味不明の行為を行いながらこちらを見据えていて、その瞳には感情みたいなものは一切感じられず、しかしながら物凄いプレゼンスを発揮しています。 これだけ摩訶不思議にして意味不明ながら、えげつなさがなく、退廃美というか、イカレてる感じが何とも言えないセンスを発してます。 寺山修司論的なものになってくると、全然造詣もなにもあったものではないので何も語れませんが、こんな凡人にもこれだけのインパクトを与えるのですから、彼の天才ぶりの凄さを窺い知る事が出来ます。究極のフィクションですね。
    大道芸人のような、常識という網目が決して掬い取れない人々の静かなる乱痴気騒ぎ。ちょっと陰鬱で世の中の裏側で棲息しているようなファンタジーな人々の繰り広げる狂宴。TOKYO と銘打ってはいるのですが、『天井桟敷』の名に相応しく、その雰囲気は退廃の極致だった夜のパリの陰鬱な馬鹿騒ぎぶりを連想させてくれます。


    (* 画像はトリミングしてあります。)

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    # by sanaegogo | 2013-10-06 00:00 | art | Comments(0)
    Dog Chasing My Car in the Desert, John Divola


    TOKYO PHOTOに行って、特別展示の「車窓からの眺め(Pictures From Moving Cars)」を観ました。 これは、TATE Modernの写真部門チーフキュレーター サイモン・ベイカー(Simon Baker)のキュレーションによるもので、森山大道、ジョエル・マイヤロヴィッツ、ジョン・ディヴォラが車をひた走らせ、車窓から捉えた飛び去る光景や被写体を写真に納めたものです。



    森山、マイヤロヴィッツ、ディヴォラとそれぞれに良かったのですが、ワタシは何と言ってもこれ。 ジョン・ディヴォラ(John Divola)の"Dog Chasing My Car in the Desert" です。 というよりも、こればかり観ていて、他の2人の印象の入り込む余地がなかったような気もします。 実はその前にサイモン・ベイカー氏のギャラリートークを聞いていたので、ワタシの関心はすっかりニューカラーのマイヤロヴィッツに向うものだとばかり思っていたのですが、トークの後、展示室に入ると意外にもワタシの眼はジョン・ディヴォラに釘付け。 小さな個室を挟んでではありましたが、その正面にちらりと見えた壁に直貼りの写真でした。連続写真のようでいて、その写真はどれも同じトーンのものはなく、かなり個別に個性的。 かといって不協和音を起こしているわけではない、不思議な連続性。 車窓からの写真は車や列車の中から皆がよく撮影をしますが、どちらかというとロードムービー的な空気感が流れ、そこにある種の心情を映すような雰囲気ですが、これは明らかにアクションシーン。 それを作品として昇華させて並べた事にその斬新さを感じます。 まさに犬と車の時速60kmでの一騎打ち。 車を凝視するその犬の狂気じみた視線。 その犬の動きを我がものにしようと揺れてブレるカメラの緊張感がこの作品にはあります。 決してライ・クーダーのギターに合わせて思い出のように千切れて風に飛んで行くノスタルジックな情景ではないのです。カメラは荒れた路面に翻弄されハンドルさえも取られそうになりながら犬を追いかけます。 レールに乗せた頑丈なクレーンの上で滑るように移動するカメラではないのです。 明らかにディヴォラは身体(しんたい)を駆使して撮影をしていて、撮影をするということはいかに身体能力を使い、四肢をフル稼働させて撮るものかを再確認できます。 ディヴォラは、「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」と語ったそうですが、何とも哲学的な含蓄があります。 一瞬の連続であり、ストーリーでもある。 この時車も撮影機材の一部となるのです。 犬の走る「動」、車の走る「動」、シャッターが開いては閉じる「動」、それを操るディヴォラの「動」、これらの「動」が複雑に絡み合う事で、" 車の窓はもうひとつのフレームと化し・・・・云々"、とは全く違った車窓からの眺めを描き出していて、その異質さに夢中になりました。





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    遠くに見えていた犬が唐突に目の前に登場。 この導入にはかなりやられてしまいました。




    ひたすらに並走する黒犬。




    もはや、犬の身体も残像と軌跡とごちゃ混ぜに。 「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」瞬間を捉えています。




    ディヴォラを牽制する犬の視線。 乱れたフレーミングが意味するものとは。



    John Divolaの"Dog Chasing My Car in the Desert" もう一度どこかで、(写真集ではなくて展示で) 観たいです。 そして、これをピックアップして紹介してくれた サイモン・ベイカー氏に心から感謝を。
    http://www.tokyophoto.org/2013/special/tate/index.php

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    # by sanaegogo | 2013-09-28 00:00 | art | Comments(0)
    We shall meet in the place where there is no darkness. (暗なきところで逢えれば)


    「暗なきところ」ってどこだ? その答えは、サブタイトルを見て理解しました。
    We shall meet in the place where there is no darkness.
    ― 暗闇のないところでお逢いしましょう。
    米田さんはロンドンでの生活が長いので、もしかしたら、彼女にとってのメインタイトルはこの英語でのセンテンスなのかも知れません。 「暗闇」とは、かつてその場所に横たわっていた「時代の闇」のことで、今はもうそこに闇はないけれど、その場所にはかつては確かに闇があった。その事をしっかりと踏まえ、見つめ直してその場所に向き合う。 そんな制作の姿勢がこの写真展には如実に顕れていて、それが、米田知子さんの確立したスタイルなのです。

    米田知子 TOMOKO YONEDA
    暗なきところで逢えれば
    We shall meet in the place where there is no darkness.
    会場: 東京都写真美術観
    会期: 2013年7月20日 ( 土 ) ~ 9月23日 ( 月・祝 )
    http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html
    • Scene
    • Japanese House
    • Between Visible and Invisible 見えるものと見えないもののあいだ
    • Kimusa
    • The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring パラレル・ライフ: ゾルゲを中心とする国際諜報
    • The Island of Sakhalin サハリン島
    • Cumula 積雲
    • Crystal 水晶
    • [映像作品] We sall meet in the place where there is no darkness 暗なきところで逢えれば

    展示は全編にわたり殆どの作品が、過去の歴史や記憶へと観る者を誘(いざな)うトーンで構成されています。 写真展なのに、作品は単なる入り口のような役割でさえあります。 どこか文学的で歴史書を紐解いていくような感覚を覚えます。 後ろ向きと言えば後ろ向きなのでしょうが、何気なく存在している日常の風景の中にも歴史(ともすれば暗い歴史)が横たわっていて、それを突きつけられて知ってしまった今となっては、知る前とは同じ感情で作品を観ることは出来ません。 何故その場所の写真を撮影したか、『何かの出来事があった場所』というふわっとした情報しか付加しない方法もあるのだと思いますが、米田さんは敢えて事実関係を明確にタイトルの中で著わしています。 これは事実を直視する姿勢の顕れてあり、写真という記録のツールを使って、時間を遡って史実を記録して提示するその手法は、ある意味、論証する学者の態度のようでもあります。 事実が印象という効果を借りて観る人の記憶の中に深く刻み込まれていくのです。 『写真作品をつくる』という事において、深く考えさせられ、うっすらと衝撃をうけた写真展でした。 米田さんは丹念なリサーチを経て、場所に赴き撮影をします。 それは、何冊も参考文献を読み、事実を調べ書き上げていく史実に基づいた小説を書いていくことに似ているような気がします。 米田さんの写真には漠然としたところがなく、全てが歴(れっき)とした括弧たるものなのです。 なのでとても印象が強い。 なかでも "The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring" は圧巻でした。 戦時中のスパイの諜報活動を調べ、資金や情報の受け渡しの場所を古いカメラを用いて素早く撮影する。 まるで、スパイたちが素早く様々なものを交換し、行きずりのようにその場所を離れたように。 宝塚劇場、小石川植物園、上野動物園、平安神宮と、様々な接触場所を調べ上げ、接触した人物までも記しています。物凄い調査の労力です。そこに撮影されている画像も、ごく小さいものでしたが、どれもこれもとても美しいものでした。 そう、米田さんの写真はあやふやなところがなく、とても美しいのです。 その画面の美しさが、かつてそこにあった「歴史の闇」を際立たせているのかも知れません。前述、「写真は単なる入り口」と言いましたが、その入り口の奥に広がる様々な意味合いを著わすには余りある写真ばかりです。 何とも著わし難い気持ちになった写真展でしたが、自分には対処出来ないような大きな時代のうねりみたいなものを感じ取ってしまったのかも知れません。映像作品もとても印象に残っています。 雪の降り頻るひと気のない木立の中の道に遠くから大きなトレーラーが轟音を上げてやってきて、そして通り過ぎていく。 それはまるで、質の高い文学作品のようでした。

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    # by sanaegogo | 2013-09-23 00:00 | art | Comments(0)
    ANDREAS GURSKY ― アンドレアス・グルスキー展
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    既に7月から始まっていたのに、雑事に取り紛れた中でなくてゆっくり観たい!という思いから、ついに満を持して行って来ました! アンドレアス・グルスキー展です。この連休で東京での会期は終了してしまいますが、これから(来年ですが)大阪での開催があります。

    ANDREAS GURSKY
    アンドレアス・グルスキー展
    東京展:2013.07.03-09.16/国立新美術館
    大阪展:2014.02.01-05.11/国立国際美術館


    東京の展示はグルスキー渾身のコーディネートという事だそうです。設営の際には実際に現場に訪れあれやこれやと自身で色々考えを練りながら並べた、という話を聞いています。大阪では大阪の会場にあった構成をするのだと思うので、東京で観た人も大阪に訪れるとまた違ったグルスキー展を味わえるのかも知れません。(ドイツから持ってきたけど展示していない作品も新美の保管庫に眠っているらしいので、それが登場したりするかも。)
    革新的なのは、ついに日本でも、Nationalな美術館で芸術作品として『写真展』が開かれた事だといえるでしょう。『写真』というものがやっと芸術の域に達したものと日本で認識されたひとつの意識の変化のように思います。(海外では既に、ポンピドゥ・センター(パリ)、テート(ロンドン)、ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)をはじめとする主要美術館がグルスキーの作品を収蔵しています。) といっても、グルスキーの写真は、"絵画のような写真"と称されていて、ドイツ絵画の巨匠フリードリヒなどとよく並び称されているようです。 私自身は正直に言うと、このフリードリヒと比較されるあたりの観点はちょっと理解出来ていないのですが、グルスキーは、ロケハンをして大判のカメラで撮影をするだけではなく、物凄く緻密で丁寧な仕事(加工とは言いたくない)を加えていて、実際の視覚では捉えられない全てが均一で等価に広がる圧倒的な視覚世界を、カメラとデジタル技術を用いて、まさに、"描き出して"います。PhotoShopが普及していない頃からコンピューター処理を果敢に用いて、写し撮った情景を作品として再構成してきました。ともすれば撮った写真に後付で手を加える事を揶揄されがちだった写真の世界ですが、コンピューターという道具を使って丁寧な仕事を仕上げるのは、ある意味、マイスターの国ドイツの職人気質の成せる業のような気がします。(そんな制作方法が、師匠のベッヒャーにはあまり気に入られていなかったらしいですが。) しかし、ごくごく初期の頃に撮られたガスレンジの作品がありましたが、ただのガスレンジを写した写真なのですが、その構図、画面構成には唸るものがありました。 ただのガスレンジなのに。 言い添えておくと、いわずもがなですが、彼の行っている写真に手を加えるという手法は、マズいものを修正するものでは決してない、という事です。 マズい写真はどんなに手を加えてもマズいままなのです。 その大元(おおもと)になる写真は、それだけで高い評価を受けていただろう事は容易に解ります。拙い写真に加工修正をする事で逸品になった、という事では決してないのです。さてさて、グルスキー展に話を戻すと、展示は決して制作された時系列になっている訳ではなくて、グルスキー自身の何か自身の中にある系列に沿って並べられています。なので、ありがちな、「初期の頃からの変化と発展がよく解りますね。」というものではなかったのが興味深いところです。 グルスキーについては既に色々なところで語られていて、『等価で仔細に作りこまれた現実にはない視野』みたいなくだりは読み尽くしているだろうので、と思います。(ワタシも以前の記事で書いてます。8月2日 『「グルスキーの写真から見えてくるもの」 って何?』) なので、ここは単純に、実際に足を運んで観に行った立ち位置から、単純かつ素直な感想を。

    まず、何といっても、『カミオカンデ』。この展覧会でこの1枚を挙げよ、と言われれば、迷いつつも、迷わずこれ、です。(「迷わず」に迷う。) グルスキーの持ち味の圧倒的スケール感というのが一番ビンビン来る、と思います。 遠く離れると見えるカミオカンデの全貌ですが、撮影時には実は水も張ってなかったし、人もいなかったそうです。それをここまで緻密な作業で再構成したその技術(技量)の高さにも感服。完璧です。近くに寄れば、カミオカンデを構成する輝く球体の中にひとつひとつの映り込みまで再現されています。マクロ(巨大なもの)とミクロ(微視的なもの)の融合をまざまざと見せつけられます。素晴らしい。その色彩もカミオカンデの持つ宇宙のスペクタクルに通じた荘厳さを感じさせます。


    もうひとつ、『ライン川Ⅱ』。これはライン川を真っ直ぐに広がる水平線で構成したパースを取り払ったグルスキーらしい作品のひとつですが、実は河畔には沢山の建物が写っていたのですが、それも完璧に取り除かれていて、誰でもアクセスできるライン川なのですが、この風景はグルスキーのこの写真でしか観ることが出来ません。このライン川には、色々な考えどころがあって、とても眼を惹かれました。


    そう言う意味では、『パリ、モンパルナス』もまた然り。 これは、何地点かで撮影したものを接合させて再構築したもので、画面の広がりから遠近法は取り払われ、どの地点からも真正面から見据えたような不思議な視覚、視野を感じさせますが、決して不自然だったり、騙されている感じが起こりません。言うなれば、この作品を観て初めて、ヒトの視野の仕組みに気付かされるというか、何か『普通と違う』と感じる人も多いでしょう。そう言う超ニッチで些細な非現実さを不自然なところなしに見せてくれるところに、多くの人は無意識なもやもや感を感じ、より一層その画面に無意識に惹きつけられるのでしょう。グルスキーの作品は、感情というよりは、感覚であったり、もっと言えば生理機能に訴えるところがあると思います。


    この事とは違う側面を見せている、観る人に情緒や何かの想いを喚起させるのが、前評判が高く、ワタシも楽しみにしていた『バンコク』のシリーズです。 グルスキーの作品としては情に訴える雰囲気を醸しだしています。バンコクの汚れた川面に描き出される様々な模様は規則的でもあり、不規則でもあります。 川に投げ込まれた様々な廃棄物、投棄物は何かの想いを表しているようでもあり、観る者にある種の感情、切なさのような気持ちを感じさせます。 淡々と観る人もいるでしょうが、そこでの指標は視野のような生理機能ではなくて感情が入り込んで来るような気がします。 個人的には画面そのもの、その美しい構成にかなり惹かれてしまいました。『バンコク』のシリーズ、これが一番好きです。 これが、前述の「「迷わず」に迷う」の理由です。

    グルスキーは、自分の作品について、こう観て欲しい、とか、こう感じて欲しい、などというのは無いそうで、どう観るかは観る人に委ねたい、と語っているそうですが、これは自分の仕事とそれにかけて来た労力の確かさについての静かなる自信の顕れだと感じます。そんな作品が65点あまり。ゆっくり目録と首っ引きで堪能して参りました。

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    # by sanaegogo | 2013-09-08 00:00 | art | Comments(0)
    Todd Hidoに出逢う @Post 恵比寿
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    『こんな写真に出逢えてよかった。』と思える幸せな瞬間が時々あるけれど、Todd Hidoはまさにそんな気持ちでストレートに胸を打ち抜かれた、そんな感じの出逢いです。 自分が知っている写真家は、世の中で一握りだと自覚しているけど、それならばこの先、こんな出逢いがまだまだ何度も訪れるのかと思うと、期待で胸が膨らみます。
    Todd Hidoはアメリカで現代写真家を代表する写真家で、日本での紹介は初めて。派手な露出はなけれどクオリティーの高い優れた国内外の作家の作品にスポットを当て、静かに粛々と紹介しているギャラリーPost(恵比寿limArt)で展示されていて、彼のこれだけまとまった作品が日本で紹介されるのは初の機会だそうで、今回は今年「Nazraeli Press」より出版された作品集『Excerpts from Silver Meadows』より20点が出品されています。

    Exhibition [Todd Hido]
    会期: 2013年8月13日(火)〜9月1日(日)
    会場:POST (limArt co.,ltd.)




    写真展は大きくふたつの要素から構成されていて、夜や夕方、曇天のもと撮影されたどこの風景とも知れない片田舎の風景と、薄暗い簡素な室内でこちらに真っ直ぐな視線を遣っている印象的なポートレートから成っています。 風景の写真はあくまでもひと気がなく、どこまでも静かで、音もないというよりは、頭の片隅に静けさがしーーんと音を立てている感じすらします。 夜の静けさの中に佇む家、車の運転でもしているのでしょうか、進む先を描き出している田舎道、その視線の持ち主は紛れもなくトッド・ハイド自身であり、彼の車で寒い夜、車であてもなく空虚なドライブを続けているような、そんな気持ちにさせられます。 それが何処となくロードムービーのように思えてきて、画面は常に静かでありながら、どことなく時間の流れを感じさせます。 トッドの視線に准えてトッドの視る世界の中で旅をしているかのようです。 実際彼は車のウィンドウやフロントガラス越しにシャッターを切ることが多いそうで、その目には見えないガラスの隔たりが、戸外の雨や雪の粒子と合間って風景に微妙な滲みや歪みを与えていて、それが本当に印象的でここだけにしかない世界観をかもし出していました。 『空気感』という言葉がまさに相応しい情景です。 写真に写る風景は画面に閉じ込められ、そこで止まっているのですが、時間の流れまで写し撮っているかのような情景です。
    そんな静寂の風景とは対照的に散りばめられていたのが、無名のモデル達を写したポートレートのシリーズです。風景のひと気の無さとは対照的にそのまっすぐにこちらを見据える視線にはいいようもない意志の強い存在感が溢れていて、風景写真と強いコントラストを描き出していますが、そこにもまた静寂が横たわっている事には変わりありません。 物言わぬ無口そうな女性達は、その寡黙さゆえに彼女達の心の中を図り知る事は出来ないような気がして、風景の写真とは趣を異にしていて、観る者の感情移入さえ拒んでいるような気がしました。 まるで傍観者になるしかないなのです。
    トッド・ハイドの写真は、Postの雰囲気にもとても良く合っていて、まるでずっとそこにそうやって飾ってあるかのように良く馴染んでいました。 夜に観に行ったのも良かったのかも知れません。 今はアレック・ソスの作品が飾られていると思いますが、部屋の片隅や奥の壁にトッドの写真の面影を感じてしまうかも知れません。
    観に行ってよかったです。 Todd Hido 心に深く刻み込まれてしまった感じがします。

    Todd Hido Official Site: http://www.toddhido.com/



    ≪参考≫
    http://www.houyhnhnm.jp/culture/news/todd-hido.html
    http://antenna7.com/artdesign/2013/07/todd_hido.html
    http://openers.jp/culture/tips_art/news_todd_hido_38505.html





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    # by sanaegogo | 2013-08-27 00:00 | art | Comments(0)