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生誕100年!植田正治のつくりかた
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子狐登場
まるで絵画のような1枚。 これ、『覆い焼き』ですよね。
訳あって、吉田秋生さんという少女マンガ家の描いたある作品のストーリーを思い出させてくれる1枚です。

この写真展を観に行く前日にIZU PHOTOまで足を延ばして、増山たづ子さんの写真展を観に行っていたので、この3連休はとても気持ちが穏かで温かくなるような写真をたくさん観ることができた。 (と言っても、増山たづ子さんの写真には密やかな悲しみを打ち消そうとする静かなる葛藤のようなものもあったのだけど・・・・。) とは、余談になりましたが、東京ステーションギャラリーで『生誕100年!植田正治のつくりかた』を観てきました。

東京ステーションギャラリー
生誕100年!植田正治のつくりかた
     UEDA SHOJI 100th anniversary
2013年10月12日(土)~2014年1月5日(日)
     October 12th , 2013 - January 5th , 2014
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201310_Shoji_Ueda.html

2013年は植田正治の生誕100周年という事で、いろいろなところで関連の写真展をやっていましたね。 結局観に行けたのはこれだけだったのですが、大満足でした。 ベタな表現ですが、植田正治という人がいかに写真を楽しんで撮っていたかがよく伝わってきたし、その写真の多く(というか殆ど全て)は、優しさに溢れ、そのミニマリズムは美しくもあり、観ていると知らず知らず引き込まれていってしまう魅力的なものに写りました。 カラーかモノクロか、とか、その是非を問うつもりはこれまでも毛頭ありませんが、植田正治の極力省略され、デザイン化された作風には、モノクロームのシンプルさがよく合っていると思います。 『汚く矛盾したものから眼を背けて、自分が幸せになれるものだけに目を向けた内向きの写真』という見方もあるのかも知れませんが、それで何がいけない?というきっぱりとしたぶれない植田正治の哲学があるような気がしました。 それどころか、決して逃げていない、挑戦とか、試みとか、そういう攻めの姿勢も貫かれていて、世の中に受け容れられないような突飛で奇抜な題材を使っている訳ではないのに、そう言う『新しさ』ではなく、家族を砂丘に並べて撮影するだけの事で、観る人に今までにない感覚を覚えさせてしまう、そんな親しみやすい『新しさ』が植田正治の写真にはあります。 それは、例えば今の時代にも通用するという斬新さではなく、その当時の斬新さの強度がとても強いと言うか、時代の流れに呼応し順応しているものでもなく、観るものを当時の感覚まで引き戻す力強さというか、吸引力というか、そんなものをもって『今観ても斬新』と思わせる不思議なタイムスリップを感じるような気がします。 子供たちのおかっぱ頭、お母さんの和服姿、男の子達の小さな学生服などが、そんな感覚を引き起こさせるひとつの要因になっているのだと思いますが、ワタシのよく言うところの、『時間軸がぐらぐらする感覚』です。 それだけ撮影された当時の画面の中に引き込まれてしまっているのでしょうね。 これは、上手く言えないのだけど、心地よくもで不思議な感覚で、私はとても好きなのです。 ギャラリーの講評では『一筋縄ではいかないこの写真家』と評していますが、まさに言いえて妙。その通りです。 シンプルでミニマルだけど複雑で多様。 昔なんだけど新しいし、その新しさが古臭くもあり、それがまた斬新。 と、ぐるぐると感覚が掻き混ぜられる気がするんです。解り易いけどその奥は深い。 単純明快だけど知り難い、まさに子供の心のような眼で写し撮られた写真の数々です。 子供達が夜ぐっすりと眠ってみる夢の世界を現しているような印象もありました。
砂丘の写真も多く展示してありましたが、それ以外の植田正治もたっぷりと知る事が出来ました。 特に晩年の昭和のモダニズム風の写真とは表情を異にした妖艶な赤い花の写真などもあり、ちょっと意外な感じもしました。 (優しいお父さんとしての顔以外の植田正治もあったのですね。) 小説家で言えば絶筆にあたる、生前最後のフィルムに撮影されていた数枚の人のいない風景写真で写真展は終わるのですが、これを観る頃には不思議と今までのイメージとは様相を異にした植田正治に出会うに至る訳です。
『前衛的』という言葉すら既にレトロな響きを持ちつつある今日この頃。 鳥取の片田舎で、日本や世界という物理的な広さよりももっと大きな世界観を自分の内面に持ち続けた大らかな作風。 時代に先がけていたその空間表現は『植田調』となり、現代の新しさとは決して混ざり合わない、同化されてしまわない、確固たる個性として、今でも斬新な光を放っていると感じられた訳です。


これを観たら、黒い傘と本を持って、鳥取砂丘へ赴かねばなるまい、と思わせるほどぞくぞくする1枚です。






まさに『砂丘スタジオ』。 お父さんのお遊びに付き合う幸せな家族の姿も存分に見ることができ、幸せな気持ちになれます。




騙し画のような構図。 俄かモデルの子供達もいい味を出しています。 ちょっとグリーンバックの前の撮影のような雰囲気も醸しているのが面白い。




私が初めて植田正治を知ったのはこの1枚。 写美の外壁に大きく飾られてます。 『砂漠に着物? なんで?』 当時、植田正治を知らなかった私の率直な感想。 でも何だか妙に気になって。 あの時からの心のざわつきは、今だから解る。 そう、『なんかいいかも。』って思っていたのです。 巨匠の作品って、その人物に関してはズブの素人にもやっぱり響くものがあるんだ。という証明のようなエピソードと思っています。




この写真、とっても好きなんです。 でも流石にこんな風に遊んでいる子供は都合よくおらず、お菓子の缶をエサになんども土手の上を走らせた、というエピソードを日曜美術館でやってました。

最後に、東京ステーションギャラリー。 東京駅建設当時の赤レンガがむき出しにされている展示室があって、ホワイトキューブが大半を占める日本の美術館にあって、海外の美術館のような雰囲気を漂わせていました。

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by sanaegogo | 2013-12-23 00:00 | art | Comments(0)
カメラばあちゃんに教えてもらった事






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増山たづ子
すべて写真になる日まで
2013年10月6日(日) – 2014年3月2日(日)
IZU PHOTO MUSEUM
http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/118680489.html
IZU PHOTO MUSEUMで開催している、増山たづ子「すべて写真になる日まで」を観に行って来ました。 私が増山たづ子さんの事を知ったのは、いつの事だったのか、もう思い出せないですが、当時使っていたペンタックスのコンパクトカメラ(フィルム)だけで撮った写真でいつか作品展をやりたい! 『カメラばあちゃんみたいに!』 と言っていたのを覚えています。 とは言っても、彼女がどんな事をしていたのかは知っていたけど、その写真そのものは観た事がなかったのです。 なので、この写真展の開催が告知されてからここに至るまで、本当に楽しみにしていたのですねー。
カメラばあちゃんとして知られている増山たづ子さんは、ダム開発計画で沈み行く縄文時代から続く村、徳山村をピッカリコニカで撮影して、手書きのメモが付いた600冊のアルバム、10万カットの写真でその変遷を記録するという偉業を成し遂げました。 それは意図された偉業ではなく、小さなことからコツコツと真摯に取り組んできた事の結果であるだけです。 写真に写っている村の人々、子供も大人も、皆飾らない日常の姿をたづ子さんの構えるカメラの前にさらけ出しています。 たづ子さんの個人的なアルバムが立体的な大きな展示になってしまった、と言えるほど、その写真の中の笑顔は親密な親しげな微笑や笑いでいっぱいです。 『作品』づくり、なんて意識は毛頭無く、ただひたすらに、村の人々に一声かけ、会話をして、笑顔を交し合い、撮影された真っ直ぐで素直な写真ばかりです。 村の記録と言っても、第3者的に外側から客観的に写した記録写真ではなくて、そこには皆がたづ子さんの方に向って視線を遣っている撮影者とのインタラクティブな写真ばかりが壁一面に並べられています。 その笑顔の自然さは、もう一級品です。 一声かけてカメラに視線をもらって写真を撮るのがある種の『演出』なのだとしたら、たづ子さんの場の雰囲気作りは名演出です。 ピッカリコニカで写真を撮り始めてから徳山村を離れるまでの8年間、作為的なものはなく、『村の姿を残しておきたい』という純粋な気持ちで写真を撮り続けていたたづ子さんですが、多くの写真を観ていると、はっとするほど構図が素晴らしいものとか、背景の納め方とバランスが絶妙、みたいな写真も観られるようになり、たづ子さんの写真の腕前の上達が何となく見て取れるのも楽しい感じがしました。 ボツの写真がどの位あるのかな、という事も関心がありましたが、それはあまり触れられていませんでした。 殆ど全ての写真が1回だけのシャッターで、あの素晴らしい素直な構図と写る人の笑顔を写真の中に納められているのだとしたら、これは素晴らしい事ですよね。でも察するに、そうなんだと思います。 『作品づくり』なんて微塵も意識していない真っ直ぐさが、きっと数々の場面を邪心無く写真の中に納めさせたのでしょう。 そんなたづ子さんの写真との向き合い方は、多少なりともスケベ心がある自分に、大切な事を再認識させてくれた気がします。
ダムはやがて本当に着工して、村は底に沈む。 ("浮いてまう" とたづ子さんは言い表してますが。) そんなネガティブな状況の中、村の中の人間化関係がぎすぎすしてしまった事もあったみたいですが、写真に写る村の人々は皆笑顔で、生き生きとしています。 『国は一度決めたことは必ずやる。 戦争もダムも。』と、何とも含蓄のある言葉をたづ子さんは残していますが、全てを受け容れる決意と強さが、この笑顔や村の様々な表情、風景をより鮮明な記録として残させたのでしょう。 たづ子さんの写真にはある種の芯の通ったぶれない気持ちがあり、取り組み続けた力強さがあります。
今やアート、美術、芸術の文脈で語られるようになった『写真』ですが、本来の気持ち、あるべき姿勢、忘れてはいけない喜び、そんなものを思い起こさせてくれるたづ子さんの写真です。


《櫨原(はぜはら)分校》1983年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《花盛りなのに》1985年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《戸入分校》1985 / ©IZU PHOTO MUSEUM


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by sanaegogo | 2013-12-22 00:00 | art | Comments(0)
「ヤッテミヨウ!」
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もうかなり昔の事ですが、読売ジャイアンツの高橋由伸選手の事を『全然好みじゃないのに何故か気になる。』と言っていたら、『それが本物の恋なのよ。』と言われた事がありました。 全く脈絡がありませんが、この赤鹿麻耶さんの「ヤッテミヨウ!」に感じた気持ちは、まさしくそんな感じかも知れません。 『全然好みじゃないのに何故か惹かれる。』です。雑誌『IMA』が主催している写真展 LUMIX MEETS TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9 を観ての事です。日本で有望な若手写真家9人にフォーカスした写真展ですが、そのうちの1人が赤鹿麻耶さんで、写真展のキービジュアルになる作品『ヤッテミヨウ!』を観てまず感じた事です。
赤鹿麻耶とその友人達が、一見すると意味の無いような色々な事にチャレンジしていて、それを瑞々しく写真に納めています。 その行為の弾けんばかりの元気の良さ、溢れんばかりの好奇心が伝わって来る感じに何故か心が奪われて、思わず見入ってしまう写真でした。 私はそもそも、あまり人物は撮らないし、自分で撮るとしたらと画を想像してみても、きっと肖像画のように唐突にそこに居て、雰囲気で勝負、なんて感じになると思われます。 でもこの「ヤッテミヨウ!」は、とにかく若い世代にありがちな無意味な行動に熱中し、意味なんて考えなくたって、思いついたらやってみる! みたいなはっちゃけた馬鹿騒ぎとその中にある達成感と高揚感みたいなものが、やたらめったら弾けていて、すごい躍動感を感じます。 ストーリー性などは全く無視して、細切れで唐突な羅列で構成されている『次々と』感がまた良いんです。 それに「ヤッテミヨウ!」というタイトルを付けたのがまた絶妙だと思いました。 このシリーズのタイトルが「ヤッテミヨウ!」でなければ、こんなに引っかかる事は無かったように思います。 端的にして軽妙。 いいですねぇ。 どんぴしゃ、な感じがします。 この写真のフォーマットもいいんですよね。画面の構成にばっちり合っていて、上手いなぁ、と思いました。 わざとらしさなく、最もダイナミックに見えるところで切り取られてます。 水中で息を止めて苦しそうな女子軍団の表情に水面の揺らぎが画面に動的な雰囲気を与えてて、微笑ましくさえあります。 色もとってもクリアでキレイ。 定型でないフォーマットが自由な感じをよりいっそう強くしているようです。 自分とは全く違う世界観だけど、とっても納得してしまいました。


LUMIX MEETS
TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9
会場:代官山 ヒルサイドフォーラム
会期:2013年11月23日 - 12月1日
参加フォトグラファー:
  • 赤鹿麻耶
  • 伊丹豪
  • うつゆみこ
  • Kosuke
  • 濱田祐史
  • 水谷吉法
  • 山本渉
  • 横田大輔
  • 吉田和生







  • ≪ 会場での「ヤッテミヨウ!」 展示風景です ≫


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    by sanaegogo | 2013-12-04 00:00 | art | Comments(0)