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金魚のゆらゆらSwimming
日本橋の三井ホールでやってるアートアクアリウムに行って来ました。金魚のゆらゆらとした遊泳に心癒されようと思ったのですが、休日と言う事で、(前評判どおり)とっても混んでました。 こんな時は流石に長身に生んでくれた親に感謝、ですね。 人の頭越しに・・・・。

ECO EDO 日本橋 ダイナースクラブ アートアクアリウム2013 ~江戸・金魚の涼~
2013年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 11:00―23:30
日本橋三井ホール (コレド室町5F/エントランス4F)
http://h-i-d.co.jp/art/

癒されに・・・・、と言いつつも、実は写真を撮りに行きました。短焦点の明るいやつで行こうと思ったのですが、『いや、まてよ。』とやはりズームも持っていくことに。 長身+200mmはかなり効果的で機動力を発揮してくれました。
とは言え、スゴイ人で、その殆どがスマフォのカメラかガンレフを持っている。 いやー、スゴイですね。 いったい何人の人がFBとかにアップしているのか。

金魚はとっても可愛かったんだけど、正直ライティングをもうちょっち、何とかして欲しいなー、という感じは否めない。 ちょっとケバい、かな。 (まあ、好みの問題なんでしょうけど。) アクアリウム、と銘打っているんだから、"アート"アクアリウム、とは言え、もう少し自然界に倣ったライティングにして欲しいな。でもこれは、ワタシの目的が完全に違っているのだと思って、あんまり文句めいた事は言わない事にします。 小さな窓の中に色んな種類の金魚が入っていましたが、この中の金魚にまでアーティフィシャルなライトは不要なような気がします。

今度平日も行ってみよ~。 何だかんだ言って、金魚に夢中、乱れ撮りなワタシなのでした。

   



























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by sanaegogo | 2013-07-21 00:00 | activity | Comments(0)
「Showa88/昭和88年」
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©薄井一議「Showa88/昭和88年」#01


薄井一議写真展「Showa88/昭和88年」
開催日:2013/6/15 ― 2013/8/8
開催地:写大ギャラリー
ギャラリートーク :2013年7月20日 14:00~

今がもし、昭和88年だったら。 その時代(時間)設定にうっすらと混乱を覚えずにはいられません。『もし、あの時終わってしまっていたものが続いていたら・・・・。』これは薄井さんが予てから温めている独特の眼線というか、視点のようです。 私はこの独特の時間の起点の置き方にうっすらと混乱させられました。 昔から色々な小説や映画で近未来を想像して、『その頃にはきっとこうなっているだろう』的な作品は本当に数多くありますが、時間の起点は今自分がいる現在を軸にしています。『2001年宇宙の旅』然り、『ブレードランナー』然り、『ターミネーター』だってそうです。やがて時が流れて、昔思い描いていた未来に次々と現実が突入していく訳ですが、今は2013年で2001年はもうとっくの昔になってしまっています。あの頃の作者が思い描いていたその頃の『未来』と『今』には大きなズレがあって、それは世の中が2001年になった時に確かめる事の出来るものでした。薄井さんは、今、昭和88年という形で、現在の傍らにそのズレたもうひとつの世界を作り出しました。過去を起点とした同時代的未来とでも言いましょうか。昭和64年で終了してしまった昭和がもしそのまま進んでいたら。 その頃の別の未来(と、言うにはSFではないので、少々そぐわない感じもしますが) に向うもうひとつの時系列を作為的に造りだしたのですね。自分が何故この事に幾ばくかの面白味を感じるかを頭の中で整理しようとしても、どうも思うように言い顕せず、このもやもやが一層面白味を感じさせるのだという気がしますが、薄井さんのトークを聴いていて、彼は深く思考してこの設定を練り上げているかのように見えて、とても直感的な人なのだ、と感じました。 作品として写真を撮る人には、感覚で情景みたいなものを追いかけいくタイプと設定を深く思考思索してつくり込んでいくタイプの人がいるのだと思いますが、『直感的に練りあげる』、というのがあるのだとしたら、薄井さんはまさにそんな感じなのだと思います。 写真を志す前は映画を作る人になりたかった、と語っていましたが、幼い頃から途絶える事なく脈々と続いている『薄井ズム』みたいなものが、そのバックボーンにずっしりと効いているのだと思います。昭和88年という設定の妙がこの写真集にはあります。
もうひとつは、何と言っても色彩の素晴らしさですよね。私が言うのも本当に僭越なのですが、これが確固たる撮影技術の質の高さなんでしょうねー。うーーん。唸る。 私が以前拝見していた作品としての薄井さんの写真は、ガンメタや鋼のように黒光りしたモノトーン、と言うかどちらかというと『銀』のイメージだったのですが、この昭和88年はかなりビビッドでブライトで眼を奪われました。マゼンタ、オレンジ、イエロー、これらの発色の良い色彩が何故か今、『任侠』の甦った世界と合間ってどこの時代にも所属しない昭和88年の世界を作り出しています。 私の少ない引き出しを探ってみても、映画とかでこれまでの巨匠は、未来というとどこか薄暗く、どちらかというと味気ない機械の色彩のような表現が多いと思いますが、昭和64年から起算したこの世界は色彩に溢れています。(いや、奇しくもここ最近女性のファッションではネオンカラーが流行っているのも、面白い偶然かも知れませんが。) 『なんでピンクなんですか?』と率直に訊いてみると、ご本人曰く、古い写真は劣化してマゼンタがたってくるので、そのイメージ、なのだそうです。 これも私にしては眼から鱗が落ちるような答えだったと思います。 任侠の世界もこんな色彩の中では、一見退廃的なようでもありながら、昭和の時代の何処となく埃臭さや汗臭さとはまた違った洗練されたスタイリッシュさを感じ、それが、菅原文太や藤純子の描く任侠の世界とは一線を隔した昭和88年を顕しているように感じます。 しかし、何故いまヤクザの世界なのでしょうね。 その辺の話をもっと聴きたかったのですが・・・・・。 自分の立ち位置を『今』にすればそれは、隣のもうひとつの『今』。『昭和64年』にすれば、やがて辿っていたかも知れないもうひとつの『未来』。でもそこに映し出されているのは、昭和64年にも既にノスタルジーをもって語られていたような泥臭い『郷愁』。観ている自分の軸が一体どこにあればよいのか、そんな、自分自身が全て同じ時代に生きているだけに生じてしまう、うっすらとした混乱に引き込まれるのかもしれません。




©薄井一議「Showa88/昭和88年」#17





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#39





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#28


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by sanaegogo | 2013-07-20 00:00 | activity | Comments(0)
すみだ水族館で回遊気分


都現美でフランシス・アリスを観ていたら、気がついたら外は物凄い雨になってました。ゲリラ豪雨、とまではいかな感じでしたけど、熱帯の国でShowerと呼ばれてるような激しい夕立です。雨に濡れないでどこかに移動。と言う事で、都バスに乗ってすみだ水族館へ飛ばす(なんてね)。 涼しげに漂うお魚たちを見て納涼、ってな感じです。

すみだ水族館には「アクアデザインアマノ」が監修した水槽があって、何でもそこは水槽の中で環境が循環していて、自然界に近い状態で環境が保たれているSustainableなシステムだ、と何かの雑誌で見た事があって、それを見てみたかったのです。 後でよくよく調べてみると、水槽内だけで環境が循環しているのではないそうで、水槽の中には二酸化炭素(CO2)が注入されていて、そのCO2を取り込んで水槽内に入れられた水棲植物が光合成をして酸素(O2)を出して、そのO2で魚たちが呼吸をしている、と、まさに自然界の大原則のようなシンプルだけど骨太の構造になっているそうです。こんな小さな水槽の中でも、大海原と同じ自然の営みをしているんです。 ちょっとロマンチックですよね。 どことなく水の底の静寂さが感じられるのは、エアポンプで送り込まれている気泡が全くないからなんですね。 この水棲植物も自然界から採取してそのままここに居を移した植物たちだそうです。「アクアデザインアマノ」はネイチャーアクアリウムのパイオニアで、日本のみならず世界のアクアリウムファンからも絶大な支持を得ていてリスペストされているのだそうです。

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そんな美しくも荘厳な雰囲気さえあるネイチャーアクアリウムの水槽を一頻り堪能。と思っていたら、そこで群れ遊ぶ熱帯魚たちに夢中になってしまい・・・・。思わず乱れ撮ってしまいました。 魚なので勿論、水の中にいるのですが、その水は静かで透き通ってその存在を主張していません。 魚たちは水の中に居ながらにしてまるで空中を漂っているようで、空のような空間を飛んでいるかのようでもあり、のびのびととても気持ち良さそうにしているようにワタシの眼には映りました。 『浮遊』 まさにそんな感じです。きっと本当にこの環境は彼らにとって居心地の良いものなのでしょう。







くらげ達も浮遊。 ここはもうネイチャーアクアリウムではないのですが、最新の人工海水製造システムにより、水槽内の水の完全人工海水化がなされた水槽だそうです。








夏だからなのか、何故か金魚もいました。 金魚はたしか淡水のお魚ですよね。 ちょろちょろと涼しげに泳ぎ回っていました。 その可愛らしい動き、日本の夏の風物詩ですなー。

   




大きな水槽はクリスチャン・ラッセン風。 ここの魚達は力強く・・・。 立ち昇る水泡が何とも神秘的な感じを醸し出しています。 静かな海というよりは、大海の厳しい環境を模しているみたいです。 ぐるぐると都内の水族館なのでやや小さめに感じる『大水槽』の中を魚達は精一杯回遊してました。ここにもやっぱりNatureがあります。ちょっとしたSpectacleです。 『いのちのゆりかご』をイメージして多様ないきものをはぐくんでいる「東京諸島」の海をテーマに、小笠原村の協力により再現された世界自然遺産である小笠原諸島の海の世界なのだそうです。




と、ぶらっと水族館に出かけてみるのもとってもよいもんでした。

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by sanaegogo | 2013-07-14 00:01 | activity | Comments(0)
Francis Alÿs (フランシス・アリス展) ジブラルタル海峡編 at MoT
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フランシス・アリスの第2期 ジブラルタル海峡編は、展開されているのが海辺、ビーチ、青い海なので、第1期のメキシコ編に比べればそのトーンは少し明るく、晴れやかで軽快な感じもするのですが、国境問題、移民の問題、ボートピープルの問題など、扱われている問題は、メキシコ編よりもより一層、複雑で、強固で、膠着していて、根強く、沈殿していて、そして範囲の広い問題のようです。そこで行われたプロジェクトの規模もより一層大きなもので、アリスがたった1人で街中で氷が溶けるまで押し続ける、といったものとは比較にならない程、大勢の人を巻き込んでなされました。


Francis Alÿs フランシス・アリス展
第2期: GIBRALTAR FOCUS ジブラルタル海峡編
2013年6月29日(土) ― 9月8日(日)
Museum of Contemporary Art Tokyo
[Press Release]
http://www.mot-art-museum.jp/alys/


ジブラルタル海峡編は2008年に実行されたアクション『川に着く前に橋を渡るな』をベースに構成されています。 このプロジェクト(アクション)は、ジブラルタル海峡で、ヨーロッパ側とアフリカ側からそれぞれ100名の子供達が列をなして対岸へ向って海の中へと進んで行くとやがて水平線のところで2つの列は出会い、国境を越えて異なるふたつの文化が繋がることを期待しています。とても大雑把に言うと、第1期メキシコ編は『砂嵐』『砂漠』だったのが、第2期では挑むべき(と言うのは大袈裟ですが)は『波』そして舞台は『海』という具合に置き換えられていて、今回マットの上に寝そべって大スクリーンで観た映像は、この『川に着く前に橋を渡るな』でした。打ち寄せる波に向って自分の背丈ほどの深さまでも海を一列に進んでいくこども達。波に呑まれて、ごぼごぼごぼ、ごうごうごうと何とも苦しそうな音を立てて水中で翻弄される様子が淡々と流れます。個人的なことですが、この遊びは子供の頃しょっちゅう海でやってたんですよねー。果敢に波の中に頭から突っ込んで、上も下も判らなくなるほどグルグル巻きにされる。水面かと思ってもがいて進んでったら海の底の砂にじゃりっと当たった、なーんて事はよくありました。 結構これが快感なんです。波の中で揉みくちゃにされるこども達の映像を見て、そんな事を思い出していましたが、あの頃、自分ではこのまま水平線の方まで行けるなんて思ってもいなかったけど、アリスのプロジェクトに駆り出されたこども達はこの行為を一体どんな風に考えていたのかな、と思います。ちょっと風変わりなおじさんがやって来て変な事を言うけど、何だか楽しい、ってな感じでしょうか。 こども達にとってはきっと、単なる遊びの延長なんでしょうね。出会うはずもない(出会う所まで行き着けるはずもない)2つの列ですが、それに准えた和解する事が難しい2つの岸辺の対立は、せめてこどもの無邪気な遊びとして置き換える事によって、その実現困難な現実を結論や結果を求めない、飽くことのないこどもの遊びのように、不可能とも可能とも結論付ける事なく、曖昧さを残しつつ保留しとく、という意図があるようです。
このアクションに先立って、2006年にハバナ⇔キーウェストのアメリカとキューバの国境で行われたボートで浮島を作ってふたつの国を繋ぐというプロジェクトが行われたのですが、この映像ではキューバの猟師やキーウェストの富裕層のボートオーナーを説得して奔走するコーディネーターやプロジェクトマネージャーの苦労っぽいものが垣間見られて、ジブラルタル海峡のそれとは対照的に大変そうでした。 オトナは面白がったりしないし、(とりわけ、キューバ側の猟師たちは!)、その意味や結論を求めたりするので、アーティストの持つ象徴的な意味付けを先入観なしに受け容れたりはしないのでしょう。 そんな事もあり、アリスは自分の作品にこどもの遊び的な要素を取り入れたりしていて、作品の中にもこどもが遊んでいる場面が多く登場するようです。この映像ではただただ、キューバ側とキーウェスト側の動員された人々の社会的格差みたいなものがひと目で見て取ることが出来て、それはそれで、アリスの描き出したい社会の矛盾みたいなものをコントラスト強く描き出していたのかも知れません。



・・・・と、まぁ、こんな風に後から色々と考えを巡らせれば、ある程度深いところまで見えてくるような気がする訳ですが、単純に私が今回一番眼を惹かれたのは、何と言っても、このアクションのアイディアスケッチである数々のペイント作品の優しい色あいの美しさでした。色彩や画の構成の素晴らしさのような視覚的なものは、理屈抜きに感覚を刺激されるものです。 言い換えれば、その表面的な一義的な画面の美しさの奥に潜む意味をもう少し深く考えていくところに、フランシス・アリスの作品の面白さや巧みさがあるのだと思いますが、前回も述べたように、その奥底にある深いところまで到達しなくても、観る人を受け容れてくれる寛容さみたいなものが彼の作品にはあると思うのです。 なので、これらのペイントやドローイングの小作品の羅列は、アリスが私たちに与えてくれた開け放たれた窓のようなものでもあるのです。ペールブルーとサンドベージュ、グレージュ、淡いブラウンなど、海峡を渡る様々な人々を描いたそのドローイングは、どこか寓話的な雰囲気もあり、それが社会に横たわる矛盾を考えさせる窓としては充分すぎるほど魅了されるものなのは、如何にもアーティストらしいアプローチなのだと思います。かなり引き込まれてしまいました。 あまりにもメッセージ性の強いものは、少々苦手なワタシなのですが、こんな風にさり気なくメッセージを送られるのは心地よいですね。 サブリミナルのように無意識の中に残る気がします。ジブラルタルの海の色が、ホワイトノイズのような波の音が、ペイントの淡い水色が、挿し色の優しいブラウンが、そんな色彩がしばらく頭から離れない、やがて無意識の中に浸透していく。そんなジブラルタル編だったと思います。





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by sanaegogo | 2013-07-14 00:00 | art | Comments(2)
Flowers, first half of the 2013
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最近このブログも自分で撮った写真をアップする事も少なくなってしまい、それはそれで淋しくなってしまった感じもするので、今日は2013年上半期のFlowersを。 と言っても、自分自身の生活パターンとして、最近デジカメやミラーレスを日常的に持ち歩く事がトンとなくなってしまいました。 日々のスナップの主役はこのところ もっぱらiPhon。 それも所謂カメラアプリというのを面白がって使っています。 スマートフォンに入っているから『アプリ』という括りですが、これがなかなか侮れないと思っています。 もはやこれは『カメラ』と言っても過言ではないでしょう。カメラというメディア自体、フィルムカメラ全般、ガンレフ、ミラーレス、コンデジ、トイカメラ、と、とっても多様化し、フォーマットも様々になっているので、今のライフスタイルを鑑みて、勇気を持ってこれも『カメラ』である、と言える時期に入ってきてると思ったりしてます。 まぁ、カメラ自体の再現力は全然劣るし、エフェクトが手軽にかけられるので撮影技能という点では発言力は弱いのですが、被写体だとか、画の切り取り方で充分個々の表現力は現せる余地はあると思うし、それをもって堂々と『作品です。』と言えるような市民権を得るのはそう遠い日ではないような気がします。(って、もう始まってる?) そりゃ、大伸ばしの展示作品とかには確かに向いていないのですが、解像度とかで勝負していない場合とかあるし、何より一応、解像度は低い(低いのは当たり前ですが)ながらも、サイズは2,000ピクセルを有に越えてるし、それよりも何よりも、今のトレンドというか、ムーヴメントは大きく伸ばした展示よりもフォトブックとか写真集の方が主流になってきている気がする。(と、グルスキー展を楽しみにしている私が言ってしまいますが・・・・。) それに、基本短焦点なので、なかなかこれが撮ってて楽しいし、『あぁ、これでズームが出来たら・・・・』と、頭の中で思い描いていたイメージを諦める事もしばしばですが、その心地よいストレスが快感だったりする時もあります。 巨大でピントが隅々までバッチリのグルスキーもありだし、Zineで綴じた(閉じた)世界を表現するのもありだし、ホントにたかがアプリと侮ってはいけない、と思うようになりました。 (そしていつも必ず身近にある。) 何が正解で何が不正解と言うのではなく、見た人に何か一石を投じられるようなものがあれば良いのです。 誰か早く、アートな作品としてその地位を確立するようなやつをばーんっと発表しないかな。 (と言っても、今度の旅行にはガンレフ持参で行きますけど。 それが何か?) それはそれ、これはこれ、なのです。




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by sanaegogo | 2013-07-06 00:00 | art | Comments(0)