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BRUTUS 2004年 8/15号 「ブルータスの写真特集 BOYS' LIFE」 No.553 少年は写真を撮るために生まれてきた。
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とっても古い写真です。 この写真はマイアミ空港の裏手で撮影したもの。 フィルムの写真です。かつてナッソーに住んでいた頃、マイアミの友人の家に遊びに行って空港でピックアップしてもらって、友人の家に向う途中、空港の駐車場での夕陽です。 写っているのは多分、アメリカン航空のイーグル機。 ナッソー⇔マイアミ間でバスのように頻繁に行き来してたプロペラ機です。 何故にこんな古い写真を引っ張り出して来たかというと・・・・。 ティルマンスの『CONCORDE』へのオマージュ(のつもり)です。ティルマンスのコンコルドの話を聴きながら、(僭越ではありますが)この写真の事を思い浮かべてました。 ティルマンスの話をしてくれたのは、フクヘンこと鈴木芳雄さん。 この日、青山ブックセンターのスクール(青山ブックスクール)で行われた「本・現場・美術」~〈フクヘン。〉の仕事~ に行って来ました。

「本・現場・美術」~〈フクヘン。〉の仕事~
第6回:写真家たちとの対話。 
http://www.aoyamabc.jp/culture/fukuhen-wksp6/
2013年6月28日(金) 19:00~21:00
青山ブックセンター本店 小教室


「本・現場・美術」は、これまでに5回開催されていて、これまでは、奈良美智、伊藤若冲、杉本博司、山口晃(敬称略)などとのお仕事をたっぷりと豊富なエピソードでフクヘンが語る、というもの。私は番外編の『美術手帖』×『芸術新潮』「フランシス・ベーコンを編集する。」に行きました。 そしてこの度は、写真ネタ、と言う事で、これを逃す手はありません。 今後も続くので、感心のある方は是非。 (個人的には若冲、行こうとしたのに行けなかったのが心残りですね。)

今回は、特定のどなたかにフォーカスするのではなく、1冊のBRUTUSをピックアップして、写真、写真家について語ってくれました。 "BRUTUS 2004年 8/15号 「ブルータスの写真特集 BOYS' LIFE」 No.553 少年は写真を撮るために生まれてきた。" その表紙を飾っているのがウォルガング・ティスマンスの「CONCORDE」の中の1枚。 普通の民家の屋根の合間を抜けて、キーーンッとコンコルドが上昇していくところを捉えたものです。 ティルマンスは天体への興味から写真を始めて、90年代にはイギリスで『I-D』 (ここではホンマタカシさんとは被ってはいないそうですが) などの雑誌でファッション写真の仕事に携わったそうです。 90年代の後半から作家としての活動が本格化して、美術館やギャラリーなどでの展示を中心に活動しています。 天文少年から被写体の興味は飛行機へ。 写真少年の道筋としては王道です。 その少年のような憧れを形にしたのがこの「CONCORDE」。 ティルマンスくらいになれば望めばコックピットの中を見せてもらったり、機足まで近寄れたり、果ては自腹ででもコンコルドくらいは搭乗できたのでしょうが、ティルマンスはあくまでも地上から、「あ、コンコルドだ!!」と指を指して興奮気味に見上げる少年の眼線に拘ります。 フクヘンもTwitterで、『鈴木芳雄 ‏@fukuhen コンコルドに乗る贅沢を享有し、それに酔う成功者はある意味、尊敬に値する。しかし、遠くから眺め、そこにあるすごいテクノロジーを想像する少年の憧れを作品に込めるためには彼のやり方こそ正しいと思った。ティルマンス『CONCORDE』にコックピットの写真がないのには理由がある。』とツブヤいています。 どの写真もどの写真も、同じ規格で少年が一生懸命(撮り)集めた空を劈くコンコルドの勇姿が並べられています。 こんなコンセプトで、この「BOYS’ LIFE」は構成されています。



[features]
  • ヴォルフガング・ティルマンス 作品&インタビュー「いつでも挑戦する姿勢でいたいね」
  • ジャック=アンリ・ラルティーグ 写真機は僕らに魔法をかける翼。
  • ピーター・ビアード 撮りたいものだけを撮るために渡ったアフリカの大地。
  • イサム・ノグチ 永遠のディアスポラを生きた男の、幸福の記念写真。
  • 奈良美智 僕にとって写真は瞼の裏に映る残像のようなもの。
  • 杉本博司 ハイアートの巨匠による少年写真を発掘!
  • ホンマタカシ ライカがこんな町で生まれたっていうのがうれしいな。
  • スティーヴン・ショア 早熟なカメラ小僧が捉えたニューランドスケープ。
  • スレイター・ブラッドリー 大人になることの不安と抵抗を覚えながら揺れ動く少年。
  • ルイス・ボルツ 殺風景な工業地帯にだって僕たちのアルカディアはある。
  • ディーン・サメシマ 「ボ-イズ」たちのユートピア、の昼間の素顔。
  • 佐内正史 俺は俺の車を撮る。俺の前の車はマーク2。
  • クレイグ・マクディーン クルマが好きで好きでたまらない!!
  • 野口里佳 どこまでも遠く、高く。彼方を見つめる遠視者の視線。
  • 森本美絵 忘れられた風景をとどめる寡黙な視線。
  • フィッシュリ&ヴァイス エアポートは永遠の夏休みを約束するモラトリアム。
  • 大竹伸朗 過ぎ去る時間や思いを一瞬にして定着できる装置。

この中からフクヘンがいくつかピックアップして、少年の憧れを象徴するような写真集の紹介が続きます。 自分の好きなものを集めたカタログのような構成。 ストーリーも変化も流れもないのだけど、その淡々と並べられた写真を見ていると、だんだんと作者の気持ち、高揚感が乗り移ってくるような気持ちになります。思えば時計や車のカタログ、動物や植物の図鑑などは見ようによっては素敵な写真集ですよね。 自分の好きなもの写真を集めて、繰り返し繰り返しそれを眺めてわくわくとする。 まさにこの「写真集」の原点ともいえる少年の行為を、この号が発売された当時全盛で半ば自意識過剰気味のGirly Photoと対比させるべく(対決とも言えるか?)編集し、老若男(女)の写真少年達へ送る応援歌としたかったのだ、とフクヘンは語っていました。女子(と、自分を呼ぶにはおこがましいが)の立場から言うと、この充分matureな男性諸氏が「少年時代」についてある種の懐かしさをもって語ってるのを聞くと、女性陣はいつも胸がキューーンとして切なくなってしまったりするのです。 こんな小さな心の隅に眠らせているような密やかな気持ちをひとつの雑誌として構成させるまでに膨らませ、編集者は雑誌を創ってるんですね。 もちろんそんな雑誌ばかりではないでしょうが、ほんのひとつまみの想いからこのラインアップまでもってくる事が出来るフクヘンの編集者としての『持ち札』の抱負さは、流石としか言いようがありません。 これが書物やネットからの情報ではなくて、実際に取材に赴き、当人と対話をし、同じ場所に居合わせ現場を確認しての話なのがすごいのです。 この日も豊富な余談、雑談、四方山話を披露してくれましたが、これが『聞いた話』ではなくて『体験談』だからすごいのです。 私自身は選択肢として雑誌や書籍の編集者になりたい、と希望した事は今までなかったですが、ひとつの自己表現を具現化した仕事としては、アーティストに負けずとも劣らずやりがいのある楽しい仕事なのですね、と今更ながら思ったりしました。

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by sanaegogo | 2013-06-28 00:00 | activity | Comments(0)
梅佳代展 ―UMEKAYO―
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梅雨の中休みどころか、気も休まらないほど気温が上がって暑かった土曜日。初台のオペラシティーに『梅佳代展』を観に行って来ました。

UMEKAYO
梅佳代展
2013.4.13 SAT ~ 6.23 SUN
東京オペラシティ アートギャラリー
http://www.operacity.jp/ag/exh151/


Kayo Ume : UMEKAYO TOKYO OPERA CITY ART GALLERY
SATURDAY, 13 APRIL ― SUNDAY, 23 JUNE, 2013


梅佳代を写真展で観たのは、2010年に参道ヒルズ スペースオーで「ウメップ:シャッターチャンス祭り」以来でしょうか。『以来』と言っても、その後の本格的な個展が特に開催されていると言う事でもなく、そして美術館での始めての個展が今回の『梅佳代展』であるらしいです。会場に到着すると、休みの日だと言う事もあり、ロビーは笑顔を浮かべた人たちで溢れていました。こんな風に観る人を心底楽しい気持ちにさせてくれるのは、まさに梅佳代効果と言えるのではないでしょうか。
梅佳代についてよく言われているのは、というよりも、言わずもがななのは、その卓越したスナップショットの力量です。コミカルマックスの瞬間を狙い定めて切り取る動物的反射神経、その前に、その瞬間がコンマ数秒後に訪れる事を察知する動物的カンと予知能力とさえも表現できるような天性の嗅覚、そして、画郭に的確にドラマチックに描写出来る撮影技能。本能と運動能力を駆使して躍動的に撮影をするそのスタイルは、ここで語らずとも既に万人の知るところだと思います。一方で、正面から表情を捉えた時の被写体が見せるカメラ目線でありながら、撮影されている事をまるで意識していないような明るくあけっぴろげな表情を引き出す場の空気の作り方。カメラを通してのコミュニケーション能力も高く評価されているところです。
ポートレイトの名手と言うと、よく、『空気のような存在になって』とか『周囲の場に溶け込んでカメラを意識させない』とか言われます。ブレッソンとかアーウィットのポートレイトがそうだと思うのですが、私は個人的に、これらのポートレイトと梅佳代のものは、成り立ちも違うし、一線を隔したものだと感じられます。梅佳代は、撮影者として空気のように存在感を消してそこにカメラの存在を感じさせずに自然な表情を引き出しているのとはちっと違う。そんな風に思います。 梅佳代の被写体の前には常に梅佳代が梅佳代として存在していて、その梅佳代はカメラを持って構えているのです。存在を消すどころか、その写真からは常に梅佳代の存在感が溢れ出ています。 撮られている事を承知で、そこに写しだされた人々はなおも屈託のない明け透けな表情をさらしてくるのです。これこそ、天性の力量としか言いようがないでしょう。逆に言えば、梅佳代あってのあの光景などだと思うのですが、これはホントにスゴイ。そんなシーンが炸裂していたのが、そう、あの『男子』です。 ホント、馬鹿です、小学生男子は。 無邪気でお調子者でお馬鹿さんで、そして、異性のオトナからみると『オトコの子ってほんと幼くって可愛いなぁ』と。 梅佳代に見て欲しくて、喜んで欲しくて、そして、ちょっぴり誉めてもらいたくて、撮ってもらいたくて、あらゆる手立てを使ってアピールしてくるあの乱痴気騒ぎを余すところなく梅佳代のカメラは拾っていきます。 ちょっと恥じらいがありつつも『女子中学生』にしても然り。 そして、さらに穏やかな空気に包まれつつも、『能登』や『じいちゃんさま』にも、写ってはいなくても、撮り手として、写真の中に梅佳代は存在しているのです。なんて素晴らしい。新しい境地を開いたという『能登』のシリーズもとてもよかったです。相手の懐に飛び込み、同時に相手を自分の懐へ引き込む。惹かれ合ったお互いが作り出す、参加型ポートレイト、相互作用、そんなものを、そらの写真の中の人たちが織り成す表情が物語っているようです。

© KAYO UME / 2013 Tokyo Opera City Art Gallery


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by sanaegogo | 2013-06-15 00:00 | art | Comments(0)
伊香保グリーン牧場 で 『羊達の喧騒』を味わう
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こんな感じで、メリーさんの羊に逢いたくて、伊香保グリーン牧場で牧歌的な日曜日を!




牧場の中を進んでいくと、「あれ? 羊さんだよー。」




「呼ばれましたかぁ~?」 とばかりに、羊さん登場。羊の蹄ってこんな形してるんだー。



伊香保グリーン牧場は、群馬県の榛名山麓にある循環型牧場です。「牧場」と言っても、実際に牛や馬や羊達を放牧している訳ではなくて、所謂観光牧場。でも何となく、初夏の光に輝いた草原で、山間を渡ってくる爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込みたかったのです。 草原の輝きに眼を細めてみたかったのです。 密かに、ハラ ミュージアム アークでたっぷり芸術鑑賞した後のお楽しみだったのです。


こーんな風景を味わいたかったんですね。



そんな訳で、半ばふらっと、オプショナルツアーのように立ち寄った伊香保グリーン牧場だったのですが、ここで牧羊犬が羊を追っかけるショー、"Sheep Dog Show" が見られるとは思いもよりませんでした。今となっては「伊香保グリーン牧場」での思い出と言えばSheep Dog Showに尽きる! って感じです。それくらいインパクトあり。


本場ニュージーランドからやって来た羊飼いと牧羊犬のニュージーランドハンタウェイってワンコ達。 おりこうちゃん達です。遠くに待機(?)している羊たちを もう直ぐにでも 追っかけたくって 追っかけたくって 完全に入れ込んじゃってます。やる気満々!



牧羊犬君たちの紹介が行われている頃は、羊達は小高い丘の上の上の方で草を食み食みしています。 羊飼いの合図で2頭はぴゅーーーーっと、疾風のように あっという間に丘に駆け上がり・・・・。羊達は一団となって牧羊犬に促され(というほど悠長な感じではないですが)、丘をどどどどと駆け降りて来ます。 さながら民族大移動。


 

丘の上の方で1頭が高い位置から全体を見渡してるの、見えますか? めっちゃ頭イイですね。



 

いよいよ佳境。 羊達も本気で走るっ! 走るっ! 走るっ!!



 

ぎゅうぎゅうに集められた羊達。 端から寄せ直したりして微調整。 丁寧な仕事です。オトナもコドモも大喜び。この後別の牧羊犬がシープドッグトライアルという1か所にまとめた羊たちを柵に中に導き入れたりする演技(?)を披露。狭い場所で吠えると、羊達が動揺して走ったり暴れ回ったりするので、じっと眼で威嚇しながら抜き足差し足で羊をコントロールするんだそうです。



喧騒も過ぎ去り、今は落ち着きを取り戻した羊達。



 

だんだんと だんだんと また バラケていって、長閑に草を食み食みし始めました。




うーーーん。 実に長閑だ。空も青いぞ。




『もう、疲れちゃったよーー。 メェェェ ~ 』




子羊もいました。 足元のちょん、とした感じがなんてラブリー。 いかにもラムジーちゃんですね。




既に私たちはかなりの上機嫌で、口ずさむ鼻歌は、やっぱり、アライグマ ラスカル。(カルピス劇場世代)
♪ っシィロツメクサァの っ花が咲ぁいたぁら さあっ 行こぉーよ ラスコー ♪



 

牧場には山羊もいました。 羊のどこかピュアな感じの可愛らしさに比べると、如何にもお調子者で、お馬鹿さん。
『なんかくれぇ~』『なんかくれぇ~』『めぇぇぇーーー。』


そんな、伊香保グリーン牧場でした。楽しいので、行ってみてください。 "Sheep Dog Show"は、必見です! 是非!


今はもう、羊達も沈黙。


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by sanaegogo | 2013-06-08 00:02 | traveling in Japan | Comments(2)
HARA MUSEUM ARC <ハラ ミュージアム アーク>
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ここ1、2年の話ですが、地方都市の美術館に足を運ぶのにハマッています。恐らくその先駆けとなったのは、2012年の金沢21世紀美術館でしょうか。2009年、2010年、2011年と長年お世話になった勤務先の会社から退職してもなお、大きなやり甲斐のある仕事に参画させてもらって、特に2011年の秋に終了した世界建築家協会の世界大会の仕事は、在職中から関心があって、辞める時に『これに関われない事だけが残念だ』と思った案件だったので、それが終了してこれからの事を考えた時、自分はどうしたくてあの社での会社員を辞めたのか、どうなりたいと考えてたのか、をもう一度見つめ直す意味でも、その原点とも言えるべき金沢21世紀美術館に足を運んでじっくり考えてみよう、と思ったのがその始まりかも知れないですね。 2012年はあまり積極的には希望しないまま惰性のようにその年の最大級の仕事に参画するも、『やっぱりこれではない。』と。その夏に強行軍で行った越後妻有トリエンナーレ、契約終了後に訪れた直島・豊島・犬島。この時には既に完全にハマッていたような気がします。今年の4月に仙台メディアテークに行き、そしてこの度は、(前置きが長くなりましたが)、群馬県伊香保にある ハラ ミュージアム アーク(HARA MUSEUM ARC) に行って来ました。ここは、『行ってみたい!』と言う希望というよりは、ソフィ・カルの『限局性激痛』の鑑賞ツアーで原美術館がバスを出している事を知り、隣にある伊香保グリーンパークにも立ち寄れるというので、ピクニック気分でいそいそと行って来ました。
ハラ ミュージアム アークは1988年に原美術館の別館として建てられた磯崎新の設計による個性的な建築です。東京ではコンテンポラリーをコレクションの主とする原美術館ですが、2008年にはアークに和風の特別展示室「觀海庵」を増築し東洋の古美術もコレクションしていて、それは「原六郎コレクション」と呼ばれているそうです。この期間はこの觀海庵で特別に現代美術の展示も行っていて、東洋建築の粋を集めたような書院造の空間で現代美術だけの展示が行われていた特別な期間だったのですが、私たちは伊香保グリーンパークに牧用犬が羊を自在にまとめて操るSheep Dog Showを観に行ってしまい、残念ながらこのツアーまで参加する事は出来ませんでした。(時間が足りないっ!)

古/今 書院でみる現代美術 原美術館コレクション展
2013年5月31日(金) ― 6月26日(水)
特別展示室 觀海庵

もしこっちに行ってたら、奈良美智、名和晃平、アニッシュ・カープア、杉元博司、ロスコ、青木野枝など(抜粋)がみられたそうで、それもみてみたかったなー、とは思いましたが、結構時間がタイトではありました。
ハラ ミュージアム アークは、公共の建造物としては珍しい木造で造られていて、外観は漆黒の重厚な輝きを携えていて、開放的な緑の広々とした空間にその建物は一際映えています。ギャラリーA・B・Cが放射状に並んでいて、広々とした庭の対面には品川の原美術館にもあるカフェ・ダールが明るい庭に面して配置されていて、庭園にはいくつかの屋外作品が展示されています。 休日だというのに混み合うこともなく、閑散としすぎることもなく、程よく人々が鑑賞しています。美術館全体がなんとも贅沢な空間になっています。ランチはカフェ・ダールでとりました。よく晴れていてカラッとしたお天気だったこともあり、私はあまりの気持ちの良さにパスタのランチに加えシードルを注文。 ソフィ・カルを観終わった後に庭を眺めながら、スキッとした味わいのシードルと少し柔らかめ(フレンチ風?)のパスタを食べて、暫し寛ぎました。
恒久展示のご紹介を少し。


 ジャン=ミシェル オトニエル
「Kokoro」 2009年

美術館の正面エントランスの前に設置してあります。
大きな赤いハートのオブジェですが、気がつけば、作品名は「Kokoro」(心)。
これ、作家がつけたんでしょうか。 何で日本語なんでしょうね。
英語でHeartは、心臓という意味を持ちますが、日本語でハートというとやはり、「心」の意味になるから、ハートの形のオブジェの顕したいものはやっぱり、「心」だったんでしょうか。 形とその意味と名称はとても奥深い関係を持っています。


 アンディ ウォーホール
「キャンベルズ トマト スープ」 1981年

ウォーホールが顕したかったのは、「今の世の中」。
日常で使われている様々ものも、ただの消費物として見るだけでなく、ちょっと手を加えるとがらりと視点が変わり、作品となり得るという事を示しています。
毎日工場で大量生産される消費物。これこそが現代社会の象徴で、象徴的なものはどんなものでもアートとなり得る。 それが、アンディー・ウォーホールが目指した表現でした。


 オラファー エリアソン
「SUNSPACE FOR SHIBUKAWA」 2009年

この作品は ハラ ミュージアム アークのために作られたもので、赤城山を臨む絶好の位置に配置された虹を作る装置です。太陽光が内部に差し込むとプリズムレンズによって虹が映し出される”空間と光の体験”が出来る作品です。
季節によって、時間によって、天候によって、現れる虹はいつも同じ表情ではありません。人工的に生み出されたものでありながら、大きく言えば自然の摂理によって影響されているこの世の中と連動した現象です。大らかな伊香保の自然を凝縮したような現象を体験できる訳です。

他にも数々ありましたが、印象に残ったもの(と言うか、写真を撮影したもの)をピックアップしました。


9時半に東京を出発し、もうそろそろ帰る時間。 あっと言う間です。今度は自分の愛車で来てもいいなぁ、とちらっと思いましたが、そしたらシードルやワインは呑めないもんね。そう言う意味では、バスツアーはとても有効な手立てです。都市の中の大きな美術館とは違って、美術館自体をひとつの作品と呼べるような空間で過す事は、とても贅沢な事で、まだまだ行きたいところはあります。 (日本全国 行く価値のある美術館11選 ) これから時間をかけてゆっくり回りたいと思ってます。



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by sanaegogo | 2013-06-08 00:01 | art | Comments(0)
紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ @ ハラ ミュージアム アーク
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前回のエントリーで、『当時「限局性激痛」(1999年)を見逃した私は、その頃の自分がソフィ・カルとも原美術館とも全くかけ離れた生活をしていた事を少しばかり後悔したりしました。』と述べましたが、今、ハラ ミュージアム アークでリバイバルしてます。正確に言うと、ミランダ・ジュライの作品『廊下』と一緒に展示されています。活動ジャンルを限定しない、自由な2人の女性現代美術作家のそれぞれの世界観です。

紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ/原美術館コレクション展
3月16日[土]-6月26日[水]
ハラ ミュージアム アーク(群馬県渋川市)
ART iT:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/ZYHoI7slWeQhfRNpCBFg/
Press Release

ソフィ・カルは、奇想天外で奇天烈な行動をし、自分の心の傷を露出する事で作品とし、何所か危うく、何所か身を削っていくようにして作品を生み出しています。物議を醸すような作品を発表して批判の矢面に曝されたこともあるようですが、この「限局性激痛」が原美術館の展示のために制作されたものだったとは知りませんでした。なので、今回のこの展示は"原美術館コレクション展"という風になっています。この作品は、『カウントダウン』と『カウントアップ』の2部構成になっています。『カウントダウン』は人生最悪の日まで、ソフィがこんな日が来るのを知る由もなく過してきた日々を写真や資料で綴っています。ソフィにとってその日は人生最良の日になるはずのもので、この日を待ち焦がれながら、留学先の日本での生活が身に入らず、そわそわと毎日を送っている様が顕されています。そこではフィクションかノンフィクションか判別出来ないような要素も含みつつ時間は進みます。思うにこれは、第2部『カウントアップ』の序章のようなものであり、既に大失恋の傷も癒えてから制作されたものなので、それも無理はないような気もします。ソフィ自身もあの頃の事を思い出しつつ制作したものなので、多少の脚色や後付めいたものがあっても不思議ではないのでしょう。 最愛の恋人との再会が果たせないインドのホテルの1室を再現した形で第1部は終わります。なので、2部構成とは言え、この「限局性激痛」の醍醐味というか、本編は、心の激痛を味わったソフィの心の浄化を淡々と見せている第2部『カウントアップ』にあるような気がします。自分の味わった最悪の出来事を他人に吐露し、引き換えに人々の最悪の日、その体験と感じた事を聞く。そうしていくうちに、第3者の悲惨な話に心を痛め、自分の受けた辛酸などは取るに足らない事だと思うようになり、ソフィの話す自分自身の激痛を著わした刺繍によるテキストの分量が、そのカタルシスの様子を物語っています。また、刺繍されたテキストはだんだんとグレーの地色に近いものになり、やがて地の色と同化して判読できないようにもなります。ソフィはこんな風に、心の痛みの深さ、量的なものと濃度のような質的なものの変化を「刺繍したテキスト」という形で可視化しています。 絶対的な心の痛みを相対的に考える時、どんどんと取るに足らないもののように思えてくる気持ちの変化を可視化しています。これはこの聞き取りを始める前からソフィが期待していたものなのでしょうか。それとも意図せずそんな自分の気持ちの推移を発見したのでしょうか。 何故ソフィは、不幸な体験をした人たちと人生最悪の日を情報交換する事で、自分の傷を癒そうとしたのでしょうか。こんなにも不幸で酷い体験をした自分を曝け出す事で自虐的に何か救いを求めようとしたのでしょうか。 それとも自分よりも更にもっと不幸な人々の存在を知る事で、『自分なんてマシな方だわ。』と言う確信を得たかったのでしょうか。その第1歩の気持ちと言うのはとても関心があるところではあります。 何となくですが、ソフィには、自分よりももっと不幸な人の話を聞いて自分の心の安定を求め、理不尽さを埋めるなどというような俗人的な感情はなく、『感情』というものを題材として扱いながらも、もっと動物的な直感や本能のようなものに突き動かされて動いているような気がします。 決して『補償(compensation)』と言った行為ではないように思えます。
この作品も含め、ソフィ・カルの作品は、心理学を学んだ人は多かれ少なかれ、何らかの関心を覚えるのではないでしょうか。心の「激痛」とその時の気持ちを表現しつつも、どこかそれを客観視していて、まるで激痛を味わっている自分を離れたところから観察しているもう一人のソフィがいるかのようです。この作品も含め、ソフィカルの作品の事を考えるといつも、昔大学の講義で教えられた『離人症』という言葉を思い出します。離人症とは、『自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じている持続的または反復的な体験。』で、あまりにも辛い体験などを気持ち的に受け容れられない時などに、このように心を機能させて心の平和を得て精神衛生を保とうとするメカニズムが働くと言われています。 行動する自我とそれを観察する自我を分離させて、どこかまるで他人事のように感じる事によって、気持ちを薄めるのです。ソフィは感受性の高い女性です。取り分け『辛い事』についての感度はとても鋭い女性のようです。『幸せな時にその気持ちを表現したくて作品を創る事は出来ないけれど、酷い体験をし、辛い、悲しい気持ちになった時にはそれが出来る。』と語っているそうです。自分の中に沸き起こるこの"unhappiness"は何なのか、どこから来て何所へ消えていくのか。感受性の高いソフィカルは、自分の気持ちを直視し、自分を曝け出して剥き出しにしてそれを『検証』し、そして受け止めきれない程の痛みを遣り過すためにもう1人の自分になり、限局的な自分自身を考察する。それがソフィ・カルなのではないでしょうか。『心のメカニズムの芸術的可視化』。ソフィ・カルの作品にはそんなものを感じずにはいられません。

©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

ソフィが100日以上離れていた恋人と再会するはずだったインドのホテルの1室の再現
『そこには行けない』と飛行機代をけちって安上がりにフラレた時の電話が置かれている


©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

グレーの地の色の刺繍がソフィの『限局性激痛』
テキストは短くなり、文字の色は地の色と同化して薄れていく
時間がカウントアップされる毎に癒えていく様子が顕れている


ミランダ・ジュライの『廊下』。これは2008年の横浜トリエンナーレでも出展されていた作品で、ワタシもこの時この狭い通路を歩いて来ました。2008年は仕事を辞めて、それまでの自分が終わり、今のワタシの始まった年でもあるので、これはこれで、全然別の意味で感慨深く、あの日の横浜を、『廊下』を、思い出すのでありました。

©1996-2013 HARA MUSEUM OF CONTEMPORARY ART


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by sanaegogo | 2013-06-08 00:00 | art | Comments(0)