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ソフィ カル ― 最後のとき/最初のとき @原美術館
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ソフィ カル ― 最後のとき/最初のとき
Sophie Calle, For the Last and First Time
2013年3月20日- 6月30日
原美術館
Hara Museum of Contemporary Art
Press Release



私がソフィ・カルの事を知った時は既に「限局性激痛」(1999年)はとっくの昔に終了してしまっていて、少しばかり、その頃の自分がソフィ・カルとも原美術館とも全くかけ離れた生活をしていた事を後悔したりしました。なので、今回再びソフィ・カルが開催されると聞き、とても楽しみにしていました。
今回の「最後のとき/最初のとき」は、かつての「盲目の人々」(1986年)の制作の際、視力を失った人々に問いかけた「あなたにとって美しいものは何ですか」という質問と、生まれつき目の見えない男性が答えた「私がこれまでに見た最も美しいもの、それは海です」という言葉から着想を得ています。海を見た事のない人の内部に横たわる海。そしてそれはその人にとって、『もっとも美しいもの』だといいます。「私が見たもっとも美しいもの、それは海です」(「盲目の人々」より) 見ることの出来ない人の見る海。その見えない人の見る海を思い浮かべる私たち。そこに沸き起こる言いようのない切ない感情がまさにソフィ・カルの作品だと言えます。展覧会の導入は、その切なさを喚起させる「盲目の人」という作品が展示されています。これは、その言葉を発した盲人男性のポートレートとその言葉のテキスト、そして杉本博司の海の写真が飾られたもので、1999年の「限局性激痛」でも展示されたものです。その男性の見ている海は永遠に私達には解り得ないものなのですが、「最後のとき」では後天的に盲目になった数人の人々に、最後に見たものの今も残っているイメージを語ってもらい、その告白をテキストにし、その最後のイメージの写真と共に提示しています。「最初のとき」では、海の側で暮らしながら海を見たことのない数人の人々を海辺に伴い、初めて海を見た後の彼/彼女らの表情をクローズアップで撮影したものです。どちらもトルコで制作されたそうです。
「最後のとき」はとても危うく、デリケートなものです。今回の展示では、以前ほどソフィ自身の痛みを曝け出したような要素はありません。『痛み』を共有する切ない同士(同志)としてのアプローチではない訳です。けれど、ともするとストレート過ぎる不躾な質問を後天的盲目の人々に浴びせ、土足でデリケートな部分に踏み込み、鑑賞者に悪戯に同情や哀れみの感情を喚起させようとしていると眉を潜める人もいるのかも知れませんが、ソフィ・カルという人のこれまでの生き方や自分の痛点の曝け出し方を知った時、そこに単純な同情や哀れみ、果ては意地悪な好奇心だけが横たわっている訳ではなくて、身体の機能だけではなく潜在的な感覚として存在する普遍性みたいなものを探り、質問の答えを得て、その感情の沸き上がる源を静かに紐解いて行こうとする彼女の真摯な態度を知る事になる訳です。これは、偏にソフィ・カルだからこそ成し得た行為なのだと思います。そこで私は考えます。『普遍性』って何だろうと。多分、ソフィもそんな風に同じように感じているのではないのでしょうか。これは、『見ることとはどういうことか』を追究し続けたソフィの、現時点での最終章となる作品、だそうです。彼女はそこに何らかの答えを見つけたのでしょうか。
「最初のとき」は、海のある街イスタンブールに居ながらにして、海を見たことのない人達に海を波打ち際へと連れて行き、人生初めての海を視覚から味わってもらった後、満足の行くところでこちらへと振り返るその表情を捉えています。『人生初めて』という言葉が示すとおり、やはり、その生きている年月が長ければ長いほど、感じ入るところは大きいようです。初老の男性が振り返り、やがてじんわりと涙を流しているのが印象的でした。きっと、海を見ながら(『眺める』という漠然とした行為ではなく、彼らにとっては『見る』、『注視する』なのです。)、そこに今まで海を見る事が出来なかったこれまでの人生を見ているのかも知れません。この時、海は『普遍性』の象徴なのだと思いました。「海は今も昔も変わらずにここにあり続けているのに・・・・。」 この作品にはテキストが添えられていなかったので推測に過ぎないのですが、そんな海を自分の人生と対比させるような感情が、視覚から呼び起こされていったのだと思います。『見る』という事は感情のひとつの入り口なのです。
唐突ですが、いくら拙い言葉を重ねても核心に触れる事はないような気がするので、終わりにしますが、ソフィ・カルという人の、斯くも深く、それこそ『普遍的』な何かに淡々と臨んでいる痛々しいまでの純粋さが伝わって来て、激しくかつ静かに心を捉えられました。

関連記事: ART iT
http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/7MLvphyuOE5ifoD0248Q/


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by sanaegogo | 2013-05-05 00:00 | art | Comments(0)
Francis Alÿs (フランシス・アリス展) メキシコ編 at MoT
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以前近美で行われた『ヴィデオを待ちながら』という展覧会を観に行って、例えばアンビエントな映像や映画のようなストーリー仕立てのMV、それにCGを駆使したPVなどを観て、友達と某かの感想を言いあったり、どこが気に入ったかを話したりするのとは全く違う次元の、『実験的』で難解でとっつき難い映像作品を観て来ました。そんな中でも親しみやすく(と、感じました) 素で楽しみながら観たのが、フランシス・アリスの《リハーサル1》という映像作品。(フランシス・アリス (ラファエル・オルテガとのコラボレーション) 《リハーサル1》1999-2004年 Courtesy the artist and Galerie Peter Kilchmann, Zurich) ちょっとバカバカしくて、品よく言えばウィットに富んでいて、思わず笑っちゃうような作品だったのをよく記憶してます。展覧会も最終段階に入り、難解な作品のラインナップにオーバーヒートしそうな頭に心地よい可笑しさだったのをよく覚えてます。そのフランシス・アリスを都現美でやると言うので、あの時のような作品をまた観たいなー、と思い出かけて参りました。

Francis Alÿs フランシス・アリス展
第1期: MEXICO SURVEY メキシコ編
2013年4月6日(土) ― 6月9日(日)
Museum of Contemporary Art Tokyo [Press Release]
http://www.mot-art-museum.jp/alys/

まあ、あの時のように全てが全て「ちょっと可笑しい」作品ばかりではなかったですが、やはりこのフランシス・アリスという人は、「詩的でウィットに富んだ表現」では定評があるようです。ベルギーに生まれて、現在はメキシコに在住して制作活動を行っています。ここ最近人間の内面を深く見つめる様な展覧会を観る事が続いたせいもあるかも知れませんが、非常に外に向かっていて何かを発し問いかけているような作品達だったように感じました。都市の中に潜む様々な問題にフォーカスを当て、その社会的問題、政治的問題をあぶりだす皮肉/風刺のこもったユーモアには、個々の個人的な事柄ではなく、社会の中で社会の方を見て制作をしている姿勢がよく顕れています。(語弊があるかも知れませんが)またこの『メキシコの都市』というのが、こういったsituationの作品によく合うんだと思います。何でもありの雑多で坩堝的な状況は、彼に制作をインスパイアするには絶好の場所なのだと思います。
いくつか気に入った作品を。

≪ Turista/観光客(1994) ≫


"大工や配管工に並んで、自分の表現行為(制作)をひとつのサービスとして提供している。"
と、フランシス・アリスがアーティストとしての姿勢を表明した作品。
背の高いアリスと周りの小柄な労働者達の何だかちょっと滑稽な対比がいいですよね。


≪ A Story of Deception/虚偽の物語 (2003-2006) ≫


地平線まで続く道の彼方には蜃気楼。
進めども進めども決して到達できない。
そんな表現をアリスはラテンアメリカの近代化の歴史となぞっているようですが、
私はただ単純にこんな風景が好きで、ただ見入ってしまいました。


≪ Sleepers/眠るものたち (1999-present) ≫


アリスが撮り続けている路上で寝ている人々(時々、犬)をデュアルのプロジェクションで見せています。
物凄いローアングルから撮っていて、犬目線、寝てる人目線が面白いです。
しかし、路上で寝ている人と犬の何というバラエティーの豊富さ!
これこそ、先に述べた、『メキシコシティはぴったりの街』というのを如実に顕してます。


≪ Patriotic Tales/愛国者たちの物語 (1997) ≫


ソカロ広場に立つポールの周りをアリスと羊たちがぐるぐると回っています。
羊が1匹、1匹、また1匹と輪から外れていき、やがてアリス自身もいなくなってしまうそうです。
実はその前に、1匹1匹増えていくくだりがあったそうなんですが、私は見逃しています。
しかも私は、アリスが居なくなるところも見逃していて、
実は、羊が1匹ずつ輪を外れていくのに、羊の数が減らずにずっとポールの周りを回っている、
という作品だと思っていました。
これも実際の政治的事件というかエピソードに准えてます。


≪ Tornedo/トルネード (2000-2010) ≫


(確かどこかで55分という表記を見た気がするのですが)一番時間を割いた作品です。
空いていれば、クッションが置かれたマットの上で寝っ転がって鑑賞する事ができます。
寝ている姿勢で観ると自分も竜巻の中に入っていくようです。
よく観るとフライヤーには、竜巻に飛び込んでいくアリスの姿が映っているんですね。
竜巻のゴーゴーという音が何処となく、ホワイトノイズのようにも聴こえてきて、心地よい感じさえします。
思えば私は砂漠が好きなんです。
砂漠のサンドベージュと空のペールブルーのコントラストが好きです。
アリスの反復運動が心地よい退屈です。


≪ Choques/衝撃 (2005) ≫


曲がり角で交錯する男と犬。男とカート。 『カット』のサインを出すように現れる別の男。
これらが9台の異なったカメラから撮られていて、その9台のモニターが展示室の順路に散りばめられ配置されてます。
私は2台目を見て作品の流れは理解したのですが、何台目かにまた犬目線のカメラの映像が出てきて、
それには思わず笑ってしまいました。


と、こんな感じですが、フランシス・アリス、深く読めばそこには政治不安や社会問題が見て取れるのですが、単純な見たままの感想や感じ方を受け容れてくれる余地があるシンプルさと明解さも同時に持っていると思います。内容は深いのですが、ちょっとリラックスして観られる作品です。 (って、そういうのばっかり好んで並べてしまいました。もっと社会派のぴりぴりしたのも他にありましたけど。悪しからず。)

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by sanaegogo | 2013-05-04 00:00 | art | Comments(0)