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石川直樹 異人/国東
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石川直樹 Ishikawa Naoki
異人/国東
石川直樹 × 瀬戸正人トークイベント
12月23日(日) 19:00~ @PlaceM

このブログでレビューを書き始めて、多分石川直樹は最多登場になるのではないかな、と思います。石川直樹の写真も好きなのですが、その語り口と言うか話をする時の口調と言うか、テンションが静かながらもはっきりとした物言いが好きで、結果、スライドショーやトークショーに良く出かけている気がします。「石川直樹の写真が好き」と言うのにもっと付け加えると、その写真を撮るまでの行為と言うか、それに臨む態度全てに惹かれるものがあります。写真自体は、単純な言い方で上手い・下手で語ると賛否両論あるのでしょうが、ひとついえるのは彼にとっての写真は探究心とそれを確認する行動の集大成としての写真であって、アーティスティックな意味合いはあまり重要でないのでは、と言う事です。数年前は確か、自分は写真家ではない、と言っていたと思います。気が付いたらいつの頃からか「写真家」と言う肩書きが彼に付けられるようになっていましたし、自分でもそう称していました。トークショー最後の質問コーナーで、その事を訊いてくれた人がいて、石川さんの答えは・・・・。『冒険と写真、と言うか記録は切っても切れないもので、昔はどんな冒険にも写真家を1人同行させていた。写真がない時代は画家を連れて行って、誰も行った事のない自分達の見て来た世界を記録して持ち帰った。僕にとってはそう言う意味での写真であって、好奇心の赴くものを調べ、行って確認して記録すると言うのは自然な一連の行為。』みたいな事を言っていて、なる程、腑に落ちました。なので、石川直樹の写真は、ただのスナップ写真のようにも見えるかも知れないし、(しかしながら被写体になるものが日常から突出しているので、決してそのようにはならないのだけど)、現代の生活が垣間見れるような部分をキレイにしないで、雑多なものが写り込んでいても構わずシャッターを切るところに、ある意味妙に臨場感が溢れているとも言えます。瀬戸さんに『鍋やガスレンジが写り込んでいるのを何とかしようと思わなかったのか。』と言うような、からかいにも似た突込みを受けても、何所吹く風のような感じだったのが面白かったです。閉鎖的な村の中だけで脈々と守られ受け継がれてきた古い祭事を撮影するので、シバリがあったり、自分の思ったように画をつくると言った行動パターンが取れない状況下での撮影だと言うのもその理由なのかも知れません。ともかく、そう言った石川直樹の行為全体が、ひとつの写真に向き合うスタイルとして、とても惹きつけられるのです。
さて今回は、石川直樹が予てから追いかけている「異人」を大分県の国東半島にて撮影した写真展に際して開催されたトークショーです。「異人」とはつまり「来方神」。海を渡って日本の沿岸に流れ着いた遠い彼方から来た神様です。国東半島に伝わるこの来方神を祭る祭祀儀礼を取っ掛かりに、石川直樹が追いかけている「異人」やその異人を象徴する「仮面」が登場する日本の南端・北端に伝わる儀礼をダイジェストに紹介しつつ、それに絡めてのトークが続きました。面白い事にそう言った海から流れ着いてきた異邦人(折口信夫が言うところの「まれびと」)をお迎えする祭祀が残っているのは九州より南と北陸東北地方で、山に隔てられた狭い生活地域の中で外の世界と繋がっていたのは海と言う地域が多いそうです。どちらかと言うと外界と自分達を隔てているのは海では無くて山だ、と言う感覚。海は隔てるものではなく続くものであり、島と島を繋げるもの、陸と陸を続かせるもの。これは石川さんのトークショーでよく聞かれますが、その海についての感覚は大いに共感できるものがあります。魏志倭人伝には、魏の先遣隊が『一海渡りて』と対馬の島々を渡り倭の国の邪馬台国に来た記述が残っている、と言っていました。『一海』とは島と島を繋ぐ単位のようなものとして表現されていて、異人もこの様なルートを辿って日本の村々にやって来たのでしょうね。しかしながらその村々は、ある意味メジャーな世界とは隔絶されていた訳で、だからこそそのような古い祭祀儀礼が現代まで受け継がれ残っているとも言える訳ですが、そう言う閉鎖的なコミュニティーで余所者が彼らの大切に奉っている来方神の祭りを撮影させてもらうにはさぞかし苦労があるに違いない、と。石川さんによると、やはり、お酒を持って現地に何度か赴き、自分がきちんと調べて臨んでいる事を伝え、コミュニケーションを取り、外部に公開していない祭りの全貌を写真に撮ることを許してもらうそうです。瀬戸さんは、そこまでが写真家の仕事のうち80%。あとは機会に臨んで撮影するだけ。と言っていました。そう言う意味では、石川直樹のあの真っ直ぐで押し付けがましくないけど正直で直接的な雰囲気は、受け容れられる事が多いのではないかな、と思います。
今回の「異人」のシリーズは、東北芸術工科大学から始まって、その後、新潟市の『水と土の芸術祭2012』など、今後日本列島の各地を巡回していくプロジェクトです。来年早々能登の輪島で「アマメハギ」の撮影を終えた直後、1月4日(金)金沢の21世紀美術館で再び「異人」について、何かを語るそうです。そう言う意味では、これも含め、写真展はその通過地点で、やがては日本に残されたこれらの来方神について、写真集に纏めるつもりだ、と語っていました。それは、きっと単なる民俗学の資料的な観点ではなく、現代の生活を背景とした、歴史の中で今現在の一場面を記録していくような、時間をなぞった結果の先端のような写真集になるのだと思われます。

石川直樹 テキスト: http://www.placem.com/schedule/2012/20121217/121217.html
東北芸術工科大学での『異人 the stranger』展示記録:http://blog.tuad.ac.jp/stranger/

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by sanaegogo | 2012-12-23 00:00 | activity | Comments(0)
蜷川実花展 @8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery


蜷川実花の写真展を渋谷ヒカリエの8/で観てきました。 この日19日は初日で、オープンなReceptionがある事はアナウンスされていたので、是非(クローズドではない)こんな機会にはミーハーな感じで参加してみたいな、などと思ったのですが、この日は数時間後に所用があり、それは諦めました。レセプション開始が近づくとギャラリーの人はかなりそわそわし始めて、携帯を片手に実花さんの現在地の報告を受けて開始時間を調整している様子。そして、8/ の小山登美夫ギャラリーの前の通路にはびっしりとお祝いのお花が並べられていて、こんな光景を見るのも初めてだったので、ちょっとビックリしました。並べられているお花も、蜷川実花さんに贈るのであれば、そんじょそこらのアレンジメントじゃダメだわ、と思うのか、とてもファンシーなアレンジメントが多かったです。濃い紅を基調とした深みのある濃密な感じの花が多かったのは、2010年に出された「noir」からのインスパイアでしょうか。 (それとも 単に季節が冬だから故でしょうかね。)

蜷川実花展 Mika Ninagawa
会 期 2012年12月19日 - 2013年1月14日
時 間 11:00 - 20:00  
場 所 8/ ART GALLERY/ Tomio Koyama Gallery
料 金 入場無料 Admission Free
http://www.hikarie8.com/artgallery/2012/11/mika.ninagawa.shtml



今回の展示では、2003年制作のカラフルなフェイクの花を中心とした「Acid Bloom」、金魚にフォーカスした「Liquid Dreams」シリーズ、「旅」がベースの2004年制作の「floating yesterday」シリーズ、蜷川作品の違った一面を捉えた2010年制作の「noir」から出品されてます。そんな中で、ぱっきりとしたコントラストのカラフルな蜷川実花節の利いた写真とは趣を異にした、言わば裏蜷川実花と言うか、蜷川実花の闇と言うか、これまでの蜷川実花とは相対するものとしてあるような「noir」のシリーズに眼が行きました。 と言っても、2010年に発表されたシリーズなので、私がアップデートしていなかっただけなんだろうなーと思いますし、―地上の花、天上の色―を観に行ったのは2008年の事なのかー、と改めて驚いたりします。あまり記憶にないのですが、この 「noir」は―地上の花、天上の色―の最後のほうに伏線のように展示されていたそうで、その時はその裏蜷川実花はまだ影を潜めていて、虎視眈々と表に顕れる機会を待っていたのかも知れません。



今までにあまり題材にしなかったのでは? と思われるような、夜の街や夜のドライブ、しかもトンネルの中、みたいな写真もありましたが、聞くところによると、出産(2007年)をして夜しか出歩く事が出来ず、気持ちも育児疲れでクサクサしてたので、夜中に車を飛ばして写真を撮りに言っていた、そして、その頃見るものはやっぱり見えるものなりの写真になった、と本人が言っていたように記憶してますが、そのインタビューの記事が手許にある訳ではなく、定かではないのですが、この写真はそんなやさぐれた当時の彼女の心境も反映しているようです。(時系列が合ってないのかも知れませんが・・・・)



蜷川実花の作品と言われるとぱっと思い起こすカラフルな画面、キレイでまるで作り物のような水色の空。私だけの感覚とも思いますが、その写真を見るといつも、子供の頃よく親にねだって買って貰っていた少女向けのノートやビニールのカバンに描かれていた写真のような絵のような作り物のような「キレイでカワイイ」世界を思い出すんです。そして、それをとっても大切にしていた事も。蜷川実花の作品は女子達のそんな風な思い出の中にじわっと来るのかも知れません。しかしながら、彼女と同年代の私にはそうなのですが、もっと若い世代の子にとっては、cameran なんでしょうねー。ある意味、cheapで大衆的な世界観と(どんな世代の)女子にもとっつき易い世界を展開しているからか、ある時私は、『蜷川実花、結構好き。』と言った後に、何故か『誰も聞いていなかったでしょうね…。』と周りをきょろきょろしたくなる気持ちがする、と言った事があります。余りにも、臆面も無くgirlyなところで、『蜷川実花、結構好き。』と公言するのが憚られるのだと思うのですが、蜷川実花的写真と言う冠がついたジャンルや作風を生み出したと言うのは、一つの業績ではないでしょうか。


この写真は今回は展示されていなかったんですが 気に入ったので載せちゃってます。


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そう言えば、かの蜷川実花監修のcameran バカ売れしているようですね。この日もムービーと音声さん・照明さんが、如何にも蜷川実花ファンのような風貌の女子を数人捕まえて、会場の前でcameranについてインタビューしてました。 かく言うワタシもユーザーの1人。1枚cameranしてみました・・・・・。


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by sanaegogo | 2012-12-19 00:00 | art | Comments(0)
松本栄文司厨長 セミナー:お正月を迎えるために
この日は、いつもとは少し趣向を異にして、「日本文化」についてのセミナーに行って来ました。 食べる事は大好き。 日本食も洋食も。美食家ではないですが、食いしん坊です。子供の頃はひいおばあちゃんも一緒に4世代9人で食卓を囲んでいた昔ながらの割と古い大家族に育ったので、季節の節目節目にその意味も解らずに食卓にのぼる縁起をかついだお惣菜を食べたり、カレンダーに載っていない旧暦に則った年中行事みたいなもの度に家に集まる親戚達との何だかんだ(おばあちゃんはこれを『人寄せ』と呼んでましたが)の中で育ちました。なので、そんなものに親しんでいながら、実は昔っからの日本の村に伝わるような「しきたり」とか「由来」とか「起源」とか「意味」とかにとても関心があるのですねー。で、お誘いを受けたときは、是非とも!と言う感じで参加してみました。 既に何度か開催されているセミナーと言う事で、この日の新参者は私と友人とあと何人かだったのですが、食材やや漆器、建物、発酵食品など、今後もテーマを変えて開かれるそうですので、楽しみにしている次第です。
講師の方は、松本栄文さん。佐原にある花冠と言う料亭の司厨長をしていた(いる?)方です。司厨長と言うのは耳慣れない言葉ですが、料理長の事だそうです。奈良・平安朝の昔から、調理する場所を「厨房」といい、「厨」(くりや)とは「食物を料理する所、台所」を意味するそうですが、この厨を司る料理人を「司厨人」と言い、つまりその「長」と言う事です。現在でも、宮内庁では皇族方のお食事を調理する場所を「大膳寮」、料理長を「司厨長」と呼んでいるそうですが、現在では色々変遷を経て西洋料理に携る人の事を指すようです。(社団法人全日本司厨士協会のHPより) この松本栄文さん、プロフィールを拝見すると『東京農業大学研究員。近衛流分流松本宗家に生まれ、第二十七代清櫻堂当主を継承。食品学者として日本の食材を研究し、講師などを務める。千葉県の香取市で「佐原茶寮 花冠」司厨長でもある。著書に『食材は語る』『すき焼き SUKIYAKI』(ともにカザン刊)(2012年12月03日現在)』 とあります。日本文化のスペシャリストと言っても、先ほど私が言った日本の田舎の村々に伝わる・・・、みたいなもんじゃなく、もっと由緒正しく本格的。鎌倉時代の五摂家の流れを汲むお公家さん出身の方です。今の日本文化の大元(おおもと)は公家文化を起源として民間に模倣されるように広まったものが多いので、そう言う意味では、本家本元。そんなお話を拝聴して参りました。 (余談ですけど、中高生の頃、うちのおばあちゃんの口にする『そろそろ○○の頃だねぇ。準備しなくちゃねぇ。』みたいな、○○が日本史の教科書に載っていてビックリしたような経験が何度かあります。そんな昔っから行われてたのか~、はぁ~、と。) (もちろん 民衆レベルのハナシですが。) この日のテーマは『お正月を迎えるために』。お正月は昔からの「しきたり」と「ならわし」の宝庫。子供の頃から意味も解らず、「こうするものだ。」と教えられてきた物事が紐解かれるのです。
お話の内容は、歳神様のお迎えの仕方からその本来の慣わしが行われるべき時期、煤払い、鏡餅、門松の由来やいつまでに(歳神様を迎えるためにいつまでにそれをするのか)済ませておくのか、を皮切りに、花びら餅やおせち料理のこと。年越しそばや雑煮の正しい認識と食べるタイミング。話はどんどん膨らみ古来からのお味噌やお酢そして砂糖の歴史など、コネタ、大ネタが淀みなく出るわ出るわで、あっと言う間に時間は過ぎて行きました。(「ネタ」と言っては失礼なほど、きちんとしたお話です。)

≪門松≫
門松と言うくらいなので、家の門の前に松を立てるのですが、ワタシはぱっとイメージすると先ず竹を想像してました。竹なのに門松なんて、そう言えばその事にあまり矛盾も感じてなかった自分にびっくり。松は真ん中にある緑の部分だけで、自分の中では完全に主役は竹。そして俵のような土台の部分。肝心な松にあまり目が行っていなかったのに今更ながらに気がつきました。関東と関西で様式が違っていて、「寸胴」と言われるのが先が平らなもので商人の多い関西でよく見られるそうです。先をすぱっと切っているのが「そぎ」。これは武家の多い関東で多い形だそうです。松は年中緑の葉をつけているところから、生命力を現しているそうです。


≪鏡餅≫
この上に乗っているのは、蜜柑ではなく橙。家が代々栄えるように。(因みに我が家はずっと蜜柑が乗ってました。) (あるいはワタシがそう思ってただけかも。) 鏡はまさしく古来から神様が宿るところ。神社のご神体の鏡と一緒の意味だそうです。 それを床の間に置いて歳神様が家の中でどこに居ればよいか、お示しするのだそうです。


≪おせち料理≫
おせち料理は今では「御節」と書き表されますが、本来は「御歳供」と書くそうです。文字通り歳神様にお供えをする料理、ですね。お重の中に入っているものにそれぞれ意味があるのは多くの人の知るところですが、どう食べたらよいかまでは・・・。重箱は必ず真ん中から箸をつけること。重箱の隅のものから食べるのは、「家の隅に穴を開ける」行為で、おめでたい御正月にやってはいけないそうですよ。


e0168781_1562047.jpg≪花びら餅≫
この日初めてその存在を知りました。京都方面の方には御馴染みなのかしら。関西は丸いお餅が多いようですが、丸いお餅は宇宙を表し、それを半分にすると言うのは中に入っている白味噌餡と写真の棒状の何かを包み込む行為だそうです。 棒状の何かは一体何か? そう、中からにゅっと出ているのは、牛蒡。牛蒡は土を表し、大地を包み込む、に肖っているそうです。この牛蒡がまた、美味しいのです。本当は今食べるものではないのですが、先生が特別に注文して持って来てくださいました。 もう一度食べたい・・・・。


≪田作り≫
おせち料理の定番ですが、この日は『料亭の本格的な田作りを』と、その場でちゃちゃっと作ってくださいました。一番上の写真はごまめを手で煎る松本先生。スゴ技です。手で煎らないとごまめの中の微妙な水分の飛び具合が解らないそうです。 なので、必ず手で!と言うのが今日の教えです。煎りあがったら粗熱をとって完全に冷めてからタレと和える。これって、誰しも間違っていたようです。ワタシは田作りなど自分で作ったことがないので知りませんでしたが、料理の本では、「熱いうちに、冷めないうちに」と書いてあるようで、皆さん驚いてました。熱いうちに和えるとごまめの中にタレが入り込んでしまい、カリっとせずにベチャっとした田作りになるそうで、ワタシも子供の頃からそんな田作りを食べてました。 お母さんに教えてあげよう!


これはホンノ一部の内容ですけど、まだまだ感心する事しきりの楽しい話が盛り沢山でした。 お扇子をひらひらとさせながら軽妙な語り口の松本栄文先生。写真とご本人の印象が全く違っていたのには少し驚きました。またお話聞きたいです。

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by sanaegogo | 2012-12-19 00:00 | activity | Comments(0)
Utrechtで「とり。」展
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吉楽洋平さんの「BIRDS」は、今年の写真新世紀で優秀賞を受賞した作品です。そのシリーズとなる『とり。』がユトレヒトで開催されてます。当初は12月23日までの予定でしたが、好評につき会期が27日まで延長されたそうです。 静かなるムーヴメントですね。

吉楽洋平 「とり。」展
2012.12.11(tue) – 12. 23(sun) 27(thu)
Utrecht/NOW IDeA

ユトレヒトのテラスにあった東屋は、森の中の小さな小屋みたいで、まるで今回の吉楽さんのために作ったスペースのようになっていました。こちらがその中で森で囀る鳥を見る小屋のようでもあり、鳥達が寛ぐための鳥小屋のようでもあり。床には一面に木の葉が敷き詰められています。これは吉楽さんが展示が始まる朝に大きなビニール袋7袋分掻き集めて来たそうですが、全部は使わなかったそうです。(因みにこのスペースは、この吉楽さんの展示をもって取り壊される予定だそうです。本格的なカフェスペースになるのかな?) 木の葉を敷き詰めたり、鳥の囀りが聞こえたり、スペース自体も趣向を凝らして空間全体でみせるのがとってもいい感じでした。展示してある写真については、ご本人は、『迷ったけど小さくした』と言っていましたが、写真の展示にしては、なるほど、ちょっと小さめ。でも、その分、本当に、木々の間でその枝葉に溶け込んでいる鳥たちの世界に入り込んだような気分になって、スペース内は狭いながらも自然と無意識に鳥を驚かせないようにそろそろっと歩いてました。空間全体で『とり。』の雰囲気づくりがが効果的に表現されてました。写真展も壁に写真を並べていくだけでなくて、こうやってスペース全体で表現されていると楽しいですよね。
吉楽さんのこのシリーズは写真新世紀の「BIRDS」でも観ました。残念ながらグランプリは逃してしまったのですが、私はお世辞抜きで、「BIRDS」が一番いいな、と思ったのですが。(ユトレヒトで、これを本人に言うと、『僕もそう思います。』と言ってました。) 最近の写真新世紀は、佳作も含めて優秀賞に入った写真を観ても、大御所や今旬の写真家は勿論のこと、写真仲間や自分の身近な人、必ず誰かっぽいと言う分類が出来るような(出来てしまう)ような気がしました。 そんな中で、吉楽さんの写真は誰にも似てない、誰っぽくもない、感じがしたんです。これは紛れもなく、吉楽さんのオリジナルだ、と。 そして、写真も綺麗。『綺麗』と言う言葉は無難に使われる賞賛の言葉のように思われるかも知れないですが、本当の『綺麗』と言うのは実はそんなに薄っぺらい言葉ではないのです。写真新世紀のグランプリ選出の公開審査会を観に行ったと言う友人は、その制作意図として『ある日蚤の市で一冊の鳥の図鑑を手に入れた。本を開くと鳥の絵が切り抜かれたページがあることに気付いた。それは私に空っぽの鳥籠をイメージさせた。するとその本自体が一つの鳥籠の様に思えた。「残りの鳥を放つこと。」そんな言葉が本から発せられたような気がした。少し考えて私はその声に従ってみることにした。何故かその方法は既に自分の中にあった。そして私は鳥を放つ為に森へ向った。』 (写真新世紀より抜粋) と言うのがストーリーとして出来すぎていると審査員からのコメントがあって、完成しすぎていると言う印象があったらしい、と言っていました。そうかー。洗練されていると感じたんだけどなー、と。私は、それはsituation(状況)の提示であって、それをストーリーだとは感じなかったのですが。ストーリーと言うかその前段階の設定って言う感じでとらえたんです。観た人の中にそれぞれのストーリーが展開するのは、この後だと思うんですね。 稚拙だと言われるよりも、完成しすぎている、と言われる方が何だかやるせないですね。審査員は吉楽さんの「抜け」を見て、自分が置いてきぼりにされたと感じたんでしょうか。
人の感じ方もそれぞれだし、伝え方もそれぞれ。少なくとも、吉楽さんの写真のファンが大勢生まれた事に間違いはないでしょう。
パピエラボで開催されていた「とりまつり」もユトレヒトに合わせて会期が延長になっているようです。

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by sanaegogo | 2012-12-16 00:00 | art | Comments(0)
Gerhard Richter (ゲルハルト・リヒター) "New Strip Paintings and 8 Glass Panels"
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Gerhard Richter ゲルハルト・リヒターは1932年に旧東ドイツで生まれました。 御歳80歳にして未だに現代美術界を牽引し、ドイツを代表する現代美術作家であり世界で最も重要な画家の一人とされています。当時まだ壁の無かったドイツで、西側を旅行している際にポロックなどの抽象画に出逢い、当時の抽象表現主義に強い影響を受け、舞台の大道具や背景の絵を描いたり、広告看板を描く事を生業とした生活から抽象画家へ大きく舵を切るために、壁が誕生する直前に西ドイツに移住したそうです。 その手掛けている作品のシリーズには、自らの概念(コンセプトや思想など)を出来る限り排して制作されるというフォト・ペインティング(これは新聞や雑誌の写真を大きくキャンバスに描き写したもの。)、色見本のような規則的な色彩のパターンから構成されているカラーチャート、絵の具を何層にも塗り重ねてはそぎ落とす手法で描かれるアブストラクト・ペインティングなどがあり、複数のスタイルを同時進行で制作してきました。写真の再構成(再現)と言うリアリティーに近いところから抽象表現まで、表現するもののカバーする幅が広く、常に(ある意味)実験的な立ち居地で制作を続けていますが、そのフィールドが一貫して絵画と言う手法であって、多様な提示方法がある現代美術において廃れてしまいそうな昔の手法に留まるのではなく、絵画そのものの今後の可能性や伸び代を探り続けているその姿勢は、正しく老いてはますます壮、と言ったところでしょうか。



今回、WAKO WORKS OF ART(ワコウ・ワークス・オブ・アート) の開廊20周年記念展として、この現代絵画の巨匠ゲルハルト・リヒターの新作が展示されていると言うので観に行って来ました。

WAKO WORKS OF ART
Gerhard Richter (ゲルハルト・リヒター)
"New Strip Paintings and 8 Glass Panels"
会 期: 2012年12月8日~2013年1月26日
開廊時間: 11:00―19:00 日・月・祝休み
http://www.wako-art.jp/top.php

その新作が、ガラス版にカラフルなボーダーがプリントされた"Strip"と言うシリーズ。 この"Strip"と言う言葉には、〔細長い切れ、細長い一片〕という意味がありますが、同時に〔皮などをむく、はぎ取る、裸にする〕などの意味があります。 細長い一片と言うのはある意味一目瞭然なのですが、実はこのカラフルなボーダーは、リヒター自身が描いたアブストラクトペインティングの1枚を複雑にデジタル加工してプリントしたものだそうです。過去になった自分の作品を細かな要素に分解し、反復させて再構成する事で新しい価値を与えると言う試みです。古い絵画に染み付いた価値を剥ぎ取り、一旦裸にし、再び再構築をしてその美的価値を検証し直すと言う取り組みです。もともとの作品についての情報が無かったので、どのように変化したかは定かではなかったのですが、ポイントとなるべきはどれだけ変化したかと言う事ではなくて、変化を遂げて生まれ変わった完成形までの再構成の過程を考察する事なのだと思います。そこに介在しているデジタル技術やテクノロジー。それに巻き込まれていく絵画のあり方をリヒターは考察しようとしているようです。 なるほど、その精緻で多様な配色のバランスや色そのものの絶妙さは、考えて出来上がるものではないと言う気はします。そう、色合い配色は絶妙。そしてプリントの技術も素晴らしく美しく出来上がっている作品達でした。 これらは、直接手を触れる事が無く、リヒターの意見や考えや匙加減を加える事なく分解、再構成する作業で、デジタル・テクノロジーによって解体(strip)され、新たに全く違うものとして生まれ変わっています。 それは、現代においての生活や文化に知らず知らず入り込み、旧態を新しいものに変容させていくデジタル化の波に対してのリヒターからの問題提議だとも言えます。


   

あともうひとつのシリーズが、"Museum Visit"で、これは、ロンドンのテート・モダン美術館に訪れる人々を撮った写真に上書きするようにエナメルで塗りを入れたものです。これは、リヒターにとっては新しいシリーズでオーバー・ペインテッド・フォトです。写真の画像が極部分的で断片的にしか垣間見れないように塗られた赤や白のエナメル。透明性はないので、画像情報はエナメルによって遮断されていて、なかなか全貌を把握する事が出来ず、何だかモドカシイ感じがしました。 個人的には撮影されている写真自体ががどれもこれも良い作品だったように思えるので、その内容自体を知りたくて、かなりジックリと見入ってしまいました。 色々なアプローチがあるのですね。 リヒターは画家ですが、このアプローチは写真家にとってもありなのだと思います。 そして、メディアは何を用いて表現するか、手法は何を用いて表現するかの境目が消えつつある、と言うのが現代美術の面白さなのだと思います。
2011年から巡回している大回顧展はロンドン、ベルリンを経て、現在はパリのポンピドゥー・センターで開催されています。今年の12月には、オランダのアムステルダム市立近代美術館にて大規模な回顧展が開催されていて巡回展となる予定だそうで、日本にも来ないかなー、と思ったりしました。(抽象画とフォト・ペインティングをもっと観てみたいです。) (日本では2005年に金沢21世紀美術館と川村記念美術館で回顧展が開催されたそうです。)

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by sanaegogo | 2012-12-15 00:00 | art | Comments(0)
EOS Mで光玉写真を


もう10月のハナシになるのですが、かなりの衝動買いで、キヤノンから出た話題のミラーレス EOS Mを購入してしまいました! 話題と言うのは、キヤノンはミラーレスには参入しないだろう、と言う大方の予想を覆しての発表があったと言うところで、性能や仕様に素晴らしいと言うところで話題になったのではないのですが・・・・。(まずは、慎重に動向を見守っているユーザーが多い、とお店の人は言ってました。) そんな中、取り立てて新しいもの好きでもない私がこれを購入した理由としては、今使用しているコンデジが余りにもお節介な機能が多く、色々自動で補正されてしまうので何とかしたかった、と言うのがその理由。それならばいつも持ち歩いているコンデジの代わりにミラーレスでも買うか、と思っていたところキヤノンのが出て、今使用している一眼がキヤノンなのでレンズをいくつか持っているしミラーレスにも使えるらしい、と言うのがもうひとつの理由でしょうか。(長くなりましたが。) こんなにくどくどと理由を述べてしまっているのはきっと、衝動買いの罪悪感からで、自分なりに何か正当化したきちんとした理由を必要としてるんだなーと思われます。しかも、翌年からの自分のステイタスもはっきりしていない状態で、この散財。とも思うのですが、今年1年、結構色々頑張ったからこれくらいの先行投資(?)は吝かではないだろう、と思う事にして自分を納得させている訳です。

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さて、そんなこんなで、手に入れたコンパクトで機動力のあるミラーレス一眼を最近では持ち歩いて外出してます。 本当は最近流行っていると言う事の標しとして、やっぱ『白』のボディーがよいな、と思ってたのですが、白はダブルレンズキッドを購入する場合のみ販売と言う事で、こんなところに何となく、『人気の白を手に入れたくば、レンズは2本購入せよ。』と言うキヤノンのセコい(あ、失礼)戦略が見え隠れしているような。で、買ったお店の戦略で黒のボディーならお安くしておきます、となっていたのですが、ワタシの欲しかった(ガンメタっぽい)シルバーボディーは標準価格。(ここでは、掃けが悪い黒は安くしといてバンバン売っちゃえー、と言うお店のセコい戦略が。) しかし、しばし粘ってうっすらとネゴシエイション。お店の人はシルバーでもお徳用価格にしてくれました。
そのEOS Mで最近 光玉写真の撮影に凝ってます。 ワタシが購入したのがパンケーキレンズなので、単焦点。 操作はとにかく弄繰り回し、光玉が出来たところで無理やりシャッターを切る感じでやってます。 今まで幾度と無くいい感じの光玉がライブビューに現れても、思ったようにシャッターが切れず、伸びたり縮んだり(体を動か)して悪戦苦闘する時もしばしば。 (きちんとした撮影プロセスがあるのか、どなたかその方法をご教示くだされば幸甚。) マニュアル・フォーカスも駆使しつつ、来年こそは、是非とも 『偶然とは素晴らしい!』 から卒業したいと思ってます!!


家路の夜道。試行錯誤しながら帰るといつもの2倍は時間かかります。





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by sanaegogo | 2012-12-13 00:00 | つぶやき | Comments(0)