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安村 崇 「1/1」


安村 崇を観に行って来ました。と言っても、ちょっと前のハナシになってしまい、今日でお終いになってしまいますが・・・・。 JR大塚駅にあるMISAKO & ROSENです。


安村 崇 「1/1」
2012年5月13日(日) - 6月10日(日)
MISAKO & ROSEN


日常どこにでもある風景にぐっと寄ってフォーカスし、構成をより抽象化して観る人に不思議な感覚を与えています。『単純化して複雑化させる』とでも言うのでしょうか。 その切り取った世界が単純で情報量が少なくなる程に、そこに顕されているものを読み解こうとする行為に複雑さが増していくのだと思います。 単純であるからこそ、そのテクスチャにもとても目が行きます。 色彩、素材の質感、全体の中の仔細な一部分。並べられている数点の写真はどれもまるでポスターカラーで塗った様な質感で、(マスキングテープとポスターカラーで描いた画のようです)、あの、紙の上に乗って吸い込まれていかないポスターカラーの顔料のような質感もプリントで表現できるものなのか、と驚きました。プリント以前にその質感を写真に納めているんですよね。これはやっぱり光やカメラの機能がちゃんと解っている撮影技術も卓越した人なのだな、と察する事が出来ます。「眼前の世界を写したはずなのに、写真にしたら何か別の世界が見えそうな場所を探した」と、安村崇は今回の個展の写真について語っています。例えばポスターカラーで何か画を描く時には、水彩のように水で溶いた濃淡では画面は表現できないのですが、MISAKO & ROSENのwebsiteで、安村崇は「画面から思わせぶりな奥行きは消え去り、それを追う視線は表面に留まる。」とコメントしています。『奥行きは消え去り、表面に留まる』 なんとも意味深な、いえ、意味が深いコメントだと思います。
理屈はともあれ、好きか嫌いかと問われれば、ワタシは『好き』。そして、こんな世界を探し回ってみたいな、と思います。 色彩があり、テクスチャがあり、構成がある。見慣れたものの中に多様な文脈を探し出すような、そんな感じです。

2008 安村崇/江口悟 「Things in a place」
200? 「せめて惑星らしく」
200? 「自然をなぞる」
2005 写真集「日常らしさ」
1999 第8回キャノン写真新世紀 グランプリ受賞

『せめて惑星らしく』『「自然」をなぞる』『日常らしさ』はこちらで見ることが出来ます。『「自然」をなぞる』はそのユーモラスさが何とも良いではありませんか。
http://takashiyasumura.com/site/Japanese_.html

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by sanaegogo | 2012-05-28 00:00 | art | Comments(0)
よい子のための写真教室 vol.5
ソフィ・カル(Spphie Calle)というアーティストがいます。写真とテキストを組合わせて私的で個人的なエピソードを公に暴露し、自分に纏わる事実を作品として制作して発表しています。純然たる写真家というのでは勿論ないし、テキストを取入れた写真のアートディレクターと言うのでもなく、どちらかと言うと、『私小説家』それも谷崎潤一郎的なものを感じるのは私だけでしょうか。(もしくは、センスの良い露出狂でしょうか。) 自分の日常のみならず、他人の日々の行動までも暴露し、作品として構成します。そこにはドキュメンタリー作品に見られるようなある種の問題提起や啓蒙のようなものは一切ありません。見る人が見れば、『ふうん・・・・。』で終わってしまうような状況の羅列を、意味あり気な(意味のある)作品にしているのは、偏に彼女のプレゼンテーション能力と作品構成の秀でた力量です。"感想『ふうん。』"をそれだけで終わらせずに、全く関係のない第3者に関係のないものと思わせず、その世界に観るものを引き込んでいるのは、ただただ作品構成の力と言えます。ソフィ・カルは写真の作品に多くテキストを用いる事でも知られていますが、テキストがあるから作品の説明が成されているという事ではありません。この場合のテキストは作品の伝わらない部分の補足説明では決してないのです。ソフィ・カルにとっての写真とテキストはどちらが正でどちらが副というのでもなく、テキストは写真と言うある意味客観的な事実を観る人が自分の事のように感じられる手助けをしていますし、写真はテキストで著された自分と関係ない誰かの私的な出来事を体験できる視覚的入口として働いていて、相互に作用していると言えるようです。
と、まぁ、くどくどと言うよりは、ソフィ・カルと言う人。自分だけの私的で個人的なエピソードを告白し暴露する行為を作品としたり、荒唐無稽なゲーム感覚で全くの第3者を勝手に作品の素材としたり、時には人々がぎょっとするような事をやっておきながら、抒情詩的な世界を描き出すエキセントリックなアーティストであり私小説家、と言ったところでしょうか。 それがどうして作品として成り立つのか、それは偏に、他の人にはどうでもいいような心情に観る人をぐっと引き寄せる構成力やそれを直接的に説明をすることなしに的確につたえるプレゼンテーション能力なのではないでしょうか。

≪盲目の人々≫
生れつき目の見えない人たちに「これまでに見たものの中で一番美しいものは何ですか?」と言う質問をし、回答を得た人の顔写真とその人の選んだ"一番美しいもの"についてのその人コメント、それに誰でも撮れるような写真でそれをビジュアル化したものを並べて展示して、『見る』こととは、『美を感じる』こととは何かを1年間にわたるプロセスの後に示したもの。見る、と言う行為は体の機能を超えて個人の中に主観的に存在するものなのだ、美と言う概念はどんな状況でも持ち得るものなのだ、と言う事を示していますが、その盲人の「見た美しいもの」がどのようなものであって、カルの示したもの通りであるかどうかは確認不可能で、誰も知る由もありません。その完全に語りつくさない部分にカルの作品の余韻のようなものが充分に感じ取れます。
≪限局性激痛≫
ソフィ・カルが政府奨学金を得て日本に滞在した92日間を、当時一緒に暮らしていた恋人との再会を心待ちにしつつも捨て去られてしまうに至るカウントダウンを綴ったもの。私小説家的な作品。また、失恋の痛手を拭う為に他人の不幸な話とそれを聞いて傷を癒していく過程のソフィのモノローグのようなテキストにより、ソフィの思い出の中に取り込まれ、まるで自身の体験をなぞるかのように感じられます。
≪ヴェネツィア組曲≫
長く無目的な放浪の旅から帰り、他人がどのような生活をしているか興味を持ち始めたソフィ・カルは、街で見かけた見知らぬ男を尾行し行動を記録し始めます。その男がヴェニスに行く事を知り、自分もその男をつけてヴェニスに行くことにします。そこでホテルの部屋は宿泊客の性格や性質を最もよく表している事に気づき、ヴェニスのホテルでメイドとして働く事にします。メイドとして働きながら宿泊客の部屋の様子や荷物などを撮影し"Suite Venitienne"として発表し反響を呼びました。
≪手帳の男≫
リベラシオン誌に掲載。偶然に拾ったアドレス帖から、そこに記されている人全員にインタビューを行い、アドレス帖の持ち主である「ピエールD」の人物像を浮び上がらせる行為を発表しました。 手帳の持ち主からは掲載後講義の文書が届いたようです。
≪ダブル・ゲーム≫
複雑な仕組みのゲームのような作品。ソフィ・カルをモデルにして描かれた小説の中の人物の奇抜な日々の生き方を、ソフィ自身が「作られたキャラクター」としてその奇抜な生活をなぞって行くと言うもの。その中の「色彩ダイエット」では1週間の食事で決められた色を順番に食べて、週末には6人の招待客を呼び自分を含め1週間7色全色のメニューを使ってパーティーを開きます。 また、もうひとつの取り組みとしては、アルファベットの1文字を選び、その文字で始まる単語に沿った行動を行ったりしています。自分ではコントロール出来ない偶然の作り出したルール、規則性と言うようなものに身を委ねて、行動を制限し、窮屈にし、雁字搦めにされてルールに「服従」する事で相反する要素である自己的なものが浮び上がって来ていると言えます。
≪探偵≫
自分の母親に依頼し探偵をやとってもらい、自分を尾行し追跡し、写真に収めさせ、それを作品として発表しました。
≪Last Seen≫
美術館から盗まれた美術品を題材として、その作品を偲んで思い出をキュレーターやガードマンなどの関係者と一緒に再構築して綴ったもの。これは、4年間シリーズとして続きました。

順不同ではありますが、彼女のこれまでの作品を列挙してみました。年代は順不同、個展であったり写真集であったりアウトプットの方法もばらばらで整理されていませんが、ざっと一読すると、彼女は、一言では語りつくせない、様々な要素や側面を孕んだ不思議な立ち居地でやってきている事が判ります。とにかく奇想天外な発想と行動力を持ったアーティストなのです。

・・・・と言う訳で、よい子の写真教室です。今回もポストモダン。前回は短絡的なものを出して踏んではいけない地雷のようなものが理解できたので、今回はじっくりと最終形にいたるまでのプロセスを練ってカタチにしたつもりです。今回は「プロファイリング」を試みてみました。自分ではそれと知らずに求めに応じて(撮った)出した写真で、どれだけその人物の人となりが見えてくるものなのか。 簡単な4つのお題を出して写真を4枚提出してもらって、その後、(敢えてその後)、その4つがそれぞれ示していたものが自分の中でどの位のパーセンテージを占めているか、合計が100になるように配分するようお願いしました。写真そのものがその質問に結びつかないようにするため、敢えて写真の提出完了を待って、次の段階で質問をしています。 100%を割り振ってもらう項目としては、①自分自身のこと、②仕事のこと、③健康管理や食生活のこと、④自分の好きなものや世界のこと、の4つでそれぞれの写真と対応しています。それを各パーセンテージに応じて短冊にして、試しに並べてみました。本当は、今回は前回のブラッシュアップと言う回だったのですが、前回のものがあまり良くなかった(私のような)受講者は、こうしてガラガラポンで変えてきた人も多く、するともう泣いても笑っても今回が最後なので、私のこの回のように「試みに・・・」なんてのはありえない感じなのですが・・・・。 あまり奇抜な発想もなく自分のやり易いところから手繰り寄せて行くと良いのかな、と前回感じ、学生の頃心理学を専攻していた事を思い出し(笑)、そのプロセスを取り入れて写真を素材にして何か顕れて来ないかな、と考えたわけです。しかし。素材が集まらなかったら元も子もないと思ったので、1週間で、頼んだ先にやってもらえるように簡単なお題で簡単な質問にしてしまったので、結果はあまりぱっとしないかな、と言うのは懸念されていた事なのです。しかし、しかしながら。 プレゼンでしどろもどろになって纏まりのない事を言ってしまわないように、ある程度言うことの骨子もまとめて臨んだりしたので、結果、内容がぱっとしない割には、さっさとスルーと言うのは免れて、それで、参考例としてホンマ先生から出てきたのが、このソフィ・カルだった訳です。 これを記すにあたり、ネット中ではありますが、色々彼女の取組みを見ると少なからず心理学的要素が含まれていると思ったので、私のやった事は彼女と近からず遠からずだったのかも知れません。ただ観る人の関心を得るところは完全に欠如はしてる感じですが。前回から今回まで、作業できる猶予は約10日間。その間に提出依頼と質問と2段階のプロセスを踏んで、纏めなければならなかったので、質問数が少なく簡単にせざるを得なかったので、もっと意地悪だったり、抽象的な質問だったり、困らせるようなものだったり、心の裏の部分などを垣間見れる質問だったらもっと面白い内容になったかも知れません。と、自分でも言いましたが、ホンマ先生にもそれは指摘されました。(多分ソフィのように犯罪ぎりぎりまで出来れば面白いのだと思います。)不思議な事に、それまで全然思いもしなかった事が、不思議とホンマ先生を前にして発表するあの段になるとすっと降りてくる時があるのです。 「抽象的な質問にしたらよかった」、と言うのも、あの場で突然気がついた事で、多分そうした方がよかったんだと思われます。あと、何となく自分で漠然と思っていたこと、人物はいらなかったかな。これも、講評を得てはっきりしました。『人物を最初に示して、どれがどれか当てるとか、でもいいんじゃないのかな。』と言われ、そう来たか!と。 それは実はアイディアの中にあったのだけど、この時はそのゲーム感覚で陳腐になりそうな気がして、敢えて排除した案だったのです。ソフィのようなゲーム感覚も「アリ」だった訳です。その時に何がハマるかはその時になってみないと解らない。 ハマれば爽快感と達成感のようなものを感じることが出来るけど、ハマらなかった時のあの穴があったら入りたい気持ちったらない。目も当てられない感じです。写真を集めたのはいいけど、全くそれらのサンプルに関心がない人をどうそこに引き寄せるか。その工夫が一番難しい点でした。そしてホンマ先生に指摘された『質問を作るのは、案外難しく、センスが問われるもの。』として例に挙がったのがこのソフィ・カルの≪盲目の人々≫だったわけです。ただ今回は、段階を踏んで取り組んだ事が判ってもらえたようで、内容がぱっとしない割には色々講評してもらえました。
偶然を排除した規則の中から生まれる偶然性とそれが作り出す規則性。禅問答のようですが、ただ写真を撮影するだけの次に与えるプロセス。そんなものをこのワークショップを通じて体感しました。 写真の良し悪しは個人の好み、それはそれであるのですが、誰がいつ、どういう心境で見ても良いと評価できる理論的観点もある。と言う事をホンマ先生は普及させたいのだ、と感じられる毎回でした。作品自体に何か裏打ちされた意味や規則性を根本にした訴える何かがあれば、その捉え方には観る人のその時の個人的な気分とか心情とかのフィルターで見え方が左右される事はなく、そして、単なる私的な感情の羅列というスパイラルから脱出するのです。それは、写真そのものの力で1枚勝負の絶対価値のような『決定的瞬間』では成し得ないもので、数枚の数点の意味を持った連なりで作られていくような気がします。写真の見せ方はより概念的になって、それを理解するにはカルの作品のようにある程度の説明(予備知識)が必要な場合がありますが、それは決して作品の足りない部分を補うものではなく、見た目の印象だけで写真を見ていく(発表していく)次の時代に入ろうとしている、そんな事をこのワークショップで体感する事ができた気がしています。




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by sanaegogo | 2012-05-27 00:00 | activity | Comments(0)
古民家農園ライブ― はじまりのまじわり @ぴたらファーム
前日までの土砂土砂降りもすっかりあがって、この土曜日はとっても良いお天気でした!前日の雨にすっかり空気も洗い流されて、普段よりも何だかスガスガしい感じがしたのは気のせいでしょうか。そんな朝のぴかぴかの空気の中、休日の私にしたら信じられないくらいの早起きをして、山梨県の白州まで出かけてまいりました。白州にある「ぴたらファーム」と言う自然循環型のオーガニック・ファームで行われた音楽祭「はじまりのまじわり」です。白州と言えば、美味しい水が湧き出ていてウイスキーの蒸留所がある事でも有名ですが、ぴたらファームはそんな白州の地で、古民家を活動基地として循環型の持続可能な農業や稲作をしている皆さんです。(ファームのサイトはこちら:http://pitarafarm.com/ ) この日は「古民家農園ライブ」と言うことで、敷地を全てライブのために開放し、本格的なステージや飲み物やランチのためのカフェ、お土産が手に入るショップなどが並び、古民家の中も客席(2階まるで桟敷席のようでした。)として、更には会場となっていて、ファーム全体が和気藹々とした雰囲気に包まれた1日でした。(ライブの準備から当日の様子まで、Check it up!:http://otonotabi.exblog.jp/ )
茅ヶ崎の家から車で行けば、2時間ちょっとで着いてしまうほど白州は近いのです。 久々に八ヶ岳を眺めながらの中央道ドライブもしたかったのですが、やっぱ、ライブではアルコホールも呑みたいよねー、と思い、この日は電車で行くことにして、朝9時の新宿発のあずさでしばし電車の旅です。最寄の電車の駅は小淵沢。いずれにしても、何もかも「久々」づくしです。白州はとっても気持ちよいところでした。里山に囲まれていてフィトンチッドのシャワーを浴びているような気分になります。前日の雨のせいか、少しだけ空気もひんやりとしていて、清々しい・・・・。 11時くらいに小淵沢について、そのまま会場であるぴてらファームに移動。まずは腹ごなしのランチから「はじまりのまじわり」はじまりはじまりです。



手前がガドガドごはんで奥がチリビーンズごはん。どちらも美味しかったんだけど、ガドガドごはんには感激しました。 ガドガド(Gado-gado)はインドネシアの郷土料理で「寄せ集め、ごちゃ混ぜ」と言った意味があるらしいです。 本場のガドガドとはちょっと違って日本風(かな?)にアレンジしてあったんだけど、薄味なのにしっかり野菜の旨味が感じられて、本当に本当に本当に美味しかったです。 チリビーンズごはんもビーンズに使われていた大豆が柔らかいんだけど絶妙の食感(硬すぎず柔らかすぎず)で大豆の味がして美味しい! 野菜や大豆の味がするって、実は凄いことなんです。さすが、循環型農場ですね。

   


前の日までにスタッフのみなさんが手作りして飾ってくれた万国旗。目に嬉しいおもてなしの気持ち。そよそよと風にそよいで涼しげな雰囲気を演出してました。

      


古民家の2階からもステージと客席のある庭が見渡せます。顔を出してステージを観る人々。実は奥には座布団を枕にして昼寝をする人がちらほらと。風の通った夏座敷で昼寝するの、気持ちいいんですよねー。



この日はにわか雨も来なかったのだけど、虹が出ました。しかもアーチ型ではなくて何だか真っ直ぐに。七色のリボンを風にそよがせてるみたいな感じです。



この日は地上にも虹がありました。竹の庭にカラフルな旗。ここはブータン?と見紛うような雰囲気です。この竹藪の奥に雑貨のショップが出てました。この日帽子を忘れた私は麻紐で編んだキュートな帽子をゲット。

   


この日はあちらこちらの世界各国の民族楽器での演奏を聴く事が出来ました。電子音は一切なし。(あ、PAは入ってますよ。) 見るのも珍しい楽器もありましたが、どの演奏も自然の中に溶け合って、聴き心地がいい事間違いなし、な感じでした。 ついつい眠りの世界へ誘われてしまいそうになるのですが、退屈だからではないんです。 自然なあるべき形になっていくと言うか・・・。波の音や葉のそよぐ音を聞きながら眠りに落ちていく、あの心地よい感じですね。
この民家の中では地無尺八の演奏がありました。 地無尺八とは竹の中を節を残したままあまり加工しない尺八の事で、『音を出せるようになるのにも大分年季がいる』とお父さんが言っていたのを思い出しました。この縁側もワタシにとっては何だかとっても懐かしい感じです。 ワタシの生まれ育った家にも建て替えてしまうまでは、こんな風に前庭に面した長い廊下がありました。

ゆきちゃんを含め、ぴたらファームの皆さん。お疲れ様でした。 そして、ありがとうございました。とても楽しかったです。
FacebookのAlbumはこちらへ ► ► ►

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by sanaegogo | 2012-05-26 00:00 | traveling in Japan | Comments(0)
ダミアン・ハースト New Spot Prints @渋谷ヒカリエ


Damien Hirst 「New Spot Prints」
2012年4月26日(木)~5月28日(月)
渋谷ヒカリエ 8/ 03 ART GALLERY (TOMIO KOYAMA GALLERY)

渋谷ヒカリエの8階「8/」のArt Galleryでダミアン・ハーストの展示が観られるのは既にご存知のはず。 Creative Space 8/ (Hachi) と言うスペースの 03、小山登美夫ギャラリーで開催されている、イギリスを代表する現代美術家ダミアン・ハーストの個展『New Spot Prints』です。ダミアン・ハーストと言えば、1995年にターナー賞を受賞した、母牛と子牛を縦に真っ二つに切断してホルマリン漬けにした作品 "Mother and Child, Divided"が有名ですが、今回はカラフルなドットの織り成すペイントの平面作品で、これもハーストが以前から手がけていたシリーズのひとつです。 規則的に並んだドット達はある合理的なシステムに基づいていて、無限に広がり関係しあう相互作用をテーマとして作成されています。一見するとカラフルでポップで、楽しげな様子なのですが、これらは全て化学物質や薬物などケミカルなものの名前が作品名につけられていて、少なからず、深刻な薬物中毒とアルコール依存症に陥っていたダミアン・ハーストのダークサイドに関係していると言えます。 この作品の見た目の可愛らしさに惹かれてこのNew Spotを壁に飾る事になったとしても、そこには常にダミアン・ハーストのダークサイドが横たわっていて、それを知ると愕然とするかも知れません。所有する人はやはりそこまで作品の意味を知ったうえで鑑賞した方が、より深くこの作品を味わえるのだと思います。作品の見た目とは裏腹な作品の持つ真の意味合い。これがコンテンポラリー作品の醍醐味であると言えるし、ダミアン・ハーストのシニカルさなのかも知れません。
ダミアン・ハーストのこれまでの作品とは、"Natural History"という死んだサメ・牛・羊などをホルムアルデビドで保存したシリーズや、先にも述べた"Mother and Child, Divided"など死骸や薬剤を使用して生と死を直視して直接的に表現した作品が多くあります。ここで使用されている保存のための薬剤もそうだし、New Spot Printsの象徴しているケミカルもそうだし、死体、死骸、薬剤や化学的処理などダミアン・ハーストの題材は一貫していて、死んだまま生かす、と言ったようなアプローチで制作を続けています。 もうひとつ有名な彼の作品として、『神の愛のために(For The Love Of God)』(2007) があります。これは18世紀の頭がい骨をかたどったプラチナに、8601個のダイヤモンドを敷き詰めた作品で、「ダイヤモンドの配置は倫理的な原則に基づいている」と作品について語っています。正直言って個人的にはこれはハーストらしくないような。確かにダイヤモンドは鉱物のひとつだし、太古からの石の死骸のようなものと言えばそうなのだけど、これは何故か、ただの虚飾に陥った作品と言うような気がして、例えアステカ族の滅亡みたいなものと結び付けたとしても、今までの作品のような残酷なまでのストレートさに欠けるような気がするのは私だけでしょうか。よってそのストレートさの裏に潜んでいる彼特有のどろどろとした理屈があまり見えてこない気がします。

ところで、因みにですが、このヒカリエ8階の 8/ と言うスペース、なかなか面白い感じでした。『六本木や、銀座や、青山にはできそうもない現象をつくるために生まれたスペース』とのことですが、8つに分かれたスペースはそれぞれにクリエティビティを訪れる人に提供しています。今後がどうなって行くのか、楽しみですね。
Creative Space 8/ (Hachi): http://www.hikarie8.com/about/

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by sanaegogo | 2012-05-25 00:00 | art | Comments(0)
マイケル・ケンナ写真展 「IN FRANCE」


マイケル・ケンナは1953年生まれ。Black/Whiteのしっとりとした風景を描き出す写真家で、その作品は既にいくつかの美術館の収蔵品となっています。その独特の空気感はハッセルブラッドの中盤カメラで夜中や夜明けに10時間にもおよぶ長露光で仄かで淡い光をフィルムに焼き付ける事で作り出されていて、しっとりとしていて静けさの中に独特の時間がしんしんと流れているような世界を描き出しています。美しくこの世のものとは思えないような写真の数々。時間の粒子が降り積もったようなその世界観は長時間露光によって丹念に丁寧に作り出されています。

マイケル・ケンナ写真展 「IN FRANCE」
BLD GALLERY
2012年5月16日(水) - 6月3日(日) 11:00 - 19:00

マイケル・ケンナ自身は精力的に各国で写真展を開催していますが、日本にも何度も来日して写真展や撮影をしています。 日本で撮った写真集もあります。



いつも遅筆なので、今回も会期終了まで残りわずかになってしまいましたが、今回のマイケル・ケンナもまた美しいフランスの風景をたっぷりと見せてくれました。 その写真は、リアリティー溢れる幻想的な世界、しっとりとした空気感、美しい漆黒、それらに満ちていて、Black/White によって、より抽象的などこかの誰も知らない世界に誘われて行くような気持ちになりますが、そこは現実のフランスの風景であり、現実の世界なのです。黒の奥深さと白への粒子の細かいさらさらとした何かを滑らせたような滑らかな諧調が素晴らしいです。 ケンナはそのプリント技術の卓越したところから、フィルムをやっていて自分でも現像・プリントを実践するような男性に好まれる作家だと思っていたのですが、実際に来場していたのは女性が殆どだったのは、単に平日だったからでしょうか。50点あまり並べられたフランスの風景。これらは現実のどこかの風景であると同時に、ケンナの見たケンナの心の中の心象風景でもあります。またその風景は、誰も見ていない時に、誰も気が付かない時に、ケンナの風景写真のような表情を見せ、それをケンナだけは知っているのだ、と言えるのかも知れません。夜中の長時間露光と聞くと、そんな事をふと想像します。露光時間が時には10時間にも及ぶと言う大胆さ、そして1枚1枚丁寧に焼き付けられた作業の緻密さ、写真集を手許に置いて、いつまでもうっとりと眺めていたくなるような、そんなケンナの世界観を堪能してきました。

余談ですが。
ケンナは北海道の雪景色も多く写真に収めていて、その(決して薄っぺらく透明ではない)重厚な質感のある白も私は好きなのですが、彼が北海道に撮影に来た時に自分の恋人と呼んでいたミズナラの樹が屈斜路湖畔にありました。そのミズナラは湖畔から湖に向って斜めに大きく伸びていて、幹は湖を覗き込むように傾いて立っていて、ケンナファンからは「ケンナの木」と呼ばれていました。ケンナは来日して機会あるごとに屈斜路湖畔にその恋人を撮影に行っていたのですが、ある年倒木の危険から伐採をされてしまったそうです。 伐採を決めた管理者はこのミズナラがマイケル・ケンナという著名な写真家の恋人という事も、「ケンナの木」と呼ばれ多くのファンに撮影されていた事も知らなかったそうです。普通の人からはただの倒木としか見えない1本の樹でも、それが自分を待つ愛しい恋人となる。 ケンナはやっぱりそんな風に、普通の人には見えない何かを見ているのかも知れないですね。














ケンナ氏の人柄が滲み出るロングインタビューです。
(2006年)
http://www.cool-ny.com/archives/365

屈斜路湖畔に佇んでいた
ケンナの恋人のミズナラ 「ケンナの木」


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by sanaegogo | 2012-05-24 00:00 | art | Comments(0)
ソウル・サーファー ― soul surfer ―


ソウルサーファーとはこの映画のために作られた造語ではなくて、ハワイ現地の人々が「競争などを好まず、家族と共に平和に暮らし、純粋に海や自然を愛し、純粋にサーフィンを楽しむサーファー」の事をそう(心あるサーファー)と呼んでいたそうです。この映画の中では「特別な才能を持ち、サーフィンの真の喜びを知るサーファー」の事をそう呼んでいて、それが主人公であり、実在の人物プロサーファーでもあるベサニー・ハミルトンのことです。ベサニーはプロサーファーなので、競技に出場しCompetitor と技を競い合いはしますが、競技の相手は「敵」というのではなく自分を高みに押し上げてくれるもの、ましてや海や波は彼女にとって、それを乗りこなし制覇するものではなく、それを知り、感じ、同化し、一体となれる懐のようなもの。そんな風に海を感じることが出来る「特別な才能」がベサニーには生まれながらに宿っています。勿論この映画は単なるハンディキャップを背負いながら再び競技に挑戦していくスポ根ものではなく、ハワイの人々が神とコンタクトする儀礼のような意味合いだったサーフィンの神聖な雰囲気、(ドルフィンスルーのシーンなど、まさに神とのエンカウンターを思い浮かべさせられます)、ベサニーが熱心なクリスチャンである事から苦しい気持ちの救いを神の教えに求める信仰心と真摯で一途に信じる気持ちが散りばめられたものになっています。サーフィンを通して、自分の受けた困難の意味、ひいては生きる意味を知るようになるのです。
今度の6月9日にロードショーが始まるので、ストーリーについてはあまりコメントできない気がしますが、一方で映画中の全てのエピソードを知って観に行ったとしても、シンプルに心動かされると思います。この日、プレミア試写会のチケットをいただいたので楽しみに出かけてきました。ストーリーはネットなどで露出しているし、観に行かないと知る事の出来ない隠しネタもないので、『ネタバレ』的なものは一切ないのですが、逆に言うと結末が判りきっているような内容でも見終わったその後に、みな勇気とか諦めない気持ちとかをベサニーから必ず、きっと、もらう事ができると思います。

― サメに片腕を奪われた13歳の天才サーファー、ベサニー・ハミルトン。
奇跡的に一命をとりとめた彼女は、周囲の予想を裏切り、事故後わずか1ヶ月でサーフィンを再開。プロとしての夢をあきらめかけるも、再びサーフィンの頂点を目指す彼女と、無償の愛で彼女を支える家族の絆の物語は、今を生きる私たちに、あきらめない事の大切さを教えてくれる。全世界に勇気を与えたベサニー・ハミルトンの心揺さぶる感動の実話を完全映画化!
(http://pakila.jp/~portal/contents/special/detail.php?eid=00540&category=movie より引用)

ベサニーの、困難に立ち向かう勇気、自分の身に起きた悲劇を冷静に受容れる聡明さ、自分が出来なくなった物事を理解し出来る事をやっていこうとする決意。その姿を見て大学の卒業礼拝でチャプレンからいただいたある聖書の言葉を思い出しました。(大学はミッション校ですが) 私はクリスチャンではないので、聖書の言葉なんてとんと薀蓄はないのですが、この言葉だけはとても当時のワタシの心に響いていて、今でも折りある毎に友人に贈ったりしています。

― 聖フランシスの祈り
あぁ神よ、変える事の出来るものについて、それを変える勇気をお与え下さい。
変える事の出来ないものについては、それを受け入れる冷静さをお与え下さい。
そして、変える事の出来るものと、変える事の出来ないものとを識別する知恵をお与え下さい。

Soul surfer official site: http://disney-studio.jp/movies/soulsurfer/home.jsp
(ネタバレをひとつ・・・・。 劇中にベン・アイパ 本人が登場しました。)

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by sanaegogo | 2012-05-23 00:00 | movie | Comments(0)
少年と自転車 (LE GAMIN AU VÉLO)


Bunkamuraのル・シネマは、『レディースデイ』はないのだけど、毎週火曜日には料金が¥1,000.-になります。 毎週です。しかもレディースだけではなく、男性諸兄も対象なので、これは女性のみならず皆さんにとってお得で、粋な計らいなのですねー。
そんな訳で、今仕事がとてもSlowなので、火曜日に早引けをして、ル・シネマに『少年と自転車』を観に行って来ました。 前々から行きたいと思っていたものの、うっかりしていたら、この週の金曜日には終了してしまうので、慌てて出かけてきました。

少年と自転車 (LE GAMIN AU VÉLO)
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督 (2011年)

最近立て続けに2時間超えの長い映画をみていたので、上映時間が87分と知り、『短いっ!』と思ったものの、見終わってみると充分にストーリーは伝わっているし、そこでは語られていない部分がかえって『含み』のようになって、シリルのストーリー以外にさまざまな別のストーリーが隠されているようで、それにも少し考えを馳せたりしました。 シリルの母親はどうしたんだろう、生き別れたのか死別したのか、とか、サマンサは何故シリルの自転車を取り返してあげる気持ちになったのだろう、そこまで彼女の心を動かしたものは?とか。すんなりと里親になったり携帯電話を買ってあげたり、何か曰くがあるんだろうか、とか。いくつもの隠れたストーリーがシリルを取り巻くその状況を作っているし、その伏線となるまた別の様々なストーリーが凝縮されている、とも言えます。自分自身の原因で招いてしまった要因などひとつもないはずなのに、抱えきれないほどの悲しみや痛みを被っている11歳のシリルですが、一方では愛情を注ぐものを求めているかのようなサマンサにinvolveされていく事によって、少しずつ救われていきます。 この映画は実は、こんな風にいくつものストーリーが折り重なって出来ていて、同時に子供と言うものは、そんな大人の都合のストーリーに翻弄されてしまう受動的な存在なんだ、と強く思い知らされます。
物語中、シリルはいつも走っています。自転車であったり、駆けていたり、時にはサマンサの車に乗っていたり。 落ち着きがないと言うのではないけれど、動作が素早く鷹揚なところがまるでないのです。『お父さんと暮らしたい。』『お父さんのために盗んできた。』父親に対する言葉はぽつりぽつりと口にしますが、自分の感情は一切と言っていいほど口にしないシリル。でもこんな風に物語中常に疾走しているシリルを見ていると、その事で彼の心の叫びが伝わってくるような気がします。本当は『心温まる映画をみたい。』と思って出かけたのですが、そのような感じの映画でもありませんでした。オトナのエゴやシリルの自分ひとりでは乗り越えられない心の痛みや寂しさ、サマンサの真っ直ぐな母性とも言えるシリルをただ守りたい気持ちなど、曝け出された気持ちがぶつかり合って、物語は進みます。良い側面でも悪い側面でも登場人物はそれぞれの気持ちの根本の部分を曝け出しあって出来事のみが淡々と描かれています。間違った一途さが利用されてシリルは致命的な事件を起こしてしまいますが、色々な感情と真正面から向き合い乗り越えていきます。(ポスターにもなっていますが。) シリルとサマンサが自転車で川沿いの道を疾走していく場面の幸福に満ちたような表情は素晴らしいものがあります。その直後、手痛いしっぺい返しを被り被害者から復習めいた事をされ、更に再びオトナのエゴを見せ付けられるハメに陥るシリルですが、そこからものも言わず立ち去る場面で物語りは唐突に終わります。唐突ではありますが、そこにシリルがもはや昔のシリルのままではなく、サマンサから注がれている愛情によって確実にひとつ大人になった事が示唆されています。
いくつかの背景を持った登場人物達のストーリーがシリルを軸に互いにリンクし絡み合い、その事件を経て、またそれぞれのストーリーに戻って行くような、そんな映画でした。それゆえに抗しがたい状況に翻弄されていくわずか11歳のまだ少年のシリルが描き出せていたと思います。
個人的には、サマンサのあの母性愛がどこからやってくるものなのだろう、と言うのは気になりました。 あのような説明し難く、迷いも無くシリルに向っていくような愛情、寄る辺ない少年に注ぐ母性というものは、世の中のどの女性にも心の中にあるものなのだ、と改めて思ったりしました。(ワタシにとっては未だ、未知の心境です。)(母となる覚悟がある女性は強いのですね。) サマンサが何故あそこまでシリルを懸命に守ろうとしたのか。これはシリルの物語でもあると同時に、あからさまには語られていないサマンサの物語でもあるようにも感じます。

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by sanaegogo | 2012-05-15 00:00 | movie | Comments(0)
よい子のための写真教室 vol.4
もはや写真は、単なる『撮影』とか『画を創る』と言う域は脱していて、写真を素材としてた次のカタチ、写真を扱ってのアクションとか取り組みを表現する、そんな風に変容して行っている過渡期と言えるのだと思います。『何を今更』と思う人もいるかも知れませんが、これは単に、したり顔で、知った風に先端を行っているかのようにカッコつけて言いたい訳ではなくて、また、その変容を意識していない人を批判しているとかではなく、単に今更ながらの自分自身の気づきの点を記しているだけの事です。 やっと前々から取り沙汰されているそんな時流を肌で感じる、まさに「実感」、自分が実体験をする機会を得たのです。とりわけデジタル写真の普及と扱いが簡単になったカメラ機能の向上、それを受けたような形で膨らんでいく写真の「共有」に伴って、飽和状態に陥っているんですよね、きっと。その飽和状態、膠着状態を打破しようとしている人もいれば、ぱっと見の変化はないけど、だからこその存在感や安定感で魅せている人もいて、飽和と言う言い方も出来るし、百花繚乱と言う感じもします。またまたある側面からみると、絵画、静止画、動画、CG、デジタル、フィルム、2次元、3次元、造形、インスタレーション、建築など、ジャンルについても、「マルチ」「クロス」などと言われるように、常に複合的な要素があって、その境界線は曖昧なものになってきています。
と、滔々と既に多く語られている事をなぞってしまいましたが、さっきも述べたように、あくまでもこれは今更ながらの個人の実感で、「知ってるつもり」と「体験した」は全然違いますよねー、と言うハナシです。 (体験しても消化出来ていない状態ではありますが・・・・。)
さて、かなり前段が長くなりましたが、そんな訳で、今回は『ポストモダン』の世界に突入いたしました。 文字どうり『近代以降』、まさに『現代』です。 写真を撮影して目的とするだけでなく、方法や手段として用いよう、と言うような課題が出されました。セットアップして撮ったり、撮った写真を加工したり、はたまた自分で撮った写真を用いなくてもOKとか、『毎日の日常を気ままに撮ってます!』などと言う領域とは趣をまるで異にしているし、その領域に果敢に踏み込んでいく事こそがホンマ先生の、このワークショップの真骨頂なのだと思います。個人的には全く踏み入った事のない領域。 そりゃ写真を加工してカードにして友達に贈った事などはある。セットアップとかはとっても関心があるんだけど、未だにチャレンジした事はない。 そんな状態で自分にしてはとてもハードルの高い課題だったのだけど、結果もそれを表わすように惨憺たるものでした。 まあ、どの位惨憺たるものだったのか、ワタシの番(この日は全ての受講生の中でトップバッターでした。) のやり取りの様子は仔細に書くのは控えますが、タカザワさんに至っては一言も発せずワタシの番は終了。慈悲深い哀れみをこめた視線が目に焼きついてます。
自分なりに振り返ると、まず、良くなかったのは『取り組む姿勢』でしょうか。 時間はたっぷりあったのに、何をしようか考えあぐねていて、課題提出のその日中に仕上げて提出したのです。 他の受講生(班員)達からの『見た目』のウケは悪くなかったし、自分でも、小学生だった頃の”8月31日の奇跡” (夏休み最終日の8月31日のLast Minutesに素晴らしい作文や絵とかが仕上がって窮地を脱した事、ありませんか?) が久々にそして再び、などとちょっぴり高揚もしたんですけど。
『他の人のを観て、どう思いますか?』 ホンマ先生は理解不足の受講生には時々そう言う問いかけをする。で、ワタシもその問いかけを受けて、『短絡的だったと思います。』と言うしかなかったです。 この日の発表に欠落しているもの、それを自分なりに考えると、それは、段階を踏んだ手順とかプロセスみたいなものかなーと思ってます。見た目は良かったのかも知れないですが、そこに至るまでの試行錯誤が全くなく(当たり前です。『閃き』と言う威を借りたただの思い付きなんですから・・・・。)、観る人に画面を覗き込ませるような複雑な情報がまるでなくて見たまんま、判りやすいと言えば体裁がよいけど、観る人に意味を考えさせるような訴えかけがない、と言ったところでしょうか。 うすうすはこうなる事を予感してはいたのですが、やっぱり付け焼刃は通用しないんですね。 ホンマ先生にキレイに見透かされてしまって・・・・。反省してます。
発表の順番も相当不運だったと思ってます。順繰りに廻ってはいるのですが、この日はもう廻ってこないだろうと思っていたトップバッターで。1番目に飛び出したのが、全く課題を出した意図を汲んでいないので、ホンマ先生はコメントに窮しているようでした。 『他の人のを見てから、また戻ってきましょう。』と言って、そのままスルーされるかと思ってたら、本当に戻ってきてくれたので、それはそれで気持ち的に助かりました。 その日の流れを作るはずのトップバッター。 既に流れの出来ているところでの自分の順番だったら、駄目なりにもうちょっと食い込めたのかなー、とも思います。
自戒ばかりのレポートですが、提出した課題4枚です。 ポストモダン ― 加工する ―です。

『写真の視覚的なものにもうひとつ何か加えたら立体的になるのではないか、と考えました。自分の撮った写真の中から4枚選び出して、同じ声を付け加えて再撮影しています。歌手、外国人、架空の人それにおじさんです。同じ「オゥッ」でも何となく聞こえ方が違ってきます。PCの中での加工だけではつまらないので、噴出しをひとつ作って使い回して、あえて工作っぽくしました。』(それには理由があって、プロジェクター投影に堪えられるほどフォトショップを使いこなせてないから。あと、実は結構丁寧に再撮影してて、吹き出しにはスポットを当てて明るく浮き出るようにしてます。とほ。)









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by sanaegogo | 2012-05-12 00:00 | activity | Comments(0)
GW 鎌倉の旅


GWは近江の国から久しぶりに上京してきたIGを伴って、相模の国の日本開闢以来始めての幕府所在地、鎌倉を案内して来ました。ランチに選んだのはそう、ロンディーノです。地元に住んでるとGWみたいな混んでいる時に鎌倉、しかも正攻法で横須賀線で鎌倉駅から攻め込む事など無いんですけど、ワタシも気持ち良い気候の中、昼酒なんてのを嗜みたかったので今日は電車で行く事にしました。ら、物凄い人なんですねー。江ノ電でロンディーノ最寄の稲村ガ崎まで移動したのですが、JR鎌倉駅から江ノ電に乗り換えるのにも長い長い行列が出来ていて、正直びっくりしました。 『行列の出来る駅』すごいな。
いつもは車で行くロンディーノ。 ここは老舗のとっても素敵な気持ちの良いタベルナです。ワタシの10歳離れた兄貴の世代(もっと前からか?)から、ここら辺でデートと言えばロンディーノ。子供の頃、両親が外出して子供達だけで夕食を食べるときなど、兄貴は弟妹達を連れて、ここより少しはファミリー向けの珊瑚礁(勿論『上』のね。)に連れて行ってくれたりしたはしたものの、「ここも美味しいよ。」などと言いつつ、ロンディーノには私達とは決して足を踏み入れようとはしなかった。きっと彼なりに家族と混ぜこぜにしたくない素敵な思い出が沢山あったのでしょう。 その気持ち、解ります。 オトナになってからワタシもデートにちょくちょく使わせていただきましたから。
ロンディーノもそれなりに混んでいて、(でもここはGWにも良く来てたので、だいたい予想はついていたけど)、並んだりしましたが、まだこの時は陽気もよかったので、地元のワタシは列で順番待ちを担当。IGには稲村の方まで散歩でもして来てー、と。楽しんでもらえたようでよかったです。
店に入ると窓側の席に通されLucky! 喉も渇いたので何かまずは呑もうかと、リモンチェロをソーダで割ってもらってごくごくと。 結構これ強いのですが、口当たりが良いのであっという間にグラスが空に。 ここんちは前菜やデザートを頼むとカウンターにあるショーケースを促されて、自分で見ながら選べるんです。 前菜を摘みながらグラスは2杯目に。 ま、ここはビールでしょう。



食事も楽しく済んだ頃から、にわかに空が掻き曇り、見たら土砂降りの雨。ここのところの天気の不安定なのはこの頃から予兆があったのですね。 今出ても濡れるだけだし、外を見たら屋根の無いところで並んで待っているお客さんもいなかったので、デザートをいただく事に。 ワタシが選んだのはこのサバランのようなブランデーがたっぷりと浸してあるケーキ。ティラミスと迷ったのですが、このひたひた感に誘われてしまいました。



ケーキとコーヒーをいただいているうちに雨も止んできたようですね。そろそろ出かけるとしましょうか。



海に雨が降っているのを見られるのも地元ならでわの粋な事だなぁ、とワタシはいつも思います。 雨粒が海の上に降ってきて海と交じり合うのです。 水が水の上に降るって、ちょっと不思議な感じがしませんか。 外に出ると沢山の雨を降らせていた雨雲がぽっかりと裂けて、青空が覗いてました。 まさに『覗いている』って感じです。




観光客ばかりだからとんと寄り付かなくなった鶴岡八幡宮。 ベタな観光でもやっぱりここは見せたいな、と思い、再び江ノ電にのって鎌倉へ。 いざ、鎌倉!です。
私自身、とっても久しぶりに訪れた八幡宮。 行きは小町通りを人ごみでもみくちゃにされながら人並みをかき分けるようにして進み、八幡様前の交差点まで辿り着くのに、店を覗きながらもあったのですが、大分時間がかかりました。 高校生の頃よく立ち寄ったクレープ屋さんのコクリコやピロシキのお店 露西亜亭などは健在。でもこの露西亜亭、記憶に間違いが無ければ、昔はテイクアウト専門ではなかったような。 ボルシチとか食べた記憶があります。八幡様の前は小さいながらもスクランブル交差点になっていて、渋谷とかと比べると小っちゃいので、ゼブラゾーンに無理があるような・・・・。



どんどん進んで、公卿の大銀杏の前に。樹齢は千年以上と伝えられて、源実朝が甥の公卿に暗殺された時、公卿が隠れていた、と伝えられています。だから隠れ銀杏とも言われています。2010年に強風が吹いて、何と!倒れてしまったのですよ! これは、2007年に西湘バイパスが台風で崩れちゃった時くらいの衝撃が走った出来事でした。



根っこの部分が辛うじて残っていて、もともと銀杏があった所の隣くらいに移植されていて、その切り株からも、地面に埋まった大銀杏オリジナルの根っこからも、小さい小枝が真っ直ぐに延びてきていて、倒れはしたものの、その生命はまだ健在と知り、安心しました。 多くの人の馴染み深い大銀杏のもとの姿になるまでは、あと1,000年かかりますが、また元気に緑の葉を付けてくれる事を期待します。



ここまで来たらお参りをせねば、と参道の階段を登り始めたのですが、こんなに急でしたでしょうか。こんなに高かったでしょうか。 記憶が曖昧になってしまうほど、最後にこの参道を登ってから歳月がたってるんでしょうねー。山門からは若宮大路の大鳥居や、由比ガ浜の海が見えます。今年の冬はこの社の裏手にある鎌倉アルプスを縦走してました。あの時の事から考えると、やっぱりこのくらい高い岡の上にあるって、そうか、と納得。 これからのワタシの行く末の安泰をしっかりと祈願して参りました。
本当は竹の庭でお抹茶が飲める報国寺や鎌倉五山のひとつ建長寺なども案内してあげたかったんですが、ここまで時間をたっぷり使ってしまったので、今度は若宮大路をぶらぶらしながら鎌倉駅へ。超ダイジェストな案内振りですが、改めて鎌倉は素敵な町です。 IGは江ノ電の駅や電車の車体や走る感じが、叡山鉄道にそっくりだ、としきりに言ってました。古都繋がり。どこか似たような空気感を持ってるんでしょうね、きっと。



鎌倉から渋谷まで移動。あと1名合流して渋谷で再会の杯を交わす事になってます。 渋谷までは湘南新宿ラインで乗り換え無しで1本。 ホントに昔からは考えられないほど便利になりました。 参道の屋台でおつまみにしようと銀杏を買っちゃいました。 渋谷の待ち合わせ NOS ORGのお兄さんに じろじろ疑わしい目で見られながらも、メニューにない銀杏をしきりに割って食べる私らでしたが、『大丈夫。ピスタチオに見えるから。』って、おい。ピスタチオもメニューに無いから。近江→相模→武蔵と旅したGW、IGちゃん、如何でしたか?
(因みに渋谷のNOSの人に訊いたのですが、やっぱり青山のNOSは建築法に違反してて営業が続けられず、ビルを建て替えてもあそこには戻ってこないんですって。 とってもカッコイイ ビルだったのに、残念です。)

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by sanaegogo | 2012-05-04 00:00 | traveling in Japan | Comments(2)