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Cathedrals of Culture, Wim Wenders



『Cathedrals of Culture』(邦題: もしも建物が話せたら)
2016年3月21日(日) 渋谷アップリンク
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
監督:ヴィム・ヴェンダース、ミハエル・グラウガー、マイケル・マドセン、ロバート・レッドフォード、マルグレート・オリン、カリム・アイノズ
http://www.uplink.co.jp/tatemono/
Facebok Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207446864188204


「これまでにない新感覚のドキュメンタリー映画」と各所で紹介されているこの作品。新感覚、それはとてもよくこの作品を言い表していると思いました。(ドキュメンタリー映画なので、それは自然の流れなのかも知れないのですが)、6編のオムニパス形式の中で、クライマックスを捉える事が難しく、淡々と時間の流れに沿って目の前の映像を受け入れていくといった鑑賞は、まるで美術館に行って、美術作品を観た後のような感覚が残るような気がします。 ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー作品はいくつか観て来ましたが、ドキュメンタリーとして撮影しているのですが、ドラマチックなストーリー性がふんだんに盛り込まれていて、演技を指示したり、台詞を与えている訳ではないのに、シーンの創り方や登場人物の本質の引き出し方が卓越している、と感じられるような作品ばかりです。 今回もその雰囲気は保ちつつも、建築物が主役なので、そこに登場する人物や関係者が更に客観的なものになっていて、当事者めいた登場人物がまるでいないのが、この映画を不思議な雰囲気にしているようです。 言わずもがなですが、建物はたんなるものを内包する箱ではなくて、そこには、機能というものがあるのですが、建物を使う人々もまた、(この「使う」と言うのは、そこで働く人も利用する人も含めた意味での「使う」なのですが。) この機能の一部であるかのように表現されています。 原題は「Cathedrals of Culture」。「もしも建物が話せたら、私たちにどのような言葉を語り掛けるのだろうか」をテーマに制作されているので、邦題は「もしも建物が話せたら」になっていますが、この「Cathedrals of Culture」の意味を考えた時、物語りはますますミステリアスな様相を呈するような気がして、建物の心の声を聴くことで、ヴェンダース監督が表現したかった真の意味は何だろ、と考えてしまいます。それを掘り下げて考えるには、建物達の語る言葉はあまりにも自分の感情を押し殺して控えめなような気がしてしまうのは、建築物という存在があまりにも恒久的すぎるからなのかも知れません。(まるで遥か昔からの村の歴史を語る長老のように。) 観終わってから、「だから何だ?」と感じた人も多いのかも知れませんが、それも理解できる気がします。なぜなら、建物は、自分の意志や意見や、喜びや悲しみ、感じることをあまり語ってはいないからです。ただ淡々と、自分がそこに存在する事を語っています。


監督:ヴィム・ヴェンダース
ベルリン・フィルハーモニー (ドイツ・ベルリン)
ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策を遂行していた安楽死管理局のあった通りに面して建てられています。建てられた当時は辺りは街らしい佇まいはまるでなく、この建物だけがぽつんとそこにあった、と建物は語っています。








監督:ミハエル・グラウガー
ロシア国立図書館 (ロシア・サンクトペテルブルク)
18世紀後期、皇帝エカテリーナ2世によって建てられたロシア最古の公共図書館。そこで働いている女性たちが、館内を血液や体液のように巡って、蔵書や図書カードを細胞の新陳代謝のように整理していた姿が描かれています。








監督:マイケル・マドセン
ハルデン刑務所 (ノルウェー・ハルデン)
ノルウェーにある世界一人道的であると言われる刑務所。独房には最新型テレビと小型冷蔵庫が完備されていて、太陽がよく差し込む大きめの窓もあります。運動場を囲む高い壁には、ノルウェーのグラフィティ・アーティストのドルクが手掛けた壁画が描かれています。「私は刑務所。」と、全てを許し、受容するようなその刑務所は女性として語っていました。





監督:ロバート・レッドフォード
ソーク研究所 (アメリカ・サンディエゴ)
ソーク研究所は、ポリオの予防接種を開発したことで有名なカリフォルニアの研究所。ロバート・レッドフォードは、自身が11歳の時にポリオに罹患したそうです。映画『普通の人々』で見た郊外の美しい自然風景を彷彿とさせて、穏やかで静かなその映像にいつしか心地よい眠りに誘われました。





監督:マルグレート・オリン
オスロ・オペラハウス (ノルウェー・オスロ)
建築を手がけたのは、ノルウェー現代建築の巨匠スノーヘッタ。海の間近に建ち、氷山の造形をしたオペラハウスで、屋上からはオスロフィヨルドや市内を一望することができます。訪問者は誰でも自由に、地上から屋上へと続くゆったりとしたスロープの上を歩くことができ、市民の散歩道としても愛されていて、建物はその愛情を一身に享受し、喜びに満ちていました。








監督:カリム・アイノズ
ポンピドゥー・センター (フランス・パリ)
シャルル・ド・ゴール政権で首相を務めたポンピドゥーが推進した開発計画によって建設されました。彩色されたむき出しのパイプとガラス面で構成された外観は、現代的を通り越して前衛的で、建物自体がひとつの芸術作品のよう。パリが芸術の中心地として返り咲き、フランス政府がコンテンポラリーアートを支援していることを内外に知らしたい、といった威信を背負ったプライドが滲み出ていました。








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by sanaegogo | 2016-03-22 00:00 | movie | Comments(0)
INTERSTELLAR


10代から20代の頃にかけて観たSF映画では、その映画の中の「現在」と言うのはその時自分が在た「現在」とは全く様子が違い、それは少々突飛過ぎるとも思えるような状況設定のものが多かったような気がします。「2001年宇宙の旅」はSF映画の金字塔ですが、今は2001年をゆうに15年も超えているのだけど、その時の未来と今の現在で一致している要素は少ないと思う。想像しうる範囲での時代考証みたいなものはあったのだろうけど、神羅万象の自然(ひいては物理の)摂理との整合性はあまりなかったのではないかと思うのだけど、ここ最近は現実に(ながい時間をかけてですが)明らかにされつつある理論を基に科学的考証を行い、「ゆくゆくはまんざらフィクションではなくなるのかも」という体のものが多いですね。それは偏に、より多くの事が理論的に解明され、かつその一部は実践され、SF映画もそれを踏まえて作られるようになって、昔のように映画の中の世界が現実の現在と点と点との関係ではなくなってきたからなのかも知れません。 空想と想像という言葉に微妙な違いがあるとしたら、そんな感じです。想像というのは、現実に起こる可能性があることを想定できるものに当てはまめる事ができる言葉だからです。
インターステラーの中の現実世界が今の現在を少しだけ飛躍させたような設定で、その状況は今の自分のいる世の中の延長線上、線で繋がっているように感じられ、懐疑的になってしまうような違和感はありません。地球にはまだ土があり、植物があり、異常気象で雨が降らなくなってしまっていますが、人間は出来る限りの知恵で何とかぎりぎりその存在を存続させています。食糧難で国家予算をNASAにかけるのよりも食物供給に回す、という選択もまんざらあり得ない事ではないと思えました。大気汚染や放射能ではなく、食糧難に人類が脅かされているとSF映画の中で語られるというのも今まではあまりなかったのではないでしょうか。宇宙的規模で言えば、重力によって地球に押し付けられるように生きている人類や地球上の生物ですが、生きている限りは葛藤や愛情、正義感、責任感など、様々な感情が渦巻いていて、それは何かの理論では説明できない生身の人間である所以です。インターステラーを観て、科学理論という揺ぎ無い強固なものと、人間の感情というどこかあやふやで論理性に欠けた説明しがたいものとのコントラストを強く感じました。
映画の中に登場する「ワームホール」も物理理論としては、全くのフィクションではなくある程度の市民権を得ている理論のようです。「ワームホール (wormhole) は、時空構造の位相幾何学として考えうる構造の一つで、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道である。アメリカの物理学者ホイーラー博士が命名した。」とWikipediaには記されていますが、これを矛盾なくストーリーの中で展開させる試みは、ゼメキス監督の映画「コンタクト」の基になったカール・セーガン博士の同名の小説で、前述のホイーラー博士の弟子、理論物理学者のキップ・ソーン博士によって検証が行われています。「ソーンらは「通過可能であるワームホール (traversible wormhole)」を物理的に定義し、アインシュタイン方程式の解としてそれが可能かどうかを調べた。そして、「もし負のエネルギーをもつ物質が存在するならば、通過可能なワームホールはアインシュタイン方程式の解として存在しうる」と結論し、さらに、時空間のワープやタイムトラベルをも可能にすることを示した。」とWikipediaには続いています。インターステラーの前提もこのソーン博士と映画「コンタクト」の製作にも参画したプロデューサー リンダ・オブストによって考案されているそうです。私は物理の世界には(恐らく関心はあるのだと思いますが)全く疎く、「アインシュタイン方程式の解」と言われてみても何のことやらさっぱりですが、カール・セーガン博士や果てはアインシュタインまで繋がっていく壮大な構想と考証のもとに作られた映画だと知ると、素人の私にも何となく説得力のある感じがしたのは、映画の中の設定が今の地球とそんなに姿を変えていないところにあるだけでなく、化学的な裏付けが確固たるものだったからだ、というのを伺わせます。そこをただ単に科学的なフィクションのトーンで押し通していくのではなく、さらけ出された人間の感情の機微みたいなものをしっかりと絡めているのが、このストーリーの説得力のあるところの要因なのだと思います。見応えのあるHumanなストーリー、科学理論の歪みの中で擦れ合う人間の生々しい感情、映画のジャンルでカテゴライズするならば、「サイエンス・フィクション(SF)」だけでなく「ドラマ(Drama)」も是非冠したい、そんな風に思いました。


近未来の地球。地球規模での植物の枯死により、雨が降らない異常気象。 食糧難により人類は滅亡の危機にあった。


頻繁に起こる砂嵐に苛まされていた。


人々は無気力に慣れっこになってしまっていて、砂嵐の到来にパニックになる事もなく、足早に家へと避難していく。


凄まじい砂嵐。肺をやられてしまわないように、マスクで顔を覆いながら家路へ急ぐ。


砂嵐が通り過ぎると全ては砂まみれに。


家の外はおろか、家の中までも砂は侵入してくる。 毎日が砂との戦い。


人々は疲れ果てていた。


そんな片田舎で、元宇宙飛行士クーパーは、義父と15歳の息子トム、10歳の娘マーフとともにトウモロコシ農場を営んでいる。NASAに国家予算がさけなくなり、宇宙飛行士はもはや無用の長物だった。


マーフは自分の部屋の本棚から本がひとりでに落ちる現象を幽霊のせいだと信じていたが、ある日クーパーはそれが何者かによる重力波を使ったメッセージではないかと気が付く。


秘密裏に活動していたNASAの、土星近傍のワームホールを通り抜けて、別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクトのパイロットに任命されたクーパー。帰還できたとしてもそれがいつなのか不明なミッションに、マーフは激しく反対する。

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二人は和解の機会を得られないまま、クーパーは出発の日を迎え、クーパーはマーフに「必ず戻ってくる」とだけ言い残し、宇宙船エンデュランスに搭乗し地球を後にする。


土星に接近するまでの間、乗組員は冷凍休眠に入る。


エンデュランスは土星近傍のワームホールに接近する。


エンデュランスはワームホールを通り抜け、ラザロ計画の先駆者の一人ミラー飛行士が待つ水の惑星を目指す。既に地球を出発してから2年が経過していた。
(ワームホールを表現した映像。秀逸です。)


水の惑星での1時間は地球の7年間に相当し、クーパーは地球に残してきた家族を想い、水の惑星への接近を躊躇するが、他の飛行士らに公私の混同をたしなめられ、着陸は決行されることとなる。


水の惑星に降り立ち、惑星の表面を捜索するが、ミラー飛行士は見つからず、彼女の着陸船の残骸だけが見つかる。間もなく山脈と見まごうほどの巨大な波が一行を襲う。


ミラー飛行士がこの惑星に到着したのは数時間前、死んだのは数分前にだった。クーパーらはエンデュランスに帰還するが、そこでは23年あまりが経過していた。エンデュランスでクーパーらの帰りを待っていたロミリーはすでに壮年に差しかかっていた。


残る二つの候補惑星のどちらを探査するかの選択を迫られる乗組員。クーパーとロミリーは生存信号を発信し続けているラザロ計画の先駆者マン博士の惑星を推したが、アメリアはもう一方のエドマンズ飛行士の惑星へ行くことを強く推した。クーパーはアメリアとエドマンズが恋人関係であることを見抜き、彼女こそ決断に私情を挟んでいると批判する。
(アン・ハサウェイ、宇宙服を着てても、ショートカットでも、美しいです。)


マーフは地球出発時点のクーパーと同い年に成長していた。重力の研究に携わっていて、その研究で重力の方程式に解を見つけられれば、巨大なスペースコロニーを宇宙に打ち上げ、地球に残された人間を宇宙に脱出させられると期待されている。


クーパー、アメリア、ロミリーの搭乗するエンデュランスはマン博士の待つ、氷の惑星へ針路を取り、氷の惑星に降り立ち、マン博士の設営したキャンプに到着する。


冷凍睡眠装置の中で地球からの後発隊を待つマン博士。


マン博士は氷の惑星に着陸してすぐ、この惑星では人類は生存できないことを悟っていた。彼は孤独に死にゆく運命だったが、それを受け入れることが出来ず、氷の惑星が人類の新天地であるかのような捏造データを地球に発信していたのだ。

(氷の惑星のシーンはどれも眼を瞠るほど美しく、そして厳しさがありました。これがCGではなく、地球上のリアルな造形であるのは本当に驚きです。撮影はアイスランドのスナイフェルスヨークトル氷河で行われたそうです。)



マン博士はクーパーを惑星表面探査に連れ出し、クーパーを不意討ち。エンデュランスを奪取しようと惑星外へ離脱し地球に帰還しようとする。
(マット・デイモン、久々の(?)悪役。やっぱり、彼は悪役がはまり役なのでは?)


マン博士は操作ミスにより急激な減圧で死亡する。エンデュランスも事故の衝撃で本来の軌道を外れ、回転しながら氷の惑星に落下しはじめる。


甚大な損傷を蒙ったエンデュランス。地球への帰還、マーフとの再会は叶わなくなった。


クーパーは、アメリア一人をエンデュランスに残し、彼女一人にミッションの全てを託す。エドマンズの惑星で搭載してきた人類の受精卵を用いて絶滅を阻止するのだ。


クーパーは自分を乗せた機体をエンデュランスから切り離し、ガルガンチュアへ落下していく。


クーパーは無数の立方体が幾重にも折り重なった不思議な空間テサラクトにたどり着く。クーパーはそこが、マーフの部屋を通じて地球の過去、現在、未来全ての時間と連結している空間であると気付く。


クーパーは土星の軌道上に建造された巨大スペースコロニー内部の病室で目覚める。マーフの功績でスペースコロニーの建造と打ち上げが成功し地球の人類が救済されたのだ。
(これは、映画の中のシーンではなく、Webから拾ったワームホールが地上に出現した時の概念図。映画でこんなコロニーの姿を観たときは訳が解らなかったけど、きちんとした理論に基づいての再現だったようです。)


クーパーはコロニーの病室で老婆になったマーフと彼女の大勢の子や孫たちとともに再会を果たす。マーフとの約束を果たしたクーパー。マーフはクーパーにエドマンズの惑星へ1人で向かったアメリアを捜索しに行くよう見送る。クーパーは再び小型宇宙船に乗ってコロニーを後にする。

画像は必ずしもストリート一致していないと思いますが、お気になさらずに。 突然のネタバレでしたが、ネタがバレても見応えは充分だと思うので、これを機にご覧になってはいかがでしょうか!!


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by sanaegogo | 2015-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
お正月から mayday ― ゼログラビティ 観た
今年2014年の"恒例の元旦映画の会"は、Gravity(邦題:ゼログラビティ)。これはある種の賭けです。お正月にこの映画を観に行くかどうかにはそれなりの葛藤がありました。 ストリーの結末は判らないんだけど、何だかとんだ事になっていそうな状況の映画。そして、1年の計は元旦にあり、という言伝えも捨てて置けないし。 観終わって、希望を見出せるのか、絶望を感じざるを得ないのか。むむむ。
まだまだロードショウは続くので、ネタバレ的なコメントが残せないのが映画ネタの辛いところ。 しかしながら、この映画はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニの二人芝居で、3Dの映像は、その美しさもさることながら、アポロ11号の乗組員のバズ・オルドリンも認めるほど現実の宇宙空間のようで、映像技術の秀逸さも話題になっています。 実際見てみると確かに今まで観たスペースものに比べて、リアルだし、TVニュースで観た事もある身近(と言うと違うのかも知れないけど)な状況を膨らませていると言う感じがして、自分とは全く接点のない映画の中の虚偽の世界と言うよりは、世の中で誰かがこんな目に合う可能性があるのかも、と匂わせる感じがしました。 そう言う意味では、これからは、映画のスペースものというジャンルもアクションものみたいに、現実に起こり得る状況の極端な例っていう捉え方で制作られていくのかも知れませんね。 その先鞭として記憶すべき映画を観たのかも知れません。ファンタジーではない、リアルなスペース映画、それを撮ろうと考えた着想がすごい!と思います。 そう言う意味では、かつての『ライトスタッフ』(1983)とか『カプリコン・1』(1977) とか『アポロ13』(1995)もその範疇なのかも知れないけど、これら国家計画をベースにして国の威信を著わしている作品と一線を隔しているのは何といっても、サンドラ・ブロックの至極個人的な心理描写とそれを仔細に表現した彼女のドラマチックな演技なのだと言えるのではないでしょうか。 広い広い宇宙の中で、国家を背負ってそこにいるのに、主人公ストーン博士の心を占めているのは、あまりにも個人的状況への葛藤や後悔、意欲も動機付けも何もかも個人的なもの。 大きな括りのなかの個人ではなく、個として存在する1人の人間。宇宙の中に自分がいる事の高揚感とか遣り甲斐みたいなものは一切感じられなく、それをこの広大な宇宙の描写の中で、大きな地球との対比の中で見せていくところが印象的です。しかしながら、そこは酸素なし、重力なしの宇宙空間。 地球生還までの壮絶な困難の数々、そして犠牲。 ある者の希望にはある者の犠牲があって成り立っている事もあるんだ、とつくづく思いました。 もっとも犠牲になったものが必ずしも絶望を感じていたかどうかは、ジョージ・クルーニ ファンとしては救いでしたけど。 真の意味での『達観』を知る瞬間だったのでしょう。 (おっと、ネタバレ注意) 絶望のような状況の中でも人は知らず知らずのうちに生へのエネルギーを発し、生存に賭けるあらゆる手段を講じようと動く。 一方では全ての状況を悟り、宇宙規模の視野で先を見通し、瞬時に判断し悟る人間の心理。 そんなものが誰もが暮らす空のその上の大気圏の外で繰り広げられています。 『なんかキラキラしてるー。 人工衛星かなー。』なんて子供達が見上げた空の上で実際起こっているかも知れないことだとしたら・・・・。 そのコントラストを考えると何だかものすごい。 スペースものの新境地を切り開いた記憶すべき映画だと思いました。

ストーリーに関してはあまりコメントしない代わりに、ワタシなりのダイジェストで。



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実は余談があって、茅ヶ崎の田舎では、何故か『字幕+3D+レイトショー』という組み合わせがなく、そんな事も知らず109シネマズに行った私たちは『字幕』は譲れず、結果、映画館3軒目にしてようやっと。 元旦で道が空いてたからよかったけど、元旦早々、結果オーライのギリギリの状況。 お陰で3Dでは観られず。 やっぱ3D観なきゃですよねー? 折角出かけたのに見逃すかっ!?のピンチの中、力を合わせて策を講じてなんとか滑り込みセーフ。 しかし、必見の3Dは諦めるハメに。 字幕を諦めるか、3Dを諦めるかの選択と判断。 そんな、『1年の計は元旦にあり』。

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by sanaegogo | 2014-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
the Future @ Theater Image Forum
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ザ・フューチャー the Future
ミランダ・ジュライ 監督/主演 Miranda July
イメージフォーラム Theater Image Forum
http://www.the-future-film.com/MirandaJuly.html

ちょっと前にネットで見て気になっていたこの映画。それから程なくして失念していたのですが、再びネットで見て、俄然見たくなってしまって、思い立って行ってきてしまった。ワタシにぐさっと刺さってきたのは、この映画のイントロダクションに書かれていた 『同棲4年目を迎えた35歳の女性ソフィーと恋人のジェイソン。ある日、2人は怪我をした小さな猫を見つけ、パウパウと名づけて最期を看取ると決める。そのことをきっかけとして2人の心境や生活はゆるやかに変化していく。お互いやりたいことをやろうと、仕事を辞め、インターネットを解約して、自分の内なる声に耳を傾けて生きようと決意する。』と言うこの導入。私自身、もう35歳はとうに過ぎてしまっているし、多分今の生活でネットを解約するなんて事はありえないし、考えてもいない。でも、妙に心に刺さってきたのは、『お互いやりたいことをやろうと、(―飛ばして―)、自分の内なる声に耳を傾けて生きようと決意する。』の、この部分。 そう、やりたい事をやろう。 自分の心の声に正直に生きよう。 と、ここまで程"自由へのはばたき"的で"何もかも振り捨てて"感はないものの、これから先は自分のやりたい事をやっていこう、と少なからず決心した経緯もあっての事だったと思います。自分自身、まさに本編で言うところの「始まりの途中」に立った、と言う状況です。そんな訳で、この一文で得られる情報しか持たず劇場に向った私でしたが、ストーリーは想像していたものとは若干異なったものでした。 「あり」か「なし」か、と問われれば、「あり」でしょう。全編に流れる緩やかなトーンは好きな感じのストーリーです。ファンタジー的な要素がありつつも、リアリティー溢れる作品です。 リアリティーのあるファンタジーとも言えます。
(ここからは、みてない人にはネタバレかも、です。)
パウパウを引き取るまでの30日間、ソフィーとジェイソンは、猫を飼い始めると色々と束縛が生じるのでそれまでにやりたい事をやろう(済ませておこう)と決め、仕事を放り投げ、ネットを解約し、それぞれの行動を起こそうとします。 そんな中で、2人の些細な事からの諍い、心のすれ違い、近くに居るのにお互いが見えなくなってしまうような孤独感、そんなものが襲ってきたりしますが、すこしずつ解り合って、いたわり合って距離を縮め、今まで知らなかったお互いの部分を発見したり、見直したりもしながら、互いに大切な存在であると再確認し、そうこうしている内にパウパウを引き取る日が訪れ、猫が居ようと居まいと束縛される事はなにもないのだ、束縛とは互いの意識の中にあって、状況の中にあるのではないのだ、と気付かされる・・・・、みたいなストーリーだと思ってましたが、そうではありませんでした。 やりたい事をやる、とか、自分の内なる声に耳を傾けて生きる、と言うのはある意味何かからの自立(自律)だと思うのですが、主人公ソフィーはどうもこの手のメンタリティーと言うか覚悟がなかったようで、何故だか、自由な状況を避けるようにジェイソンではない男性の許へ逃げ込んでしまいます。(ジェイソンのようなある種の柔軟性も持ち合わせていなかったのかも知れません。) 「君は最初の印象と何だか違うね。もっと自立した人のように感じていた。」と言うようなセリフをその男に言われるソフィーですが、そんなソフィーを責めるとかだらしない(←淫らと言う意味ではなく)と呆れる事は出来ない気がします。 それでもそれが等身大の35歳と言うものなのかも知れないし、迷いなのかも知れないし、人はそうそう信念にそって強く生きれるもんでもないような気もします。 一方ジェイソンは、また違う気付きをします。 自分達の人生は残り少ないどころか、まだ始まってもいない。 自分はまだ何かを始めてもいないのだ、と。それが「始まりの途中」です。これ(この感じ方の違い)って単純に男女差とかによるものなのでしょうかね。興味深いところです。 結局は、ソフィーも男の許を出て再びジェイソンの許に立ち寄る事になるのですが、止まった時を自らの意志で動かしたジェイソン、自分の心の声を聞きジェイソンのところへ戻るソフィー。 でも、結局はパウパウを助けられなかったのが、私にとっては結構衝撃でした。(そう来たか!そう来てしまったか!) 物語は時としてパウパウの眼線で語られていて、そして、パウパウは何の心配もない世界に行ってしまい、そこで語りかけるのです。 「もう待たなくてもいいし、もう猫ですらない世界にいます。」 パウパウとの生活は始まりませんでした。 2人が予想していた「束縛」はもうそこにはなくて、あの時日常だったものですら実は危ういもので、いつまでも続く保証なんてなかったと言う事を2人が実感するのはこれからなんでしょう。何もしないでただ流れていくだけの時間なんてものはないのです。放っといても時間が流れてしまうこと自体凄い事なのに、何も無い様で何かが変化しているのに気づけないだけなんです。
観終わって何か明確な答えを出すような映画ではなく、メッセージもちらちらと見え隠れしているだけでずばんと全面に出て来る訳でもなく、おせっかいな激励ちっくなところがない分、観終わってももやもやが続くようなストーリー。私は結構好きです。

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by sanaegogo | 2013-03-03 00:01 | movie | Comments(0)
レ・ミゼラブル (Les Misérables)


明けまして おめでとうございます! 2013

また新しい1年が始まりました。来るべき1年が 良き年となるよう 願っています。
という訳で、今年もまた 地元の友人と恒例になっている 元旦レイトショーに行って参りました。 昨年はガス・ヴァン・サント監督の「永遠の僕たち」でした。生と死を題材とした若者のラブストーリーで、新年早々「生きていく事 死んでいく事」なんてを考えた作品でしたが、今年は年末に封切られた超話題作の「レ・ミゼラブル」を堂々チョイス! 「これからも生きていく事 しかも骨太に」なんてメッセージをもらってきました。

レ・ミゼラブル (Les Misérables)
監督: トム・フーパー (Tom Hooper)
原作: ヴィクトル・ユーゴー (Victor‐Marie Hugo) (1862)

小説の邦題は言わずと知れた『ああ 無情』ですが、今では子供の頃読んだ少年少女名作物語のような原題以外で『ああ 無情』と言うのを見る事はなくなっています。 それもこれもブロードウェイのミュージカルが余りにも有名すぎる影響でしょうね。 邦題『ああ 無情』から連想すると、世の中の無情に嘆くか弱い人々の失望に満ち満ちた世の中の不条理を描いた救いようのない作品のように思えてしまうのですが、ご存知の通り、この物語は明日への希望を胸に抱き、自分を奮い立たせ生き抜いていく登場人物たちが描かれていて、観る人に困難に立ち向かう勇気と生きる希望、そして信念、人は何度でもやり直せる、と言う事を伝えています。しかしながら、劇中、運命の波に呑み込まれて失意のままに散っていく命とのコントラストは強烈です。でもそこには、今のある程度平和な世の中の勝ち組とか負け組みとかの尺度では軽々に測りきれない、時代のうねりの激しさがあるのです。でもでも、今だって決して生き易い世の中ではありません。そんな今日この頃だからこそ、このストーリーを観て、少なからず自分を重ね合わせて、勇気を貰う人も多いのではないでしょうか。
物語は不朽の名作、これまでもミュージカルでは幾度もロングランを記録、となれば、映画としては注目すべきはその配役の豪華さと演技力、そしてミュージカルの舞台俳優に勝るとも劣らない、いえいえ、引けをとらない俳優陣の歌唱力でしょう。それはまあ、どの役も素晴らしかったです。主人公ジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンはブロードウェイ・ミュージカル『ザ・ボーイ・フロム・オズ』でトニー賞 ミュージカル主演男優賞を受賞しているそうですね。 そして、ジャベール警部を演じたラッセル・クロウがまた妙に唄が上手いんです。唄い方が妙にこなれていて、声もいいんです。まるでポップシンガーの唄うロートーンの弾き語りのようで、凄く意外で驚いたんですが、ラッセル・クロウは若かりし頃ロックバンドを組んでいて、シングルをリリースした事もあるそうです。ジャン・バルジャンを執拗に追いたて、彼自身の正義感に迷いと疑問を感じるジャベールの内なる葛藤をその歌唱力で存分にあらわしていました。 何でも今回は、劇中の全ての歌をアフレコではなく実際に歌いながら演技して、それを生で撮影したらしいです。(これももはや、誰もが知るところのエピソードだと思いますが・・・・。) 実はワタクシ、(舞台はOKなのですが)ミュージカル"映画"が苦手で、これまでも話題作を敬遠してきました。唄が終わって唐突に現実の会話や振る舞いに唐突に切り替わるあの瞬間が何とも気恥ずかしい感じがする、と言う人は案外多いのではないでしょうか。でもこの作品は全編セリフが全て歌唱によるものなので、まるで「動く歩道の終点」のような唐突に流れが変化する感じがなくて、すんなり引き込まれる事が出来ました。 (が、これって昨今のミュージカル映画では当たり前なのでしょうか。余り観てないからその辺は詳しくないのですが。)
ワタシは残念ながらミュージカルの舞台は観ていなかったのですが、映画のカメラワークだったからこそ舞台では表現できない世界が描かれていたと思います。 奥行きのある映像、パリの街の俯瞰、配役のアップなどは、舞台では決して観ることの出来ない、首筋の張りや表情は圧巻でした。 特にアン・ハサウェイのくだり。彼女、頑張りましたね。 凄く良かったです。空間の広がりも、寄った画も、より一層の臨場感を創り出していて、あっと言う間の2時間半でした。
原作、その後のミュージカルの評判の大きさに臆する事なく、超大作に真っ向から正攻法で取り組んだ、大作を題材とした作品らしい堂々とした映画だと思います。そこから溢れ出すこれからを生きていく勇気や希望へのメッセージを斜に構える事なしに受け取りつつ、新年にあたって、自分にとって刺激的な原動力になった気がします。

e0168781_259432.jpgDo you hear the people sing?
Singing a song of angry men?
It is the music of a people
Who will not be slaves again!
When the beating of your heart
Echoes the beating of the drums
There is a life about to start
When tomorrow comes!


この唄を聴くと 何だか 自分の中にも力が沸いてくる感じがしますよね。

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by sanaegogo | 2013-01-01 00:00 | movie | Comments(0)
ソウル・サーファー ― soul surfer ―


ソウルサーファーとはこの映画のために作られた造語ではなくて、ハワイ現地の人々が「競争などを好まず、家族と共に平和に暮らし、純粋に海や自然を愛し、純粋にサーフィンを楽しむサーファー」の事をそう(心あるサーファー)と呼んでいたそうです。この映画の中では「特別な才能を持ち、サーフィンの真の喜びを知るサーファー」の事をそう呼んでいて、それが主人公であり、実在の人物プロサーファーでもあるベサニー・ハミルトンのことです。ベサニーはプロサーファーなので、競技に出場しCompetitor と技を競い合いはしますが、競技の相手は「敵」というのではなく自分を高みに押し上げてくれるもの、ましてや海や波は彼女にとって、それを乗りこなし制覇するものではなく、それを知り、感じ、同化し、一体となれる懐のようなもの。そんな風に海を感じることが出来る「特別な才能」がベサニーには生まれながらに宿っています。勿論この映画は単なるハンディキャップを背負いながら再び競技に挑戦していくスポ根ものではなく、ハワイの人々が神とコンタクトする儀礼のような意味合いだったサーフィンの神聖な雰囲気、(ドルフィンスルーのシーンなど、まさに神とのエンカウンターを思い浮かべさせられます)、ベサニーが熱心なクリスチャンである事から苦しい気持ちの救いを神の教えに求める信仰心と真摯で一途に信じる気持ちが散りばめられたものになっています。サーフィンを通して、自分の受けた困難の意味、ひいては生きる意味を知るようになるのです。
今度の6月9日にロードショーが始まるので、ストーリーについてはあまりコメントできない気がしますが、一方で映画中の全てのエピソードを知って観に行ったとしても、シンプルに心動かされると思います。この日、プレミア試写会のチケットをいただいたので楽しみに出かけてきました。ストーリーはネットなどで露出しているし、観に行かないと知る事の出来ない隠しネタもないので、『ネタバレ』的なものは一切ないのですが、逆に言うと結末が判りきっているような内容でも見終わったその後に、みな勇気とか諦めない気持ちとかをベサニーから必ず、きっと、もらう事ができると思います。

― サメに片腕を奪われた13歳の天才サーファー、ベサニー・ハミルトン。
奇跡的に一命をとりとめた彼女は、周囲の予想を裏切り、事故後わずか1ヶ月でサーフィンを再開。プロとしての夢をあきらめかけるも、再びサーフィンの頂点を目指す彼女と、無償の愛で彼女を支える家族の絆の物語は、今を生きる私たちに、あきらめない事の大切さを教えてくれる。全世界に勇気を与えたベサニー・ハミルトンの心揺さぶる感動の実話を完全映画化!
(http://pakila.jp/~portal/contents/special/detail.php?eid=00540&category=movie より引用)

ベサニーの、困難に立ち向かう勇気、自分の身に起きた悲劇を冷静に受容れる聡明さ、自分が出来なくなった物事を理解し出来る事をやっていこうとする決意。その姿を見て大学の卒業礼拝でチャプレンからいただいたある聖書の言葉を思い出しました。(大学はミッション校ですが) 私はクリスチャンではないので、聖書の言葉なんてとんと薀蓄はないのですが、この言葉だけはとても当時のワタシの心に響いていて、今でも折りある毎に友人に贈ったりしています。

― 聖フランシスの祈り
あぁ神よ、変える事の出来るものについて、それを変える勇気をお与え下さい。
変える事の出来ないものについては、それを受け入れる冷静さをお与え下さい。
そして、変える事の出来るものと、変える事の出来ないものとを識別する知恵をお与え下さい。

Soul surfer official site: http://disney-studio.jp/movies/soulsurfer/home.jsp
(ネタバレをひとつ・・・・。 劇中にベン・アイパ 本人が登場しました。)

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by sanaegogo | 2012-05-23 00:00 | movie | Comments(0)
少年と自転車 (LE GAMIN AU VÉLO)


Bunkamuraのル・シネマは、『レディースデイ』はないのだけど、毎週火曜日には料金が¥1,000.-になります。 毎週です。しかもレディースだけではなく、男性諸兄も対象なので、これは女性のみならず皆さんにとってお得で、粋な計らいなのですねー。
そんな訳で、今仕事がとてもSlowなので、火曜日に早引けをして、ル・シネマに『少年と自転車』を観に行って来ました。 前々から行きたいと思っていたものの、うっかりしていたら、この週の金曜日には終了してしまうので、慌てて出かけてきました。

少年と自転車 (LE GAMIN AU VÉLO)
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督 (2011年)

最近立て続けに2時間超えの長い映画をみていたので、上映時間が87分と知り、『短いっ!』と思ったものの、見終わってみると充分にストーリーは伝わっているし、そこでは語られていない部分がかえって『含み』のようになって、シリルのストーリー以外にさまざまな別のストーリーが隠されているようで、それにも少し考えを馳せたりしました。 シリルの母親はどうしたんだろう、生き別れたのか死別したのか、とか、サマンサは何故シリルの自転車を取り返してあげる気持ちになったのだろう、そこまで彼女の心を動かしたものは?とか。すんなりと里親になったり携帯電話を買ってあげたり、何か曰くがあるんだろうか、とか。いくつもの隠れたストーリーがシリルを取り巻くその状況を作っているし、その伏線となるまた別の様々なストーリーが凝縮されている、とも言えます。自分自身の原因で招いてしまった要因などひとつもないはずなのに、抱えきれないほどの悲しみや痛みを被っている11歳のシリルですが、一方では愛情を注ぐものを求めているかのようなサマンサにinvolveされていく事によって、少しずつ救われていきます。 この映画は実は、こんな風にいくつものストーリーが折り重なって出来ていて、同時に子供と言うものは、そんな大人の都合のストーリーに翻弄されてしまう受動的な存在なんだ、と強く思い知らされます。
物語中、シリルはいつも走っています。自転車であったり、駆けていたり、時にはサマンサの車に乗っていたり。 落ち着きがないと言うのではないけれど、動作が素早く鷹揚なところがまるでないのです。『お父さんと暮らしたい。』『お父さんのために盗んできた。』父親に対する言葉はぽつりぽつりと口にしますが、自分の感情は一切と言っていいほど口にしないシリル。でもこんな風に物語中常に疾走しているシリルを見ていると、その事で彼の心の叫びが伝わってくるような気がします。本当は『心温まる映画をみたい。』と思って出かけたのですが、そのような感じの映画でもありませんでした。オトナのエゴやシリルの自分ひとりでは乗り越えられない心の痛みや寂しさ、サマンサの真っ直ぐな母性とも言えるシリルをただ守りたい気持ちなど、曝け出された気持ちがぶつかり合って、物語は進みます。良い側面でも悪い側面でも登場人物はそれぞれの気持ちの根本の部分を曝け出しあって出来事のみが淡々と描かれています。間違った一途さが利用されてシリルは致命的な事件を起こしてしまいますが、色々な感情と真正面から向き合い乗り越えていきます。(ポスターにもなっていますが。) シリルとサマンサが自転車で川沿いの道を疾走していく場面の幸福に満ちたような表情は素晴らしいものがあります。その直後、手痛いしっぺい返しを被り被害者から復習めいた事をされ、更に再びオトナのエゴを見せ付けられるハメに陥るシリルですが、そこからものも言わず立ち去る場面で物語りは唐突に終わります。唐突ではありますが、そこにシリルがもはや昔のシリルのままではなく、サマンサから注がれている愛情によって確実にひとつ大人になった事が示唆されています。
いくつかの背景を持った登場人物達のストーリーがシリルを軸に互いにリンクし絡み合い、その事件を経て、またそれぞれのストーリーに戻って行くような、そんな映画でした。それゆえに抗しがたい状況に翻弄されていくわずか11歳のまだ少年のシリルが描き出せていたと思います。
個人的には、サマンサのあの母性愛がどこからやってくるものなのだろう、と言うのは気になりました。 あのような説明し難く、迷いも無くシリルに向っていくような愛情、寄る辺ない少年に注ぐ母性というものは、世の中のどの女性にも心の中にあるものなのだ、と改めて思ったりしました。(ワタシにとっては未だ、未知の心境です。)(母となる覚悟がある女性は強いのですね。) サマンサが何故あそこまでシリルを懸命に守ろうとしたのか。これはシリルの物語でもあると同時に、あからさまには語られていないサマンサの物語でもあるようにも感じます。

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by sanaegogo | 2012-05-15 00:00 | movie | Comments(0)
Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち


バックデートにはなりますが、『 Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』を見てきました。ピナ・バウシュは2009年に急逝したドイツのヴッパタール舞踊団芸術監督兼振付家にして、天才舞踏家と呼ばれていた、コンテンポラリーダンサーで、亡くなるわずか6日前に癌を宣告されたと言う話を知り、胸が詰まる思いがしました。6日間では自分がこの世から居なくなるための最小限の準備も出来ないだろうし、第一、そんな事があるものなのだろうか、と、彼女の人生のある種ドラマチックで伝説になりそうなエピソードに驚きもしました。ピナ・バウシュについては、あまり詳しくはなかったのですが、バレエと演劇の垣根を取り払い、そのどちらでもない全く新しいジャンルを生み出した偉大なダンサーと聞いています。独自の舞踏芸術を追求し、その独特な世界観は観る者をそこへ引き込み、数々の感動を与え、絶賛を浴びてきました。1999年には来日し、坂本龍一の坂本オペラと言われた「Life」にも出演しているようです。実はこの「Life」、当時仕事の関係で動員されて、まさに東京公演を観に行ったのですが、残念ながらピナ・バウシュの出演に関してはあまり記憶に残っていません。
ワタシがこの映画を観に行ったのはどちらかと言うと、ヴィム・ヴェンダース監督作品、しかも3Dで?と言うところに関心を寄せての事です。『ヴィム・ヴェンダースの映画が好き』と言えるほどではないのですが、『パリ・テキサス』は好きな映画のひとつです。美しいナスターシャ・キンスキー、乾いた砂漠の風景、ライ・クーダー。あのアメリカ的なロードムービーを鮮烈に描いた監督が3Dと言うのは何とも意外ではあったのですが、当のヴィム・ヴェンダースによると、『自分は回帰をする事を好まない。3Dと言う次世代の表現を知ってしまった今となっては、もう以前に戻る事はないだろう』と言ったようなコメントを残しています。それがますます意外でもあり、であるならば、3D表現と『情緒的』なものの融合を是非目指していって欲しいものだ、と思いました。
この作品に関して言えば、ダンスを観るステージの再現、と言う意味においては3Dは有効に使われているようです。当初(ピナの健在の頃)は様々なロケ地に出かけ、そこでピナがダンスを踊ると言う構想で考えられていたようですが、彼女の死後、内容はガラッと方向転換され、ヴッパタールのオペラハウスに観客を入れ、ライブで新たに「カフェ・ミュラー」「春の祭典」「フルムーン」「コンタクトホーフ」を撮影したそうです。ピナの残した団員達は皆それぞれとても個性的で、悪い言い方をすれば粒が揃っておらず、恐らく古典バレエの世界ではあり得ない状態のように思います。その十人十色の団員達を優しく大きく広い見識で包み込んでいたのかと思うと、ピナ・バウシュと言う人物の底知れない優しさ、人類愛みたいなものが感じられます。古くから続く画一的なものを排除したかったのでしょうね。ダンスはそのバラエティーに富んだ弟子たちによって、劇場のみならず、モノレールや工場などの現代建築、森や庭園などの自然の中でソロパフォーマンスが繰り広げられます。それはピナが手塩にかけて育てたダンサーが、彼女の「いのち」を繋いで踊り続けていると言う事を顕しており、邦題にのみ付けられた『踊り続けるいのち』と言うフレーズもそれを表したものなのだと思います。彼らの失ったものの大きさ、ピナの偉大さを改めて知らされた気がします。(劇中の4作品のうち、「春の祭典」では、春と言う麗らかな印象とは裏腹な狂気じみた空気感、「コンタクトホーフ」でも後半にかけての異様な雰囲気が印象的でした。)そして、個人的にはヴィム・ヴェンダースの今後が気になるところです。(彼の作品の世界観と3Dがどう調和されていくのか・・・・。)これは偏に、『パリ・テキサス』の印象があまりにも強いから、によるものだと思います。



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by sanaegogo | 2012-03-16 00:00 | movie | Comments(0)
ニーチェの馬


崩壊は、予期せぬところで突然に始まり、そして、それが徐々に進んで行く事を、喰い止める事は出来ない。まるで裁縫の「返し縫い」のように、同じ動作を繰り返し繰り返し、繰り返しを連続させて少しずつ進行していく。
タル・ベーラ監督はこの作品を最後の作品と公言していて、また、「この作品に込めたメッセージは特にない。ただ情景を描いただけ。」と言うコメントを残している。 観に行った人々は、2時間34分の間ただ淡々と崩壊していく世の中の情景を、見せつけられる。風が吹き荒れ、ならず者に怯え、井戸は枯れ、やがて火種も消え、そして6日目に風は止み、世界は静かに終末を迎える。一体、21世紀のこの現在の世界のどこで、この映像を撮ったのだろう、と思わざるを得ない、シンプル、かつ、その印象とは相反して作りこまれた世界である。最期の6日間、常に強い風が吹いていて、娘は毎日井戸のところまで歩き、その日に使う分だけ水を汲みに行く。水が入った桶を両手に持ち、強い風に吹き曝されながらよろよろと歩くその場面には、こちらもぐっと身に力が入るし、家の中に戻り、扉を閉めて閂をかければ、こちらも安堵でほっと肩の力が抜ける。そう、そんな反復を繰り返しているうちに、いつしか自分もあの荒野の中の1軒屋で風にさらされている感じがしてくる。
タル・ベーラ監督は、ニーチェが馬の首に取り縋った後、2度と正気を取り戻さなかったと言うエピソードに発想を得て、ニーチェと別れた後の馬と御者のその後のエピソードとしてこの作品を撮ったそう。『どんな映画?』ともし尋ねられるとしたら、その表現に関しては、すでにタル・ベーラの手から放たれていて、観た側に委ねられている。その時、自分の中で饒舌に言葉を探そうとしても、その要素の少なさ故に、自分の中にいかに表現力があるのかを自然に試されているような気がしてしまう。彼が表現しているものを言い顕した、さらには、それを超える表現は見つけられない。でもそれは、徒労に終わる事は目に見えている。なぜなら、そこには「情景」のみが描かれ、語られているだけで、拙い感想を求める意図は一切ないと感じたからである。




この馬はタル・ベーラが片田舎で見つけた無骨で頑固な馬で、作中ではこの馬を使う以外には考えられないと感じたそう。馬が荷車を牽くそのシーンが流れていく様子と反復される音響には、思わず見入らざるを得ない。


「ニーチェの馬」 公式サイト: http://bitters.co.jp/uma/
「ニーチェの馬」 作品紹介(2012年2月6日): http://eiga.com/movie/57189/interview/
五十嵐太郎が感嘆(2012年2月20日): http://eiga.com/news/20120220/10/
タル・ベーラ インタビュー(2012年2月6日): http://eiga.com/news/20120206/7/

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by sanaegogo | 2012-02-22 00:00 | movie | Comments(2)
BIUTIFUL (ビューティフル)


昨年の6月に公開された映画だけど、まだやっているところがあったので、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『BIUTIFUL (ビューティフル)』を観て来た。このイニャリトゥ監督は『バベル』『21グラム』などの作品を世に送り出していて、この『ビューティフル』を観て、『21グラム』はまだ観てないのでこれも観てみたい、と思ったし、『バベル』は観たのだけど、淡々と流れていく鬱屈したストーリーは、"そうだった、『バベル』もそうだった"、とその時の暗い雰囲気を彷彿とさせた。この作品も憂鬱で暗く重く、救いがないストーリーだったけど、厳しい現実を懸命に骨太に生きる力強さを感じさせられた。
舞台はバルセロナ、社会の底辺で生きる主人公に宣告される余命2ヶ月。でもこの事で自暴自棄に陥ったり気力を無くし嘆き悲しむ、と言ったような主人公ではない。そんな事をしている猶予や余地がないのだ。現実は待っていてはくれない。それまでの主人公の生活をストーリーから推し量る事は出来ないが、物語が始まった余命宣告の後、とにかく主人公ウスバルは周囲の人々への思いやりと心からの慈愛に満ちている。子供達に、躁鬱病の妻に、不法就労を斡旋している中国人に、不法入国して違法で物を売るアフリカ人に、自分の周囲の人々に主人公は常に気を配るが、それはいつも結果として上手く廻らない。良い方向に転がっていかない。セネガル人の友人を強制送還から救えなかった罪悪感から、ウスバルに対して懐疑的だったその友人の妻と赤ん坊を自宅に住まわせた。友人の妻はいつか心を溶かして行き、ウスバルの子供達も彼女に懐き、この事に関してはこのまま上手く日常になっていくのかも知れない、と観ている者が思い始めた時、裏切りは突然行われ、そしてとても残酷だった。彼女は迷いも無く引き寄せられるようにその裏切り行為に身を委ねていく。それもそれで、彼女につきつけられた現実で、その選択もまた生きていくための手段なのだ。彼女に罪悪感はない。あのシーンは、ラストの方だったんだけど、本当に静かな衝撃と戦慄が走った。「これでもか、これでもか」的な不幸せの連鎖。別の言い方をすれば、「不仕合わせ」とも言えるが、ホントに何もかも裏目に出るのだ。(上手く噛み合わない・・・・。)
「清貧」と言う言葉があるが、ウスバルには清らかでいられる余裕もない。残していく子供達に少しでも何かを残していかなければならないと懸命なのだ。その重たい現実。「死にたくない。子供達を残していけない。」と苦悩するウスバル。「自分だけで子供を育てていると思っているの? 万物によって育てられているのよ。」と言う言葉に、「万物は家賃を払わない。」と。何所までも現実的で地を這うようで、胸が苦しくなる感じだ。
ウスバルがこうして自分の末路と子供達の行く末を相談していた女性は、スピリチュアルな能力があり、ウスバルの中のその能力を見出した人物。ウスバルは死者の声を聞くような仕事も時に請け負ったりしている。ストーリー中、ウスバルは何度も死者の姿を見る。それは時には彼自身の心象風景だったり、時には死者自身からのメッセージだったりする。とは言え、スピリチュアルな能力のような非現実的なものが物語の軸に関わっている訳ではなく、あくまでもそこには逃れようのない現実(リアリティー)が横たわっている。けどこの事で、例えば主人公の見る心象風景かと思ってるとそれは現実に起こったことだったり、その反動が強烈だったりした。中国人の遺体が何体も波間を漂い、岸に打ち上げられている風景などがそうだ。あれは、ウスバルの心の風景かと思っていた。

ドラッグ、賄賂、同性愛、殺人、過失死、躁鬱病、不貞、非合法、不法入国 、裏切り、邪推、あらゆる負がしんしんと降り積もったような映画だったけど、約2時間半、長いとは思わなかった。(途中でお尻が痛くなったことは事実だが・・・・。) 暗い重い、こちらにも現実を直視する事を突きつけて迫ってくる映画だったし、感じた事も言葉にして言い表すのが難しい感じではあるが、観に行ってよかった。

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by sanaegogo | 2012-02-01 00:00 | movie | Comments(0)