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We shall meet in the place where there is no darkness. (暗なきところで逢えれば)


「暗なきところ」ってどこだ? その答えは、サブタイトルを見て理解しました。
We shall meet in the place where there is no darkness.
― 暗闇のないところでお逢いしましょう。
米田さんはロンドンでの生活が長いので、もしかしたら、彼女にとってのメインタイトルはこの英語でのセンテンスなのかも知れません。 「暗闇」とは、かつてその場所に横たわっていた「時代の闇」のことで、今はもうそこに闇はないけれど、その場所にはかつては確かに闇があった。その事をしっかりと踏まえ、見つめ直してその場所に向き合う。 そんな制作の姿勢がこの写真展には如実に顕れていて、それが、米田知子さんの確立したスタイルなのです。

米田知子 TOMOKO YONEDA
暗なきところで逢えれば
We shall meet in the place where there is no darkness.
会場: 東京都写真美術観
会期: 2013年7月20日 ( 土 ) ~ 9月23日 ( 月・祝 )
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html
  • Scene
  • Japanese House
  • Between Visible and Invisible 見えるものと見えないもののあいだ
  • Kimusa
  • The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring パラレル・ライフ: ゾルゲを中心とする国際諜報
  • The Island of Sakhalin サハリン島
  • Cumula 積雲
  • Crystal 水晶
  • [映像作品] We sall meet in the place where there is no darkness 暗なきところで逢えれば

展示は全編にわたり殆どの作品が、過去の歴史や記憶へと観る者を誘(いざな)うトーンで構成されています。 写真展なのに、作品は単なる入り口のような役割でさえあります。 どこか文学的で歴史書を紐解いていくような感覚を覚えます。 後ろ向きと言えば後ろ向きなのでしょうが、何気なく存在している日常の風景の中にも歴史(ともすれば暗い歴史)が横たわっていて、それを突きつけられて知ってしまった今となっては、知る前とは同じ感情で作品を観ることは出来ません。 何故その場所の写真を撮影したか、『何かの出来事があった場所』というふわっとした情報しか付加しない方法もあるのだと思いますが、米田さんは敢えて事実関係を明確にタイトルの中で著わしています。 これは事実を直視する姿勢の顕れてあり、写真という記録のツールを使って、時間を遡って史実を記録して提示するその手法は、ある意味、論証する学者の態度のようでもあります。 事実が印象という効果を借りて観る人の記憶の中に深く刻み込まれていくのです。 『写真作品をつくる』という事において、深く考えさせられ、うっすらと衝撃をうけた写真展でした。 米田さんは丹念なリサーチを経て、場所に赴き撮影をします。 それは、何冊も参考文献を読み、事実を調べ書き上げていく史実に基づいた小説を書いていくことに似ているような気がします。 米田さんの写真には漠然としたところがなく、全てが歴(れっき)とした括弧たるものなのです。 なのでとても印象が強い。 なかでも "The Parallel Lives of Others: Encountering with Sorge Spy Ring" は圧巻でした。 戦時中のスパイの諜報活動を調べ、資金や情報の受け渡しの場所を古いカメラを用いて素早く撮影する。 まるで、スパイたちが素早く様々なものを交換し、行きずりのようにその場所を離れたように。 宝塚劇場、小石川植物園、上野動物園、平安神宮と、様々な接触場所を調べ上げ、接触した人物までも記しています。物凄い調査の労力です。そこに撮影されている画像も、ごく小さいものでしたが、どれもこれもとても美しいものでした。 そう、米田さんの写真はあやふやなところがなく、とても美しいのです。 その画面の美しさが、かつてそこにあった「歴史の闇」を際立たせているのかも知れません。前述、「写真は単なる入り口」と言いましたが、その入り口の奥に広がる様々な意味合いを著わすには余りある写真ばかりです。 何とも著わし難い気持ちになった写真展でしたが、自分には対処出来ないような大きな時代のうねりみたいなものを感じ取ってしまったのかも知れません。映像作品もとても印象に残っています。 雪の降り頻るひと気のない木立の中の道に遠くから大きなトレーラーが轟音を上げてやってきて、そして通り過ぎていく。 それはまるで、質の高い文学作品のようでした。

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by sanaegogo | 2013-09-23 00:00 | art | Comments(0)
ANDREAS GURSKY ― アンドレアス・グルスキー展
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既に7月から始まっていたのに、雑事に取り紛れた中でなくてゆっくり観たい!という思いから、ついに満を持して行って来ました! アンドレアス・グルスキー展です。この連休で東京での会期は終了してしまいますが、これから(来年ですが)大阪での開催があります。

ANDREAS GURSKY
アンドレアス・グルスキー展
東京展:2013.07.03-09.16/国立新美術館
大阪展:2014.02.01-05.11/国立国際美術館


東京の展示はグルスキー渾身のコーディネートという事だそうです。設営の際には実際に現場に訪れあれやこれやと自身で色々考えを練りながら並べた、という話を聞いています。大阪では大阪の会場にあった構成をするのだと思うので、東京で観た人も大阪に訪れるとまた違ったグルスキー展を味わえるのかも知れません。(ドイツから持ってきたけど展示していない作品も新美の保管庫に眠っているらしいので、それが登場したりするかも。)
革新的なのは、ついに日本でも、Nationalな美術館で芸術作品として『写真展』が開かれた事だといえるでしょう。『写真』というものがやっと芸術の域に達したものと日本で認識されたひとつの意識の変化のように思います。(海外では既に、ポンピドゥ・センター(パリ)、テート(ロンドン)、ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)をはじめとする主要美術館がグルスキーの作品を収蔵しています。) といっても、グルスキーの写真は、"絵画のような写真"と称されていて、ドイツ絵画の巨匠フリードリヒなどとよく並び称されているようです。 私自身は正直に言うと、このフリードリヒと比較されるあたりの観点はちょっと理解出来ていないのですが、グルスキーは、ロケハンをして大判のカメラで撮影をするだけではなく、物凄く緻密で丁寧な仕事(加工とは言いたくない)を加えていて、実際の視覚では捉えられない全てが均一で等価に広がる圧倒的な視覚世界を、カメラとデジタル技術を用いて、まさに、"描き出して"います。PhotoShopが普及していない頃からコンピューター処理を果敢に用いて、写し撮った情景を作品として再構成してきました。ともすれば撮った写真に後付で手を加える事を揶揄されがちだった写真の世界ですが、コンピューターという道具を使って丁寧な仕事を仕上げるのは、ある意味、マイスターの国ドイツの職人気質の成せる業のような気がします。(そんな制作方法が、師匠のベッヒャーにはあまり気に入られていなかったらしいですが。) しかし、ごくごく初期の頃に撮られたガスレンジの作品がありましたが、ただのガスレンジを写した写真なのですが、その構図、画面構成には唸るものがありました。 ただのガスレンジなのに。 言い添えておくと、いわずもがなですが、彼の行っている写真に手を加えるという手法は、マズいものを修正するものでは決してない、という事です。 マズい写真はどんなに手を加えてもマズいままなのです。 その大元(おおもと)になる写真は、それだけで高い評価を受けていただろう事は容易に解ります。拙い写真に加工修正をする事で逸品になった、という事では決してないのです。さてさて、グルスキー展に話を戻すと、展示は決して制作された時系列になっている訳ではなくて、グルスキー自身の何か自身の中にある系列に沿って並べられています。なので、ありがちな、「初期の頃からの変化と発展がよく解りますね。」というものではなかったのが興味深いところです。 グルスキーについては既に色々なところで語られていて、『等価で仔細に作りこまれた現実にはない視野』みたいなくだりは読み尽くしているだろうので、と思います。(ワタシも以前の記事で書いてます。8月2日 『「グルスキーの写真から見えてくるもの」 って何?』) なので、ここは単純に、実際に足を運んで観に行った立ち位置から、単純かつ素直な感想を。

まず、何といっても、『カミオカンデ』。この展覧会でこの1枚を挙げよ、と言われれば、迷いつつも、迷わずこれ、です。(「迷わず」に迷う。) グルスキーの持ち味の圧倒的スケール感というのが一番ビンビン来る、と思います。 遠く離れると見えるカミオカンデの全貌ですが、撮影時には実は水も張ってなかったし、人もいなかったそうです。それをここまで緻密な作業で再構成したその技術(技量)の高さにも感服。完璧です。近くに寄れば、カミオカンデを構成する輝く球体の中にひとつひとつの映り込みまで再現されています。マクロ(巨大なもの)とミクロ(微視的なもの)の融合をまざまざと見せつけられます。素晴らしい。その色彩もカミオカンデの持つ宇宙のスペクタクルに通じた荘厳さを感じさせます。


もうひとつ、『ライン川Ⅱ』。これはライン川を真っ直ぐに広がる水平線で構成したパースを取り払ったグルスキーらしい作品のひとつですが、実は河畔には沢山の建物が写っていたのですが、それも完璧に取り除かれていて、誰でもアクセスできるライン川なのですが、この風景はグルスキーのこの写真でしか観ることが出来ません。このライン川には、色々な考えどころがあって、とても眼を惹かれました。


そう言う意味では、『パリ、モンパルナス』もまた然り。 これは、何地点かで撮影したものを接合させて再構築したもので、画面の広がりから遠近法は取り払われ、どの地点からも真正面から見据えたような不思議な視覚、視野を感じさせますが、決して不自然だったり、騙されている感じが起こりません。言うなれば、この作品を観て初めて、ヒトの視野の仕組みに気付かされるというか、何か『普通と違う』と感じる人も多いでしょう。そう言う超ニッチで些細な非現実さを不自然なところなしに見せてくれるところに、多くの人は無意識なもやもや感を感じ、より一層その画面に無意識に惹きつけられるのでしょう。グルスキーの作品は、感情というよりは、感覚であったり、もっと言えば生理機能に訴えるところがあると思います。


この事とは違う側面を見せている、観る人に情緒や何かの想いを喚起させるのが、前評判が高く、ワタシも楽しみにしていた『バンコク』のシリーズです。 グルスキーの作品としては情に訴える雰囲気を醸しだしています。バンコクの汚れた川面に描き出される様々な模様は規則的でもあり、不規則でもあります。 川に投げ込まれた様々な廃棄物、投棄物は何かの想いを表しているようでもあり、観る者にある種の感情、切なさのような気持ちを感じさせます。 淡々と観る人もいるでしょうが、そこでの指標は視野のような生理機能ではなくて感情が入り込んで来るような気がします。 個人的には画面そのもの、その美しい構成にかなり惹かれてしまいました。『バンコク』のシリーズ、これが一番好きです。 これが、前述の「「迷わず」に迷う」の理由です。

グルスキーは、自分の作品について、こう観て欲しい、とか、こう感じて欲しい、などというのは無いそうで、どう観るかは観る人に委ねたい、と語っているそうですが、これは自分の仕事とそれにかけて来た労力の確かさについての静かなる自信の顕れだと感じます。そんな作品が65点あまり。ゆっくり目録と首っ引きで堪能して参りました。

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by sanaegogo | 2013-09-08 00:00 | art | Comments(0)
Todd Hidoに出逢う @Post 恵比寿
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『こんな写真に出逢えてよかった。』と思える幸せな瞬間が時々あるけれど、Todd Hidoはまさにそんな気持ちでストレートに胸を打ち抜かれた、そんな感じの出逢いです。 自分が知っている写真家は、世の中で一握りだと自覚しているけど、それならばこの先、こんな出逢いがまだまだ何度も訪れるのかと思うと、期待で胸が膨らみます。
Todd Hidoはアメリカで現代写真家を代表する写真家で、日本での紹介は初めて。派手な露出はなけれどクオリティーの高い優れた国内外の作家の作品にスポットを当て、静かに粛々と紹介しているギャラリーPost(恵比寿limArt)で展示されていて、彼のこれだけまとまった作品が日本で紹介されるのは初の機会だそうで、今回は今年「Nazraeli Press」より出版された作品集『Excerpts from Silver Meadows』より20点が出品されています。

Exhibition [Todd Hido]
会期: 2013年8月13日(火)〜9月1日(日)
会場:POST (limArt co.,ltd.)




写真展は大きくふたつの要素から構成されていて、夜や夕方、曇天のもと撮影されたどこの風景とも知れない片田舎の風景と、薄暗い簡素な室内でこちらに真っ直ぐな視線を遣っている印象的なポートレートから成っています。 風景の写真はあくまでもひと気がなく、どこまでも静かで、音もないというよりは、頭の片隅に静けさがしーーんと音を立てている感じすらします。 夜の静けさの中に佇む家、車の運転でもしているのでしょうか、進む先を描き出している田舎道、その視線の持ち主は紛れもなくトッド・ハイド自身であり、彼の車で寒い夜、車であてもなく空虚なドライブを続けているような、そんな気持ちにさせられます。 それが何処となくロードムービーのように思えてきて、画面は常に静かでありながら、どことなく時間の流れを感じさせます。 トッドの視線に准えてトッドの視る世界の中で旅をしているかのようです。 実際彼は車のウィンドウやフロントガラス越しにシャッターを切ることが多いそうで、その目には見えないガラスの隔たりが、戸外の雨や雪の粒子と合間って風景に微妙な滲みや歪みを与えていて、それが本当に印象的でここだけにしかない世界観をかもし出していました。 『空気感』という言葉がまさに相応しい情景です。 写真に写る風景は画面に閉じ込められ、そこで止まっているのですが、時間の流れまで写し撮っているかのような情景です。
そんな静寂の風景とは対照的に散りばめられていたのが、無名のモデル達を写したポートレートのシリーズです。風景のひと気の無さとは対照的にそのまっすぐにこちらを見据える視線にはいいようもない意志の強い存在感が溢れていて、風景写真と強いコントラストを描き出していますが、そこにもまた静寂が横たわっている事には変わりありません。 物言わぬ無口そうな女性達は、その寡黙さゆえに彼女達の心の中を図り知る事は出来ないような気がして、風景の写真とは趣を異にしていて、観る者の感情移入さえ拒んでいるような気がしました。 まるで傍観者になるしかないなのです。
トッド・ハイドの写真は、Postの雰囲気にもとても良く合っていて、まるでずっとそこにそうやって飾ってあるかのように良く馴染んでいました。 夜に観に行ったのも良かったのかも知れません。 今はアレック・ソスの作品が飾られていると思いますが、部屋の片隅や奥の壁にトッドの写真の面影を感じてしまうかも知れません。
観に行ってよかったです。 Todd Hido 心に深く刻み込まれてしまった感じがします。

Todd Hido Official Site: http://www.toddhido.com/



≪参考≫
http://www.houyhnhnm.jp/culture/news/todd-hido.html
http://antenna7.com/artdesign/2013/07/todd_hido.html
http://openers.jp/culture/tips_art/news_todd_hido_38505.html





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by sanaegogo | 2013-08-27 00:00 | art | Comments(0)
坂田栄一郎 ― 江ノ島 @原美術館
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坂田栄一郎の写真展「江ノ島」の告知のこの写真を観た時に、あー、『そうだよなー』、と改めて、久々に、思い出しました。この湘南の海の黒い砂を。夏と言えばビーチ。 珊瑚礁が砕けて細かくさらさらになって出来た沖縄や海外の南の島の写真が『ビーチ』の必須アイテムのようですが、その写真に写った砂は、灰色や黒で粒子も粗く、火山の国 日本で出来た砂、まさにそんな感じです。石が小さく砕けて出来た成り立ちなので、夏の天日に当たると信じられないような熱を持って、裸足ではとても一箇所には留まっていられません。 『熱ちーーーいぃっ!』と叫びながら波打ち際まで足を冷やしに走るのです。 そもそも、『ビーチ』なんて洒落た言葉はあまり似合わなくて、言うなれば『浜』、です。 砂浜にレジャーシートをコジンマリと敷いて、まるで安全地帯で休息するかのように、その小さいスペースで、人々は思い思いに過します。 日焼け止めを塗ったり、ポテトチップスを食べたり、ビールを呑んだり、日焼け止めを塗り直しを幾度となく繰り返したり。灼熱地獄の中でぽつんと確保したその狭いスペースの中で、色々な営みをします。 坂田さんは、そんなある意味、生活感というか、人間臭さと言うか、洗練されてもいなくて生々しい素の部分を写真に納めています。 それが、この「江ノ島」です。
坂田栄一郎は、雑誌AERAでずっと著名人、有名人、文化人のポートレートを撮影して来た写真家で、そのポートレートの大家みたいな人が、人が全くいない写真を撮り続けていた、と言う事も話題なのでしょうが、それを知らない人が観ても、写真に写る何とも言えないこの生活臭、まぁ、海に遊びに来る事は生活の一部とまではいかないので『生活』という言葉がぴったりしているかどうか、と言う話はありますが、明らかにそこには日常生活を普通におくる普通の人間の痕跡とか存在の気配とか、そんなものが感じられる独特の雰囲気には目を留めてしまうと思います。 (ワタシもその1人) 洗練されてお洒落な"Beach"の雰囲気なんて全然ないのに、何だかとても惹きつけられてしまいました。人はいないのに、明らかにそれは人の痕跡とか気配とか、そこに座っているだろうグループの人たちの人となりまで想像させるのです。 しかもそれが、写真としても超上出来なのです。 夏の熱い熱い砂のちょっとむせ返るような、蒸すような立ち上る空気とか、そこに座っている人がどんな人か、どんな風に海を楽しんで過しているのか、1枚1枚の写真から喚起されるイメージや派生してくる想像の広がりがはんぱない。 とてつもなく想像力を掻き立てさせられます。 これってすごい力ですよね。 バラエティーもまたすごい。 シンプルで凝った(凝りすぎた)ところは全くないのに、その写真のもつ表現の厚みがすごいのです。 ちょっと暑気(あつけ)にやられてしまいました。
坂田栄一郎 ― 江ノ島。 9月もまだやってる観たいですので、まだの方は是非。原美術館は水曜日に夜8時までやってるので、夜に行くのがおススメです。珍しく、撮影OKの展示室がありました。

   



坂田栄一郎 ― 江ノ島
Eiichiro Sakata ― Enoshima
2013年7月13日(土) ― 9月29日(日)
July 13│Sunday│― September 29 │Sunday│, 2013
原美術館






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by sanaegogo | 2013-08-07 00:00 | art | Comments(0)
Francis Alÿs (フランシス・アリス展) ジブラルタル海峡編 at MoT
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フランシス・アリスの第2期 ジブラルタル海峡編は、展開されているのが海辺、ビーチ、青い海なので、第1期のメキシコ編に比べればそのトーンは少し明るく、晴れやかで軽快な感じもするのですが、国境問題、移民の問題、ボートピープルの問題など、扱われている問題は、メキシコ編よりもより一層、複雑で、強固で、膠着していて、根強く、沈殿していて、そして範囲の広い問題のようです。そこで行われたプロジェクトの規模もより一層大きなもので、アリスがたった1人で街中で氷が溶けるまで押し続ける、といったものとは比較にならない程、大勢の人を巻き込んでなされました。


Francis Alÿs フランシス・アリス展
第2期: GIBRALTAR FOCUS ジブラルタル海峡編
2013年6月29日(土) ― 9月8日(日)
Museum of Contemporary Art Tokyo
[Press Release]
http://www.mot-art-museum.jp/alys/


ジブラルタル海峡編は2008年に実行されたアクション『川に着く前に橋を渡るな』をベースに構成されています。 このプロジェクト(アクション)は、ジブラルタル海峡で、ヨーロッパ側とアフリカ側からそれぞれ100名の子供達が列をなして対岸へ向って海の中へと進んで行くとやがて水平線のところで2つの列は出会い、国境を越えて異なるふたつの文化が繋がることを期待しています。とても大雑把に言うと、第1期メキシコ編は『砂嵐』『砂漠』だったのが、第2期では挑むべき(と言うのは大袈裟ですが)は『波』そして舞台は『海』という具合に置き換えられていて、今回マットの上に寝そべって大スクリーンで観た映像は、この『川に着く前に橋を渡るな』でした。打ち寄せる波に向って自分の背丈ほどの深さまでも海を一列に進んでいくこども達。波に呑まれて、ごぼごぼごぼ、ごうごうごうと何とも苦しそうな音を立てて水中で翻弄される様子が淡々と流れます。個人的なことですが、この遊びは子供の頃しょっちゅう海でやってたんですよねー。果敢に波の中に頭から突っ込んで、上も下も判らなくなるほどグルグル巻きにされる。水面かと思ってもがいて進んでったら海の底の砂にじゃりっと当たった、なーんて事はよくありました。 結構これが快感なんです。波の中で揉みくちゃにされるこども達の映像を見て、そんな事を思い出していましたが、あの頃、自分ではこのまま水平線の方まで行けるなんて思ってもいなかったけど、アリスのプロジェクトに駆り出されたこども達はこの行為を一体どんな風に考えていたのかな、と思います。ちょっと風変わりなおじさんがやって来て変な事を言うけど、何だか楽しい、ってな感じでしょうか。 こども達にとってはきっと、単なる遊びの延長なんでしょうね。出会うはずもない(出会う所まで行き着けるはずもない)2つの列ですが、それに准えた和解する事が難しい2つの岸辺の対立は、せめてこどもの無邪気な遊びとして置き換える事によって、その実現困難な現実を結論や結果を求めない、飽くことのないこどもの遊びのように、不可能とも可能とも結論付ける事なく、曖昧さを残しつつ保留しとく、という意図があるようです。
このアクションに先立って、2006年にハバナ⇔キーウェストのアメリカとキューバの国境で行われたボートで浮島を作ってふたつの国を繋ぐというプロジェクトが行われたのですが、この映像ではキューバの猟師やキーウェストの富裕層のボートオーナーを説得して奔走するコーディネーターやプロジェクトマネージャーの苦労っぽいものが垣間見られて、ジブラルタル海峡のそれとは対照的に大変そうでした。 オトナは面白がったりしないし、(とりわけ、キューバ側の猟師たちは!)、その意味や結論を求めたりするので、アーティストの持つ象徴的な意味付けを先入観なしに受け容れたりはしないのでしょう。 そんな事もあり、アリスは自分の作品にこどもの遊び的な要素を取り入れたりしていて、作品の中にもこどもが遊んでいる場面が多く登場するようです。この映像ではただただ、キューバ側とキーウェスト側の動員された人々の社会的格差みたいなものがひと目で見て取ることが出来て、それはそれで、アリスの描き出したい社会の矛盾みたいなものをコントラスト強く描き出していたのかも知れません。



・・・・と、まぁ、こんな風に後から色々と考えを巡らせれば、ある程度深いところまで見えてくるような気がする訳ですが、単純に私が今回一番眼を惹かれたのは、何と言っても、このアクションのアイディアスケッチである数々のペイント作品の優しい色あいの美しさでした。色彩や画の構成の素晴らしさのような視覚的なものは、理屈抜きに感覚を刺激されるものです。 言い換えれば、その表面的な一義的な画面の美しさの奥に潜む意味をもう少し深く考えていくところに、フランシス・アリスの作品の面白さや巧みさがあるのだと思いますが、前回も述べたように、その奥底にある深いところまで到達しなくても、観る人を受け容れてくれる寛容さみたいなものが彼の作品にはあると思うのです。 なので、これらのペイントやドローイングの小作品の羅列は、アリスが私たちに与えてくれた開け放たれた窓のようなものでもあるのです。ペールブルーとサンドベージュ、グレージュ、淡いブラウンなど、海峡を渡る様々な人々を描いたそのドローイングは、どこか寓話的な雰囲気もあり、それが社会に横たわる矛盾を考えさせる窓としては充分すぎるほど魅了されるものなのは、如何にもアーティストらしいアプローチなのだと思います。かなり引き込まれてしまいました。 あまりにもメッセージ性の強いものは、少々苦手なワタシなのですが、こんな風にさり気なくメッセージを送られるのは心地よいですね。 サブリミナルのように無意識の中に残る気がします。ジブラルタルの海の色が、ホワイトノイズのような波の音が、ペイントの淡い水色が、挿し色の優しいブラウンが、そんな色彩がしばらく頭から離れない、やがて無意識の中に浸透していく。そんなジブラルタル編だったと思います。





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by sanaegogo | 2013-07-14 00:00 | art | Comments(2)
Flowers, first half of the 2013
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最近このブログも自分で撮った写真をアップする事も少なくなってしまい、それはそれで淋しくなってしまった感じもするので、今日は2013年上半期のFlowersを。 と言っても、自分自身の生活パターンとして、最近デジカメやミラーレスを日常的に持ち歩く事がトンとなくなってしまいました。 日々のスナップの主役はこのところ もっぱらiPhon。 それも所謂カメラアプリというのを面白がって使っています。 スマートフォンに入っているから『アプリ』という括りですが、これがなかなか侮れないと思っています。 もはやこれは『カメラ』と言っても過言ではないでしょう。カメラというメディア自体、フィルムカメラ全般、ガンレフ、ミラーレス、コンデジ、トイカメラ、と、とっても多様化し、フォーマットも様々になっているので、今のライフスタイルを鑑みて、勇気を持ってこれも『カメラ』である、と言える時期に入ってきてると思ったりしてます。 まぁ、カメラ自体の再現力は全然劣るし、エフェクトが手軽にかけられるので撮影技能という点では発言力は弱いのですが、被写体だとか、画の切り取り方で充分個々の表現力は現せる余地はあると思うし、それをもって堂々と『作品です。』と言えるような市民権を得るのはそう遠い日ではないような気がします。(って、もう始まってる?) そりゃ、大伸ばしの展示作品とかには確かに向いていないのですが、解像度とかで勝負していない場合とかあるし、何より一応、解像度は低い(低いのは当たり前ですが)ながらも、サイズは2,000ピクセルを有に越えてるし、それよりも何よりも、今のトレンドというか、ムーヴメントは大きく伸ばした展示よりもフォトブックとか写真集の方が主流になってきている気がする。(と、グルスキー展を楽しみにしている私が言ってしまいますが・・・・。) それに、基本短焦点なので、なかなかこれが撮ってて楽しいし、『あぁ、これでズームが出来たら・・・・』と、頭の中で思い描いていたイメージを諦める事もしばしばですが、その心地よいストレスが快感だったりする時もあります。 巨大でピントが隅々までバッチリのグルスキーもありだし、Zineで綴じた(閉じた)世界を表現するのもありだし、ホントにたかがアプリと侮ってはいけない、と思うようになりました。 (そしていつも必ず身近にある。) 何が正解で何が不正解と言うのではなく、見た人に何か一石を投じられるようなものがあれば良いのです。 誰か早く、アートな作品としてその地位を確立するようなやつをばーんっと発表しないかな。 (と言っても、今度の旅行にはガンレフ持参で行きますけど。 それが何か?) それはそれ、これはこれ、なのです。




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by sanaegogo | 2013-07-06 00:00 | art | Comments(0)
梅佳代展 ―UMEKAYO―
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梅雨の中休みどころか、気も休まらないほど気温が上がって暑かった土曜日。初台のオペラシティーに『梅佳代展』を観に行って来ました。

UMEKAYO
梅佳代展
2013.4.13 SAT ~ 6.23 SUN
東京オペラシティ アートギャラリー
http://www.operacity.jp/ag/exh151/


Kayo Ume : UMEKAYO TOKYO OPERA CITY ART GALLERY
SATURDAY, 13 APRIL ― SUNDAY, 23 JUNE, 2013


梅佳代を写真展で観たのは、2010年に参道ヒルズ スペースオーで「ウメップ:シャッターチャンス祭り」以来でしょうか。『以来』と言っても、その後の本格的な個展が特に開催されていると言う事でもなく、そして美術館での始めての個展が今回の『梅佳代展』であるらしいです。会場に到着すると、休みの日だと言う事もあり、ロビーは笑顔を浮かべた人たちで溢れていました。こんな風に観る人を心底楽しい気持ちにさせてくれるのは、まさに梅佳代効果と言えるのではないでしょうか。
梅佳代についてよく言われているのは、というよりも、言わずもがななのは、その卓越したスナップショットの力量です。コミカルマックスの瞬間を狙い定めて切り取る動物的反射神経、その前に、その瞬間がコンマ数秒後に訪れる事を察知する動物的カンと予知能力とさえも表現できるような天性の嗅覚、そして、画郭に的確にドラマチックに描写出来る撮影技能。本能と運動能力を駆使して躍動的に撮影をするそのスタイルは、ここで語らずとも既に万人の知るところだと思います。一方で、正面から表情を捉えた時の被写体が見せるカメラ目線でありながら、撮影されている事をまるで意識していないような明るくあけっぴろげな表情を引き出す場の空気の作り方。カメラを通してのコミュニケーション能力も高く評価されているところです。
ポートレイトの名手と言うと、よく、『空気のような存在になって』とか『周囲の場に溶け込んでカメラを意識させない』とか言われます。ブレッソンとかアーウィットのポートレイトがそうだと思うのですが、私は個人的に、これらのポートレイトと梅佳代のものは、成り立ちも違うし、一線を隔したものだと感じられます。梅佳代は、撮影者として空気のように存在感を消してそこにカメラの存在を感じさせずに自然な表情を引き出しているのとはちっと違う。そんな風に思います。 梅佳代の被写体の前には常に梅佳代が梅佳代として存在していて、その梅佳代はカメラを持って構えているのです。存在を消すどころか、その写真からは常に梅佳代の存在感が溢れ出ています。 撮られている事を承知で、そこに写しだされた人々はなおも屈託のない明け透けな表情をさらしてくるのです。これこそ、天性の力量としか言いようがないでしょう。逆に言えば、梅佳代あってのあの光景などだと思うのですが、これはホントにスゴイ。そんなシーンが炸裂していたのが、そう、あの『男子』です。 ホント、馬鹿です、小学生男子は。 無邪気でお調子者でお馬鹿さんで、そして、異性のオトナからみると『オトコの子ってほんと幼くって可愛いなぁ』と。 梅佳代に見て欲しくて、喜んで欲しくて、そして、ちょっぴり誉めてもらいたくて、撮ってもらいたくて、あらゆる手立てを使ってアピールしてくるあの乱痴気騒ぎを余すところなく梅佳代のカメラは拾っていきます。 ちょっと恥じらいがありつつも『女子中学生』にしても然り。 そして、さらに穏やかな空気に包まれつつも、『能登』や『じいちゃんさま』にも、写ってはいなくても、撮り手として、写真の中に梅佳代は存在しているのです。なんて素晴らしい。新しい境地を開いたという『能登』のシリーズもとてもよかったです。相手の懐に飛び込み、同時に相手を自分の懐へ引き込む。惹かれ合ったお互いが作り出す、参加型ポートレイト、相互作用、そんなものを、そらの写真の中の人たちが織り成す表情が物語っているようです。

© KAYO UME / 2013 Tokyo Opera City Art Gallery


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by sanaegogo | 2013-06-15 00:00 | art | Comments(0)
HARA MUSEUM ARC <ハラ ミュージアム アーク>
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ここ1、2年の話ですが、地方都市の美術館に足を運ぶのにハマッています。恐らくその先駆けとなったのは、2012年の金沢21世紀美術館でしょうか。2009年、2010年、2011年と長年お世話になった勤務先の会社から退職してもなお、大きなやり甲斐のある仕事に参画させてもらって、特に2011年の秋に終了した世界建築家協会の世界大会の仕事は、在職中から関心があって、辞める時に『これに関われない事だけが残念だ』と思った案件だったので、それが終了してこれからの事を考えた時、自分はどうしたくてあの社での会社員を辞めたのか、どうなりたいと考えてたのか、をもう一度見つめ直す意味でも、その原点とも言えるべき金沢21世紀美術館に足を運んでじっくり考えてみよう、と思ったのがその始まりかも知れないですね。 2012年はあまり積極的には希望しないまま惰性のようにその年の最大級の仕事に参画するも、『やっぱりこれではない。』と。その夏に強行軍で行った越後妻有トリエンナーレ、契約終了後に訪れた直島・豊島・犬島。この時には既に完全にハマッていたような気がします。今年の4月に仙台メディアテークに行き、そしてこの度は、(前置きが長くなりましたが)、群馬県伊香保にある ハラ ミュージアム アーク(HARA MUSEUM ARC) に行って来ました。ここは、『行ってみたい!』と言う希望というよりは、ソフィ・カルの『限局性激痛』の鑑賞ツアーで原美術館がバスを出している事を知り、隣にある伊香保グリーンパークにも立ち寄れるというので、ピクニック気分でいそいそと行って来ました。
ハラ ミュージアム アークは1988年に原美術館の別館として建てられた磯崎新の設計による個性的な建築です。東京ではコンテンポラリーをコレクションの主とする原美術館ですが、2008年にはアークに和風の特別展示室「觀海庵」を増築し東洋の古美術もコレクションしていて、それは「原六郎コレクション」と呼ばれているそうです。この期間はこの觀海庵で特別に現代美術の展示も行っていて、東洋建築の粋を集めたような書院造の空間で現代美術だけの展示が行われていた特別な期間だったのですが、私たちは伊香保グリーンパークに牧用犬が羊を自在にまとめて操るSheep Dog Showを観に行ってしまい、残念ながらこのツアーまで参加する事は出来ませんでした。(時間が足りないっ!)

古/今 書院でみる現代美術 原美術館コレクション展
2013年5月31日(金) ― 6月26日(水)
特別展示室 觀海庵

もしこっちに行ってたら、奈良美智、名和晃平、アニッシュ・カープア、杉元博司、ロスコ、青木野枝など(抜粋)がみられたそうで、それもみてみたかったなー、とは思いましたが、結構時間がタイトではありました。
ハラ ミュージアム アークは、公共の建造物としては珍しい木造で造られていて、外観は漆黒の重厚な輝きを携えていて、開放的な緑の広々とした空間にその建物は一際映えています。ギャラリーA・B・Cが放射状に並んでいて、広々とした庭の対面には品川の原美術館にもあるカフェ・ダールが明るい庭に面して配置されていて、庭園にはいくつかの屋外作品が展示されています。 休日だというのに混み合うこともなく、閑散としすぎることもなく、程よく人々が鑑賞しています。美術館全体がなんとも贅沢な空間になっています。ランチはカフェ・ダールでとりました。よく晴れていてカラッとしたお天気だったこともあり、私はあまりの気持ちの良さにパスタのランチに加えシードルを注文。 ソフィ・カルを観終わった後に庭を眺めながら、スキッとした味わいのシードルと少し柔らかめ(フレンチ風?)のパスタを食べて、暫し寛ぎました。
恒久展示のご紹介を少し。


 ジャン=ミシェル オトニエル
「Kokoro」 2009年

美術館の正面エントランスの前に設置してあります。
大きな赤いハートのオブジェですが、気がつけば、作品名は「Kokoro」(心)。
これ、作家がつけたんでしょうか。 何で日本語なんでしょうね。
英語でHeartは、心臓という意味を持ちますが、日本語でハートというとやはり、「心」の意味になるから、ハートの形のオブジェの顕したいものはやっぱり、「心」だったんでしょうか。 形とその意味と名称はとても奥深い関係を持っています。


 アンディ ウォーホール
「キャンベルズ トマト スープ」 1981年

ウォーホールが顕したかったのは、「今の世の中」。
日常で使われている様々ものも、ただの消費物として見るだけでなく、ちょっと手を加えるとがらりと視点が変わり、作品となり得るという事を示しています。
毎日工場で大量生産される消費物。これこそが現代社会の象徴で、象徴的なものはどんなものでもアートとなり得る。 それが、アンディー・ウォーホールが目指した表現でした。


 オラファー エリアソン
「SUNSPACE FOR SHIBUKAWA」 2009年

この作品は ハラ ミュージアム アークのために作られたもので、赤城山を臨む絶好の位置に配置された虹を作る装置です。太陽光が内部に差し込むとプリズムレンズによって虹が映し出される”空間と光の体験”が出来る作品です。
季節によって、時間によって、天候によって、現れる虹はいつも同じ表情ではありません。人工的に生み出されたものでありながら、大きく言えば自然の摂理によって影響されているこの世の中と連動した現象です。大らかな伊香保の自然を凝縮したような現象を体験できる訳です。

他にも数々ありましたが、印象に残ったもの(と言うか、写真を撮影したもの)をピックアップしました。


9時半に東京を出発し、もうそろそろ帰る時間。 あっと言う間です。今度は自分の愛車で来てもいいなぁ、とちらっと思いましたが、そしたらシードルやワインは呑めないもんね。そう言う意味では、バスツアーはとても有効な手立てです。都市の中の大きな美術館とは違って、美術館自体をひとつの作品と呼べるような空間で過す事は、とても贅沢な事で、まだまだ行きたいところはあります。 (日本全国 行く価値のある美術館11選 ) これから時間をかけてゆっくり回りたいと思ってます。



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by sanaegogo | 2013-06-08 00:01 | art | Comments(0)
紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ @ ハラ ミュージアム アーク
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前回のエントリーで、『当時「限局性激痛」(1999年)を見逃した私は、その頃の自分がソフィ・カルとも原美術館とも全くかけ離れた生活をしていた事を少しばかり後悔したりしました。』と述べましたが、今、ハラ ミュージアム アークでリバイバルしてます。正確に言うと、ミランダ・ジュライの作品『廊下』と一緒に展示されています。活動ジャンルを限定しない、自由な2人の女性現代美術作家のそれぞれの世界観です。

紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ/原美術館コレクション展
3月16日[土]-6月26日[水]
ハラ ミュージアム アーク(群馬県渋川市)
ART iT:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/ZYHoI7slWeQhfRNpCBFg/
Press Release

ソフィ・カルは、奇想天外で奇天烈な行動をし、自分の心の傷を露出する事で作品とし、何所か危うく、何所か身を削っていくようにして作品を生み出しています。物議を醸すような作品を発表して批判の矢面に曝されたこともあるようですが、この「限局性激痛」が原美術館の展示のために制作されたものだったとは知りませんでした。なので、今回のこの展示は"原美術館コレクション展"という風になっています。この作品は、『カウントダウン』と『カウントアップ』の2部構成になっています。『カウントダウン』は人生最悪の日まで、ソフィがこんな日が来るのを知る由もなく過してきた日々を写真や資料で綴っています。ソフィにとってその日は人生最良の日になるはずのもので、この日を待ち焦がれながら、留学先の日本での生活が身に入らず、そわそわと毎日を送っている様が顕されています。そこではフィクションかノンフィクションか判別出来ないような要素も含みつつ時間は進みます。思うにこれは、第2部『カウントアップ』の序章のようなものであり、既に大失恋の傷も癒えてから制作されたものなので、それも無理はないような気もします。ソフィ自身もあの頃の事を思い出しつつ制作したものなので、多少の脚色や後付めいたものがあっても不思議ではないのでしょう。 最愛の恋人との再会が果たせないインドのホテルの1室を再現した形で第1部は終わります。なので、2部構成とは言え、この「限局性激痛」の醍醐味というか、本編は、心の激痛を味わったソフィの心の浄化を淡々と見せている第2部『カウントアップ』にあるような気がします。自分の味わった最悪の出来事を他人に吐露し、引き換えに人々の最悪の日、その体験と感じた事を聞く。そうしていくうちに、第3者の悲惨な話に心を痛め、自分の受けた辛酸などは取るに足らない事だと思うようになり、ソフィの話す自分自身の激痛を著わした刺繍によるテキストの分量が、そのカタルシスの様子を物語っています。また、刺繍されたテキストはだんだんとグレーの地色に近いものになり、やがて地の色と同化して判読できないようにもなります。ソフィはこんな風に、心の痛みの深さ、量的なものと濃度のような質的なものの変化を「刺繍したテキスト」という形で可視化しています。 絶対的な心の痛みを相対的に考える時、どんどんと取るに足らないもののように思えてくる気持ちの変化を可視化しています。これはこの聞き取りを始める前からソフィが期待していたものなのでしょうか。それとも意図せずそんな自分の気持ちの推移を発見したのでしょうか。 何故ソフィは、不幸な体験をした人たちと人生最悪の日を情報交換する事で、自分の傷を癒そうとしたのでしょうか。こんなにも不幸で酷い体験をした自分を曝け出す事で自虐的に何か救いを求めようとしたのでしょうか。 それとも自分よりも更にもっと不幸な人々の存在を知る事で、『自分なんてマシな方だわ。』と言う確信を得たかったのでしょうか。その第1歩の気持ちと言うのはとても関心があるところではあります。 何となくですが、ソフィには、自分よりももっと不幸な人の話を聞いて自分の心の安定を求め、理不尽さを埋めるなどというような俗人的な感情はなく、『感情』というものを題材として扱いながらも、もっと動物的な直感や本能のようなものに突き動かされて動いているような気がします。 決して『補償(compensation)』と言った行為ではないように思えます。
この作品も含め、ソフィ・カルの作品は、心理学を学んだ人は多かれ少なかれ、何らかの関心を覚えるのではないでしょうか。心の「激痛」とその時の気持ちを表現しつつも、どこかそれを客観視していて、まるで激痛を味わっている自分を離れたところから観察しているもう一人のソフィがいるかのようです。この作品も含め、ソフィカルの作品の事を考えるといつも、昔大学の講義で教えられた『離人症』という言葉を思い出します。離人症とは、『自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じている持続的または反復的な体験。』で、あまりにも辛い体験などを気持ち的に受け容れられない時などに、このように心を機能させて心の平和を得て精神衛生を保とうとするメカニズムが働くと言われています。 行動する自我とそれを観察する自我を分離させて、どこかまるで他人事のように感じる事によって、気持ちを薄めるのです。ソフィは感受性の高い女性です。取り分け『辛い事』についての感度はとても鋭い女性のようです。『幸せな時にその気持ちを表現したくて作品を創る事は出来ないけれど、酷い体験をし、辛い、悲しい気持ちになった時にはそれが出来る。』と語っているそうです。自分の中に沸き起こるこの"unhappiness"は何なのか、どこから来て何所へ消えていくのか。感受性の高いソフィカルは、自分の気持ちを直視し、自分を曝け出して剥き出しにしてそれを『検証』し、そして受け止めきれない程の痛みを遣り過すためにもう1人の自分になり、限局的な自分自身を考察する。それがソフィ・カルなのではないでしょうか。『心のメカニズムの芸術的可視化』。ソフィ・カルの作品にはそんなものを感じずにはいられません。

©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

ソフィが100日以上離れていた恋人と再会するはずだったインドのホテルの1室の再現
『そこには行けない』と飛行機代をけちって安上がりにフラレた時の電話が置かれている


©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

グレーの地の色の刺繍がソフィの『限局性激痛』
テキストは短くなり、文字の色は地の色と同化して薄れていく
時間がカウントアップされる毎に癒えていく様子が顕れている


ミランダ・ジュライの『廊下』。これは2008年の横浜トリエンナーレでも出展されていた作品で、ワタシもこの時この狭い通路を歩いて来ました。2008年は仕事を辞めて、それまでの自分が終わり、今のワタシの始まった年でもあるので、これはこれで、全然別の意味で感慨深く、あの日の横浜を、『廊下』を、思い出すのでありました。

©1996-2013 HARA MUSEUM OF CONTEMPORARY ART


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by sanaegogo | 2013-06-08 00:00 | art | Comments(0)
ソフィ カル ― 最後のとき/最初のとき @原美術館
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ソフィ カル ― 最後のとき/最初のとき
Sophie Calle, For the Last and First Time
2013年3月20日- 6月30日
原美術館
Hara Museum of Contemporary Art
Press Release



私がソフィ・カルの事を知った時は既に「限局性激痛」(1999年)はとっくの昔に終了してしまっていて、少しばかり、その頃の自分がソフィ・カルとも原美術館とも全くかけ離れた生活をしていた事を後悔したりしました。なので、今回再びソフィ・カルが開催されると聞き、とても楽しみにしていました。
今回の「最後のとき/最初のとき」は、かつての「盲目の人々」(1986年)の制作の際、視力を失った人々に問いかけた「あなたにとって美しいものは何ですか」という質問と、生まれつき目の見えない男性が答えた「私がこれまでに見た最も美しいもの、それは海です」という言葉から着想を得ています。海を見た事のない人の内部に横たわる海。そしてそれはその人にとって、『もっとも美しいもの』だといいます。「私が見たもっとも美しいもの、それは海です」(「盲目の人々」より) 見ることの出来ない人の見る海。その見えない人の見る海を思い浮かべる私たち。そこに沸き起こる言いようのない切ない感情がまさにソフィ・カルの作品だと言えます。展覧会の導入は、その切なさを喚起させる「盲目の人」という作品が展示されています。これは、その言葉を発した盲人男性のポートレートとその言葉のテキスト、そして杉本博司の海の写真が飾られたもので、1999年の「限局性激痛」でも展示されたものです。その男性の見ている海は永遠に私達には解り得ないものなのですが、「最後のとき」では後天的に盲目になった数人の人々に、最後に見たものの今も残っているイメージを語ってもらい、その告白をテキストにし、その最後のイメージの写真と共に提示しています。「最初のとき」では、海の側で暮らしながら海を見たことのない数人の人々を海辺に伴い、初めて海を見た後の彼/彼女らの表情をクローズアップで撮影したものです。どちらもトルコで制作されたそうです。
「最後のとき」はとても危うく、デリケートなものです。今回の展示では、以前ほどソフィ自身の痛みを曝け出したような要素はありません。『痛み』を共有する切ない同士(同志)としてのアプローチではない訳です。けれど、ともするとストレート過ぎる不躾な質問を後天的盲目の人々に浴びせ、土足でデリケートな部分に踏み込み、鑑賞者に悪戯に同情や哀れみの感情を喚起させようとしていると眉を潜める人もいるのかも知れませんが、ソフィ・カルという人のこれまでの生き方や自分の痛点の曝け出し方を知った時、そこに単純な同情や哀れみ、果ては意地悪な好奇心だけが横たわっている訳ではなくて、身体の機能だけではなく潜在的な感覚として存在する普遍性みたいなものを探り、質問の答えを得て、その感情の沸き上がる源を静かに紐解いて行こうとする彼女の真摯な態度を知る事になる訳です。これは、偏にソフィ・カルだからこそ成し得た行為なのだと思います。そこで私は考えます。『普遍性』って何だろうと。多分、ソフィもそんな風に同じように感じているのではないのでしょうか。これは、『見ることとはどういうことか』を追究し続けたソフィの、現時点での最終章となる作品、だそうです。彼女はそこに何らかの答えを見つけたのでしょうか。
「最初のとき」は、海のある街イスタンブールに居ながらにして、海を見たことのない人達に海を波打ち際へと連れて行き、人生初めての海を視覚から味わってもらった後、満足の行くところでこちらへと振り返るその表情を捉えています。『人生初めて』という言葉が示すとおり、やはり、その生きている年月が長ければ長いほど、感じ入るところは大きいようです。初老の男性が振り返り、やがてじんわりと涙を流しているのが印象的でした。きっと、海を見ながら(『眺める』という漠然とした行為ではなく、彼らにとっては『見る』、『注視する』なのです。)、そこに今まで海を見る事が出来なかったこれまでの人生を見ているのかも知れません。この時、海は『普遍性』の象徴なのだと思いました。「海は今も昔も変わらずにここにあり続けているのに・・・・。」 この作品にはテキストが添えられていなかったので推測に過ぎないのですが、そんな海を自分の人生と対比させるような感情が、視覚から呼び起こされていったのだと思います。『見る』という事は感情のひとつの入り口なのです。
唐突ですが、いくら拙い言葉を重ねても核心に触れる事はないような気がするので、終わりにしますが、ソフィ・カルという人の、斯くも深く、それこそ『普遍的』な何かに淡々と臨んでいる痛々しいまでの純粋さが伝わって来て、激しくかつ静かに心を捉えられました。

関連記事: ART iT
http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/7MLvphyuOE5ifoD0248Q/


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by sanaegogo | 2013-05-05 00:00 | art | Comments(0)