カテゴリ:art( 191 )
LAMA Coffeeで 天使とバンドネオン


今年はどう予測しても『貧乏暇なし』ならぬ、『貧乏にして暇もあり』の1年になりそうな気がするので、十数年(いや、数十年?)ぶりに地元密着型の生活をしてみようかな、と思っていた今日この頃。 松が、松姉の友人が茅ヶ崎で『2人展』をやるのを観に来ると言うので、お誘いいただいて私もちゃっかりと観に行ってみた。 地元にいてもなかなかどこのカフェがギャラリーをしてる、とか、ちょっと居心地の良い寛ぎ方のスペースがある、とかいうのは耳に入って来ない。 東京近郊の地方都市出身の人なら解ると思うけど、どこに住んでいても最寄の地下鉄や電車の駅の駅前エリアに所属している暮らしぶりの東京とは、ちと違うのだ。 なので、他所から来た人の方がそんなネタを持ってきてくれる事も多いのです。 なので、ぼちぼち自分でも開拓して、地元密着で行ってみようかな、と。

この日訪れたのは「LAMA Coffee」。 茅ヶ崎にある鉄砲道という道の西の起点あたりに住んでる私は、その鉄砲道をずどーーーんと辻堂方面まで行って、突き当りをちょいちょいと行ったあたりにそのカフェはあります。 古い一戸建てを改造して1階がカフェ、2階がギャラリーになっていて、そこで開催されてます 「MARUU × Black Coffee展 天使とバンドネオン」 に行って来ました。

松姉のご友人はMARUU さんで、サインペンで温かい色彩のイラストを描いています。 この日は財廊していて、いろいろお話をしてきました。 イラストや漫画やラップペーパーのパターンとかを作品にしているのですが、私が気に入ったのはこれ。


e0168781_1453332.jpg



やっぱ、オオカミでしょう。 相当気に入ってポストカードも購入させていただきました。 毛並みを描くように丁寧にサインペンで色を置いていて、その筆致がオオカミの毛並みをふわっと緻密に描き出しています。 首の周りのオオカミ独特のふくよかな毛並みは橙色、水色、黄緑色に塗られていて、ここがMARUUさんの世界ですね。 色合いがとっても可愛いです。 そして好み。 こんな茶色のセーターにこの色合いの巻物は、きっと私が着ても可愛いに違いない。と思います。 そして 水色の三白眼。 これぞオオカミです。 薔薇の花も可愛い。 ひとつひとつ 丁寧な仕事ですね。




もうひとつは、これ。 ウォッカの中の3人姉妹だそうです。 (姉妹だったかどうかは ちょっと覚えていないんですが・・・。 3人娘だったかな。) この3人をウォッカの中に入れてご機嫌を損ねずにいると美味しいウォッカになるそうです。 でも、この3人は性格がとても悪く、悪態をつくので猫はいつでも イライラとしているそうです。
4畳半ほどの2階のスペースでMARUUさんのイラスト作品と Black Coffeeさんのガラス細工が展示されてました。

展示スペースでおしゃべりの後は 階下のカフェでゆっくりとまったり。 結構いろいろなお客さんがやって来ていたりして、常連さんらしき人もいました。 私は折角なのでお店の冠がついたLAMAブレンドとスコーンを。 ちょっとシナモンが利いていて 外はサクサク、中はほっこりの美味しいスコーンでした。地元のこんなスペースで密やかに展示をするのも楽しいかもしれないですねっ!



LAMAブレンドです





2階への階段と夕暮れのカフェスペース
茅ヶ崎あたりにはありそでなさそな 雰囲気のお店です
右端に見えるテーブルは 実はミシン台で足許には懐かしの鉄の幅広いペダルもありました
ご主人は ちょっと平井堅の優しそうな子で ワタシの難関縦列駐車を見守ってくれました


LAMA Coffee & LAMA Space | http://www.lamacoffee.net/

64791
[PR]
by sanaegogo | 2014-03-08 00:00 | art | Comments(0)
Wolfgang Tillmans "Affinity"
Wolfgang Tillmans
ヴォルフガング・ティルマンス
"Affinity"
2014年1月18日(土) - 3月15日(土)
WAKO WORKS OF ART
http://www.wako-art.jp/top.php





ティルマンスに関しての知識というか、造詣はそんなに深くは無いのですが、私の中でティルマンスといえば、窓辺やキッチンのテーブルに無造作に雑多に置かれた日常使う品々の「何気ない」スティルライフの写真です。 ごちゃっと置かれたテーブルの上の唐突な取り合わせの品々や窓のある小さなスペースの上に置かれた萎びかけた鉢植えなど、映画のストーリーの中のあまりきちんとした生活をしていない人の生活観が滲み出るような写真です。 「何気ない」とよく言われますが、私にとってはそれらのヒトコマは何か妙に「意味ありげ」に写ります。 家に帰ってきて、がしゃんがしゃんと物音を立てつつ帰って来た時の儀式のように基本動作を行って、カバンや上着を無造作にソファの上に放り投げ、がちゃがちゃと冷蔵庫を開けて、扉を閉めもせず牛乳のビン(これは外国サイズの大きいやつ)から直接牛乳をがぶがぶ飲み、そしてまた荒々しく扉のポケットに戻し、ばたんっ、と扉を閉める。 ・・・・ような人が住んでいる家かな。 これはちょっと飛躍し過ぎかも知れませんが、そんなイメージを喚起させてしまうような意味深長な写真です。 そして、幅広い感触のシリーズに取り組んでいるティスマンスの中では、この手の写真が一番好きです。密度の濃いカラーと絶妙の対象物の配置。ティスマンスの赴くところにはいつもこんなに絶妙のシーンが展開されているものなのか、と不思議な感さえするのですが、実は光や影の効果を仔細に取り入れて、言わば入念なセットアップの中で撮られている、という話も聞きます。全くの偶然の産物ではないのですね。


©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



この写真はとても好き。 暗い室内で撮影された1枚ですが、窓の外は夜なんだと思うのです。







あとは(コンコルドシリーズも含めて)空にベクトルが向いた写真も好きです。
ティルマンスが天体少年で、
天体観測が彼の写真人生の始まりだったという話は有名ですが、
今回の展示でも密度の濃いカラーの空の写真がありました。



写真集『Neue Welt』から

©WAKO WORKS OF ART / Wolfgang Tillmans



ティルマンスといえば、前にも述べたとおり、幅広いテーマというか、シリーズというか、で制作をしていますが、どれも本当に持ち味が違います。 多様な表現力でとにかく色々撮る人、というイメージなのですが、どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽいんですよね。 ざっとそのシリーズを挙げてみると・・・・、
● 意味深なムードのスナップ的ポートレート
● 壮大で神々しささえ感じる広い風景
● 日常の窓辺やテーブルの上のスティルライフ
● どきっとするようなヌード
● 宇宙との繋がりを想起させる天文学的イメージ、
● アブストラクトな抽象作品
ざっとこんな感じになるのでしょうか。 今回の『Affinity』でも、これらひと通りのものを観ることができるある意味贅沢な展示でしたが、言い換えれば、この中のどれかひとつのテーマを取り上げるのではなく、全て並べる事が『Affinity』なんでしょうか。 『どれも趣が違うのに、どれもティルマンスっぽい』です。彼は何故この展示のテーマを『Affinity』にしたんでしょうか。 興味が沸いてきました。

ティルマンスは、作品を額装して水平を測ってきちんと並べるのではなく、テープやピンで壁に直貼りする展示もよく行うという事で、今回も自ら何日もかけて自分でキュレートをしたということです。『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』のコーナーでは、フォーマットもさまざま、大小さまざまな作品が壁に直貼りされていて、配置も決して人々の眼線上ではなく、その範囲は屈まなければ観れない足許にまで及んでます。


壁にさまざまなフォーマットの写真が直貼りされています。








足許のこんなところにも 貼ってあります。








この『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』はちょっと面白い写真集で、ティルマンスがここ数年ハマッているというレイヤー(多重構造)での表現がふんだんに用いられています。 今回のインスタレーションでも写真集そのままの構成も観ることができました。FESPA Digital とは、毎年世界各国を巡回している大型プリンターのトレードショウみたいですね。フルーツの鮮やかな色彩と印刷機や様々な機材のメタルでハードな質感とか、それらが幾重にも重なって、雑多で半ばカオスで、とりとめなく直感的で、唐突な感じでもある。 これぞまさにティルマンス。このインスタレーションはかなり必見で、ティルマンスらしさを存分に味わえた気がします。



写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』
カラフルでミクスチャーでレイヤー。 ひとつのページの上で 色々な要素が重なりあっていて その密集感ったら。
技術や商業的場面を題材にしているのも どこかシニカルな逆説的、かつ世代に即している面白さがあります。





観終わって、ティルマンスという世界をつぶさに理解できた訳ではないのですが、より深く知りたくなる気にさせてくれる刺激的なインスタレーションで、直感的で弾けるような感覚と静かに内省をするかのような佇まいが共存しているような表現世界です。


64148
[PR]
by sanaegogo | 2014-02-01 00:00 | art | Comments(0)
ジョセフ・クーデルカ展
e0168781_23494333.jpg


舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
・・・・とは、かの松尾芭蕉の言葉ですが、クーデルカ展で彼の半生を知ることになり、この行(くだり)を思い浮かべたりしました。

ジョセフ・クーデルカ展
Josef Koudelka Retrospective
2013年11月6日【水】→ 2014年1月13日【月・祝】
東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/koudelka2013/
Press Release →web_koudelka_PR.pdf

もっともクーデルカは芭蕉のように自ら好んで旅を栖とする人生に身を投じた訳ではなく、1968年にワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻を撮影し、それが西側に配信された事から、身の安全を確保するために故郷のチェコスロヴァキアを離れます。 これがクーデルカ的放浪の旅の始まりです。 世界的にその名前を知らしめた(と言っても配信された当時は匿名だったようですが。) 写真が、祖国の変革運動とそれを侵攻して鎮圧したワルシャワ条約機構軍との衝突の記録と言ったショッキングな内容だったので、クーデルカも硬派のジャーナリスト魂の権化のような人物(ある意味キャパのような)だと言う印象があったのですが、それはクーデルカの表現世界のほんの一部だったとクーデルカ展を観て実感しました。
もっともこの頃は『芸術写真』というカテゴリーはあまり明確なポジションがなく、マグナムの会員でも、ブレッソン、アーウィット、ルネ・ブリなど、この頃の写真家達は広告も、報道も色々とこなし、それが後々『アートフォト』という流れに乗り、そのように認められていくようになったという理解でしたが、クーデルカについても例外ではなかったのでしょう。 真正面からダイレクトに被写体を捉えた力強いズドーンと打ち抜いたような観る人を圧倒するインパクトがあります。会場内は膨大な点数の作品が展示されていましたが、そんな中、ごく初期の『初期作品 Beginnings 1958-1961』には、自分の想像していたクーデルカの作品とは全く印象を異にしていました。 構図や対称の配置に、まだ完成されていない試み的なコナレテいない感じがありつつも、その場面の選び方や撮影の技術などには後のクーデルカを予見させるような片鱗と萌芽があると言います。 私は単純に(いつもそうですが)、その画面から来る印象や自分の感覚とかで語る事が殆どですが、学生時代に手に入れた中古カメラで撮りためたというその作品群には、ハードで硬質な印象を醸しているクーデルカのモノクロの作品の中では一層初々しく新鮮に感じられました。

展覧会の構成です。
  1. 初期作品 Beginnings 1958-1961
  2. 実験 Experiments 1962-1964
  3. 劇場 Theater 1962-1970
  4. ジプシーズ Gypsies 1962-1970
  5. 侵攻 Invasion 1968
  6. エグザイルズ Exiles 1968-1994
  7. カオス Chaos 1986-2012

など、約280点あまり、しかも大きな作品ばかり、一堂に会した回顧展です。「ジプシーズ」の圧巻のシリーズや「侵攻」の見せる臨場感溢れる迫力の歴史の証言も観応えがあったのですが、私はやっぱり、「初期作品」かなぁ。あとは、「カオス」のパノラマシリーズ。「エグザイルズ」もいくつかよかったかな。展示を見ている時はあまりピンと来なかったのですが、後でマグナムのWebsiteを観ていたら意外にじわじわ来たのが、この展覧会ではどのカテゴリーに入るのかは不明なのですが、多分、「劇場」とか「実験」あたりのエフェクトを加えた作品です。私がもともと写真に求めるのはドキュメンタリーとかルポルタージュ的なものではないようなのですが、結局、自分にどんな写真が響いて来るのか、人によってクーデルカの感じ方は様々なような気がします。
時代のうねりに巻き込まれ、翻弄されながらも、放浪の中でその居場所、居場所での足跡をダイナミックに鮮やかに切り取っていく事で自分の存在を確認してきたようなクーデルカ自身の半生と照らし合わせると、そのスケール感といい、ボリュームといい、観応えのある回顧展でした。






Beginningsから。パノラマ・フォーマットの作品。 このシリーズでパノラマ作品はこれ以外にも何点かあったのですが、どれも良かったです。背景と前景を隔てている画面を横切る水平線(地平線)と上下左右アシンメトリーに配置された被写体がぎこちなくも初々しいさが顕れているような気がして、でも魅力的な写真の数々でした。




Invasionから。 このシリーズは言わずもがなの感がありますが、ある意味においては、生まれながらに授かった類稀なる才能と千載一遇のチャンスとが交わる接点を手に入れられる人は稀で、それを含めて「才能」というのだと思います。




Exilesより。 クーデルカ展のPRによく使われていた作品です。 この黒い犬は、ワタシの中ではとてもクーデルカっぽく、こう言う写真を撮る人なのだ、と思っていました。 黒いシルエットになってしまった犬は、その容貌の詳細もわからず、こちらを振り向いているのですが、眼がどこにあるのかも判りません。 後ろを振り返っているその黒い犬の姿は何かを象徴しているようでもあり、うっすらとした不気味さにちょっと気持ちがざわついたりします。






Chaosから。 このシリーズは、タテやヨコのパノラマフォーマットの作品が並ぶのですが、何処となく荒涼としていて、殺伐としたシーンばかりが続いていきます。パノラマフォーマットならではの視野のひろがりが、人の気配は見ている自分しかいない、みたいな一人ぼっち感というか孤立感みたいなものを観る者に与えていました。


All images © Josef Koudelka / Magnum Photos


63459
[PR]
by sanaegogo | 2014-01-12 00:00 | art | Comments(0)
生誕100年!植田正治のつくりかた
e0168781_0403129.jpg

子狐登場
まるで絵画のような1枚。 これ、『覆い焼き』ですよね。
訳あって、吉田秋生さんという少女マンガ家の描いたある作品のストーリーを思い出させてくれる1枚です。

この写真展を観に行く前日にIZU PHOTOまで足を延ばして、増山たづ子さんの写真展を観に行っていたので、この3連休はとても気持ちが穏かで温かくなるような写真をたくさん観ることができた。 (と言っても、増山たづ子さんの写真には密やかな悲しみを打ち消そうとする静かなる葛藤のようなものもあったのだけど・・・・。) とは、余談になりましたが、東京ステーションギャラリーで『生誕100年!植田正治のつくりかた』を観てきました。

東京ステーションギャラリー
生誕100年!植田正治のつくりかた
     UEDA SHOJI 100th anniversary
2013年10月12日(土)~2014年1月5日(日)
     October 12th , 2013 - January 5th , 2014
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201310_Shoji_Ueda.html

2013年は植田正治の生誕100周年という事で、いろいろなところで関連の写真展をやっていましたね。 結局観に行けたのはこれだけだったのですが、大満足でした。 ベタな表現ですが、植田正治という人がいかに写真を楽しんで撮っていたかがよく伝わってきたし、その写真の多く(というか殆ど全て)は、優しさに溢れ、そのミニマリズムは美しくもあり、観ていると知らず知らず引き込まれていってしまう魅力的なものに写りました。 カラーかモノクロか、とか、その是非を問うつもりはこれまでも毛頭ありませんが、植田正治の極力省略され、デザイン化された作風には、モノクロームのシンプルさがよく合っていると思います。 『汚く矛盾したものから眼を背けて、自分が幸せになれるものだけに目を向けた内向きの写真』という見方もあるのかも知れませんが、それで何がいけない?というきっぱりとしたぶれない植田正治の哲学があるような気がしました。 それどころか、決して逃げていない、挑戦とか、試みとか、そういう攻めの姿勢も貫かれていて、世の中に受け容れられないような突飛で奇抜な題材を使っている訳ではないのに、そう言う『新しさ』ではなく、家族を砂丘に並べて撮影するだけの事で、観る人に今までにない感覚を覚えさせてしまう、そんな親しみやすい『新しさ』が植田正治の写真にはあります。 それは、例えば今の時代にも通用するという斬新さではなく、その当時の斬新さの強度がとても強いと言うか、時代の流れに呼応し順応しているものでもなく、観るものを当時の感覚まで引き戻す力強さというか、吸引力というか、そんなものをもって『今観ても斬新』と思わせる不思議なタイムスリップを感じるような気がします。 子供たちのおかっぱ頭、お母さんの和服姿、男の子達の小さな学生服などが、そんな感覚を引き起こさせるひとつの要因になっているのだと思いますが、ワタシのよく言うところの、『時間軸がぐらぐらする感覚』です。 それだけ撮影された当時の画面の中に引き込まれてしまっているのでしょうね。 これは、上手く言えないのだけど、心地よくもで不思議な感覚で、私はとても好きなのです。 ギャラリーの講評では『一筋縄ではいかないこの写真家』と評していますが、まさに言いえて妙。その通りです。 シンプルでミニマルだけど複雑で多様。 昔なんだけど新しいし、その新しさが古臭くもあり、それがまた斬新。 と、ぐるぐると感覚が掻き混ぜられる気がするんです。解り易いけどその奥は深い。 単純明快だけど知り難い、まさに子供の心のような眼で写し撮られた写真の数々です。 子供達が夜ぐっすりと眠ってみる夢の世界を現しているような印象もありました。
砂丘の写真も多く展示してありましたが、それ以外の植田正治もたっぷりと知る事が出来ました。 特に晩年の昭和のモダニズム風の写真とは表情を異にした妖艶な赤い花の写真などもあり、ちょっと意外な感じもしました。 (優しいお父さんとしての顔以外の植田正治もあったのですね。) 小説家で言えば絶筆にあたる、生前最後のフィルムに撮影されていた数枚の人のいない風景写真で写真展は終わるのですが、これを観る頃には不思議と今までのイメージとは様相を異にした植田正治に出会うに至る訳です。
『前衛的』という言葉すら既にレトロな響きを持ちつつある今日この頃。 鳥取の片田舎で、日本や世界という物理的な広さよりももっと大きな世界観を自分の内面に持ち続けた大らかな作風。 時代に先がけていたその空間表現は『植田調』となり、現代の新しさとは決して混ざり合わない、同化されてしまわない、確固たる個性として、今でも斬新な光を放っていると感じられた訳です。


これを観たら、黒い傘と本を持って、鳥取砂丘へ赴かねばなるまい、と思わせるほどぞくぞくする1枚です。






まさに『砂丘スタジオ』。 お父さんのお遊びに付き合う幸せな家族の姿も存分に見ることができ、幸せな気持ちになれます。




騙し画のような構図。 俄かモデルの子供達もいい味を出しています。 ちょっとグリーンバックの前の撮影のような雰囲気も醸しているのが面白い。




私が初めて植田正治を知ったのはこの1枚。 写美の外壁に大きく飾られてます。 『砂漠に着物? なんで?』 当時、植田正治を知らなかった私の率直な感想。 でも何だか妙に気になって。 あの時からの心のざわつきは、今だから解る。 そう、『なんかいいかも。』って思っていたのです。 巨匠の作品って、その人物に関してはズブの素人にもやっぱり響くものがあるんだ。という証明のようなエピソードと思っています。




この写真、とっても好きなんです。 でも流石にこんな風に遊んでいる子供は都合よくおらず、お菓子の缶をエサになんども土手の上を走らせた、というエピソードを日曜美術館でやってました。

最後に、東京ステーションギャラリー。 東京駅建設当時の赤レンガがむき出しにされている展示室があって、ホワイトキューブが大半を占める日本の美術館にあって、海外の美術館のような雰囲気を漂わせていました。

63335
[PR]
by sanaegogo | 2013-12-23 00:00 | art | Comments(0)
カメラばあちゃんに教えてもらった事






e0168781_23552583.jpg


増山たづ子
すべて写真になる日まで
2013年10月6日(日) – 2014年3月2日(日)
IZU PHOTO MUSEUM
http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/118680489.html
IZU PHOTO MUSEUMで開催している、増山たづ子「すべて写真になる日まで」を観に行って来ました。 私が増山たづ子さんの事を知ったのは、いつの事だったのか、もう思い出せないですが、当時使っていたペンタックスのコンパクトカメラ(フィルム)だけで撮った写真でいつか作品展をやりたい! 『カメラばあちゃんみたいに!』 と言っていたのを覚えています。 とは言っても、彼女がどんな事をしていたのかは知っていたけど、その写真そのものは観た事がなかったのです。 なので、この写真展の開催が告知されてからここに至るまで、本当に楽しみにしていたのですねー。
カメラばあちゃんとして知られている増山たづ子さんは、ダム開発計画で沈み行く縄文時代から続く村、徳山村をピッカリコニカで撮影して、手書きのメモが付いた600冊のアルバム、10万カットの写真でその変遷を記録するという偉業を成し遂げました。 それは意図された偉業ではなく、小さなことからコツコツと真摯に取り組んできた事の結果であるだけです。 写真に写っている村の人々、子供も大人も、皆飾らない日常の姿をたづ子さんの構えるカメラの前にさらけ出しています。 たづ子さんの個人的なアルバムが立体的な大きな展示になってしまった、と言えるほど、その写真の中の笑顔は親密な親しげな微笑や笑いでいっぱいです。 『作品』づくり、なんて意識は毛頭無く、ただひたすらに、村の人々に一声かけ、会話をして、笑顔を交し合い、撮影された真っ直ぐで素直な写真ばかりです。 村の記録と言っても、第3者的に外側から客観的に写した記録写真ではなくて、そこには皆がたづ子さんの方に向って視線を遣っている撮影者とのインタラクティブな写真ばかりが壁一面に並べられています。 その笑顔の自然さは、もう一級品です。 一声かけてカメラに視線をもらって写真を撮るのがある種の『演出』なのだとしたら、たづ子さんの場の雰囲気作りは名演出です。 ピッカリコニカで写真を撮り始めてから徳山村を離れるまでの8年間、作為的なものはなく、『村の姿を残しておきたい』という純粋な気持ちで写真を撮り続けていたたづ子さんですが、多くの写真を観ていると、はっとするほど構図が素晴らしいものとか、背景の納め方とバランスが絶妙、みたいな写真も観られるようになり、たづ子さんの写真の腕前の上達が何となく見て取れるのも楽しい感じがしました。 ボツの写真がどの位あるのかな、という事も関心がありましたが、それはあまり触れられていませんでした。 殆ど全ての写真が1回だけのシャッターで、あの素晴らしい素直な構図と写る人の笑顔を写真の中に納められているのだとしたら、これは素晴らしい事ですよね。でも察するに、そうなんだと思います。 『作品づくり』なんて微塵も意識していない真っ直ぐさが、きっと数々の場面を邪心無く写真の中に納めさせたのでしょう。 そんなたづ子さんの写真との向き合い方は、多少なりともスケベ心がある自分に、大切な事を再認識させてくれた気がします。
ダムはやがて本当に着工して、村は底に沈む。 ("浮いてまう" とたづ子さんは言い表してますが。) そんなネガティブな状況の中、村の中の人間化関係がぎすぎすしてしまった事もあったみたいですが、写真に写る村の人々は皆笑顔で、生き生きとしています。 『国は一度決めたことは必ずやる。 戦争もダムも。』と、何とも含蓄のある言葉をたづ子さんは残していますが、全てを受け容れる決意と強さが、この笑顔や村の様々な表情、風景をより鮮明な記録として残させたのでしょう。 たづ子さんの写真にはある種の芯の通ったぶれない気持ちがあり、取り組み続けた力強さがあります。
今やアート、美術、芸術の文脈で語られるようになった『写真』ですが、本来の気持ち、あるべき姿勢、忘れてはいけない喜び、そんなものを思い起こさせてくれるたづ子さんの写真です。


《櫨原(はぜはら)分校》1983年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《花盛りなのに》1985年 / ©IZU PHOTO MUSEUM


《戸入分校》1985 / ©IZU PHOTO MUSEUM


63167
[PR]
by sanaegogo | 2013-12-22 00:00 | art | Comments(0)
「ヤッテミヨウ!」
e0168781_0442547.jpg


もうかなり昔の事ですが、読売ジャイアンツの高橋由伸選手の事を『全然好みじゃないのに何故か気になる。』と言っていたら、『それが本物の恋なのよ。』と言われた事がありました。 全く脈絡がありませんが、この赤鹿麻耶さんの「ヤッテミヨウ!」に感じた気持ちは、まさしくそんな感じかも知れません。 『全然好みじゃないのに何故か惹かれる。』です。雑誌『IMA』が主催している写真展 LUMIX MEETS TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9 を観ての事です。日本で有望な若手写真家9人にフォーカスした写真展ですが、そのうちの1人が赤鹿麻耶さんで、写真展のキービジュアルになる作品『ヤッテミヨウ!』を観てまず感じた事です。
赤鹿麻耶とその友人達が、一見すると意味の無いような色々な事にチャレンジしていて、それを瑞々しく写真に納めています。 その行為の弾けんばかりの元気の良さ、溢れんばかりの好奇心が伝わって来る感じに何故か心が奪われて、思わず見入ってしまう写真でした。 私はそもそも、あまり人物は撮らないし、自分で撮るとしたらと画を想像してみても、きっと肖像画のように唐突にそこに居て、雰囲気で勝負、なんて感じになると思われます。 でもこの「ヤッテミヨウ!」は、とにかく若い世代にありがちな無意味な行動に熱中し、意味なんて考えなくたって、思いついたらやってみる! みたいなはっちゃけた馬鹿騒ぎとその中にある達成感と高揚感みたいなものが、やたらめったら弾けていて、すごい躍動感を感じます。 ストーリー性などは全く無視して、細切れで唐突な羅列で構成されている『次々と』感がまた良いんです。 それに「ヤッテミヨウ!」というタイトルを付けたのがまた絶妙だと思いました。 このシリーズのタイトルが「ヤッテミヨウ!」でなければ、こんなに引っかかる事は無かったように思います。 端的にして軽妙。 いいですねぇ。 どんぴしゃ、な感じがします。 この写真のフォーマットもいいんですよね。画面の構成にばっちり合っていて、上手いなぁ、と思いました。 わざとらしさなく、最もダイナミックに見えるところで切り取られてます。 水中で息を止めて苦しそうな女子軍団の表情に水面の揺らぎが画面に動的な雰囲気を与えてて、微笑ましくさえあります。 色もとってもクリアでキレイ。 定型でないフォーマットが自由な感じをよりいっそう強くしているようです。 自分とは全く違う世界観だけど、とっても納得してしまいました。


LUMIX MEETS
TOKYO 2020 BY JAPANESE PHOTOGRAPHERS 9
会場:代官山 ヒルサイドフォーラム
会期:2013年11月23日 - 12月1日
参加フォトグラファー:
  • 赤鹿麻耶
  • 伊丹豪
  • うつゆみこ
  • Kosuke
  • 濱田祐史
  • 水谷吉法
  • 山本渉
  • 横田大輔
  • 吉田和生







  • ≪ 会場での「ヤッテミヨウ!」 展示風景です ≫


    63034
    [PR]
    by sanaegogo | 2013-12-04 00:00 | art | Comments(0)
    Crystallize


    吉岡徳仁の「Crystallize」を観て、吉岡徳仁の世界を堪能。 その後、ミュージアムショップに行って、「Crystallize」の図録をみていたら、その時に初めて知りました。今回の図録、川内倫子さんが撮りおろしたものだったんですねー。
    吉岡徳仁の作品の硬度のあるクリスタルや結晶を素材に、川内倫子がふわっとした柔らかな表現で撮る。それは、吉岡徳仁の作品でもあり、川内倫子の作品でもある贅沢な図録です。2人のともすると相反するそのマチエール(というか何というか・・・・)の融合、もしくは化学反応が眩いばかりです。 どちらも光と透明感があり、時にはほの白く、時には虹色にきらきらと、そしてじんわりと輝いています。
    きっとお互いの作品にお互いがインスパイアされているんでしょうね。 認め合った作家同士のジャンルを越えた仕事という感じがとても素敵です。


    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Swan Lake≫
    白鳥の湖を聞きながら、白い展示室の中で 結晶はだんだんと成長していきます。




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪ROSE≫
    結晶に取り込まれ、自身も結晶になっていきそうな薔薇
    かすかに確認できる色彩は 「永遠」に臨む薔薇の最期のかすかな声のようです。





    ≪ROSE≫
    周りを取り巻いているのは、無数の白いストローで創られた≪Tornado≫。





    ≪Spider’s Thread≫
    白い結晶は雪のように冷たくも見えるし、どことなく温かみも感じます。




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Rainbow Church≫
    クリスタルのプリズムから柔らかく溢れ出る虹の光。





    ≪Rainbow Church≫




    Phpto: Rinko Kawauchi

    ≪Rainbow Chair≫
    虹色の光玉。 なんて素敵・・・・。姿を変えた虹の形です。





    ≪Rainbow Chair≫





    ≪VENUS≫
    パリで開催されたMaison&Objetで開催された個展でのRose。
    ショパンの練習曲ハ短調作品10-12 「革命のエチュード」、「幻想即興曲」、「バラード1番」による結晶絵画





    ≪VENUS≫




    62241
    [PR]
    by sanaegogo | 2013-11-24 00:00 | art | Comments(0)
    吉岡徳仁 クリスタライズ ―自然から生み出される。

    「虹の教会」の中で佇む、拙シルエットです。厳かで神秘的な空間です。




    最後に観たこれまでの作品やプロジェクトを紹介するムービーの中で、吉岡徳仁は、「透明なものに惹かれる」と言っていました。 きらきらとした透明感のある結晶や光学ガラス、水、ほの白いファイバーの森、かつて少女が御伽の国にあると夢見ていたような世界観を吉岡徳仁は創造しています。 けれど、男性の彼が作り出すその世界は、少女じみたところはなく、凛としていて、夢の中というよりもむしろ妙に現実感というかリアリティがあって、「創生している」と言った意思的なものを感じる不思議な感覚があります。 これは彼の創作は常に、自然界に存在するさまざまな原理を取り入れ、それを具現化する試みや考え方を基に行われているからだと言えます。 artificial だけど その根源は常にnaturalであり、naturalなartifactであるという、禅問答のようなスパイラルがそこにはあります。 「結晶」という自然現象を巧みに駆使して、自然物とも人工物とも言えない、まさに「自然から生み出されている」人工物、両者の狭間に生まれる特別な存在として、彼の作品はそこにあり、輝きを放っています。 その世界観の美しさ、透明感にうっとりしますが、それを作り出したのが吉岡徳仁という人物だというのが意識されるのか、どこか男性的で力強くもあるように感じるのは、好んで使われているmaterialが、結晶という危ういもののみならず、クリスタルや光学ガラスのような強固なものも多く用いられているからでしょうか。 子供の頃に、透明なものに妙に惹かれて、それをしげしげと覗き込んだり、形の加減でプリズムのように創り出される七色の光の虹を見るため、頭や視線を一生懸命くるくると動かしていたことを思い出します。



    展覧会の構成です。

    ウォーターブロック ― Water Block

    このガラスのベンチは、パリのオルセー美術館の印象派の部屋にもインストールされているのは有名です。 艶やかで流麗な形のその塊は、人為的な手が一切加えられていない自然によって自然に形作られたフォルムそのものです。 これから繰り広げられる吉岡徳仁の、「自然の力は、人々に想像を超えた驚きをもたらしてきた。」という世界観を象徴するものでもあります。


    白鳥の湖|結晶の絵画
    ― Swan Lake | Crystallize Painting

    音楽を聞かせながら水槽の中で自然結晶を成長させていく、「クリスタライズド プロジェクト」。 (Crystallize = 形を与え、結実させる) チャイコフ・スキーの「白鳥の湖」の音色に呼応して形状を変化させるという結晶絵画は、自然の生み出す作為を超えた造形です。


    ローズ ― Rose

    赤い薔薇を覆い尽くすように成長していく「結晶」は、薔薇の生命を吸い取ってしまうがごとく形作られていきます。 雪の女王に息を吹きかけられ、凍りついてしまったかのようです。 結晶の中に閉じ込められてしまった薔薇の瀕死でかすかな色彩をみていると、ある種の「残酷」さがあったりとか、「永遠」であったりとか、色々な印象が交錯します。


    蜘蛛の糸 ― Spider’s Thread

    蜘蛛の糸のようにフレームの中に張られた7本の糸で空中に描き出された椅子に結晶が生成され、だんだんと椅子としてのその形を露わにしてきます。会期中徐々に成長を重ね、誰でもない自然の力によって創生されていくその椅子は、紛れもなく「万物」のなかのひとつです。


    虹の教会 ― Rainbow Church

    アンリ・マティスが建てた南仏のヴァンスにある「ロザリオ礼拝堂」のオマージュである「虹の教会」は500個ものクリスタルで出来たプリズムを用いて、自然光から虹を創り出しています。 そのステンドグラスの前に立つと、神聖な光で身体が包まれているような気持ちになれます。 プリズムを通して投影された自然光は七色の帯に分かれていき、自然の摂理を改めて意識する事が出来ます。 自然の生み出す「分散」が体験できます。白の濃淡や透明なもので構成された展示の中でこの虹の七色は唯一の色彩で、その色彩の純粋さが際立っているように感じられます。










    レインボーチェア|レイ オブ ライト
    ― Rainbow Chair | Ray of Light

    クリスタルプリズムからつくられた透明のベンチ。 艶やかで流れるようなフォルムのベンチに座って、ステンドグラスの窓から生み出される光の虹を眺めるていると、どこからともなくやって来た厳かな光に包まれて光と一体になっている気持ちになれます。 座っている人はみんな、代わる代わるにステンドグラスの方へ歩み寄って、注がれる光を浴びていました。








    最後にこれまでのプロジェクトやデザイン作品、インスタレーションの記録をスクリーンで観て終了しますが、これは50分ほどのもので、すっかり堪能はしましたが、作品がもっと観たかったなぁ、という感じはあります。しかしながら、この「Crystallize」は吉岡徳仁の紛れもなく過去最大規模の個展で、展示の規模よりも観る人の「もっと観たい!」気持ちの方があるかに上回ってしまっているのですね。 会場を埋め尽くすようにストローが敷き詰められた圧巻のインスタレーション 「Tornado ― トルネード」からもその大規模さが垣間見られるけれど、ネットでは楽しそう(?)に設営をする吉岡さんの画像がたくさん見受けられています。 「私も設営に参加したかった」 と本気でそう思ってしまいました。



       


    これはもう、"White-out"状態ですね。 遭難注意。







    TOKUJIN YOSHIOKA
    Crystallize
    吉岡徳仁 ― クリスタライズ
    東京都現代美術館 Mot
    2013年10月3日[木]― 2014年1月19日[日]
    Press Release





    2008年に21_21 DESIGN SIGHTで開催された「 Second Nature 」展も、2010年 森美術館での「SENSING NATURE ネイチャーセンス」展も見逃しているので、これは本当に会期が始まる前から楽しみにしていたのです。
    会期はまだまだ充分あります。 是非。


    62152
    [PR]
    by sanaegogo | 2013-11-23 00:00 | art | Comments(0)
    寺山修司の『摩訶不思議な客人』


    今月10月29日まで銀座のアルマーニタワーでやっているTOKYO 1970 Japanese Photographers 9 で寺山修司の写真を観ました。 寺山修司といえば、かの『天井桟敷』の主宰にして、「言葉の錬金術師」と異名をとった天才文筆家にして芸術家ですが、演劇も文章も含め、『作品』というものを初めて観ました。大学生くらいになると、前衛的な感じに憧れる学生は皆、一度は寺山修司を語っていた、という記憶があります。 文系男子なのに、経済学部や法学部には進まず、英米文学を専攻し、インドアなのにシュッとして割と綺麗な顔をしてこざっぱりとしていながら、どこか屈折していて尖がったとっつき難い、村上春樹を愛するような男子学生がよく語っていた、というステレオタイプな印象があります。(今でいう、秋葉系とは全然違う感じですが・・・・。)
    TOKYO 1970では9名の写真家が1970年代頃の東京にインスパイアされて当時撮影された作品を並べたものですが、その中で断然目が釘付けになったのは、寺山修司です。 キュレーターの長澤さんのテキストを読むと、TOKYO 1970は寺山修司を軸にして、少なからず彼と関わりのあった8人の写真家を横軸縦軸に据えて構成されたものです。もう他界された方も混じっていて、それが1970年代で時間がストップしてしまったような空間の雰囲気を醸しだしています。 寺山修司は『摩訶不思議な客人』。 まず間違いなくその作品は摩訶不思議です。奇妙奇天烈です。エキセントリックでシュール。 この手の言葉はどれもばっちりハマります。 写真に納まる摩訶不思議な人たちは、全く意味不明の行為を行いながらこちらを見据えていて、その瞳には感情みたいなものは一切感じられず、しかしながら物凄いプレゼンスを発揮しています。 これだけ摩訶不思議にして意味不明ながら、えげつなさがなく、退廃美というか、イカレてる感じが何とも言えないセンスを発してます。 寺山修司論的なものになってくると、全然造詣もなにもあったものではないので何も語れませんが、こんな凡人にもこれだけのインパクトを与えるのですから、彼の天才ぶりの凄さを窺い知る事が出来ます。究極のフィクションですね。
    大道芸人のような、常識という網目が決して掬い取れない人々の静かなる乱痴気騒ぎ。ちょっと陰鬱で世の中の裏側で棲息しているようなファンタジーな人々の繰り広げる狂宴。TOKYO と銘打ってはいるのですが、『天井桟敷』の名に相応しく、その雰囲気は退廃の極致だった夜のパリの陰鬱な馬鹿騒ぎぶりを連想させてくれます。


    (* 画像はトリミングしてあります。)

    e0168781_1462687.jpg














    61010
    [PR]
    by sanaegogo | 2013-10-06 00:00 | art | Comments(0)
    Dog Chasing My Car in the Desert, John Divola


    TOKYO PHOTOに行って、特別展示の「車窓からの眺め(Pictures From Moving Cars)」を観ました。 これは、TATE Modernの写真部門チーフキュレーター サイモン・ベイカー(Simon Baker)のキュレーションによるもので、森山大道、ジョエル・マイヤロヴィッツ、ジョン・ディヴォラが車をひた走らせ、車窓から捉えた飛び去る光景や被写体を写真に納めたものです。



    森山、マイヤロヴィッツ、ディヴォラとそれぞれに良かったのですが、ワタシは何と言ってもこれ。 ジョン・ディヴォラ(John Divola)の"Dog Chasing My Car in the Desert" です。 というよりも、こればかり観ていて、他の2人の印象の入り込む余地がなかったような気もします。 実はその前にサイモン・ベイカー氏のギャラリートークを聞いていたので、ワタシの関心はすっかりニューカラーのマイヤロヴィッツに向うものだとばかり思っていたのですが、トークの後、展示室に入ると意外にもワタシの眼はジョン・ディヴォラに釘付け。 小さな個室を挟んでではありましたが、その正面にちらりと見えた壁に直貼りの写真でした。連続写真のようでいて、その写真はどれも同じトーンのものはなく、かなり個別に個性的。 かといって不協和音を起こしているわけではない、不思議な連続性。 車窓からの写真は車や列車の中から皆がよく撮影をしますが、どちらかというとロードムービー的な空気感が流れ、そこにある種の心情を映すような雰囲気ですが、これは明らかにアクションシーン。 それを作品として昇華させて並べた事にその斬新さを感じます。 まさに犬と車の時速60kmでの一騎打ち。 車を凝視するその犬の狂気じみた視線。 その犬の動きを我がものにしようと揺れてブレるカメラの緊張感がこの作品にはあります。 決してライ・クーダーのギターに合わせて思い出のように千切れて風に飛んで行くノスタルジックな情景ではないのです。カメラは荒れた路面に翻弄されハンドルさえも取られそうになりながら犬を追いかけます。 レールに乗せた頑丈なクレーンの上で滑るように移動するカメラではないのです。 明らかにディヴォラは身体(しんたい)を駆使して撮影をしていて、撮影をするということはいかに身体能力を使い、四肢をフル稼働させて撮るものかを再確認できます。 ディヴォラは、「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」と語ったそうですが、何とも哲学的な含蓄があります。 一瞬の連続であり、ストーリーでもある。 この時車も撮影機材の一部となるのです。 犬の走る「動」、車の走る「動」、シャッターが開いては閉じる「動」、それを操るディヴォラの「動」、これらの「動」が複雑に絡み合う事で、" 車の窓はもうひとつのフレームと化し・・・・云々"、とは全く違った車窓からの眺めを描き出していて、その異質さに夢中になりました。





    e0168781_1383888.jpg

    遠くに見えていた犬が唐突に目の前に登場。 この導入にはかなりやられてしまいました。




    ひたすらに並走する黒犬。




    もはや、犬の身体も残像と軌跡とごちゃ混ぜに。 「犬は車に追いつけない。 そして、カメラも犬には追いつけない。」瞬間を捉えています。




    ディヴォラを牽制する犬の視線。 乱れたフレーミングが意味するものとは。



    John Divolaの"Dog Chasing My Car in the Desert" もう一度どこかで、(写真集ではなくて展示で) 観たいです。 そして、これをピックアップして紹介してくれた サイモン・ベイカー氏に心から感謝を。
    http://www.tokyophoto.org/2013/special/tate/index.php

    60696
    [PR]
    by sanaegogo | 2013-09-28 00:00 | art | Comments(0)