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ふたつのVivian Sassen展 ― LEXICON と PIKIN SLEE
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私のまわりにヴィヴィアン・サッセンのファンって結構いるんですよね。 ファッションの世界に軸足を置きながら、鮮烈な色彩のアートフォトとしての写真作品も手掛けていて、また、ファッションシューティングの方でも一風変わったハッとするようなショットを数々生み出しています。ここ最近は2個所で同時開催という形式をとる写真展が続いている気がしますが、ヴィヴィアン・サッセンについても例外ではなく、ここ東雲TOLOTのG/P + g³/ galleryと恵比寿のG/P Galleryで同時開催されていて、日本初の個展になるそうです。 ヴィヴィアン・マイヤーはオランダの人で、幼少の頃に南アフリカに滞在していたそうで、(ケニアと言っているテキストもあります)、幼い少女にアフリカの鋭く射抜くような日差しと躍動的なそこに住む人々の記憶はきっと強烈なインパクトを与えたのでしょうね。人格の形成に影響を与えたと言っても過言ではないのでしょう。 なので、「自らのルーツ」として位置づけ、アムステルダムで暮らす今でも、繰り返しそこを訪れ撮影を続けているその行為も容易に理解できます。ヴィヴィアンの写真には強いコントラストと濃厚な色彩があります。 スタジオの写真はあまり見たことがないのですが、今回観ふたつの個展でも、強い明るいライティングを施したような眩しいばかりの光と、その強い日差しによって落とされる漆黒のような濃い影が随所に見られました。質量までも感じてしまいそうな骨太の太陽光は輪郭のはっきりとした存在感のある影を創りだします。 カラーであれ、モノクロであれ、彼女の写真にはその明と暗が力強く存在しています。


LEXICON
会期:2014年10月4日(土)~11月29日(土)
会場:東雲 TOLOT内 G/P + g³/ gallery
http://gptokyo.jp/archives/1789




「LEXICON」という言葉を聞いて、私のボキャブラリーにはなかったので、彼女のバックグラウンドから南アフリカの都市の名前かな?と思っていたのですが、用語集、(特定の分野の)語彙、目録、語彙目録とかいう意味の単語だったのは意外でした。これは、写真集のタイトル『LEXICON』からの作品展示で、人間の根源的な感情をテーマに初期から近年までの南アフリカで撮影された写真を再編成したものだそうです。 なるほど。そこにクローズアップされている南アフリカの現地に住む人々が、一見奇抜なポーズをとって、全身で何かの「言葉」を表現しているようで、その集大成としての「語彙録」なのでしょう。ただ、その肢体のポーズに意図されている感情は、とても複雑で複合的なもので、単純にひとつの言葉を象徴しているだけのものとは思えないほど意味深な雰囲気が続きます。 ひとりの人物が示すポーズ、ふたりの絡み合ったいかにも不自然なその状態の意味するところは、ヴィヴィアン自身の意識にも昇ってきていないような気がします。 どの写真も何かの確認作業のようにじっくりと時間をかけて撮影されているのを見て取れるし、その根源にある何かの言葉(感情)を、語彙(感情の総体)をヴィヴィアン自身が探しているかのようにすら見えます。 「嘆きのポーズ」「Sympathy(共感)のポーズ」「絆のポーズ」「羞恥心のポーズ」自分勝手に写真の中の被写体のとるポージングに名前を与えてみようとすると、いかにそれらが一言では顕しきれない複雑で意味深いものを孕んでいるかに気づき、それがヴィヴィアンの持つLexicon そのものなのだと再確認できて、これは面白い作業でした。



全くの余談ですが、この不自然極まりないポーズを見て、昔一世を風靡した「ヴォーギング」とか「山海塾」とかを少し彷彿とさせるものを感じましたが、これはこの両者の造詣に深い人に言わせればきっと、「単なる見た目の問題ね。」と一笑に付されるのだと思います、が、なにか基本の理念みたいなところで繋がっているような気もします。そしてその鮮やかな色彩と強いコントラストを持つ鮮烈な写真であるにも関わらず、どこか憂鬱で何ものかへの畏怖や畏敬を感じる雰囲気を持つその表現世界は、まさに「光」と「影」のコントラストによって象徴されているものなのでしょう。ある種の精神世界がそこには横たわっています。彼女が写し撮りたいものは、その「明」の部分ではなく、その影にひっそりと身構えている「暗」の部分であるに他ならない気がします。それらの写真はある種の感情を表してはいるのですが、そこに写されている人々は一切の感情を排しているかのようであるのが印象的です。





PIKIN SLEE
会期:2014年10月4日(土)~11月30日(日)
会場:恵比寿 G/P gallery
http://g3gallery.jp/archives/782




Pikin Sleeとは、アフリカのスリナムにあるスリナム川の上流の熱帯雨林の中にある村の名前だそうで、サラマッカ族という部族が暮らしています。彼らの祖先のマルーンと呼ばれる人々は18世紀にオランダの植民地から逃れてきた奴隷だそうです。この村で撮影された写真で構成されたPIKIN SLEEは鮮やかな色彩のLEXICONとは対照的にほとんどがモノクロームの風景ばかりです。風景というか、その村での生活の営みを表している某かのシンボリックな「モノ」の連続です。どこか静物画の絵画のような雰囲気にも通じるその作風はヴィヴィアン・サッセンの新しい境地を垣間見せるものだそうです。 よりプリミティブでありのままで、実生活に眼を向けたような落ち着いた静けさ雰囲気の写真です。 しかしながら、その対象の捉え方にはヴィヴィアンらしいどこか迫力めいたところが感じられて、言葉として何かを表現される前に、そのものとして何かを語っているようです。 シンプルな写真だけに、ストレートに感情移入された生々しさみたいなものがあります。よく右脳は画家、左脳は小説家などと言われますが、このヴィヴィアン・サッセンは、そのアウトプットに右脳しか使ってないのじゃないかな、なんて思います。その写し撮るものだけで雄弁に何かを語っているのですが、それは言葉を介してでなく、言語になる前の感情みたいなもの、と言ったらよいんでしょうか。 雄弁に語ってはいるものの、それは言葉ではうまく表せないのです。 言葉で冷静に表現しようとしても、押し迫って来る何かの感情で溢れてしまい、もはや言葉で表そうとする事にはあまり意味がないという事を思い知るのです。 寡黙さが雄弁にありのままを語っているかのようです。




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by sanaegogo | 2014-10-18 00:01 | art | Comments(0)
アレキサンダー・グロンスキー (Alexander Gronsky) | YUKA TSURUNO GALLERY


I confese… 実は今年の私の写真は、このグロンスキーの影響を多大に受けているようです。だだっ広い風景の中にぽつぽつと点在する人々を散らして、ハイキー気味な写真を撮る。これは、今にして思うと明らかにグロンスキーっぽいと思うのですが、間違いないです。初めてグロンスキーの作品を見たのは、「2013 Summer のVol.4 特集 来るべき写真家のために」でした。
―― 孵化したばかりの作品を理解しようと試みることは、私たちがいま住んでいるこの世界と向き合うことでもあり、ひいては、遠からぬ未来を予測することでもある。
「来るべき写真家」の1人としてピックアップされているように、グロンスキーも確かに若いです。1980年生まれだそうです。もともとは報道カメラマンだそうですが、まるで映画の一場面のために特別に設定した時代や都市の風景のようなどこか違和感の残るランドスケープの写真を撮ります。Vol.4で見た時は、正直自分の中でそれ程インパクトを持って迎え入れた訳ではありません。ただ、雪景色の写真は好きなので、それで印象に残っていたのかと思うのですが、じわじわ、じわじわと来ましたね。 そして、グロンスキーが来るぞ!と知った時、何だかとっても楽しみにしている自分に気が付いてしまった訳です。
そんなこんなで、東雲にあるTOLOTのYUKA TSURUNOで開催されたグロンスキー展に行って来ました。



Alexander Gronsky
アレキサンダー・グロンスキー
YUKA TSURUNO GALLERY
September 6 - November 15, 2014  (*会期を延長しました)
Website
Works in Exhibition
Installation View




『作品の特徴として、グロンスキーは一枚の写真の中に、あらゆる意味での「境界線」を潜ませています。それは、水平線で示される視覚的な境界線だけでなく、郊外と都市、社会主義の遺産としてのインフラと手つかずの自然、私的空間と公的空間、生と死といった様々な境界でもあり、また同時に、それらの全てが一つの画面に収められた、境界のない大地の風景としても提示されています。』
テキストの中に記されているこの「対比」ですが、確かに。ネガティブなものとポジティブなもののコントラストが作品に独特の印象を与えています。『周辺環境と地域住民の関係性を探求する作品』という表現もあるでしょう。ただもっと単純に、このどことなくチグハグな情景は、無理やりに架空の世界を設定した一昔前のSF映画のようでもあり、「近未来的」な情景を感じさせます。 この「近未来的」という言葉もどことなく古びた響きで、グロンスキーの暮らす旧共産圏のイメージとダブるような気がします。ある時点で忘れ去られているかのような近代化です。(余談ですけど、近未来とは結局いつ頃の事なんでしょうね。今はもはや、近未来映画が制作された頃の「未来」をとうに追い越してしまっている現代に生きているって事なんでしょうね。) しかしながら、どこかチグハグで嘘くさいグロンスキーの切り取るその風景は、紛れもなく今現在のロシア・旧ソ連地域で現実にある風景なんです。






写真展はそんな良い意味での違和感に満ちた楽しいものでした。グロンスキの選んだプリントが1枚添えられている写真集を購入してしまったのですが、そのプリント、日本のお客さんには、この写真(左)が人気だったそうなのですが、ご本人のイチオシは、こちらの写真(上)だそうです。勿論私はご本人のイチオシを購入しました。 (もうひとつのも好きだったんですけどね。折角だから・・・・。)




ここで私が勝手にカテゴライズしたグロンスキーの作品をいくつか・・・・。

【snowscape】
殺風景な雪のロシア郊外の風景ですが、社会的なメッセージはあまり表に出ず、ちょっとユーモラスに、ちょっと可愛らしく、ロシアの郊外でそこで暮らす人々が織りなす風景という趣です。画面は白く、寒い戸外でアクティビティーを楽しむ人々がぽつぽつとカラフルに散りばめられています。 ちょっと見ていると、まるでペイント作品のようにも見えてきます。





【Ophelia】
これはただ単に、緑盛んな風景を見て絵画の「オフェーリア」を連想したに他ならないのですが、違うのは、辺りにはゴミが散乱していたり、恋人たちが寛ぐ木立の背後には、殺伐とした原子炉がそびえ立っていたり。人工建造物が創りだす荒涼とした風景と人々の営みが互いに寄り添っている風景です。





【emigration to new planet】
とても目を惹くSituationです。地球ではもはや暮らせなくなった人類が太陽系の外にその活路を見出し移民していて、至極人工的な自然環境の中で、かつて地球で営んでいたような楽しい余暇の過ごし方を全て後天的な環境の中で健気に再現しようとしている・・・・、そんなB級映画のSF映画の一場面を連想してしまいます。 この場所は、きっと大きな透明なドームか何かで覆われているに違いない、と考えが飛躍してしまいそうな人工的な風景が繰り広げられています。




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by sanaegogo | 2014-10-18 00:00 | art | Comments(0)
Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」




マーク・ボスウィックのスライドショーは、もしかして今年観た写真展や絵画の展覧会の中で一番好きで、一番印象に残って、一番いつまでも忘れがたく、一番も一度観たいと願うようなものでした。 こじんまりとしたTaka Ishii Gallery Photography / Film の壁いっぱいに投影された3面のプロジェクションは、眼で見て感じるだけでなく、ボスウィックの創りだした幻想的な現実世界の中に自分自身が唐突に入り込んでしまったような気がします。 スクリーンから僅かに撥ね返って来るプロジェクターの光が皮膚の中から体の中に沁みこんで行きます。 カルーセルが1回転するのに40分くらい、ボスウィックの創りだした色鮮やかなイメージの光に浸っていましたが、カルーセルのカシャ、カシャという音も心地よく、どこからか聞こえてくるボスウィックがしたためたという詩の朗読にも不思議な感じを覚えました。実は「幻想的」とは言ったものの、それとは少し違うのです。自分は現実世界にいるという自覚があるのだけど、どの現実かが解らない非現実的な現実。 (ボスウィックはファンタジーの世界ではなく あくまでも現実の風景を捉えているのです。素晴らしい!) スライドが次々と創りだしていく空気を感じ、空中を漂っている声を感じている・・・っていうような感じ。(上手く言えませんが。) 「聴く」「視る」みたいな能動的な感覚とは違う、もっと自然体な感じ。 Surrounded、包まれている、そんな感覚を覚えるとても心地よい世界観でした。







マーク・ボスウィック(1962年ロンドン生まれ) は、ニューヨークを拠点に活動する『Purple』『i-D』といったファッション雑誌や、数多くのファッションブランドとのコラボレーションなどで知られているファッションフォトグラファー。 近年はファッションの領域を超えて、音楽、映像、詩など様々なメディアを横断的に行き来するような作品を手掛けています。 しかもそのつなぎ目を全くと言っていいほど完璧にかつ自然に融合した独特の不思議な世界観を漂わせています。 彼が撮影した写真作品についても、私の個人的な好みもあるのですが、そのaccidentalな色彩にとても惹かれ、accidentなのか、predictionなのか、その境目もまた見事に曖昧化されていて、自然に馴染んでいます。






光を追い、光が生み出すすべてのもの、色彩、ハレーション、フレア、そして闇までもその術中に収めているようです。一見劣化しているかのように見えるその投影されているスライドの情景に観る人はどことないノスタルジアを覚え、現実の中に身を置きながらそれぞれが抱えている「何処か」に帰っていくような気持ちを想起させられるのでしょう。 3面のプロジェクションもトリプティクスのような構成で、その漠然としたストーリーの中に溶け込んでいくような錯覚を覚えるのかも知れません。
もう会期は終わってしまったのですが、もう一度観たいです。 そして あの感覚の中に浸りたいです。


Mark Borthwick 「Abandom Reverie`」
2014.09.20 Sat – 10.18 Sat
Taka Ishii Gallery Photography / Film
http://www.takaishiigallery.com/jp/archives/11575/






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作品をもっと紹介したいな、と思っていたら、まとめている方がいたので、ここに紹介します。
http://matome.naver.jp/odai/2137293016689383201?&page=1

Mark Borthwick Project (2010)
http://www.superheadz.com/mark/about/




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by sanaegogo | 2014-10-11 00:00 | art | Comments(0)
ヴァロットン展



バルテュスのポラロイド写真の展示を観に行って、その帰りに立ち寄ったミュージアムショップでヴァロットンの作品に纏わる数々のGoodsを見て、もうすっかり観たくなってしまった、といういきさつの展覧会です。 それまで街のあちこちでポスターになっている「ボール」という作品を目にしていたのですが、それを目にするにつけ、何故か心にざわついた思いがあったような気がしていましたが、それこそがヴァロットンという人の作品の持つ魅力に他ならなかったのですね。





さて、この『ヴァロットン展』、”冷たい炎の画家”というサブテーマが付いていますが、実は個人的には少なからずこのサブタイトルの打ち出すイメージに違和感を感じていました。かなり僭越な発言ですが、炎のようにめらめらとゆらめく動的なものではなく、何かこう張りつめた弦や鉄線のようにぴーんとした静的緊張感を感じたからなのですが、この“冷たい炎”というのは、クロード・ロジェ=マルクス(美術評論家)が1955年にヴァロットンについて語った「フェリックス・ヴァロットン、あるいは氷の下の炎」から引用されたものだということです。画家を表現したキャッチフレーズ的な言い回しは著名になればなるほど、枕詞のようについて回るものですが、それが定着していなかったほど「知られざる」「知る人ぞ知る」画家だった表れのように思えます。このヴァロットン展は、日本初の回顧展で、グラン・パレ、ゴッホ美術館を巡回した後、日本で3か月にわたり大々的に開催されたもので、とても見応えがありました。出品数は小作品の版画が多い事もありますが、134点にものぼり、美しく柔らかい色彩の油彩画から、写真的で言うと黒潰れした画面構成が印象的な版画作品まで、そのバラエティーも素晴らしかったです。





まず油彩画。コントラストが少なく平坦で滑らか、対象を大きくとらえ背景を極力シンプルに表現したその人物画は、まるで雑誌のグラビアページのような印象です。 そして対象を真っ向から捉えつつも、微妙に真正面からの対峙を避けているかのようなその画家の視線があり、そこに言いようもない危うい雰囲気を漂わせています。画家はモデルやその場面に居合わせながらも、当事者になり切れないような何とも第3者的な傍観者、ただ観察している「場」から外れた者であるかのような心境を醸しています。 自分の描くその画面の中に(入って行こうとしても)入って行く事が出来ないような微妙な躊躇いが感じられます。妻や家族を顕した油彩画もそうですし、世の中の世相を描いた数々の版画作品にもそれは感じる事が出来ます。 それは、疎外感という子供じみたある意味拗ねた幼い感覚ではなく、もっと複雑で知性的であるような。 当事者意識や所属意識が持てない人。ヴァロットンにはそんな人の葛藤や苦悩を感じてしまうのは私だけではないような気がします。
思えば、こんなに画家の深層心理みたいなものが投影されている作品もあまりないような。決して心象風景を描いている画家ではなく、むしろどこに存在してもおかしくない場面や実際の社会現象をモチーフとした画家なのに、そこには必ず画家の心理が投影されているのです。 画面の中には必ず彼が存在しているかのようです。しかもそれはいつも第3者的な視線であり、その存在感とは別のところで画の中のストーリーは展開されていくのです。 不思議な空気があり、只ならぬ雰囲気が漂っています。この画家と画家を取り巻く世界の言いようもない距離感がヴァロットンの作品から滲み出ています。気持ちをざわつかせられるのです。シンプルで明瞭な線で描かれたその作風とは裏腹な、非常に複雑なその画家の心の機微を、観る人は知らず知らずのうちに感じ、ヴァロットンの心理(心情というには「情」を感じないので)へ無意識のうちに関心を抱きつつ、その作品を鑑賞しているのでしょう。少なくとも私はそう感じてしまいました。



        


そんな風に常にヴァロットンの冷ややかな視線を感じさせる作品群ですが、まとめて所蔵しているコレクターがほとんどいないので、まとまった作品として見られる機会は本当に少ないと言います。 大作の大きなサイズの油彩画から、新聞や本に掲載された小ぶりの版画まで、その題材とするものの目の付け処が斬新で、1世紀近く時を経た今でも決して古臭い感じがなく、そしてバラエティーに富んでいながら、一貫してブレがないその作品たちは最後まで見ていても飽きることがありませんでした。 中でも私を釘づけにしてしまったのは、版画のシリーズで、リッチなブルジョア達が密室の中で人目から隠れてこっそりと繰り広げる男女の密会の様子を描いた『アンティミテ』という版画。黒潰れしたベタ、諧調がない白と黒の強いコントラスト、「えっ!? そこを?」というような場面を切り取った斬新な構成、そして、偽善的で隠匿された上流社会を表現したその洗練された雰囲気。 ヴァロットンが冷ややかに嘲笑いながら題材として選んだそれらのスキャンダラスな密会の情景。 それらにもう魅せられてしまい、希少な油彩画とかも収録されていたので図録と散々迷った挙句、版画集を購入してしまいました。 観る度に刺激を受けます。

ヴァロットン展、もう会期は終了してしまったのですが、2014年のベスト3には確実に入る見応えのあるものでした。
http://mimt.jp/vallotton/top.php



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by sanaegogo | 2014-09-20 00:00 | art | Comments(0)
イメージメーカー展 @21_21 DESIGN SIGHT



先日 21_21で行われていた企画展 「イメージメーカー展」のレポートです。 随分とバックデートになってしまって、もう会期はとうに過ぎてしまったのですが、切り口というか目の付け処が如何にも21_21らしくて、面白かったです。

企画展「イメージメーカー展」
2014年7月4日(金)― 10月5日(日)
展覧会ディレクター: エレーヌ・ケルマシュター
参加作家: ジャン=ポール・グード、三宅 純、ロバート・ウィルソン、デヴィッド・リンチ、舘鼻則孝、フォトグラファーハル
http://www.2121designsight.jp/program/image_makers/



私はデヴィッド・リンチのリトグラフが楽しみで出かけたのですが、イメージとファンタジーの世界を巧みに創りだしている様々な分野のアーティスト、クリエイターが、それぞれの分野で「イメージメーカー」としてのその世界観を共演しています。 キュレーターに日本文化に精通しているというエレーヌ・ケルマシュターを迎え、彼女がチョイスした国内外のアーティストの意外なバラエティーがまず面白い。映画、デザイン、広告、モード、舞台、音楽など、展覧会に出品した精鋭のフィールドは多岐に渡り、作品として制作したもののみならず、舘鼻則孝氏の手によるエキセントリックな靴(これは言うなれば日用品!)などもケルマシュターの触手に捉えられています。これこそまさに 日常と非現実の世界との境目のない超越したものづくりのアイディアの産物の最たるものではないでしょうか。



さて、どんな展示だったかというと。 まず、デヴィッド・リンチ。 リトグラフの作品が多く展示されていて、まとまったのを見るのはヒカリエで2012年6月に行われていたリンチ展につづいて2回目だったのですが、リンチの若干狂気じみていてそれでいて 茶目っ気がありユーモラスな思考の断片を取り出したようなリトグラフの数々はやっぱり面白い。 体の一部にフォーカスしてクローズアップしたり、その時の思考が文字になって浮遊したり、肢体を機械であるかのようにあらわしたり、リンチムード満載で、ちょっとだけおどろおどろしい感じだけど、コミカルな場面の羅列はリンチ独特の思考回路の中に迷い込んでしまった気分がします。










あえて B級っぽい感じが 如何にもリンチ的です。


この展覧会で初めて知ったのですが、ジャン=ポール・グードというアーティスト。1970年代から広告イメージのクリエーター、イラストレーター、デザイナー、そしてクロスジャンルの美しくも摩訶不思議なハイブリッドな作品を手掛けてきたアーティストです。この人の作品がどれもこれも一級品という感じで圧巻でした。 それは偏に彼が女神と仰ぐ3人のアイコン的モデルの一人グレース・ジョーンズの野性味を帯びたパンチの効いたインパクトによるものに他ならないのですが、パリの地下鉄内のデパート広告を何台もののモニターを繋げてホームに滑り込む電車からの視点を追うように再現された ヴィデオ・インスタレーションの作品に目を奪われました。 セットアップなのか スナップなのか 両者の境目が判らない細部まで緻密に創り上げられた選りすぐりの偶然が連なる世界。そんな感じです。 素晴らしくてそして人の眼を逸らさない「ひき(惹き)」がありました。これは、知らなかっただけに いいものを観せてもらいました。




(全くの余談ですが、私がグレース・ジョーンズを初めてみたのが映画のコナンの中で。(写真) 映画に出てくるオトナの女性と言えば、ふくよかな胸の膨らみがあって当然と思っていた子供の私に、あの中性的で動物的な伸びやかなボディラインは強烈なインパクトを持って記憶に残っていました。)



あとは、やっぱり舘鼻氏でしょうか。あの非現実というか、超現実なフォルムの靴たちが展示されていて、しかも順路の最後では実際にその靴を履いてみる事が出来るという企画には驚きました! ただし、ただ単に突飛な奇を衒ったデザインではなく、エンジニアリング的にもきちんと計算された理にかなったフォルムであり、近未来的なデザインでありながら、それは古き良き時代の日本の花魁の履く道中下駄に着想していると言う事です。 ここにもまた舘鼻氏の独特な視点が介在しているのです。 あと、いかにも21_21らしい選出の顕れだと思います。 靴は実用品なので、鑑賞するアート作品とは違います。 その境目はある時はとても曖昧になってしまいますが、靴が日常で使うある意味道具なのだから、これは紛れもないデザインで、それを展示作品としているのが、やはりDesign Sightたる証ともなっています。 (しかし、この靴を「実用」しているのは レディ・ガガくらいでしょうけど。)






他にも色々ありましたが、やはり特筆するのはこの3名でしょう。しかしながら、出品した6名のアーティスト/デザイナー/クリエイターに共通して言えるのが、このイメージメーカー展の中に見るそれぞれの独自のものの捉え方、ものをみる視点です。 「ものをみる」=「イメージ」、それぞれの視点というフィルターを通って創りだされたオリジナリティとバラエティ溢れる作品の競演。イメージメーカーたちの視線の先にあるものが具体化された、彼らのイメージの中にあるものが現実の世界で実物として一堂に会したような空間に出来上がっていて、その非現実感が非常に面白かったです。

最後に。 珍しく一部を除いては殆どが写真撮影OKの企画展で、コンテンポラリーを題材にした企画展として、これは大いに評価出来るのではないでしょうか。


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by sanaegogo | 2014-08-24 00:00 | art | Comments(0)
バルテュス 最後の写真 ―密室の対話
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上野の西洋美術館でバルテュスを目撃したのは、5月の事でしたが、その時から楽しみにしていたこの三菱一号館でのポラロイドの展示です。老齢で手が利かなくなってしまい、下絵作業での仔細な描線を描くのが困難になったバルテュスが用いていたのがポラロイドで、その自分の頭の中にあるイメージを精巧に再現し確認するために何枚も何枚も撮影されたものが、三菱一号館の展示室ではなく、資料室で展示されています。 まず、その展示室の小ささ。 今回の展示はバルテュスの作品というのではなく、制作のための資料という位置づけの展示なので、この小さな資料室で展示されているという事が、何だかバルテュス自身の秘められた内側の部分を顕しているようで、私自身は、作者が公開することを望んだか望んでいないか(没しているので確認しようがないけど)は別として、この小さな部屋は、生前は密やかに匿われていたであろう彼の秘匿のようなものを こっそりと観るに相応しい気がしています。




この企画自体はニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで写真展として開催されたものを日本に持ってきたもので、ガゴシアンではポラロイドはマッティングをして額装されていたみたいです。 そうなると、この多数のポラロイドの見え方も全然違ったものになるのかも知れないですね。 どちらがどうとは言えないですが、この建物の横の小さな出入り口から入る裏の小さな資料室での展示の方が、このポラロイドを撮影した時のバルテュスの心情により寄っているような気がします。 実際この撮影も、グランシャレのroom107で、幼いモデルと二人っきりで密やかに行われていたようです。




展示の方法もそうですが、観る人によって感じ方が違うであろう展覧会もないように思います。女性ならば、自分の経験を顧みて、まだ固く成長の痛みを伴いながら変化しているであろう幼い胸をさらけ出す少女に何か複雑で不安で危うい思いを感じとるだろうし、男性は、この後、彼女が遂げていく女性としての劇的な変貌の兆しを見て、そこに神秘的なものすら感じられるのかも知れません。(実際ショーケースの中のモデル アンナ・ワーリーは 確実に成長して行っています。) 母親ならあまり賛成は出来ないような光景を目の当たりにしているのかも知れないし、父親ならその娘の勇気を誇らしげに思うのかも知れません。展示室にはひとりもいませんでしたが同年代の少女は? 同じようにモデルに対峙して画を描いたり写真を撮影したりするアーティストは? モデルのポーズを確認するためだけのこれら膨大なポラロイドなのですが、その先に派生していく感じ方や捉え方は多種多様で、それもまたバルテュスのunavoidableな一面を顕しているかのようです。

注目すべきはその「シツコさ」です。何枚も何枚も微妙に位置を変える手や首の角度、ガウンのはだけ具合、などなど。 バルテュスが一枚の画の中の微妙なバランスに拘り、納得のいくまで(だったのかは知る由もないですが)執拗にポーズを求める様子が展開されています。手の自由を奪われた画家の鬼気迫る制作態度と言ったところでしょうが、不思議と全体の流れは静かに粛々とした印象を受けます。 頭に大きな白い布を巻き、顔を隠すようなポーズの写真もありましたが、このシリーズは何だか倒錯めいていて、一言では言い表しがたい世界観を醸し出していました。アンナ・ワーリーは、8歳から16歳まで(1992年~2000年) バルテュスのモデルを務め、イマジネーションを与え続けました。 他の誰もが得難い特別な体験をしたのだと思います。 画家が自分の描く対象を鋭く静かに観察する眼に晒されて、最初はとても緊張したと語っていて、バルテュスも緊張していたそうです。その緊張感がポラロイドを通してこちらにも伝わって来るようです。 実際にモデルを務めた人物の語る生の言葉をテキストとして読み、展示を観ることが出来るのも、同時代に生きていた作家(しかも巨匠)ならではの事で、彼女のテキストがこの展示に一層厚みとリアリティを与えています。テキストの中でアンナ・ワーリーは自分とバルテュスの事を「共犯者」と表しています。 モデル アンナ・ワーリーから見たバルテュスとのその関係性の表現が、まるでこの展示そのものがバルテュスのひとつの作品であるかのような ドラマチックなものにしています。 上野の東京都美術館で「バルテュス展」を観た方は こちらにも足を運ぶことを強くお勧めします。


「バルテュス 最後の写真 ―密室の対話」展
The Last Studies ; Balthus in Tokyo
2014年6月7日(土) ~ 9月7日(日)
三菱一号館美術館 (歴史資料館)
http://mimt.jp/balthus/




こちらは、ガゴシアンギャラリーのもの。



GAGOSIAN GALLERY
BALTHUS
THE LAST STUDIES
SEPTEMBER 26, 2013 – JANUARY 18, 2014
http://www.gagosian.com/exhibitions/balthus--september-26-2013



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by sanaegogo | 2014-07-26 00:00 | art | Comments(0)
study / copy / print | Go Itami
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伊丹豪さんの「study」に続く「consideration (考察)」とも言える写真展「study / copy / print」が中目黒でやっていると言うので観に行きました。「study」とはまた違ったアプローチで、そして、ご本人の「展示されている実物の写真を観てほしい」と言うコメントの通り、これは展示されている画像を観て初めて、伊丹さんの真意が伝わるといった意味を持ったものでした。(何となく、『写真(photo)』と言うよりも『画像(image)』と言う表現を使った方が相応しいと思ったのでそう表現しています。) 心象というよりは現象を作品化する伊丹さんですが、今回はその様相が色濃く出ていて、実験的な試みも作品の中に取り入れられているようです。ご本人も『写真というメディアの中で自己完結させるのではなく、他者の力を借りてこの接近を推し進めてみたい』と語っているように、グラフィックデザイナーにご自身の作品を委ね、拡散や凝縮、再構成や分解などを施し生まれてくる新しいセグメントを導き出そうとしています。 展示の構成は大きくはふたつのテーマに即していましたが、そのひとつがこれ。 もうひとつは、伊丹さん自身の発見から実験し、自分で確認するというもの。自分の作品の次の段階の変容を示す2方向からの試みなのだと思いますが、私自身は後者、つまり、伊丹さん自身の実験→確認のプロセスを経た作品の方が断然印象に残りました。 そこにはその意外な変容を驚きをもって迎える伊丹さんのエキサイトメントみたいなものが感じられたからです。 こちらの方が楽しかったし、自分自身も驚きをもってその作品と向かい合ったからです。





この 黄色のような金色のような粒子は、プリンターの操作ミスから生まれた、とある作品の一部分だそうですが、失敗によってある部分が失われてある部分が生成されているのだそうです。 もともとは樹木の葉の茂った部分なのですが、これまでの作品のように 写実を極めて抽象化されていく、というパラドックスの極みのような気がして、それがついに分子や原子のレベルまで行ってしまったような印象を受けました。 勿論、先にも述べたように、これは意図的になされたものではないのですが、画像の一部分が拡散されて、そのまた一部分が凝縮して見えて、ひとつの作品の中のこの矛盾みたいなものが、伊丹さんの作品らしい、と思えるのです。 最初は、何か着色した細かい砂みたいなものをスキャナーの上にぶちまけて撮影したのかな、と思って観ていたのですが、キャンパス地に出力したこともあって、布地のテクスチャーの力を借りてひとつひとつの粒が立体的にも見えてくるのです。 もっとよく見ると黄色味を帯びた粒のそれぞれに微妙に様々な色彩のバラエティーがあって、それが出力の網点のレベルまで細かくなって、その粒のひとつひとつもそれぞれ更にイエロー、シアン、マゼンタなどの細かいドットに落とし込まれていくと思うと何だかぞくぞくしました。 世の中は、分子や原子や素粒子などで出来ている。 当たり前の事ですが、樹木の一部を写した画像からそんな事まで想像が膨らんでしまいしまた。





唐突にガーナチョコレートですが。 この作品はドイツの画家であり写真家でもあるジグマー・ポルケへのオマージュだそうです。 絵画を写真的にアプローチするとどのような変化が起こるのか、それを確認したくて試みたものだそうです。 バックのストライプはネットから拾ってきた画素数の足りないウェブ素材でそれを大伸ばしにして対象を接写したところ、絵画ではあり得ない無数のごみや塵が映り込んでしまい、これこそが写真であることの意味だ、と伊丹さんは感じたそうです。 なるほど、写真はある意味、作意を超えて勝手に全ての事実を捕えてしまうという一面があります。 (もちろん、そうでない一面もありますが。) この作品はとても複雑で、色々考えていると矛盾だらけでまるで禅問答のようです。 (確か前には『哲学的』と言う言葉を使いました。) 拡大したもの(ストライプ)の上に凝縮されたもの(ガーナチョコや埃、塵)が乗っていて、平面に立体感を感じる部分もあるし、ある部分では立体感は完全に失われてレイヤーのような構成にも見えます。 さほど厚みのないはずの無造作に千切られた外箱の切り口には、もさっとした紙の繊維の確かな重なり(厚み)と僅かにしろ質量のある感じが見て取れます。背景のストライプは平面の、しかもバーチャルな世界の代物のはずなのに、粗い画像にありがちなエッジのもっこりとした感じは、現実にはどこに存在するのかすら判らない立体感を生み出しています。 写真は『真実(実体)を写す』という意味のはずなのに、これは本当に実体なのだろうか、という不思議であり得ない疑問が湧いてきます。 ここに伊丹さんが語っていた『展示されている実物の写真を観てほしい』という言葉の真意を感じました。ネットの画像を観るだけでは知りえない様々なとりとめのない気づきがそこにはあるのです。 仮想の世界から来たもの(ストライプ)を物理的に実体化(紙に出力)して、そこに別の実体(ガーナチョコ)を置いてまた仮想の世界(デジタル画像)に閉じ込めて、それごと全て物理的に実体化(大きく伸ばして作品化)するとそこには仮想の世界のような見え方と映り込んでしまった実体が混在して・・・・。説明できないほどの矛盾を孕んだ作品ではありますが、この作品を漠然としたもので終わらせていないのは、伊丹さんの弛まぬ探究する姿勢とそのプロセスなのだと思います。
この作品などは特にそうだと思うのですが、伊丹さんは、撮った画像に(良い意味で)無駄な思い入れがないように見えます。カメラという機械のファンクションが伊丹さんの眼の機能まで連続して繋がっていて 既に自分自身がカメラのファンクションの一部になってしまっているかのようです。無駄な思い入れがないから、その画像を客観的に見ることが出来て そこに再び何かの発見があるのでしょうね。心象風景を思い入れたっぷりに撮影するのとは全く異なった世界観です。
若干、言葉の上での捏ね繰り回しが過ぎたような気もしますが、言葉の定義を意識しながら表すのはとても難しいものです。 「写真」と言うものも然り。東急ハンズで買ってきたラッピングペーパーを作品に見立てたものもありましたが、撮影をする人だけが写真家というのではない段階に入って来た、というのはここ最近本当に色々なところで取り沙汰されています。 また、写真表現のすそ野が広がってカメラで撮影するだけが写真ではない、とも言われています。『写真とは何なのか』、『写真家とは何者なのか』 伊丹さんは、その定義を模索して行く探求の旅の最中にあるのだ、とひしひしと感じた今回の展示でした。

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study / copy / print
HAPPA / sakumotto
2014年05月30日(金)- 2014年06月14日(土)
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by sanaegogo | 2014-06-14 00:00 | art | Comments(0)
目撃してしまった!! バルテュス
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バルテュス展
2013.4.19 sat - 6.22 sun 東京都美術館
http://balthus2014.jp/

ついに! バルテュスを観てきました。”ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家バルテュス(本名バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ、1908-2001)” とは、もはや本展のキャッチフレーズとして定着しつつありますが、どちらかと言うと素人よりは玄人ウケするその作風で、ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と云わしめたことは『流石バルテュス』とも言えるし、一方では、ピカソのお墨付きを得て初めて素人にも『そうなんだ』と認識され、後押しされた一面も大いにあるのではないでしょうか。 それは偏に≪ギターレッスン≫(1933)に現されるように、何ともコメントしづらいモチーフを描き続けていた事にあるのですが、ご存じの通り、バルテュスは少女のあられもない姿を「この上なく完璧な美の象徴」として、センセーショナルな数々の作品を残していますが、実にコメントしづらいものがあります。それなりに理解しようとその作品が生み出された意義や意味を探ろうと試みる人もいるでしょうし、『これではまるで少女ポルノだ!』と嫌悪感や拒否反応を示す人もいるかと思います。 そして往々にして、前者は芸術と言うものに理解がある芸術家や目利き、画商といった玄人で、後者は、『(キュビズム時代の)ピカソみたいな画だったら自分にも描ける』と言い放つ素人もしくは一般人なのだと思われます。 どちらの感じ方も否定できないと思うし、その喧々諤々の論議を経てもなお、打ち捨てられる事無く、こうして回顧展が開かれるまでにリスペクトされてきたというのは、やはり『バルテュスはすごい』という証明なのだと思います。 擁護する芸術家はだしのバルテュス・ファンはさて置いて、それがとるに足らないもので、人々にある種の嫌悪感を抱かせるだけのようなものであれば、自ずと葬り去られてしまうと思うんですよね。 でも何故か眼を逸らす事が出来ず気になってしまう。 そして、批判や酷評を浴びせつつも無視はできないし、忘れることもできない。それがバルテュス作品の確固たる存在感などだと思います。 しかしながら、先の≪ギターレッスン≫や《街路》は、1934年に開かれた個展での出品作ですが、この個展は生活に行き詰ったバルテュスが話題作りのために意図的に挑発的な作品を描いたと言われていて、現代で言うと落ち目の女優が話題作りのためにグラビア誌でヌードになっちゃうみたいな、俗人的な意図もあったようです。




《 ギターレッスン 》 1933年




《 街路 》 1933年



こうしてバルテュスは狭い屋根裏部屋のフュルスタンベール通りのアトリエを離れ、クール・ド・ロアンで人間不信から隠遁生活を送ります。この頃の代表作が、そう、かの《 夢見るテレーズ 》(1938) です。隣の住人の娘テレーズ・ブランシャールで、バルテュスにとって最初の少女のモデルです。これは圧巻でした。




《 夢見るテレーズ 》 1938年




完璧な膝頭です。実に完璧な膝です。この膝を見るにつけ、バルテュスの画人としての技量がひしひしと伝わってきます。手を頭の上で組むこのポーズは女性の色気というか男の人を誘うような雰囲気の象徴のように用いられていますが、すらっと伸びやかな足はまだ少年のようでもあり中性的です。 そこから覗き見える下着が、見るからにだぶっとした子供の履くパンツのようで、微笑ましくもあり、そのアンバランスさが大人への過渡期を表しているような気がします。自分自身にとっても、やはりこの画が一番印象深く、傑作と呼ばれるに相応しいと思います。もうひとつ、ワタシが好きな作品、レストランの壁画として描いたというネコの画(1949)も、この頃の作品だそうです。




《 地中海の猫 》 1949年



十数年ここで暮らした後、バルテュスはさらに引き籠った暮らしを求めて、パリの田舎へ移り住みます。(1953) シャシー村にある古城です。ここで血縁のない姪(兄の妻の連れ子)と2人きりの現実逃避とも言えるような生活を送るのですが、それがフレデリックです。 最初は絵心を刺激されてモデルとして一緒に暮らしていたのですが、やがて恋愛関係に陥るようになります。常識的に考えると兄夫婦はそれをどのように受け留めていたのか、と邪推してしまうのですが、そんな事とは別に、この頃のバルテュスの画は柔らかで穏やかな筆致で、心身ともにとても充足して満ち足りた暮らしの中にいたんだろうなー、と察することが出来ます。なんだか、とても『光源氏』的でもあります。




《 樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭) 》1960年

この頃のバルテュスの画風はゆったりと牧歌的であり 心の安定と充実感が滲み出ています。 色を細かく何層も重ねたフラスコ画のような雰囲気がとても美しいです。


バルテュスは、突然にその安穏とした生活に終止符を打ち、ローマへ旅立ちます。ルネサンス以来の古典芸術の殿堂ヴィラ・メディチ、その館長のオファーを受けヴィラの修復を任されたからです。この時バルテュスは既に53歳。「 五十にして 天命を 知る。」凡人ならば自分の天命を知り、人生の集大成に入ろうとする知命の歳にして、更に伸びしろがあるとは、やはり只者ではありません。 この時期、ヴィラ・メディチでの16年間は寡作でしたが、幾つ目かの転機、節子夫人と結婚をしています。 やはり歳の差24歳。 しかも歳よりもだいぶ若く見られがちな東洋人。バルテュスの幼女趣味はやはり否定できないような気もします。そして、節子夫人と移り住んだ最後のアトリエ スイスの山中の小さな村ロシニエールにあるスイス最古の木造建築グラン・シャレ、ここは素晴らしく素敵でした。 篠山紀信が撮影したバルテュス晩年の暮らしの様子が展示されていたのですが、この写真がまた素晴らしい。 自ら後世に残るような話題作を描きながら自分自身とその暮らしぶりも素晴らしい作品になり得るというのは真の芸術家たる証のようなものです。





そして、このグラン・シャレではポラロイド写真を基に作品を描くようにあるのですが、このポラロイドの展示ももうすぐ始まります。(これも必見ではないでしょうか。) そしてモデルとなったのはまたしても少女、隣の家に住んでいたアンナ・ワーリーでした。

バルテュスの代表作とされる大多数の画は、不遇だったパリ時代にあるようです。 独特の不自然なポーズ、それが醸し出す画面の中の不思議な緊張感。 他の何者も踏み入って行けなかったバルテュスだけの世界観。誰風でもなく、バルテュスが描くまで誰も見たことがなかった作風。バルテュスは長命でしたが、その才能は早熟だったようです。




《 美しい日々 》 1944-1946年

人間関係を極力避けて厭世的だったクール・ド・ロアン時代(実際描かれたのは第二次世界大戦中の疎開先のスイス)に描かれたもうひとつの傑作で、本展のキービジュアルのひとつでもあります。


思えば、展覧会の最初に観た、わずか11歳で書き上げたという『ミツ』の絵本。これも触れておかなければいけません。そして『嵐が丘』の挿絵。 独特さの片鱗は既にこの時随所に散りばめられていて、挿絵の中のポーズを基に後に数点の大作を描いたりしています。




《 mitsou 》1919年



もっと言えば、その早咲きの才能は、あまりにも洗練され過ぎていて、人々の理解の範囲を超えてしまっていたのかもしれません。 もしかして、バルテュスが幼女趣味でなければ、そのモチーフが大人になる前の少女でなければ、世間の理解の眼はもっと違ったものになっていたのかも知れないとも思います。 幼女趣味であった事が唯一のバルテュスの欠陥だったのかも知れません。それはバルテュスの落度です。 でも、他の多くの大家のように成人した艶やかな女性を描く。そしたら、それはバルテュスだったでしょうか。きっと違います。確固たる、才能あふれる描画の技術に裏打ちされて、世間のモラルめいたものに反しても自分が最も美しいと思うものを描き続けたバルテュスだったからこそ、不遇のうちに葬り去られることなしに、今日も無二の存在感とその異彩を放ち続けていられるのだろうと思うのです。 その頑なまでのスタイルがあったからこそ、バルテュスはバルテュスであって、他にはいない稀代の画家、そんな立ち位置を確保することが出来たのです。

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by sanaegogo | 2014-05-17 00:00 | art | Comments(0)
『機械になりたい』 アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
 


今日は森美術館でやってるアンディ・ウォーホル展。 終了間際だし、G.W.だし、さぞ混んでるだろうなーと思ってたんですが、予想に違わず・・・・・、混んでました。 アンディ・ウォーホルは、(誰しもがそうだと思うのですが)、アート好きな人にとっては一度は通る道です。 斯く言うワタシも過去にどこかでやったウォーホル展に行ったりしてて、クローゼットの奥底を探れば図録やポストカードが出てきます。

森美術館10周年記念展
アンディ・ウォーホル展:永遠の15分
会期:2014年2月1日-5月6日
会場:森美術館


人気も高く、これまで様々ウォーホルをテーマに展覧会が開催されて来ましたが、今回は展示作品点数約400点。初期から晩年まで包括的に紹介された日本では20年ぶり過去最大級の回顧展だそうで、2012年からシンガポール、香港、上海、北京とアジア各国を巡回してこの度東京にやって来ました。ウォーホルといえば、シルクスクリーンで制作された作品があまりにも有名で、というか、それをもって私達は『アンディ・ウォーホル』というものを認識している感がありますが、”初期から晩年まで”とうたっているその言葉どおり、並べられた作品はシルクスクリーンの他にドローイング、スケッチ、写真、保管していた様々な品、映像作品、広告マンとして仕事をしていた頃のビジネスアート、他のアーティストとのコラボレーション作品と本当に多岐に亘っていて、じっくり観るのに結構な時間がかかりました。 あと特筆すべきはセクションが変わる所々に彼の残した含蓄ある語録の数々です。 これは面白かったです。必見です。 その時その時の彼の思考のベクトルが刻み込まれた短いテキストは、作品の流れと合わせて彼の生きた様を顕していて、その人物像や人生観までも際立たせています。サブタイトルになっている「永遠の15分」は、彼の語録の中の

In the future everyone will be world-famous for 15 minutes.
( 誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。)

と言うもの(1968年)から来ていますが、これが実に深いですね。 謎めいていますね。

退屈を好み・・・・、

I like boring things.
( 退屈なものが好きなんだ。)

オリジナルではなく他人と同じであることを良しとし・・・・・、

But why should I be original? Why can't I be non-original?
( なんでオリジナルじゃないといけないの?他の人と同じがなんでいけないんだ?)

I think everybody should be a machine. I think everybody should like everybody.
( みんな機械になればいい。誰も彼もみんな同じになればいいんだ。)

マクドナルドを世の中で一番美しいものと言い放つ・・・・、

The most beautiful thing in Tokyo is McDonald's.The most beautiful thing in Stockholm is McDonald's.The most beautiful thing in Florence is McDonald's. Peking and Moscow don't have anything beautiful yet.
( 東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワはまだ美しいものがない。)

そんな ウォーホル。 名声を得て不動のものにしてもなお、誰しも(誰でも)有名になれる、と預言めいた事を言う。 あまりにも突出した個性をもってしまった才能の没個性への回帰願望みたいなものなのでしょうか。 いずれにしても自分自身の好むと好まざるとに関わらず、彼自身が超一流の「オリジナル」となっている事には変わりはありません。
そして、展覧会を進んでいくと、こんなテキストに出逢います。

It’s the place where my prediction from the sixties finally came true: “In the future everyone will be famous for fifteen minutes.” I’m bored with that line. I never use it anymore. My new line is, “In fifteen minutes everybody will be famous.”
( 『誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう』僕は60年代にそう予言したけど、それはすでに現実になった。僕はもう、この言葉には飽き飽きしているんだ。もう二度と言わない。これからはこう言う。『誰もが15分以内に有名人になれる、そんな時代が来るだろう』。)

とは、1970年代の末の言葉。突然にこう言い放つのですが、『誰もが15分間なら有名人になれる。』のフレーズも未消化なワタシにはその真意は依然よく解りません。それが『15分以内に』に変わったのはどういう心境の変化なのでしょうか。 「有名になるのは特別な事ではない、誰にでもチャンスはあるんだ」、と言うポジティブなメッセージにも聞こえるし、一方で、言った本人は大して意味を考えて口にしたのではないような気もします。ウォーホルは感覚の人だったのです。実にシュール(超)でエキセントリックです。 そのシュールで鋭い感覚(直感)で多様な色彩のパターンを操り、シルクスクリーンのように数限りなく複写ができる作品を量産しました。内省を重ね、意味の上塗りをして創りあげていくそれまでのアートとは完全に一線を隔した世界観です。もっとも、感覚の鋭さを感じざるを得ないのは、ドローイングを見ても解ります。殆ど2度描きの気配が見うけられず、一気に一発で描き上げられているその作品の数々を見れば、彼がその頃から感覚の人であった事は一目瞭然です。
またある時、ウォーホルはこんな言葉も残しています。

If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me and there I am. There's nothing behind it.
( アンディ・ウォーホルって人間について知りたければ、ぼくの絵や映画を、ただ表面的に見ればいい。そこにぼくがいるから。裏には何もないんだ。)

これを言葉通りに解釈すると やはり彼の言葉は思いつき(という言葉ほど乱暴で雑ではないですが)で口から出てきた 大して意味を成さないもののように感じられます。 ただその時感じた事をストレートに口にして、意味をなさない、というよりは、深い意味(裏の意味)はない、の方が妥当でしょうか。でも またある時には、

I'd prefer to remain a mystery. I never like to give my background and, anyway, I make it all up different every time I'm asked.
( 謎を残しておきたいんだ。自分がどんな人間かは話したくない。だから聞かれるたびに答えを変えるんだ。)

とも言ったりします。 深読みさせるような他意の無い言葉を吐き、そこに意図的なものは実はなかったりする感じに、結果として私たちは翻弄されてしまうのです。 まさに表裏一体とはこの事ではないでしょうか。 裏はないけど謎はある。 今回の回顧展はアンディ・ウォーホルという人の人物像を紐解くアプローチだと思うのですが、彼の人間としての深さとか広さとか言う尺度で考えると、凡人はその巧み(?)な語録にすっかり混乱させられてしまうのです。
彼はこうも言います。

My mind is like a tape recorder with one button-erase.
( ぼくの心は、ボタンひとつで消去できるテープレコーダーみたいなもの。)

どこか自虐的でもあり、スタイリッシュでもあります。

・・・・・と、語録のカッコ良さに引きずられてきましたが、勿論、作品も堪能してまいりました。

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まとまった数のドローイングを観たのは初めてでしたけど、シルクスクリーンの尖がったウォーホル作品とはまた違った味わいのソフトな作品が多くありました。 ネコが好きだったんですね。 眼が大きくくりくりと描かれた可愛いネコたちの甘えたポージングが炸裂してました。



独特の描画法は、「ブロッテド・ライン」(しみつきの線)と言われ、イラストレーターとしても成功を収めたウォーホル独特のものだそうです。今回は図録ではなくて、ドローイング集を思わず購入。



子供向けの作品のコーナー。 色彩が豊かなので、子供の情操教育なんてのにも良いのではないでしょうか。 刺激的なモチーフは一切なく、子供の眼線を意識してか、低い位置に飾ってあったのが心和みます。



希少動物、絶滅危惧種の作品のコーナー。 彼のシルクスクリーン作品でよく見られる奔放で自由な感じのする刷りのズレがあまりなく、きちんとしていて、何処となくデジタルな雰囲気を漂わせています。色彩感覚、秀逸です。



彼の撮影した写真も今回多く展示してありましたが、写真もよかったです。 セレブリティ達のウォーホルならではの距離感で撮影されたスナップは、彼とセレブの間の微妙な距離感を顕しているような気がします。



そして、キャンベルスープ。 これはMoMAでも観ました。 日本の美術館は作品の前で写真が撮れないのが残念ですね。 ましてやマスプロダクト、量産や複製の中にアートを見出した彼なのです。 ウォーホルなら現在の「拡散」という現象についてどのように語ったのでしょうか。

他に、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボ作品で、「Year of Rat」(かな?)というバスキアのネズミが描かれていた黒とグレーの画がとってもキュートでした。イーディ・セジウィックやベルベット・アンダーグラウンドの映像作品など、ウォーホルが生み出した多くのの伝説的作品が一堂に会す、全てを曝け出したような回顧展だったのに、その人物像や心のプロセスに依然「謎」を感じる人は多かったのではないでしょうか。 しかしながら、その「謎」には何だか「釈然」としたものがあるのが、いかにもウォーホルらしいのですが。

≪展覧会構成≫
  1. ウォーホル作品のアイコン的存在、シルクスクリーンによる名作の数々
  2. ウォーホルとセレブリティ
  3. 一流ファッション誌『ヴォーグ』などにも掲載されたドローイング作品
  4. 現代美術史に燦然と輝くウォーホルの彫刻作品
  5. 約25本の実験映像作品を迫力ある展示空間で上映
  6. 天才画家、ジャン=ミシェル・バスキアとのコラボレーション
  7. 伝説のアートスタジオ、ウォーホルの「ファクトリー」を体験型空間として再現!
  8. ウォーホルの私的アーカイブ「タイム・カプセル」から日本に関する品々を本邦初公開!


Warhol Café でチーズバーガーセットも食べてきました!

   


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by sanaegogo | 2014-04-27 00:00 | art | Comments(0)
Study | Go Itami | POETIC SCAPE
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伊丹豪さんの作品と言えば、ブライトな配色の幾何学体的で不思議な画面構成の写真が持ち味だと思っていましたが、この「Study」では、その味もありつつも、その中に心象風景みたいな、言い様のない何らかの気持ちが入り込んでいるような、そんな印象を覚えました。一見幾何学的で無機質なもののレイヤーのような画面構成の中に、ふと入り込んでしまった何かの情景、そして、それにふっと持って行かれてしまう 何かの気持ち、そんな印象です。 その情景は、伊丹さんが意図的に混ぜ込んだものもあるし、ご本人も知らずに、後から写真を確認して判ったものもあるそうです。
中目黒のPOETIC SCAPE に 伊丹豪さんの 「Study」を観に行ったら、ご本人が在廊してて、土曜日だった事もあって、常連さんや顔馴染みらしき方々も色々いらしていたんですが、見かけない顔の私にも色々と作品の説明やお話をしてくれました。







今回展示されていた作品の中では 「これぞ!」という感じの1枚。 まるでケント紙にきちんとマスキングテープを貼って、色むらがないように丁寧に塗り込められたポスターカラーのような発色の赤に眼が行きます。もちろん、これは修正なしの一発撮りの作品だそうですが、パースを全く取り払っているにも関わらず、遠近感がうっすら残る風景が混在している画面は、不思議な感覚のズレを引き起こします。 その横には、橋げたの隙間から水面を写したという、作品があったのですが、それも全ての遠近感を取り払った中に残る水面揺らぎが風景の中のミクロを顕しているようで面白かったです。 その一連の展示の流れはモンドリアンの絵画を連想させました。 「写真は立体的なものを写すものなのに、全てのパースを取り払ってしまうと平面のレイヤーのようになるのが面白い。」と言うような事を語ってました。 その撮影に対峙する感覚がまさに「Study」なのですね。







私がこの展示で一番惹かれたのがこの写真。これまでは、どちらかというとピントを絞った作品を作ってきましたが、逆に絞りを開いてぼかしつつ意外なところにピントを当てるのもありかな、という試みだそうですが、これも「Study」なのですね。 鉄の手すりの上にうっすらと溜まった雨が木立の影を映していて、そこにピントを当てて撮影したそうです。 近くにピントを当てながら、それは実はそこからもっとも遠くのものにピントを当てている事になっている。 何だかとても哲学的なアプローチです。







この1枚もとても好きなのですが、暗がりの中に浮かび上がる光を集めたグラスの透明な部分とその周りに浮かぶ気泡は、まるで宇宙の深淵のような雰囲気です。 その隣の作品には夜の闇に浮かぶ星空? と思いきや、CDの盤面の傷をクローズアップで捉えたもので、そこには日常の中に宇宙を模した空間が出来上がっていて、さっきのモンドリアンのシリーズといい、写真の並びもとっても洒落てるなぁ、と。







ビー玉とそれが置かれたタオル(ラグマット?)との質感の対比。 光と影の対比。 実物を忠実に捕らえているのに、具体性は消失し、実体はどんどん抽象的になっていきます。何だろう? と自分の視覚をからかわれたような錯覚に陥るのですが、決してデフォルメされている訳でもなく、変容されている訳でもなく、ただただ、実体を極力まで忠実に捉えているのです。 それにしても、この感覚は。 伊丹さんの作品は「視る」という行為を意識させます。







伊丹さんの作品はもしかしたら、認知とか、知覚心理学とかの切り口で掘り下げたら面白いかも知れませんね。曖昧な画像を視ると人は全体像や自分の納得できる形にそのものを持っていこうと視覚や脳を働かせます。 ゲシュタルトの崩壊と再構成です。







そんな理屈はさて置いても、ただ単純に画が美しい。 この浮遊感。 どの作品も漠然としたところがなく、そこには伊丹さんの試行錯誤とチャレンジと発見が作品を彩る要素として見て取れます。 どの作品にも意図があり、何かを探求しようとする作家の姿勢が伺えます。まさに「Study」なのですね。

伊丹豪 展【study】
POETIC SCAPE
2014年2月11日(火・祝)~3月23日(日)


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by sanaegogo | 2014-03-09 00:00 | art | Comments(0)