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昔の名前でやってます。 杉本博司 趣味と芸術 - 味占郷/今昔三部作


千葉市美術館 開館20周年記念展
杉本博司
趣味と芸術 - 味占郷/今昔三部作
会期 2015年10月28日(水)~12月23日(水・祝)
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/1028/1028.html

杉本博司のこれまでの足跡については、今更ここで拙く紹介されるまでもありません。ニューヨークを拠点にして制作を続けている杉本氏ですが、一時期、生活のために日本の古美術品や民芸品を扱う古美術商をしていた経験もあって、日本の古美術や古い建築物それに古典文学への造詣が深くかなりの目利きである事でも知られています。
この杉本展もこうした彼のバックグラウンド(というか、根底に流れる理念みたいなもの)を如実に余すところなく組み入れて繰り広げられている世界です。杉本さんが実に愉しみながらこの展示を構成していったのが眼に浮かぶようです。

展示は2部構成になっていて、まさに「杉本博司 趣味と芸術」です。「味占郷」は、雑誌『婦人画報』で連載されていた「謎の割烹 味占郷」に登場する架空の高級料亭の屋号。ゲストは亭主が杉本だという事を明かさずに招かれ、杉本氏がゲストに相応しいしつらえと料理でもてなすというもので、洒落者杉本のお眼鏡にかなった品々、器や掛け軸、丁度品などが、軽妙でウィットに富んだ文章と共に展示されています。展示されているのは、杉本博司の作品ではないのですが、味占郷を訪ねるゲストに合わせたお料理を杉本氏自ら考え、支度をしていて、それに合わせた小道具や軸が飾られているという趣向です。これがとっても楽しくもあり、素晴らしくもあり、詫びも寂もあり、とてもよかったのです。杉本氏の見立てでゲストに相応しいと選んだ“ならでは”の小道具はその人の人となりを顕し、その選ばれた小道具がまた杉本氏の人となりを顕す、そんな風に幾重にも重なった杉本さんの審美眼の連鎖です。増幅です。すべてが結局杉本博司自身を表現することに至っていても、自己顕示の高さが嫌味に映ることなど決してなく、洒落ていて、細やか。それは洞察力の鋭さにも通じるもので、間接的なのにその表現の豊かさは、まさに数寄者です。この「謎の割烹 味占郷」は、まとまって1冊の書籍になっていて、思わず買い、でした。日々を風流に設える沢山のヒントが記されています。自分の作品を飾らずして、自分の世界観を具現化する、それがひとつの鑑賞に値する作品群になるなんて、そうそう出来る事じゃないですね。



「阿古陀形兜」南北朝時代、「夏草」 2015年 須田悦弘
この兜は、戦場で地中に長い間埋もれていたものを掘り起こしてきたものだそうです。



泰山木の花。英名はMagnolia。山のような泰然とした姿から名付けられたと言われます。好きな花のひとつ。



月面を描いた軸と球。古風な設えなのですが、現代科学を感じるようなミスマッチがあって、
とても好きな軸のひとつです。


さて、もうひとつのフロアは、杉本博司の「芸術」にまつわるもの。そう、彼の生み出した作品です。「趣味」のフロアのどこか軽妙で洒落の利いていた雰囲気とはがらっと異なり、静寂が空間を包んでいました。 杉本博司の作品を通しての足跡が「今昔三部作」と題して≪ジオラマ≫、≪劇場≫、≪海景≫の初期作から最新作までが展示されています。特に≪海景≫の部屋は、土地柄か、休みの日なのにとても人が少なく、静かに情景と向き合うことが出来て堪能できました。どの海も水平線で空と海が画面の中で丁度2分割されていて、それぞれの海の個性は著しく没されているのですが、それぞれ異なった季節や時間、天候の下で撮影してあるからでしょうか、どことなくその海を顕しているかのように眼に映ります。どの部屋も時間を押し込めてあるかのような、厚みのある静けさが漂っていて、心象の中で動画を見ているような雰囲気があります。何の変哲もない光景のように映っていても、≪劇場≫などは、かつては人々の賑わいがあった映画館を貸し切って、その館に合わせた映画を観客がないまま上映し、それを撮影しているそうで、ここにも杉本博司の贅沢ながらどこか詫び寂びがある見立ての美学がふんだんに盛り込まれています。そんなエピソードを知りながら観れば、写真はその観えるものだけではない深いストーリーを孕んでいるように感じられるし、知らずに観てもまた、写真には何も写らなかった真っ白に光るスクリーンを何のデフォルメも加えず、単調とも言える正攻法の構図で捉え淡々と並べた様子に、もやもやと杉本氏の制作意図を知りたくなるような不思議な欲求で画面に引き込まれていくのだと思います。どのシリーズも最古作から最新作が並べられているのですが、均一のトーンで統一されていて、俄かにはその変化は見て取れないのが、ある意味流石です。すべてが均質ながらも、1枚の写真の中に、そして並べられたその流れの中に、時間の厚みがあるのです。


≪海景≫の部屋。 海のざわめきを感じるのに、一方では静寂を感じる不思議な雰囲気がただよっていました。



≪劇場≫の部屋。 それぞれのキャプションでは、何の映画が上映されているか、作品名とともに杉本さんのそれを選んだ心情が語られていました。


そして、尾形光琳の「紅梅白梅図」をモノクロームで再撮影して「月夜の梅」に見立てている「月下紅白梅図」(2014) 、これが見たかったのです。ほの白い月明かりに浮かび上がっているかのような、紅梅と白梅それに流れるさざ波立った川は、光琳の時代から数千年の時を経て、全く趣の違った姿を顕したのです。プラチナプリントは千年の寿命をもつそうなので、千年後は杉本博司のこの「月下紅梅白梅図」が歴史に名を残しているのかも知れませんね。





屏風の中の白梅が散り落ちているようで、とても風流です。こんなところに杉本さんの洒落心を感じざるを得ません。

この展覧会に向けて、杉本さんはユーモアたっぷりに、

静聴と衰退、希望と諦念、未熟と完熟、青さと傲岸、昔の名前でやってます。
--------------------杉本博司

と残しています。
趣味と芸術、洒落心と真摯に芸術に向き合う視点、時間の厚み、作品のシンプルさとは対照的に、実に多様なものがこの展覧会にあります。 明白なインパクトがなく、人によっては「ふうん・・・」で終わってしまうかも知れないけど観ておくべきもの、というのが世の中にはあると思います。 これはその手のものだったと思うし、盛り込むものを限りなく控えた不足の美みたいなものにジワリと利いてくる杉本博司という人の世界観を顕した、作品を通して、いや、作品は単なる導入で、まさに杉本博司の芸術感というものを体験するものなのだと思います。

Facebook:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10206665310009838
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10206665318210043

≪海景≫



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by sanaegogo | 2015-11-29 00:00 | art | Comments(0)
Nerhol: Slicing the Onion





[Exhibition] Nerhol: Slicing the Onion
会期 2015年7月3日(金)~7月26日(日)
会場 POST
http://post-books.info/news/2015/6/26/nerhol-slicing-the-onion


来週は行けそうになく、でも絶対見たかったので、この日の夕方駆け込みで観て来ました。
ネルホルの” Slicing the Onion”です。













Postでの個展は2012年の4月以来だそうですが、私は最近のでは、昨年の秋にIMA CONCEPT STOREとGYREで開催された “Phrase of everything”のシリーズをフィーチャーしたものを観ました。 でも、私見ですが、断然こちらの方が良いと感じます。落ち着いた気持ちで観ていられるし、「玉ねぎ」というシンプルで没個性なアイテムを題材にすることによって、ネルホルの示そうとしている事の意味や、その表現手法が解りやすく伝わって来るように感じます。 そして相反する要素の現象が1点の作品の中に凝縮されていて、玉ねぎの円らさゆえにそれがはっきりと見て取れるのが面白く感じます。玉ねぎの横方向の成長を表すスライスした断面に現れる層×それらを写した1枚1枚を重ねた束を掘り下げていく断面に現れる縦方向の層、自然発生的な成長×人為的な彫っていく作業、観察という静的な作業×シートをカットしていく動的な作業など、ただひとつの玉ねぎなのに着眼点が様々あって観ていて飽きる事を感じさせないものがあります。フォルムがシンプルだけに彫り込まれた稜線がより際立っていて、その作業の美しさにも改めて感嘆しました。 今まで観たネルホル作品は、人物の顔と対峙するという事もあるのだと思いますが、どことなくアグレッシブで言い知れぬ威圧感があったような気がしますが、このシリーズは一転してどこか穏やかで、「観察」という対象を優しく包み込むような視点が、展示されていた空間にどことなく粛々とした時間の流れを生み出しています。玉ねぎの刺激が強すぎて、眼が沁みてくる事もありません。(笑)













『日々私たちの食卓へと運ばれてくるさまざまな食物。
それらの由来は様々ですが、大量生産・大量消費を未だにベースにし続ける経済は、食物においても生産・流通・消費の様々な場面を規格化することで、その構造を支えています。
(中略)
私たちが避けがたく/知らずに加担し続ける資本主義の構造をそれとなく示唆しながらも、表象的な魅力を軽やかに担保しています。』
(Postのテキストより引用)

題材とした玉ねぎの汎用性から観る人が感じる事の許容が大きく、その空間から何を観るかの多様性も、そしてその人の感じたものを確認し合ったりするのも、この展示の奥深さを物語っているような気がしました。

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by sanaegogo | 2015-07-19 00:00 | art | Comments(0)
赤鹿World炸裂! 「Did you sleep well?」@松の湯



少し前の事ですが、赤鹿麻耶さんが江戸川橋の銭湯を舞台に刺激的な展示をしていると言うので、駆け込みで観て来たんです。 新宿(あの辺は文京区ではなくて新宿区なんですね。)にある銭湯 松の湯さんの2階でそのハッチャけた展示は開催されていました。 1階ではまだ、松の湯さんは通常営業されています。 2階は使われなくなっていて、その刺激に富んだ空きスペースをノビノビと活用して 赤鹿ワールドが炸裂していました。


 




言い古されたハナシを持ち出しますが、ホワイトキューブのスペースでの展示は墓場のようなものだ、と言われ始めて以来、大分年月も経ちましたが、この事を振り返って考えてみても、赤鹿さんのその展示は、エネルギーに溢れていてまるで展示全体がひとつの生命体であるかのような躍動感でした。これは赤鹿さんの写真の作風によるところも大きいと思うのですが、とにかく自由、そしてそれを謳歌している感じです。
完全なるデジタルプリント世代で、これを見たらある種の人々は完全に眉を顰め、しかめっ面をするだろうけど、当の本人たちはまったく頓着ないし、旧態依然としたものと自分たちを比較したり、対抗意識みたいなものはまるでないのは一目瞭然です。自分たちのマインドにフィットしたフォーマットでの表現を用いて、真摯な態度でやりたい放題を追求している姿はある意味清々しささえ感じられます。







 




デジタル撮影も手軽だし、インクジェットのプリントも手軽にできる、これはもちろん、ある水準を超えた技術を習得してその素養を持ち合わせていることが大前提なのですが、題材の「場」づくりから、撮影、プリントして選んで、惜しげもなく床に敷き詰めたり、水没させたりと、奔放に作品を並べて展示していくその一連の作業の全てが、ある程度の量産が出来る贅沢さを孕んでいて、フィルム1本の撮影に集中し、現像、プリントは全神経を集中させる真剣勝負、というスタイルとは大きく袂を分かっています。 言わずもがなですが、どちらがいいとか、悪いとかの話ではないのですが・・・。展示の方法も、ひとつひとつの個々の作品を味わって、そして作家が出し切っているものを感じ取ってほしい、という様なスタンスのものではなく、怒涛のように作品を並べ、整然とそこに展示している作品を「見てほしい」という受動的な体のものでもなく、完全にこちらにアピールして、観るものを巻き込んでしまっているような感があるます。 偏に赤鹿さんの作風と表現のフォーマットとそれを観る「場」づくりの一貫性のブレなさがなせる業だと思いますが、ご自身に一番ぴったりの表現方法を見つけることに成功しているのは間違いないでしょう。







一体、何人の登場人物がいるんでしょうか。突飛で奇抜なコスチュームに扮して、至極馬鹿馬鹿しい事を繰り広げる満面の笑顔の仲間たち。 これだけの面々を束ねている赤鹿さんの人としてのコミュニケーション能力の素晴らしさも垣間見られる気がします。作品としての写真を撮る時、人に見せる場をつくる時、そこには卓越したコミュニケーションの力が介在していて、完全なるコミュニケーションの世界がそこにも展開されていて、それは自分の世界観を双方に知らしめるツールであることを認識させられます。同世代の人たちがみんなで何かを写真をとりながらこうやっているところを見るとライアン・マッギンレーとか思い出します。あの幻想的でシリアスな雰囲気とはまた少し違うのですが、同世代の共通点なのでしょうか。












とにかくパワフルでエネルギッシュ。 色彩感覚もポップで可愛いです。
表現方法の話ばかりになってしまいましたが、写真も確実にうまいです。なので、あそこまでの大判プリントにも耐えられる確かな技術としての写真も感じられます。




これはブックの中の1枚ですが、この写真好きです。




あともう1枚がこれかなぁ。 ブックでまとめてある方は、少しシリアスチックな雰囲気を醸してました。



赤鹿麻耶写真展
ぴょんぴょんプロジェクト vol.1
「Did you sleep well?」
http://akashikamaya.com/blog/?p=3170

大阪展|
4月24日(金)〜30日(木) 11:00〜19:00(日没まで)
桃谷の空き地 特設スペース(大阪市生野区桃谷)

東京展|
6月5日(金)〜14日(日) 14:00〜21:00
江戸川橋・銭湯 松の湯2階(東京都新宿区山吹町) 



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by sanaegogo | 2015-06-13 00:00 | art | Comments(0)
Sarah Moonの写真に降り積もる時間と記憶 |NOW AND THEN |


時間は確かに流れているものだけど、サラムーンはそれを最も美しい瞬間で止めてしまう事が出来るようです。サラムーンの写真に写し出された世界には、流れている時間とそこに閉じ込められた時間の双方を意識することができます。その写真の中の風景や動物たちのいた時間は、そこに封じ込められるまで確かに流れていたのだと感じられるし、サラムーンがシャッターを切った瞬間、まるで石になってしまう昔話の物語のように突然に、かつだんだんとそこに留まって沈殿していっているかのようです。そして画像の中で動かず物言わぬ存在になっても、「私は覚えている」と観る人にその記憶を語りかけているような雰囲気を醸しています。
実際サラムーンの写真は時間をかけて創りだされています。 ネガ付きのポラロイドで撮影し、薬剤で定着させないまま化学的な変化を待って創り上げられています。 なので、その世界に時間が沈殿しているというのは、まんざら見当外れではないのです。写しだされたものは、徐々に、徐々にその画像の世界の中の住人になっていくのです。またそれが、一見儚げでありながら、ずっしりとした存在感と濃厚な空気感を感じる彼女の作風の由縁でもあるように感じます。


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今回の個展は、2013年パリの自然史博物館で行われた 『Alchimies』展の出品作や新作を中心にカラーやモノクロームの写真で構成されていますが、これはサラムーン本人のセレクトによるものだそうです。この『Alchimies』は錬金術師という意味なのですが、このentitleがまたとてもとても洒落ていて、初めてその意味を知った時は、何ともいえないその言葉の響きにうっとりとしてしまいました。 自然史博物館にひっそりと佇んでいる剥製となった動物たちの記憶と時間から、まるで錬金術師が僅かばかりの金を生成するためにたくさんの手間と時間をかけるように、サラムーンの作品は仕上がっていくのです。私が訪れた時は人もまばらだったそのギャラリースペースは、まるで時間が粒子のようにさらさらと音を立てて流れているかのような雰囲気でした。言葉の響きと言えば、”Sarah Moon“という音の響きもとても素敵です。
自分として2冊目の彼女の写真集を購入したのですが、私が「これ、好きだなぁ。」と思った作品で収められていないものがありました。 でもきっと、その作品は、彼女の写真が生成されていくプロセスのように、私の記憶の中でゆっくりと時間をかけて沈殿し、いつまでも残っていくような気がしています。





NOW AND THEN
サラ・ムーン/SarahMoon
AKIO NAGASAWA
2015年4月24日(金)- 6月14日(日)
http://www.akionagasawa.com/jp/exhibition/now-and-then/










『Alchimies』
パリの自然史博物館の展示室には作品の中で時間を止めているライオンの剥製が展示されていたそうです















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by sanaegogo | 2015-05-10 00:00 | art | Comments(0)
Exhibition05: 'Tarantella' | Go Itami
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GW中にいくつか気になる展示を観て回るつもりにしていたのですが、その中のひとつがこれ。伊丹豪さんが今取り組んでいるというシリーズがCIBONEで観られます。作家は何に向かって作品を生み出し、誰に向かって観せたいのか、というのがありますが、今回はCIBONEというショップの中での展示。 作品を観ることを目的として足を運ぶ美術館やギャラリーではなく、ふらっと入って来るお客さんもいる様な環境です。 なので私もそんな風に作品を観てみたいと思ってふらっと行って来ました。(とは言え、CIBONEの告知でキービジュアルになっていた3枚のアブストラクトなランドスケープの作品を見て、「もっと観たい!」と思っていたので、似非っぽい行為ではありますが。(笑))



Exhibition05: 'Tarantella' @CIBONE
From April 29 (Wed) to May 19 (Tue)
Go Itami


私が勝手に考えている伊丹作品とは、「フォーマットの中で拡散と凝縮の間を行き来する矛盾を孕む世界」といった感じでしょうか。画角の外側にも広がっている世界をぎゅっとフォーマットの中に凝縮させることでマクロがミクロへと変容し、そしてまた、画角の中にぎゅっと押し込まれ凝縮させることで、実はその全貌は自分の視野の外にも広がってく、そんなふうに拡散と凝縮の間を行き来するような作品です。そのベクトルの方向が言い表しがたい違和感を生み出しています。対象をある極限まで拡大して画角の中に収めようとするベクトルによって、その全貌は外へと向かって押し出されて広がっていくようです。外へと広がろうとする光景の中から1点を捉え、その外へ向かうベクトルと逆行してフレームの中に凝縮させるような作業がそこにあると感じます。これはカメラやレンズの機能からすれば、至極当り前のことなのかも知れません。とても汎用性のあるものです。ただそこに某かの伊丹豪らしさがあるのは、これも当たり前の事なのかもしれませんが、そこに伊丹豪だけのフレーミングがあるからだと思います。そして、伊丹豪のフレームをもってその世界から何かを切り出している手のものではなく、ただそこに境界線を引いただけのもので、それは決して分断されてはおらず、フレームの外にも依然広がっているような感覚を覚えます。もちろん、今までの作品を一つ一つ見ればその感覚に当てはまるものばかりではありませんが、ひとつの個性としてそれは確かにあります。これまで撮影の対象は、部屋の中にある小さな生活に密着した品々や、日常の生活の中で目にする当たり前の風景が多かったようにおもいますが、今回展示されている作品は、NASAの衛星写真。いよいよ地球規模になったのか、という感じです。スケールの大きさが一気に拡大しましたね。





地球は本当に表情豊かでフォトジェニックですね。地面に身をかがめて足元の野花も地球であると言えるし、大気圏の外から見た起伏に富んだ地形もまた地球です。自分と近い距離にあれば、微細すぎて人の視力では捉えられないような水蒸気の粒の集合体である雲も、遠くから捉えれば白い塊となってくっきりとその姿を現します。広角な視野をもって眺めれば優れた自然の造形物であるような山脈や河や湖、森林地帯や砂漠、または人間の創りだした都市の人工的な美しさがありますが、その一部分に近づけば近づくほど、具体的だったものは抽象化していきます。対象物をより詳細に正確に捉えようと近づけば近づくほど、ある時点を境にそれは抽象的なものと変容していき、具体性とはかけ離れていく感覚が何とも矛盾を孕んでいて、脳の「形」を認知するところがもやもやするような感覚になります。その意外性は距離があればあるほど、それに対して拡大される範囲が小さければ小さいほど増していきます。難しい事を考えずただ感覚的にその写真たちを観ても、ギャラリースペースに点在しているその異形の地表は美しいものでした。特に床に寝かせてある数枚の写真はまるで自分が高い高いところから俯瞰しているようで体感的なものも楽しむことが出来ます。





様々な角度の視線で観ることが用意されたその作品たちは、CIBONEの既存の空間の雰囲気にとてもしっくりきていて、その場に良く溶け込んで馴染んでいたように思います。テーマが地球規模になったせいか、いつもは割と観ていて「考える」要素が強い伊丹さんの作品ですが、今回は「感じる」ままに観入ってしまったのは、きっと私の思考が地球規模に対応できていないからかもしれません。でも今回の作品は、それが心地よいのだ、とも思いました。 考えるスケールが大きすぎると時として思考は止まってしまうものなのです。 感じるままに観入ったアブストラクトな異形のランドスケープ、堪能してきました。




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by sanaegogo | 2015-05-04 00:00 | art | Comments(0)
片岡球子展で球子を知る・・・



片岡 球子(かたおか たまこ)
昭和・平成時代に活躍した日本画家。
1905年(明治38年)1月5日生-2008年(平成20年)1月16日没。
103歳。
日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者。
北海道札幌市出身。
1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。
卒業後は神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校に勤めながら創作を続ける。
1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。
1933年(昭和8年)の院展にも入選
その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
1939年(昭和14年)の第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙
以後は毎回入選
1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職、女子美術大学日本画科専任講師就任
1960年(昭和35年)に助教授
1965年(昭和40年)には教授
1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学日本画科主任教授
1973年(昭和48年)より客員教授
その型破りな構成と大胆な色使いから、一部の人々からその画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれて思い悩むが、小林古径は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励す。球子は美しく描くことが全てではないと信じ、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立。「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズでは特に高い評価を受ける。
1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章を受章
1982年(昭和57年)には日本芸術院会員に選出
1986年(昭和61年)には文化功労者として顕彰
1989年(平成元年)には文化勲章を受章
100歳を迎えてから脳梗塞に倒れたが、療養に努めながら現役を続ける。
2008年(平成20年)1月16日21時55分に急性心不全のため神奈川県藤沢市内の病院で死去。叙従三位。





生誕110年 片岡球子展
2015年4月7日(火)〜 5月17日(日)
東京国立近代美術館
http://tamako2015.exhn.jp/



色々悩みもあっただろうけど、良い人生を送る事が出来た方だと拝察します。不器用だけど何か自分の信じたことを一生懸命にやっていけば、後から必ず何かを得ることが出来る、そんな、今ではどこか照れくさく誰も真正面からストレートに言わないような精神論を貫き通しそして形にした人だと思います。精神が充実しているから長生きも出来たのでしょう。長命故に年譜もボリュームがあって迫力があります。武骨でありながらブレない球子。その生涯は堂々とした川の流れのようでもあります。壮年期を過ぎようとしている自分自身と照らし合わせてみると、この歳を過ぎてからでも、しかも女性でも何かひと仕事出来るものなんだ、と勇気づけられた気がして、球子の転機になったと言う「カンナ」のポストカードを記念に購入しました。この「カンナ」の花の画は球子が私と同い歳に描いたものだそうです。フォルムを大きくとらえるようになって、色使いも鮮やかに、球子が「これだ。」もしくは、「これでいいんだ。」と自分の画道を達観したきっかけとなった華やかにして力に満ちたカンナの立ち姿です。



庭にカンナの花を咲かせるイメージ、かな。


この後、画材にボンドなども用いるようになって、さらに表現は迫力を増していきます。とにかくどれも大画面。大きな作品ばかりでそれぞれの画に取り組む球子のエネルギーを取り込んで、存在自体がかなりパワフルです。大胆なばかりでなく、例えば面構えのシリーズで役者たちが身に纏う衣装のその柄の細かくて緻密なこと。色を何層にも重ね、雅楽の舞い手の重厚な古典柄(というか古代柄?)など、画面に額がひっつくくらい顔を寄せて凝視してしまいました。素晴らしい。 大胆かつ緻密で細心。球子の大画面の画が決して大雑把ではないのは、偏にこの細部にわたり丁寧に手をかけているからに他ならないと感じました。
開眼した後の球子の画は、時には自然界ではあり得ない配色の対象、例えば青い梅や紺碧の里山の風景、赤や黄色の雪渓が走る富士山などを自由に奔放に描くようになりますが、奇を衒い奇抜なだけに陥らず、その雰囲気はどこか実直で生真面目な感じがするのは、球子の人柄を写しているように思えます。 自分の事と照らし合わせて言うのは恐縮なのですが、私自身はどこか器用貧乏で大した困難や苦労に直面した事もなく、こういう球子の愚直なドラマチックさを体験した事がないので、こういう生き方をすることを少しうらやましくも思ったりしました。 武骨で不器用ででも、決してブレず、真正面から自分の求める道と対峙する。大変そうだけど大切なことだ、と思うと同時に、簡単だけど誰でも出来ることではないなぁ、と。 そんな球子は57歳にして3か月もの間、ヨーロッパへ修行のような旅に出ます。 フランス、イタリア、イギリスを巡り、その収穫は大きかったようで、その後も度々短期間の滞在をするため渡欧しているそうです。私もそうありたい!
球子の画はどれも素晴らしく、その迫力にも圧倒された見応えのある回顧展でした。でも、それより他に、私は「自己啓発」とか「自己実現」とか、以前は時々頭をかすめたけど今はとんと縁遠くなっていたキーワードを思い浮かべてしまいました。 (「自己実現」は好きな言葉でよく使ってたような気がします。)
  • 悩むことは人生にとって必要なこと 悩むことを面倒くさがらない
  • ある事を信じて、先が見えなくてもブレずに進む気持ちの強さを持つ
  • 年齢なんて関係ない 自分のペースで納得しながら進む
  • いくつになっても学び、何かを吸収することを止めない
と、まぁ、安い啓蒙書のようなスローガンですが、カッコ悪いと思わず、カッコつけず、そんな感じを地で行っていたのであろう、球子に思いを馳せてしまう私なのでした。



片岡球子 カンナ 1953年
ちなみに、一番上の 「面構 足利尊氏」 は私が生まれた年に描かれたものでこれも代表作
生まれた年と今現在の年齢 どちらの節目にも代表作 転機となった作品が・・・。 縁を感じます。




試みに「片岡球子」をGoogle画像検索してみたら、出るわ出るわ。代表作である色とりどりの鮮やかな富士山のシリーズで画面が埋め尽くされています。そしてぽつりぽつりと現れる素朴な球子の笑顔があります。色鮮やかで躍動的なその画風の陰に何か骨太な気概のようなものを感じるのは、決して天真爛漫さから自然発生的に生まれたものではない、順風満帆にそこに至ったのではない球子の馬鹿正直な強さがあったからなんだな、とこの片岡球子展を観て切に思いました。



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by sanaegogo | 2015-04-11 00:00 | art | Comments(1)
スイスデザイン展 @東京オペラシティ アートギャラリー


スイス、という国にはネガティブなイメージもポジティブなイメージもなく、いたってフラットな感じ。まさに中立国なのですが、愛用している品々の中には沢山ではないですが、長く使っているものでスイスメイドのものがある事を、スイスデザイン展に行って改めて気づきました。



スイスデザイン展
SWISS DESIGN

期間:2015年1月17日(土) ~ 3月29日(日)
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
http://www.operacity.jp/ag/exh172/


カランダッシュのボールペン、バリーのショートブーツとドライビングシューズ、ビクトリノックスのカード型マルチツール、スウォッチは2、3個持ってるし、最近の服装に合わないのでご無沙汰しているロレックス、それに対してヘビロテのタグホイヤー、RUBISの毛抜き(これは優れものです)、持ってないけど、バーミックスやフライターグ、モンディーンの時計やUSMモジュラーファニチャー、シグのステンレスボトル、マムートのアウトドアグッズなどなど、ざっと挙げてもこんなに出てきます。いやいや、ちょっとびっくりしました。 (特に自分の持ち物。日常的に長く使ってるものが多いな。) もちろん、自分の持ち物を「他の国製」で分類してったらスイス以外の色々な国の方がアイテム数的には多くなるんでしょうけど、このラインナップをみてみると、とても実質的で実用的なものばかりで、スイスという国のあり方というか、スタイルみたいなものが垣間見られるような気がします。



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スイスデザイン展はこんな風に日常の中で活躍しているスイスらしいデザイン溢れるプロダクトやアドバタイズメントが一堂に会した展覧会です。美術作品のかわりに日用品や日常目に触れるテキスタイルやポスター、絵本やおもちゃまでもが展示されています。シンプルでミニマル。カラフルなものや素材感を生かしたもの。装飾ではなく、機能そのものが美しさを放っています。機能美とかシンプリシティとかいう言葉がぴったりですが、どれも簡素に出来ているという訳ではなく、そこには様々な技が主張なくベーシックとしてあります。 2014年はスイスと国交が樹立されてから150周年だったそうです! 日本人の気質と似ているようなところがあるから、スイスと日本とはきっと相性が良いんでしょうね。





スイスのパスポート
デザインがとってもカワイイッ!




あとは、スイスといえば、家具やインテリア、そして建築でしょうか。建築といえば、コルビジェ。 といっても、私はコルビジェといえば上野の西洋美術館くらいしか思い浮かばないのですが、実はミッドセンチュリーの建築写真でよく見かける モンドリアンの絵のようなカラフルなパネルを使った建築もコルビジェらしいといえるもののようです。建築家として活動を始める前は装飾を学んでいたそうで、コルビジェののこした絵画の作品もたくさん展示されていて、建築物という作品では(大きくて具体的であるが故に)現れにくい人となりというか、人柄みたいなものが出ているような気がします。(茶目っ気たっぷりの線描のフォルムとカラフルでビビッドな色彩で描かれてました。) あとは、後期のロンシャン礼拝堂。とても愛らしい。愛くるしい。 建築物だけど、これなんかは、コルビジェの人柄が出てるのかな。実際はどんなお人柄だったんでしょうか。西洋美術館のように質実剛健な感じか、ロンシャン礼拝堂のようなキュートなおじさんか、まるで違うので興味が湧きます。期せずして、先日観て来たホンマタカシの写真展がコルビジェのシャンディーガルでした。でも実は、スイスデザイン展を観た時点ではその事実は知るところではなく、もしそれを踏まえてこのコルビジェについての展示を観てたらまた違ってただろうな、などと。
色々観てたら、モンディーンのリストウォッチが欲しくなっちゃったなぁ。
実は日本との親和性に溢れ、遠いところにあるけど近しい国、スイスのこと、改めて知ることが出来るスイスデザイン展。 今月(3月)29日までです!




ル・コルビュジエ《カップ・マルタンの休暇小屋》1952竣工 ©FLC





ル・コルビュジエ《ル・コルビュジエ・センター》1967竣工 ©FLC





ロンシャン礼拝堂 (正式名称はノートルダム・デュ・オー礼拝堂)
http://www.collinenotredameduhaut.com/



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by sanaegogo | 2015-03-07 00:00 | art | Comments(0)
Chandigarh @ CoSTUME NATIONAL│LAB
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青山のコスチューム ナショナルで開催されていた ホンマさんの久々の(?) 写真展『Chandigarh』がとても良く、余韻を残しています。 インド北部のパンジャブ州に位置するチャンディーガルという街で撮影されたもので、ホンマさんでインドというのも意外だったのですが、その撮影された光景は、ガンジス川で沐浴をする雑踏とかではなく、畦道で牛を牽く人々というのでもなく、法服を身にまとったインテリジェンス漂う知識人達というのがまたとても意外でした。これは2本あるうちの映像作品。もう1本はバスターミナルを行き交うバスや利用者のいかにもインドらしい活気のある様子を朝から晩まで記録したものです。



写真展(映像作品もあったので、作品展と呼ぶ方が相応しい?)の全貌はこうです。入り口を入って左手の展示室には、高い目線で窓からの眺望を写した写真。これはこの街の合同庁舎から撮影されたものだそうです。視線の先にはこの街の象徴的な建造物である高等裁判所(ハイコート)の建物があります。そしてその両サイドには、そのハイコートを再び高い位置から捉えたもの。近代的な建築なのだけど、鈍くカラフルな色彩で塗り分けられていて、建物としては興味をそそられる雰囲気なのだけど、どこかインド的ではないような雰囲気。その不思議な違和感にますます何かそそられるものを感じます。両サイドのその写真にはパトランプを付けた車両や制服や法服の人々が日差しを避けての立ち話や何処かに移動していく様が見て取れて、ここが司法関係の建物だということが判ります。







もう一つの部屋では映像作品が上映されていて、ひとつはその鈍くカラフルな建物の敷地内で法服の人々が休み時間に談笑しながら、あるいは足早に行き交っている情景をスローモーションのようなゆっくりとしたスピードで写しだされています。画面のスローな動きとは対照的に流れているのは少し速いテンポで激しい曲調のインドの音楽。(ポップスなのか古典なのかはちょっと判らない。) もうひとつは街のバスターミナルを行き交う生活者達の世話しない様子。これはタイムラプスの映像のように撮影されていて、目まぐるしく動き回る生活者達を捉えながら、記録されていて、すこしぎくしゃくとした動きの映像は街の喧騒にとても良く合っていました。部屋の中央に置かれたソファーで左右に入れ替わりに映像が始まるのですが、映像は唐突に終わり、もう一方が唐突に始まり、また唐突に終わり、そしてもう一方が始まり、それを繰り返しています。

その色彩の効果とインパクトのある音楽の効果もあったのだと思うのですが、ふたつの映像作品のうちひとつめに紹介した司法の建物を捉えた映像を何度も何度も見たくて、ちょっと長居をしてしまったような気がします。レイヤーのように重なり合ったそのカラフルな壁はまるでバレエの舞台袖のように、そこから入れ代わり立ち代わり、その時間、そこに居合わせた人が登場します。法服のたっぷりと使われている黒い布の動きに合わせて揺らめく様が、スローモーションと良く合っています。談笑する顔、厳しい表情、無表情な人までも、その写しだす表情は豊かで、しかも司法関係の公的機関で働いている人々らしく、隙がなく、どことなくオーラのようなものを発していて、どの人にフォーカスしても様になっています。 ホンマさんの作品はいつもそうだと思うのですが、上手く自分の感じたことをぴたりと言い表せないもどかしさがあります。 何の前情報もなくふらっと観に来て、その撮影地がインドだという違和感が気になってはいたのですが、ホンマさん、インド、司法関係のインドらしからぬ建物という私のなかのミスマッチ感を最高に刺激するのがこの映像作品だったのかも知れません。

後でいろいろ読んで知った事ですが、この「チャンディーガル」というインドの都市は、ル・コルビジェが何もない更地の状態から都市計画を行ったコルビジェ建築の代表的事例にもなっている都市なのだそうです。(このことは「チャンディーガル」と聞いただけでコルビジェや建築に詳しい人なら言わずと知れた事なのだと思いますが。) 建設されたのが1950年代で、当時のインドとしては画期的な計画であり、コルビジェらしいモダニズムと機能美を追求した建造物は今でも都市に住む人々に愛着をもって利用されているそうです。レイヤー状に見えた対比の強い色彩の「ブリーズソレイユ」は、存在感を放ち美しく、それこそ言いようのないオーラを放っていました。私がどうにも気になっていたその映像の建物は最初の写真の部屋で遠巻きに撮されていた建物と同じものだったというのも観ていた時には繋がらず、あの違和感の正体のキーワードはコルビジェであり、ホンマさん、インド、インドらしからぬ建物という方程式は、「コルビジェ」によって解かれたようです。




ル・コルビュジエが設計したチャンディーガルにある最高裁判所(ハイコート)
カラフルなブリーズソレイユがそれを見る方向によってレイヤーになっています
ブリーズソレイユ(brise-soleil)とは建築用語で窓や壁の前面に取付けられる日照調整装置をいうそうです。






横から見たブリーズソレイユは、どことなく非現実的な空間に感じられ、舞台装置のようでもあります。







壁の向こうから 道化師や大道芸人とかが現れて 横切って行きそうな雰囲気です。




ホンマさんが何故インドのこの地を撮影地に選んだのかはこれで納得がいきました。そうしてあの作品を振り返ってみると、あの映像は、建物の持つエネルギー、そこで活動をする人たちのエネルギー、(動であっても静であっても)、などを端的で最良な方法で切り取って、持って帰って来たものだろうと感じました。ある種の思い入れで彼の地に赴くも、それと対峙すると過度な感情移入はせずある一定の距離感から観察的な態度を示すようなツンデレな感じがそこにあった気がします。




余談ですが、今回の展示、写真の展示方法はダブルクリップでの壁への直貼りでした。数年前参加したグループ展でその時に出した作品に額装のイメージがなかったのでやはりダブルクリップで引っかけて直貼りをするという暴挙に出ました。設営の時「写真に相当インパクトがないと直貼りは難しいよ。」とグループ展の他の参加者に半ば「やっちゃった!」感で迎えられたのを今でも覚えてますが、やっぱり、直貼りかっこいいですね。


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by sanaegogo | 2015-02-11 00:00 | art | Comments(0)
ふたつのNerhol展 ―IMA CONCEPT STORE と EYE OF GYRE
Nerholと言えば、今やコンテンポラリーアート界に燦然と輝く星のようであり、ひとつのスタイルを確立して世に知らしめようとしている旬のアーティストです。 Nerholは2人組のユニットで、そのユニット名「ネルホル」は、グラフィックデザイナーの田中義久がコンセプトを「練り」、現代アートに軸としてきた飯田竜太が「彫る」ことに由来しています。最近は、どこかとどこかで同時開催みたいな個展が増えてきたような気がしますが、この度もNerhol個展が都内2個所で開催されているので、行って来ました!

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ネルホル個展「アトラス(ATLAS)」
会場:IMA gallery
会期:2014年10月16日(木)~1月30日(金)
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ネルホル個展「シーネリー、シーン(Scenery, Scene)| 風景と景色」
会場:EYE OF GYRE
会期:2014年10月16日(木)~11月20日(木)
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IMA galleryの「アトラス(ATLAS)」は、彼らのこれまでのシリーズ作品である“Misunderstanding Focus”(2012)、“Portrait”(2012)、“Misunderstanding Focus 16:9”(2013)、“Scene to know”(2013)の作品を再構成してひとつのコンセプトへと集約した約40点が展示されています。さらにそれらの作品はそれぞれハードカバーの書物の体裁に纏められていて、立体作品として、写真として、書物として、多角的に鑑賞することが出来ます。


合計36点のNerhol的ポートレートが一堂に会しています。 撮影はカメラを固定して定点で行われているのだと思いますが、被写体の微妙な動きが要素となって、彫り込まれたポートレートの微妙な歪みに眼が行きます。まるで時間がそこで揺らいでいるかのようです。

   

立体的に展示しているものもあります。 この厚みは時間の厚み、経過を示しているかのようです。 彫進める事で、時間を遡っているかのようにもなって、全てのレイヤーが表面に現れる事によって、一旦時系列は消滅しているようです。







積み重ねられたATLASと共に展示された写真作品。 立体作品を撮影した巨大ポートレートです。こうして被写体とそれを取り巻く時系列は様々に姿を変えて観る人の前に出現することになります。




Eye of Gyreでは、彼ら自身が「私たちの作品は素材がもつ元々の要素から大きく離れた物質となっています。その物質感を再検証し、制作された作品の様々な要素を多角的に解釈できるような空間を構成することが今回の試み」と語っている意欲的な展示になっています。

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目線の高さで展示された写真作品は、彫進めた過程の紙の彫残しやその力加減までつぶさに観る事が出来て、制作過程のリアルな一面を垣間見る事ができて迫力がありました。(絵画でいうところの筆致みたいなものが良く判ります。)


こちらは写真作品が中心でした。額装をせずに壁に直貼りしたり、上から吊るしたり、1点1点の作品のスケールが大きく圧巻です。


Nerholの作品に感じるものはとにかく、滲み出るIntelligenceです。行っている行為は、複雑ではあるのですが、よく整理されていて、整然としたコンセプトがそこに付け加えられています。知性ある人は決していたずらに物事を複雑に表現することはせず、行っていることが複雑であるに拘わらず、単純明快に解りやすく表現/説明できると思うんですね。 意図的に小難しい言葉を使って理解の及ばない人を煙に巻いたり、わざと混乱させたり、何かスゴイ事を述べているような振る舞いを見せたりするような事はないと思うのですね。Nerholの制作態度はまさに、複雑なコンセプトの単純明快な提示、可視化のような気がします。対象の顔に向けて、およそ3分間200回ものシャッターを切り続ける。それを時系列にぴっちりと積み上げ、1枚ずつその人の動きに合わせて切り取って剥がし、断面を露出させて彫進めていきます。それは、「かつての肖像画や、レタッチが無限に可能なポートレートの真正性を疑うことから始まった」と田中さんは語っています。数分間撮影し続けるからこそ見えてくる微妙な動きや変化。断面を露出させることによってその時間の中のレイヤーは、つぶさに観察できるようになります。

――“ATLAS”は、消失し続ける“彼ら”の一瞬の姿に焦点を当てている。僕らは、被写体と向き合い、数分間にわたって200回のシャッターを切る。そして、それら全てをプリントし、重ね合わせて、彫りこんでいく。僕らは、“彼ら”の姿に迫ろうと試みるが、まるで手から零れ落ちていく水のように、“彼ら”は僕らから遠く離れていく。まるで人が書き紡いできた物語が、書けば書くほどに、書き記すことのできないものを浮かび上がらせてきたように。

―― 逆説的だろうか? 被写体となった“彼ら”の存在の本質を掴みたいと願うのに、その姿を彫り歪ませることは。しかし、考えてみるに、僕らが生きる社会は、多くのものを、ものすごい速さで消失へと向かわせている。それが現実を記憶する唯一の手がかりにすら思えてくるほどに。物語は、書物として綴じられたとき、どこにでも移動し、あらゆる人の手に渡ることができるようになった。そして、恐らくそれ以前にも増して、書き換えられ、オリジナルを失うことを運命づけられた。僕らは、“彼ら”の姿を写し取り、層を成す時間を遡るように彫り刻み、それを書物のように綴じてみる。そして、諸現象の連続性へ、消え去ることを順番待ちするかのような循環へ、それを差し出す。綴じられた書物のなかで歪む“彼ら”の姿が、この資本主義をベースにした営為の射程を揺るがせることを願いながら。

(「ATLAS」展リリースから抜粋)

テキストを読むと、少々難解なのですが、その具現である作品を観ると、
「断面を見ると 微妙に動いてるんだなぁ。」 とか、
「もしかして全部違うのかな。同じものは2枚とないのかな。」とか、
「物凄い厚み! 時間の厚みを表しているみたい!」とか、
「ポートレートによって彫進め方が違うのはどうしてかな。」とか、
「断面見ると同じ人なのにズレていくのが面白い。」とか、ごく単純な感想が(観る人が大人であるにも関わらず)どんどん出てきて、観る人を捉えるようです。観れば観るほど観察のし甲斐があります。 これこそが、Nerhol自身のように高尚な言葉を持たなくても、知らず知らずのうちにそのコンセプトについて観察し、考えているという事なのではないでしょうか。その整然とした制作プロセスの提示によって、作家の意図するところが観る人にすんなりと共有されているのです。

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by sanaegogo | 2014-11-16 00:00 | art | Comments(0)
Thomas Ruff: photograms | TOLOT/heuristic SHINONOME


グロンスキー、ヴィヴィアン・サッセンと続いて、トーマス・ルフの写真展 「photograms」です。Photogramとは、写真作品の制作手法のひとつで、カメラを使わずに印画紙の上に直接ものを置いて感光させるというもの。1980年代にタルボットがこのフォトグラムを用いて作品を制作している事例が残っていて、それが始まり。その後1900年代に入って手法が確立されて、1920年代初頭にはマン・レイなどがフォトグラムで大量に作品を作っていて、以降一般的になっていったそうです。この秋、ルフについても2個所同時開催で写真展が開催されていて、銀座のギャラリー小柳と東雲のTOLOT/heuristic SHINONOMEで大迫力の写真展を開催しました。 ギャラリー小柳では、フォトグラムではなくて、「ma.r.s. and negatives」という、NASA の火星探査機によって撮影された火星表面の白黒の高解像度デジタル画像を使用して、画像の構図を変換したり、着色加工を施したりして、テクノロジーを駆使した臨場感あふれる作品を展開しているそうです。(私はこちらには足を運んでいないのですが、写真集「Mars」は観る機会があって、写真集もかなり豪華で重厚感があったのですが、あの写真をまとめるとなるとこんな装丁になるんだろうな、という感じで内容もかなり重厚感のあるものでした。



さて、私が観た東雲のTOLOTの方は、前述のフォトグラムの手法で、デジタル技術を駆使して、もはや写真とは思えないような超仔細な世界とその質感を、巨大なサイズの作品で展示していました。もはや写真はデジタル技術と2人3脚というか、抱き合わせというか、フィルムの画像化に現像液が必要なように、現代写真ではデジタルと切り離せない関係にあるのだ、というのを見せつけるというか、ある種証明しようとしているかのような感じです。その質感はまるでエアスプレーで描いた画のようですが、高度なハイテクを駆使して突き詰めていくと、まるでローテクなアナログの表現手法のように見えるというのが何だか矛盾めいていて面白い気がします。 しかもルフがベッヒャー夫妻に師事していたというのがまた面白いですね。 グルスキーといい、ルフといい、ベッヒャー夫妻のあのアナログで緻密な写真には、テクノロジーの芽というか、潜在的テクノロジストをインスパイアさせる何かの要素があるのだとしたら、非常に面白いと思います。 卒業論文のテーマとかにしたら、膨らみそうな感じがします。


『Thomas Ruff: photograms』
2014年10月4日(土)~11月15日(土)
東雲 TOLOT/heuristic SHINONOME

ルフの作品は、「IMA」Vol.9 2014 Autumn の表紙も飾っています。

グロンスキー、サッセン、そしてルフと現代写真を現在進行形で彩っている3人の作家がコンプレックスの3つのギャラリーで同時開催で写真展をすることは、めったにない機会で、10月4日のオープニング・レセプションは3名の作家が一堂に会して、盛況に行われたそうです。 日本の現代写真のシーンも盛り上がってきましたね。



©Thomas Ruff, r.phg.11_Ⅰ, 2014



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by sanaegogo | 2014-10-18 00:02 | art | Comments(0)