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立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう






translation / performance|川久保ジョイ
[立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう/Touch a girl, code of art,
history and a lie through the show]

2015年4月25日(土)19:30
http://blanclass.com/japanese/archives/20150425/



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横浜のちょっと外れにあるBlanClassで行われたちょっと変わったイベントに行って来ました。 川久保ジョイとペドロ・イノウエが2人で行うトーク・パフォーマンスで、ペドロが英語による口述での物語りをして、ジョイがそれを通訳したり、PCのプロジェクションで翻訳したりしてオーディエンスに伝えていきます。ペドロは日本語が話せないので英語で物語りをします。英語が解らないオーディエンスはジョイの伝える日本語の訳出だけが頼りで、その場のコミュニケーションの精度は全てジョイの通訳にかかっています。滔々と自分についてのストーリーを語るペドロの話には虚構やファンタジーのような昔話が入り混じって来て、「おや?」と思うような展開になって来ます。それはジョイによって故意に、あるいはおざなりさから発せられたもののように感じられ、ペドロの語る物語のちゃんとした説明なのか?という疑問も湧いてきます。 やがてジョイは増々おざなりになってきて、それでも熱心に耳を傾けるオーディエンスに対し、自分がこの場をコントロール出来ると感じ始めたのか、場を支配しているのは自分であるかのような振る舞いを見せ始めます。声には出さず、タイピングをしてスクリーンの上でオーディエンスに指令を飛ばし、オーディエンスを操り始めます。この場の流れを完全に支配してしまったのです。




ジョイの暴走なのか、ペドロの虚言なのか、
真実を知っているのは話者のペドロでもなく、オーディエンスでもありません
果たしてジョイもペドロの言う事を、言葉の置き換えだけでなく、
その意味を理解していたのか、と考えた時、
もはやもう何が真実なのか・・・・。



とても興味深い内容のパフォーマンスでした。 このパフォーマンスのアイディアの発端は、とある海外のアーティストのトークの時に川久保さん通訳として登壇したそうなんですが、
ちょっと誤訳をいくつかしてしまって、でも(英語を理解する人以外)聴衆の殆どはそれに気が付かず、何事もなかったように話が進んで行ってしまって、両者の介在者になっている自分だけが、この場での事実(真実)をコントロール出来得る存在なのだという事を感じてしまった事による、と言う事をパフォーマンスが一段落した時語っていました。



たまりかねて、自分で自分の話していることを文字にするペドロ


オーディエンスの側にも様々な状況があると思います。 例えば私。 英語は仕事柄使用頻度がまずまず高いのですが、帰国子女でもバイリンガルでもないので、自分の分野の中だったら会話も出来るし、海外旅行に行っても困らないくらいは話せます。 でも、完璧に全ての言葉をピックアップ出来る訳ではないので、未だに私が聞いたペドロの話す内容とジョイの訳した言葉の齟齬が、ジョイの作為なのか私の力量不足なのかが解らない状態で、これは本人と話して確認しておくべきだった、このもやもや感をすっきりさせるために、とちょっと後悔しています。 それは少なからず、自分に対する不信にも繋がっていくような気がして、自分の語学力に自身のない人は、人間不信に陥るか、自信喪失に陥るか、自分の至らなさを確信して落ち込むか、多少なりとも不安定な精神状態に追い込まれます。 もっと解らない人は、ジョイの通訳を鵜呑みにするでしょうし、もっと出来る人はジョイを明確な不信感を持ってその場の胡散臭さを理解することも出来るのでしょう。 ここでは英語という話せる人も多い世界的共通語のような言葉を使用していますが、これがもっとマイナーな言語でそれを理解する人がその場にいなかったら、もはや何が真実なのか誰もジャッジできず、無意味な状況が創りだされていく訳です、とペドロはパフォーマンスの後に語ってました。 異言語間のコミュニケーションにはそんな危うさが常に潜んでいて、同じ現実を共有する事の難しさが常に付きまといます。




流石にスペイン語まで良く解る人はオーディエンスの中にはいなかったのでは?
ジョイは もはや自分で通訳するのではなく、 電子翻訳にその場を委ねたりもします


ここでは誰もが実感しやすい言語というメディア(と言っていいのか?)を媒体としていますが、例えば、色の認識とか。 バナナを見てジョイが「これは黄色」と言ったとします。黄色と言われたから黄色だし、私もバナナは黄色だと思っている。でも、ジョイの見ている黄色が私の見ている黄色と同じだと鵜呑みに出来るのでしょうか。「黄色だ」と言われただけで、自分と同じ黄色を見ていると言う事にはならないと思うと、共有している認識はとても危ういものに感じられて、所詮究極は人は何も共有出来てはいない、などとセンチメンタルな気分にもなってしまいます。 (川久保さんがそのトークでバナナの話をした訳ではなく、あくまでも比喩ですが・・・)
ちょっと話の筋が逸れたような気がするので元に戻すと。外国語の通訳と言う事ではなく、例えば絵画や写真作品を観て。 作家の制作意図や作品の世界観を解説し評するテキストがあります。 それが作者ではなく著名な第3者によって書かれたものなら、そのテキストこそが作品を理解する術となってしまい、作者の意図までもがそのテキストに委ねられてしまうようになります。 これは、没後何年かの後に研究されてきた近代までの大家の作品にありがちな事です。
例えば、新聞の記事や社説も、世界で起こるある事件や史実を通訳のようにあくまでも介在者としての立場で記者は記事に書き、世の中に知らしめます。 もしそこに記者の先入観や私見が入ってしまったとしても、その事実の起こった状況に明るくない一般市民はそれを鵜呑みにするしかないのです。
今日のこのパフォーマンスはあくまでもパーフォーマンス(演技)で、評論家や記者の方々にジョイがここでとったような行為があるとは思いませんが、可能性は排除できるものではないと言うのも事実でしょう。
通訳という行為だけにとどまらず、何かを伝える時に介在者がそこにいれば(介在するものを必要とする状況ならば)その危険性はいつでも付きまといます。
きっとこんな風に考えるのは、私がペドロの言っている事を全て完璧に理解できなくて、疑心暗鬼になっているからだと思います。 そういう意味でも、受け手によってこのパフォーマンスで考えるところは千者万別だとなんだと思います。あの場で起こった事(タネ明かしの前)の認識も千者万別と言う事になるのでしょう。(私の場合は、後半ジョイのオーディエンスをコントロールし始める暴走行為は、極端な可能性の事例提示という事で認識されて、そこに危機感や違和感はあまり感じなかったのです。) 「現実の認識の共有」という事からは飛躍しすぎなのかも知れませんが、「共感する」という事は案外容易く出来るのかも知れないけど、「認識の共有」って、ダイレクトに出来ない場合も多くて、そういう時はとても危ういものを孕んでいるんだなぁ、とか、考えてしまいました。 そして、その「認識の共有」のための努力というか、手続きというか、そういうもの(この日は通訳という形で表現されていたと思います)の存在感を改めて感じた、そんな次第です。


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by sanaegogo | 2015-04-25 00:00 | activity | Comments(0)
鳥の旅 ―Birds' Journey―
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この夏(正確に言えば2014年の夏ですが)、ある女性写真家の方の「写真集をつくる」、というワークショップに参加しました。これで足かけ3年目の3回目になります。 今回制作した写真集のタイトルは、『鳥の旅』。昨年が『惑星探査』なので、私にはどうもこういう空間移動的なものが心地よいみたいです。
今回は、どこかで撮影してきたものをまとめるというのではなく、Self-found Photo と勝手に呼んでますが、これまでの自分のアーカイブの中から写真を掘り出してみようという試みです。 それは忘れかけていた昔の写真の再発見でもあるし、文字通り、自分自身をも探ってみる、というのに繋がるのかも知れません。 自分史を辿るものでもあるし、自分自身の再発見、気づきだったのかも知れません。 そうして拙くも膨大な過去のライブラリーの中から写真を選び、再編成し、ただ雰囲気で並べるのではなく、空間も時間も縦横無尽に行き来するような漠然としたストーリーを与えたかったのです。 作者の意図に誘導していくようなストーリーではなく、見る人がその人のその時の思考である種の体験を共有できるような、そんな感じです。 本はいくつかのシークエンスで構成されていて、時間もばらばら、場所もばらばらで、古い写真では2003年のものもあります。 時系列を曖昧にしたのは、私のちょっとした悪戯心で、どの写真もその撮影した時の事を覚えています。 旅の思い出も満載なので、どうしても思い入れがありそんな1枚、1枚を落としていくのが忍びなくもありましたが、鳥の次の訪問地を選んで並べていくのは楽しい作業でした。 鳥のいくつかは沖縄に住むバハマ時代の友人が撮影したものです。

出来上がった写真集はとびらや奥付を合わせて95ページにもなってしまったのですが、その中でいくつかシークエンスをご紹介します。本は長編綴じの縦開き。鳥の飛んでいる空間とその風景は同じ空間なのか否か。 鳥は俯瞰して眼下に広がる風景を見ているのではなく、どこか全く別の次元で羽ばたいているのかも知れません。鳥は何処かの知らない次元を旅していて、そこは繋がっていて、風景だけが点在している。 こうしてみるとそんな風にも見えてきますね。



石垣島、沖縄 (2003)



バレン高原、アイルランド (2013)



バレン高原、 アイルランド (2013)



与那国島、 沖縄 (2004)








バレン高原、 アイルランド (2013)



モハーの断崖、 アイルランド (2013)



モハーの断崖、 アイルランド (2013)



モハーの断崖、 アイルランド (2013)








沖縄南部 斎場御嶽近くの海 (2009)



鎌倉 稲村ケ崎近く (2013)



吉佐美 大浜、 下田 (2009)



横須賀の海 (2009)




実は、この本をつくるにあたり、頭の中でイメージしていた情景があったのですが、それを頭の中から取り出して表現するのにはムービーの方がよいのは解っていたのです。 なので、順番が逆になってしまいましたが、写真集では顕せないもうひとつの『鳥の旅』です。どちらがよりよいとかではなく、それぞれに どちらの世界でも 鳥は確かに旅を続けています。


鳥の旅 ― Birds’ Journey
(スライドショウのムービー こちらでご覧ください!!)





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by sanaegogo | 2014-12-31 00:00 | activity | Comments(0)
Ireland Trip ― Bookletが出来ました
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アイルランドにあるアラン諸島、そのうちのひとつイニシュモア島に旅したのはもう昨年(2013年)の夏の事ですが、ブログでの記事は今でも1日数件は何処かのどなたかに読んでいただいているようで、数件の訪問があります。 私にしては息の長いロングランです。 その旅行記をまとめたブックレットがやっと完成しました! と言ってもブログをそのまま冊子の形にレイアウトし直したもので、ブログのテキストに添えて選んだ解りやすい写真ばかりなので、自分の中でフォトブックという位置づけではありません。 あくまでも読み物。なので、表紙なども合わせて、なんと! 80ページにもなってしまったのですが、ブログの時と違って、写真の大きさなどにメリハリをつけて、ちょっと違った見え方になるようにはしています。 綴じ方もウェブを読んでいるようなイメージで見られるよう縦開き(短辺綴じ)にしてみました。これは自分でもなかなか気に入っています。 インデザインとか、編集ソフトも持っていないので、80ページの面付けをパワーポイントで自分で並べ替えてやったのですが、これがなかなかチャレンジングな作業でした・・・・。 そんなこんなで、内容とはまた違ったところに妙な達成感があったりします。(笑)
今まで自分なりに色々なところに旅に出てきましたが、私自身は決して Frequent Flyerとかではなく、2年に1度行くくらいのペースなのですが、行きたいdestinationが偏っているので、密度の濃い旅が出来ているのは幸せです。 今まではウェブの自分のページにアップしているくらいだったのですが、今回はふと思い立ち、ブックレットにまとめてみようと思い・・・・。さらには出来上がったらBook246に持ち込んで見てもらおう!と目論んでいたのですが、閉店のタイミングまでに完成が間に合わなかったのが悔やまれるのみです。 今、アイルランド編が完成しましたが、このシリーズでアルゼンチン編やバルセロナ編も作りたいと思っています。
ここでこの旅をブックレットの形にしたのは、それまでしてきた自分なりの旅を振り返る意味もあるし、ここ数年での自分の環境や意識の変化に伴って、次はどこに行けるのだろうか、というソコハカとない不安な気持ちがある事も否めません。 そういう意味でもある意味分岐点であったような アイルランドへの旅だったと感じています。それまで自分といものを築き上げてきた、その余波というか、残暑みたいな熱い気持ちでアイルランドへ出かけて行きました。 でも、これからはそれまでの自分とは違った領域に足を踏み入れつつあるような気がして、言わば、一から出直し的な状況でもあるので、年齢的にも経済的にも社会人としても、次の旅は、それまでの自分の蓄えてきたもの(金銭的なものと言う意味だけではなく)に頼った気持ちの旅ではないような気がするのです。これが「心境の変化」と言うものなのでしょうか。 だから、次は何を求めてどこに行くのか、今はまだ解りませんが、ここに心境の変化というものがあったのか、なかったのか、それを確かめる意味でもこのブックレットは必要だったような気がします。
と、まあ、珍しく心境を語りましたが、そんなに生々しいものでもないので、お気になさらず、と言ったところです。
「Ireland Trip」の完成を記念して今日ここに記します!!























● アイルランド旅行記、まだ読んでいない方はこちらから ・・・・・> Click!

● これまでの旅のPhoto Gallery です。 こちらから ・・・・・> Click!

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by sanaegogo | 2014-07-14 00:00 | activity | Comments(0)
平林奈緒美の国連萌え に萌える!
平林奈緒美さんといえば、その名前をご存じの方も多いかと思いますが、MUJI、東芝dynabook、journal standardなどのグラフィックを手掛けたグラフィックデザイナーです。が、しかし、やはりこの名前を聞いて思いつくのは資生堂時代の仕事でしょう。ロンドンでの1年間のデザインスタジオ「MadeThought」への出向を経て2004年に資生堂を退職しています。 その後のアートディレクターとしてのご活躍は皆さまご承知の通りです。資生堂時代は自分の名前で仕事をしていた訳ではないのですが、その後、帰国後の2005 年1月に独立してからは、それ以降の活躍に伴って、資生堂時代の仕事にも脚光を浴びるようになったみたいです。この日は、今通っている芸術学舎の講座で、『写真集を見る、読む、楽しむ。そして作る 自分だけの写真集をつくるところまで!』の講師で「写真をレイアウトする、印刷する」と題してお話をいただきました。
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アートディレクターという仕事にとって、写真は何かの目的のための素材であることが多い。故に、写真そのものを忠実に再現するだけでなく、印刷方法であったり、製本であったりという方法で、そこに演出を加えることもあります。写真を紙に落とし込む、ということについて、お話をしたいと思います。
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『写真を紙に落とし込む』ですか。 これまで何度となく行ってきた作業ですが、こんな風に捉えた事はなかったので、(と言うか、それ自体を何か定義付けるような明確な目的意識とか持ってなかったなぁ。) とても楽しみにしていたのです。内容は予想に違わずとても面白く、ご本人のキュートな雰囲気とも相まって、あっという間に時間は過ぎていきました。フクヘンこと鈴木芳雄さんとの掛け合い(?)もベストマッチで、2人ともとても楽しそうにお話いただきました。(と言ってもご本人は人前で話をするのはとっても苦手で、ともすれば、たとえ少人数でも、人に会うのも気が向かない、と言っていました。)話が弾むというのは、話があちこちにぽんぽんと展開するという事で、要点を、と言われてもなかなか難しいのですが、シンプルなテーマである『写真を紙に落とし込む』と言う事は十分に伝わりました。 それにしても、この『写真を紙に落とし込む』という端的で明白なテーマのとりかたも 平林さんのお人柄を表しているようですね!

アート本とアイドル・グラビア本とフォトブック(写真集) 初めての融合
平林さんが初めて写真集というものについて意識させられた写真集。それは、マドンナの「SEX」。1992年10月にワーナーブックスより発売されて、日本では1992年11月に同朋舎出版から発売されていますが、これは修正版で輸入は事実上禁止されました。表紙はアルミで出来ていて、デザインに秀でた秀逸な装丁、これまでの常識に囚われない自由な構成、有名人の奔放な振る舞い、おまけに撮影したのはスティーブン・マイゼル、という、マドンナという超一流のアイコンを撮影して纏めた本を見て「アート本としての括りにも写真集としての括りにもなり得るんだ」、と平林さんは思ったそうです。


印刷物が好きならペン型マイクロスコープを持つべし
ポケットマイクロスコープともいい、印刷物の網点を見るものです。印刷物の網点を見るのに必要な倍率は20倍ほどなので、25~30倍くらいのものを持っていると楽しいそうです。 50倍、100倍もあって網点も大きく見えるそうですが、見える範囲が狭く扱いが難しいので、相当明確な用途がないと不要かも。 網点が見えない時はグラビア印刷で、雑誌の世界で言う「グラビア」というのは「芸術印刷といえばグラビア」だった時代の名残だそうです。網点が見えるのは、オフセット印刷で、マイクロスコープでオフセット印刷を覗いてみると、CMYKの世界が広がり、それを見ているだけで写真集を作るに伴った色々な知恵や事情が見て取れる、と平林さんは言います。「ただし、本屋でやったら嫌われるだろうなぁ」(一同爆笑) とは、平林さんご本人の談です。


予算のない中での仕事との向き合い方
「製作費」というちょっと生々しい話も出ました。 いつも予算が潤沢な仕事ばかりではないので、常にlow-cost/high-qualityの工夫をしているそうです。それは、ただ安く上げることを目標とするのではなく、high-costを承知でもある部分は譲れないものがあり、それを実現するために他の費用を抑えるといったもので、ページのPP貼り、写真の上だけにPP加工を施したもの、バーコ印刷、金銀の発色をきれいにしたいなら比較的廉価な女神インキのものを指定せよ、など、第1線で制作にかかわってきた人ならではの四方山話を聞くことが出来ました。 ご自身の信念としている「今までのノウハウに頼らず 一から仕事に向き合う」というのもこの姿勢の顕れなのですね。


写真集とアート本の境界線
写真集とアート本との明確な違いは、自分で調査や掘り下げの作業をしてその結果というか集大成として生み出されるものが写真集なのではないか、と語っていました。期せずして平林さんの口からも、カメラを使用しない写真とか、ファウンドフォトの話が出ました。 平林さんご本人はベッヒャーの給水塔のような写真集が好きだそうです。 カタログのように同じカテゴリーの対象物が同じ調子で撮影されたものが淡々としかもしつこいくらいに収められている写真集に萌えるそうです。 ティルマンスのコンコルドや杉本博史のジオラマシリーズについては、フクヘンと大いに盛り上がっていました。 そして、最近は医療系の博物館にハマっていて、人知れず素材を集めて全国各地の医療系の博物館を巡っているそうですが、そんなのあるんですか? 見たことないですが・・・。(笑) この時ティスマンスの写真集『FESPA Digital / FRUIT LOGISTICA』についても楽しそうに語ってました! (私も好き!)


e0168781_324138.jpgさて、そんなこんなですが、今日最もフォーカスしたいのが、この平林奈緒美さんの考えるカタログ的写真集の具体的事例 「(fig.1) UN UNITED NATIONS - COLLECTION, TEXT and IMAGES」です。 これは、普段は仕事としてのアートディレクションはしているけど、自分の作品は創った事がない、という平林さんの処女作(笑)で、BCCKSが立ち上がった時に依頼されて無理やり創った写真集だそうで、国連萌えでもある平林さんの「淡々としかもしつこいくらいに収められている写真集」というワールドを具現化したものです。 これが物凄くイイッ! ワタシ的には、その萌えている姿に萌えました。これには平林さんが密かに収集した国連軍の車両や兵器、それにNYの国連本部の中の様子、代々の国連総長などの肖像写真が収められていて、国連のツアーで参加したという国連軍の出で立ちをした コスプレ中の平林さんまでいて、内容は笑えるのですが、実際は笑えないほどスタイリッシュです。 唸ってしまいます。 これを冗談っぽく作れるなんてすごすぎる。 ミニカーを撮影した平林さんご本人による写真もまた素晴らしい! 写真は普段から趣味、というスタンスではなく、あまり撮影はしないそうなのですが、国連軍の車両などが同じ光で、同じように淡々と羅列されている様はミニマムで構成されるカタログ式写真集として充分に成立しています。 写真そのものに訴えかける力がないとなかなかこれは成立しないと思うのですが、「国連が好きすぎて」という平林さんの気持ちの顕れなのだと思うのです。






































実にブレや迷いがない明確なテーマを持った写真集です。 実に潔い。 こんな写真集もやっぱり「あり!」なんだなぁ、と今更ながらに気づかせてくれる貴重な出会いでした。一方で、手の込んだ構成やともすれば難解な制作理念みたいなものがなくても、作品として通用する機会は充分にあるんだ、という編集というもの重要性を改めて目の前に提示されたような気もしたりしました。

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by sanaegogo | 2014-05-14 00:00 | activity | Comments(0)
「食」が楽しい!! いちはら ART×MIX
今年のGWは前半の連休も後半の連休もどっちも天気はばっちりという前評判だったのに、よりによって今日はすっかり曇天の空模様。そんな中、千葉県の市原まで出かけて来ました。市原は友人の実家があって、一度遊びに行ったことがあるんだけど、その時散策した渓流の谷間とか、畦道とか、雑木林、小湊鉄道の線路とか、里山の豊かな自然、清々しい空気の気持ちの良さをとてもよく覚えています。 その市原で地域を巻き込んだ芸術祭が開催されています。 その名も、『ICHIHARA ART×MIX(いちはらアート×ミックス)』。第1回だと言うので、作品数はそんなに多くなかったのですが、小湊鉄道を中心としてバスで各エリアを巡って、“雨ニモ負ケズ”楽しんできました。

名称:中房総国際芸術祭いちはらアート×ミックス
会期:2014年3 月21日[金]- 5月11日[日] 52 日間[会期中無休]
会場:メイン会場:千葉県市原市南部地域[小湊鐵道上総牛久駅から養老渓谷駅の間]
主催:中房総国際芸術祭いちはらアート× ミックス実行委員会[会長 佐久間隆義(市原市長)]
協力:小湊鐵道株式会社
http://ichihara-artmix.jp/

天気が良かったら、田植えが終わった水田の水面に青空が映り込む写真でも撮りたかったのですが、この日は生憎の雨が降ったりやんだりで。それでも傘を広げることなく、帽子で雨除けで凌げたのですが、しかし、ちょっと寒かったです!



雨粒に濡れた睡蓮の葉っぱ。この日はこんなのが似合う感じでした。


ここ数年、地域の村おこしとして芸術祭やアートフェスを開催するところが増えています。越後妻有のトリエンナーレや瀬戸内芸術祭もだんだん有名になってきましたが、いちはらアート×ミックスもそれを目指しているひとつ。主催者の構成員には市長さんのお名前も見受けられます。 このいちはらアート×ミックスは越後妻有を立ち上げた北川フラムさんが企画した芸術祭で、廃校になった小学校の活用や小湊鐵道の列車やバスなど交通の活用などという目的はまあよくある話だなぁ、と思うのですが、ワタシが特徴的だなーと思ったのは、『食』に関することに結構フォーカスとアピールがあることです。地元で採れるおいしいお米やピーナッツ(落花生)を使ったお弁当やカフェご飯を各ポイントで食べることが出来て、各人それを目的に計画を立てる、みたいな、食いしん坊たちの食のスタンプラリーみたいな感じなのが面白いです。勿論、第1回目なので、そんなに豊富なバラエティーはないのですが、今後もこのコンセプトで発展してったら、越後妻有や瀬戸内とは全く違ったアプローチで面白いと思います。



今回みんなの争奪戦(?) (笑)が繰り広げられたのが、このわっぱめし。 左かららっかわっぱなっぱわっぱまっかわっぱ。「らっか」は落花生の「らっか」でアート×ミックススタートの上総牛久駅に売っていて、ここでしか手に入りません。「なっぱらっか」は「なっぱの三色わっぱ」の事で、里見駅に売ってます。 そして、養老渓谷駅 の「まっかわっぱ」。ワタシ達はこのまっかわっぱを狙っていたのですが、養老渓谷駅は小湊鉄道の(芸術祭では)終点の駅。 それに賭けることにしたのですが、途中で計画変更を余儀なくされたのは、想像に難くないと思います・・・・。 (わっぱめしも作品のひとつとカウントされていて、スマイルズ 生活価値拡充研究所 の作品になっています。)



上総牛久駅まで小湊鉄道に乗ってきて、参加者はここで思い思いに行動開始。




長閑な単線の小湊鉄道。スタンド・バイ・ミーの世界ですね。


さて、上総牛久駅の案内所で、指輪ホテルが小湊鉄道の車中で上演するという『あんなに愛しあったのに~中房総小湊鐵道篇』の当日チケットを手に入れる計画だったのですが、朝の7時から並んでいた人もいたほどの人気で敢え無く撃沈! かなり良い評判を聞いていたので残念です。 潔く諦めてひとつめの作品『内田未来楽校』までバスの旅。 会期中は市バスを活用した周遊バスが走っています。



関東地方、しかも東京の隣の県なのに こんな風に木造平屋の校舎が残ってるなんて、なんだかスゴイ。
本格的な田舎です。


内田未来学校の次は湖畔美術館へ。 晴れていたら屋外の櫓のような作品とかも面白かったんだろうけど、この最大の降りはこの湖畔美術館で迎えてしまい・・・。美術館のショップで 大多喜産バジル&市原産トマトのビスコッティをお土産に買いました。
この辺りで養老渓谷までお昼ご飯を我慢するのは危険ではないか? という懸念が生まれていて、美術館のカフェがいい感じのところだったらそこでランチにしてゆっくりしよう!と計画変更をしていたのですが、あまりの雨でカフェは激混み、アート×ミックス的なカフェなら良かったんですが、ピッツェリアだったので、里見の駅まで雨が降ってるうちに移動してしまい、なっぱわっぱを手に入れるべく動くことにしました。そして周遊バスで里見駅へ。
バスの便は結構良い感じです。まぁ、先ほども少し述べましたが、結局のところ、里見駅に到着した時にはなっぱわっぱは売り切れており、お母さんがやさしく結んだおにぎりと胡瓜の浅漬けを食べることに。気の毒がったお母さんがお味噌汁をサービスしてくれました。 アート×ミックスは地元の人や参加する人と触れ合うことも楽しみ方のひとつになっていますが、里見の駅でおじさんやおばさんとおしゃべりしたのは楽しかった。
そしてこの里見駅で本降りになってしまった雨が止むのを待っていると、何やら辺りがザワついてきて・・・・。



ゾンビ 登場!!写真撮らせてもらいました!


朝出発の時、既に完売していた指輪ホテルの当日チケット。この里見駅は単線の小湊線が上りと下りのすれ違いの待合の駅らしく、そのすれ違いの停車時間を利用して上演のために走らせている特別列車にさらにゾンビが乗り込んで停車中に何かパフォーマンスをするらしく、列車に乗ることは出来ませんでしたが、ラッキーにもゾンビ追加投入のパフォーマンスを見ることが出来ました。



コーヒー飲んでスタンバッてたゾンビ姉さんを含め、3人のゾンビが・・・。
乗り込み・・・。




電車は走り去って行きました・・・。




指輪ホテルの臨時列車を見送ったら小湊線はあと1時間ほど来ないので、バスで移動。 お腹がまだちょっと物足りないので、山登里食堂まで。ぽのわプロジェクトがやっている『とぬま』というプログラムで、カフェでシシッチャ(いのしし)サンド、猪肉の山登里カレーなどが食べられます。 が、ワタシ達はサバサンドというなんとも魅力的なサンドイッチをいただく事にしました。



これがサバサンド。焼いた干物のサバがサンドしてあって、ジューシーで美味しかったです!


何故、市原でサバなのか? イノシシは解る。お店のお兄さんに尋ねてみてもいまひとつ「なるほどっ!」という答えは得られませんでしたが、写真を撮ってなくて残念なんですけど一緒に飲んだジンジャーエールの生姜のたっぷりさにワタシとしては大満足でした。 (でもあれは、生姜の苦手な人には大量すぎるのでは? ま、でも生姜苦手ならジンジャーエールは敢えて飲まないのでしょうね。)
おっと次のバスの時間だ!と山登里食堂を出て養老渓谷まで。途中間違ったところでバスを降りてしまいアップダウンの道をテクテク歩く羽目になったのですが、やっと到着。養老渓谷駅です。



趣のある駅舎。
ここは養老渓谷のハイキングの出発駅で、長閑な山間の風景が広がってました。




まっすぐに伸びる線路




養老渓谷


そのまま10分ほど歩いて あそうばらの谷 まで。大巻伸嗣の『おおきな家』という作品があります。 そこに行くまでに立ち寄ったのは、開発好明の『モグラTV 』には笑いました。畑の中の穴の中にモグラの姿をした開発さんが来る人を待ち構えておしゃべりをしてくれます。 穴の中はスタジオになっていて番組がある時は市長さんとかもゲストに来て、穴の中に入るそうです。(笑) この人、1日中誰か人が来るのをこの穴の中で待ってるみたいなんです。 厭世的雰囲気を醸したモグラとのおしゃべり。シュールです。



モグラTV


アートハウスあそうばらの谷」は、ART×MIXのための作品ではなく、養老渓谷にある本来の古民家の雰囲気をできるだけ残しつつ、古民家とアートの融合を図る新しい試みとして改修された築100年以上の古民家ギャラリーです。 企画展もやっているギャラリーで『大きな家』はART×MIXのために制作された作品のようです。靴を脱いで暗く照明の落とされた屋敷の中を歩いていくのですが、屋敷の中にいくつか展示されていた中の最後の作品がとても印象的でした。撮影が禁止だったので説明だけになりますが、板の間の高い梁の上からぼーっと白い球体がゆっくりと生まれ降りてきます。 空中を漂うようにしてそこにある白い球はシャボン玉で、中に何か煙かドライアイスか粒子の細かい何かが入っているようで、球は地面に到着するとふわっと壊れてしまい、そしてふわっと白い何かが立ち昇ります。そしてゆっくりと拡散して消えるのですが、ここだけ時間がゆっくり流れているようで、音もなく静かで、しゃがんでその球の生まれては消えするのを見ていると気持ちが知らず知らず鎮まってくる気がします。こう言う作品、本当に好きなんです。 「漂う」「散る」「消える」それが静かに静かに繰り返される感じ。シャボン玉の中の白い煙のようなものは、空気(大気)より比重が重いのでゆっくりと降りてくるのだと思うのですが、こんな風に科学、化学あと大げさに言えば自然の摂理とか、自然現象、神羅万象を取り込んだ作品であることが、ワタシが好きなもう一つの理由です。



古民家を前庭から撮影。雨が上がったばかりなので、緑が瑞々しいです。



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田植えが終わったばかりの水田。整然と均一な畝の様子が素晴らしい!


里山のピクニックの最後にまたちょっと休憩ということで、ここでもまた「食」作品を堪能・・・・しようと、スマイルズ生活価値拡充研究所の『山覚俵家』にお邪魔することにしました。 ご飯の時間は終わっているのですが、なんかちょっと甘いものでも、と。ここは、季節のまぜご飯セット を出していて、これもとってもおいしそうでした。 お米が自慢だそうです。 残念ながらいくつかあった甘いものは完売してしまっていましたが、ちょっと寒さで冷えていたので、コーヒーをいただいて温まりました。 ちなみにコーヒーはお替り自由。うれしい心遣いです。





働いていたお母さんたちは皆さん どこか垢抜けていて こなれた会話も素敵でした。


ICHIHARA ART×MIXは今年が第1回目で、展示してある作品数は数は少ないですが、「なっぱすごろく 」と銘打って限定食みたいな素朴で美味しいものを食べ歩くという企画も面白いし、各所各所で地元の人や運営をしている皆さんとおしゃべりが出来たのが楽しかったです。小湊鉄道は鉄ちゃん達に人気があるらしいし、養老渓谷は風光明媚でハイキングが最高らしいし、田んぼの畔を散歩するのも楽しそう。 そして、会期も残りわずかですが、これから行く人はお昼に何を食べるかを軸として計画を建てることを強くおススメします。(笑) 今後の盛り上がりに期待します!

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by sanaegogo | 2014-05-05 00:00 | activity | Comments(0)
ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス) | In almost every picture
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今年 2014年の学びは・・・・・。 今、東京藝術学舎のセミナーに通っています。今日はその初日なのですが、本日の内容は、『最新写真集と写真集出版の現在の動向を例にあげながら、過去からの流れをひもときつつ、写真集がこれまでなにを見せて来たのか、これからどこに向かって行くのか、写真集の果たす役割について考えていく。』というもの。 日本と絡めながら海外での写真集のあり方や取り組み方の変遷などのハナシを聴いたのですが、その中で講師の鈴木芳雄さん(aka.フクヘン)と IMA編集長 太田睦子さんから「ファウンド・フォト」についてのメンションがありました。
写真を撮る事が、万人がリーチ出来る娯楽の手段のようになった昨今、写真を撮ること、惹いては家族のスナップのような記録の1種としてではなく、日常を手軽に作品化出来るような雰囲気になっている今日この頃、作家からスマフォでSNSにアップするのが大好きな写真ファンまで、「撮る人」はとっても多様になってきてます。撮る人の飽和から写真表現の新規開拓まで、色々な要素が相まって、写真を撮る事だけが写真表現だろうか、という動きもあったりして、自分で撮るばかりが写真家ではない、と言ったアプローチも生まれてきています。 何もこれは2014年の最近の話ではなくて、もう何年も前から、多分、デジタル化の波に押されて、写真を撮る人層の急増に突き上げられるような形で、それまで「手軽」ではなくもっと「真摯」に写真と向き合ってきた人たち(作家達)の中で、既存との差別化みたいな形でむくむくと台頭してきたのだと察せます。 もっと言えば、もっとずっと前から、こんな風潮が出来る前から、ひとつの表現方法としてファンド・フォトをひとつの作品として再生する事を試みている人がいて、その1人が、ERIK KESSELS(エリック・ケッセルス)という人です。 思えば、個人的には2007年とかに コンテンポラリー・アートとかのセミナーやトークに出かけるようになってから、この名前は繰り返し聞いてきたのですが、今日、この講義に出て初めて、それが全て繋がって、エリック・ケッセルスのしてきた事として自分の中にやっと認識された気がします。(時間かかりましたねー。) 初めてその名前がワタシのノートの中に出現したのは、2008年の畠山直哉さんの‎AIT でのセミナーの時です。 畠山さんは、その時 彼の最初に出版したKessels Kramerの写真集シリーズ「In almost every picture」の第4巻の事例を挙げてファウンド・フォトについて説明をし、実物も見せてくれました。 この時は、その写真集自体、物凄く印象が深くて、その不可思議な成り立ちと淡々とした世界観に眼を奪われたのを覚えてます。ファウンド・フォトは、もはや、どこの誰のものでもない写真ですが、それを並べることによって、何かの意図が浮かび上がってきて、物凄く想像(妄想といっても良いかも)をかき立てさせられ、自分の中でいくつもの勝手なストーリや状況が湧き上がってくるような 動的感覚を覚えたのを記憶してます。 この日の太田さんのお話は ファンド・フォトだけに特化したものではなかったのですが、その行(くだり)のところで期せずして、この時の事がフラッシュバックのように甦ったので、今日は自分の備忘録として、エリック・ケッセルについて書きます! ( 先にも述べたように、それ以降名前だけは幾度と無く耳にしているのに、何故この時なのか、自分でも不思議ですが。 もうひとつの偶然としては、Webで調べ物をしていて偶然見つけたファウンド・フォトがあまりにも可愛くて、数ヶ月前からPCの壁紙にしているのが、なんと、知らず知らずのうちにこのエリック・ケッセルの見つけたファウンド・フォトだったのです。(冒頭の写真))
ケッセルスは自身のケッセルス・クライマー社からファウンド・フォトを用いて「Useful Photography」と「in almost every picture」という写真集のシリーズを出版しています。「Useful Photography」は、すでにどこかで公開されているものを集めたもので、もともとあったはずの場所から唐突にピックアップされて、写真集の中で何らかの意味や意図を発揮している、というシリーズ。もうひとつの「in almost every picture」は、蚤の市や古書籍店で集めてきたファウンド・フォトを編集した写真集のシリーズで、そこにはどこの誰とも判らない人々の思い出として様々なシーンが淡々と繰り広げられています。 そのイメージの羅列は何かを物語っているようでもあり、その時はさして意味を成さなかったもののようにも見えます。 でも時を経て、その時のその(それらの)写真を写した時の状況を察すると、とても意味深に見えてくるのです。

その「in almost every picture」の中から。
― in almost every picture #9



この黒い犬。 飼い主家族には大変に可愛がられていたことが見て取れます。 可愛らしい専用のベッドが与えられていて、まるでわが子のように常に写真の中では主役として納まっていて、それが時には家の主が座るであろうリビングのソファーであったり、自由に遊び回れる広い庭であったり。飼い主は一生懸命その可愛らしさを写真に収めようとしているのでしょうが、当時のカメラではただただ黒い塊として写るばかり。ついぞ、その顔が写真に残る事はなく、愛されていた犬のシルエットばかり。 どちらを向いているのかさえも確認できず。その時の当事者達は決してふざけている訳ではないのですが、コミカルさが滲み出ていて、並べてみると何とも微笑ましい雰囲気がありますよね。


― in almost every picture #2


これも謎めいた写真です。 街中を走る1台の車。遠くから車を映しています。 これからドライブにでも行くのでしょうか。 車のオーナーやドライバーなら、この撮影距離は不自然で、わざわざどうしてこんな遠距離からこの車を写真に収めたのでしょうか。


と思いきや、車の中から写した写真もあります。写真を撮った人は同乗者なんですね。でも良く観ると撮影された車の運転席は空っぽ。 じゃあ、路肩に停めて撮影したんでしょうか。 それとも この車があの車? でも、この写真だけ車の上にTAXIのサインがついているんです。 そして、運転する人が助手席の人を「何故この位置から?」と謎が深まる写真もあります。


そんな写真は他にもあって、明らかに走っている車を「何故この位置から?」と思われる写真が続きます。 そして、街を抜けて車は山間に入ってきたようです。 どこかに旅行に出かける途中なんでしょうか。


写真は明らかに、ドライバーが助手席に乗せた女性を撮影したものです。 路肩に車を停めて。 空っぽになった運転席がそれを物語っています。 そして、街を離れだいぶ遠くまでやってきたみたいです。



とうとうこんなところまで来てしまいました。 谷間の路肩に車を停めて、ドライバーはまた運転席の女性を写します。 そして、女性は決して車から出て来はしないのです。



これは運転している人? 彼女の旦那さんでしょうか? 女性は足が悪い人なのかもしれません。 この写真も車の中から撮影されているようです。 決して車から出てくる様子はありません。 だったら、あの遠景で写された写真は、一体誰がどういう状況で、どういう意図で撮影したものでしょうか。 2人はご夫婦かも知れないし、お金持ちの足の悪い女性に雇われたドライバーなのかも知れません。 ストーリーはいくつもあるのです。


― in almost every picture #4

さらにドラマチックなのがこの写真。 友達、姉妹、二卵性双生児、いずれかは判りませんが、彼女達はいつも同じ服を着て写真に納まっています。 そしてそれを写真に撮っている「誰か」が常に彼女達の側にいるのです。



おしゃれをして、お揃いの服を身をまとい、そしていつも腕を組んで、楽しそうにカメラに向って笑いかけています。



季節を問わずいつもお揃いです。 こんなにいつもお揃いだったらそれは双子だからだろう、と思いがちなのですが、あまりにも違う背格好。 もしかしたら、恐ろしく仲の良い友達同士なのかも知れません。



そして、色々なところに出かけています。 本当にこの2人(いえ、撮影者を合わせると3人)はいつも一緒なのです。



他の第3者が一緒に写っている写真もあります。 しかも2人の間で2人から腕を組まれ楽しそうに笑っています。



写真は突然 小さい方の彼女1人きりになります。 もう大きい方の女性の姿はどこにもなく、お揃いの服かどうかも確認できません。 それでも彼女は色々な場所に出かけて、笑顔で写真に納まっているのです。 実は写真を撮っていたのは小さい人の婚約者で、あまりにも仲が良い大きい人を内心疎ましく思ってたのですが、2人の仲を引き剥がし、やっとプライベートなデートの時間を得るに至った、というストーリーはワタシの勝手な想像です。もしかして、第3の人物(撮影者)は実は存在せず、いつもお揃いを着て一緒に旅行に行って 居合わせた人にカメラを渡して記念写真を撮ってもらってたけど、ある日大喧嘩して絶交。 それからは1人で旅行に行くようになったとさ、というありがちな話だけかも知れません。

ワタシは実際にこの写真集を持っている訳ではないので、並びも実際こうなのかどうかは定かではなく、#2と#4のストーリーは全くの想像です。 でも、1枚ではただの古びたたまたま発見された写真(ファウンド・フォト)ですが、まとまって展開すると、その時の意図を超えてその想像はどこまでも広がっていくのはとても興味深いと思います。 しかもその想像はファンタジーとかではなく、具体的で実際有り得そうなのが、ファウンド・フォトが主にスナップで、写真がその人のその当時の生活を垣間見せているからなのでしょう。
それにしても、海外では蚤の市や古本屋さんに個人のアルバムや全くもってプライベートな書簡などが売り買いされているそうですが、何故思い出のつまったアルバムが売りに出される事になったのか、何所をどう巡ってここに至ったのか、その点でも想像はぐるぐると駆け巡りますが、それは想像してもしても理由や経緯は知る由もなく、そんな時感じる切ない気持ちに似たものがファウンド・フォトを特別なものに見せるひとつの要因なのかも知れません。 ここで、こんな風に写真集になる事がひとつの奇蹟みたいなものですからね。
最近では、Web上で拾った写真もファウンド・フォトと位置づけられているらしいです。 (もっともここで掲載した写真もWebから拾ったものですし・・・・) そしてそれを作品として再構成している作家も多く見られるようになっているようです。蚤の市やWebsiteで手に入れた写真で写真集や作品を創る。もはや、写真家というのは「写真を撮影する人」ではなくって「写真を作品として世に生み出す人」の事というように意味合いが変わって来ているんですね。

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藝術学舎(京都造形芸術大学・東北芸術工科大学)
写真集を見る、読む、楽しむ。そして作る 自分だけの写真集をつくるところまで!
2014年4月 9日(水) 「写真集が映し出す過去、現在、未来」
講師:太田 睦子、鈴木 芳雄
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テキスト参考:
http://blog.livedoor.jp/talbot2011/archives/52695597.html
http://jmcolberg.com/weblog/extended/archives/conversations_about_photobooks_erik_kessels/
http://www.shanelavalette.com/journal/2008/03/27/erik-kessels-in-almost-every-picture/
http://josefchladek.com/book/erik_kessels_ed_-_in_almost_every_picture_4#image-6
http://www.webinapage.com/2011/01/in-almost-every-picture-by-erik-kessels/
http://www.cartype.com/pages/4859/in_almost_every_picture
http://www.creativereview.co.uk/back-issues/creative-review/2008/february-2008/feature-lost-found


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by sanaegogo | 2014-04-09 00:00 | activity | Comments(0)
「惑星探査」 planetary exploration
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今年も1月が「あっ!」と言う間に過ぎて、もう2月になってしまいました。 ここ数年、本当に時間とか月日の経つのが早く感じられますが、これが『加齢』ってやつなんでしょうかね。 昨年(2013年)の今頃は、仕事と仕事の(例年にはない少し長めの)インターバルに入っていて、そして、とっても寒かったのを覚えています。(でも数値的には今年の方が寒いんでしょうか。その辺は定かではなく、あくまでも体感です。) ここ数年、冬に雪が見たい衝動に駆られる事が多くて、学生時代はスキー部に所属してましたが、(「凍ってるね。」世代です。)、その時の感覚とはまた別なものに突き動かされて、1月のこの時期に北海道に雪を見に出かけました。

一番の目的は、厳寒のモエレ沼公園。(写真はWebから取った素敵なモエレ沼) 雪山とか、北海道の陸別町とか、本当の厳寒地をご存知の方は札幌郊外で何を抜かすか、とおっしゃるかも知れないですね。 実際私が学生の時に籠っていた志賀山とかの方がよっぽど厳寒だったと思いますが、雪深いこの時期にそんな所に出かけていく酔狂な人もいないだろうと、ひと気のない雪景色を撮りたかったのです。その時の写真をPhoto Bookにまとめました。その時感じた事も、このPhoto Bookも、転機とまでは行きませんが、何かきっかけというか、とっかかりというか、そんな『何だか解らない何か』を味わったような気がするので、1年経ち、あの時のあの感覚とか、月日を経て、これを作った時感じたざわざわした気持ちのザワつきとかを忘れないように、備忘録として書きとめておこうかと思ったんです。







今まで、折に触れて、何冊かPhoto Bookは作っていますが、今までのはまあよく言う、『心に留まったものを写真に収めています』みたいな、言うなれば継ぎ接ぎ(ツギハギ)のものを後付でテーマに沿って流していった感じのもので、それはそれで「あり」だとは思うのですが、そうではなくて、何かの目的を持ってそこに行って、そこで完結をして、そこから自分の感覚に即したストーリーを与えていく、みたいな作業をしてみたくなったのです。 その場所で感じた感覚をある種のストーリーに置き換えてなぞっていって、かつ、観てくれる人が「観終わった」と感じられるような、上手くは言えないのですが、そんなPhoto Bookです。 観終わって、「ふうん」という、「あ、これで終わりなのか」 みたいなものが多かった今までの自分のやり方とは全く違うものです。 勿論、先にも言ったように、撮り溜めてきたイメージの中で起承転結とか序破急のようにクライマックスを作ってある種のストーリー性を持たせて写真本を創る人は沢山いますし、名だたる作家の方はみんなそうなんだと思うのですが、自分にはまだ写真だけでそこまでの構成する力はないので、ストーリー仕立てに逃げる安直な感じは否めないのですが、無意識に今までとは発想を変えてみたのかも知れないですね。 私にとっては、(あくまでも、私にとっては)、あるきっかけにはなったと感じてます。




2012年の夏にワークショップに参加したのですが、そのフォローアップが昨年(2013年)の夏にあって、そこでポジティブな講評をいただいたのもとても励みになったし、この構成を完成した時のうっすらとした達成感を思い出して、あの時の感覚を忘れないようにしよう、と。 (成功体験と呼ぶにはまだまだではありますが・・・。)

その時のテキストです。
――― これまでのように偶然遭遇した場面ではなくて、そこをリサーチして、そこに赴いて、そこに必然的にあるナニモノかを撮影し、ひとつの流れの中でストーリーのようなものを与えてみる、という事をしたくて、この「惑星探査」をつくりました。
次のページを捲りたくなる、次の展開を知りたくてワクワクする、本全体で何かひとつの完結し、そして余韻がある世界観をあらわす事を目指して、この本をつくりました。
ひと気のない、だだっ広い雪原を撮ってみたくて、北海道の郊外のこの場所を訪れた時、自分の他には周囲に誰もおらず、全く違ったどこか別の惑星に来てしまったように感じました。 遠くに小さく動いている人影を見つけた時に、まるで同志を発見したかのような感覚を覚えました。『この世界には知らない同士だけど私達だけ』 そんな錯覚を感じる事が出来たのです。



















これはこれで、自分のスタイルのようなものがひとつ見つかったような気がしたので、次回作はもう少しテイストの違ったものを考えています。 さっきの話とは矛盾するのですが、クライマックスがあるようでないような、フラットに時間と空間の流れでストーリーが展開していくような、観ている人にストーリーを委ねられるような、そんな本です。 これは、あまり作為的なストーリー性に安易に堕ちて行きたくない、という思いからくるものですが、難しそうですね。 頭で考えるのではなく、まぁ、とにかく選んで並べて、並べ替えて悩んで、だと思うのです。(その前に、撮って、か!そう、撮れたから作る、ではなくて、作るから撮る、なのです。) 『惑星探査』は、もう過去のものとして、次なる何かに向って行きたいと今は思っています。 でも、(何所かは判らないけど)向うべきところへ向っていく軌跡として、色々な人に観てもらえたらいいなぁ、などと感じています。

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「惑星探査」 planetary exploration
撮影: 2013年 冬(2月)
撮影地: 北海道 札幌 モエレ沼公園 円山動物園 北海道大学札幌キャンパス
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余談ですが、フォローアップの後の懇親会で突然、「アナタのは、『星の王子様』に感化されてるよね。ばっちりその世界観だよね。」とコメントをいただきました。 正直全くそんな事は意識してなかったので、かなり意外だったのですが、何だか気持ちの良い「気付き」でした。 自分が全く気付かずしていた事に気付かされるのは気持ちの良いもので、実際少女の頃はかなり「星の王子様」っ子だったので、自分の気持ちに「寄せた」ものであれば尚更です。 「自分でも解らなかったのに見透かされてる?」 と、その洞察力に度肝を抜かれました。

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by sanaegogo | 2014-02-02 00:00 | activity | Comments(0)
「グルスキーの写真から見えてくるもの」 って何?
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今、国立新美術館でやってるグルスキー展。これもとっても楽しみにしていたのですが、まだ観にいけていません。 8月は何となく予定が合わず、足を運ぶのは9月の会期終了間近になってしまいそうなんですが、この展覧会の見どころ、みたいなトークイベントが色々と開催されていて、心をザワつかされずにはいられません。 そんなうちのひとつが、代官山蔦屋書店で行われたトークショー、アンドレアス・グルスキー展 記念トークイベント「グルスキーの写真から見えてくるもの」です。

アンドレアス・グルスキー展 記念トークイベント「グルスキーの写真から見えてくるもの」
会場:代官山 蔦屋書店
日時:2013年8月2日 19:00~
登壇者:鈴木芳雄(編集者/美術ジャーナリスト。美術通信社代表)、長屋光枝(国立新美術館主任研究員)、太田睦子(『IMA』エディトリアルディレクター)
http://tsite.jp/daikanyama/event/002135.html

先日、フクヘンの別のトークに出かけた時、このグルスキーの話もしてくれたのですが、今回はばっちり、この展覧会のためのトークです。 お相手はこの展覧会を企画した新美のキュレーターの長屋光枝さん。フクヘンはさぞかしまた含蓄のあるエピソードを披露してくれるはず、と楽しみに出かけて参りました。
頭の15分くらい間に合わず欠けてしまって、とっても残念だったのですが、それ以降でもかなり興味深い話をたくさん聴けました。 私が着席したあたりでは、鈴木芳雄さんが新美のホームページでコメントを寄せている"「Photograph」を「写真」と翻訳した国で彼の作品を観る感慨そして敗北感"というコメントの真意について話し始めようとしているところでした。 「写真」は、まあ文字通り、「真実を写す」というところから来てる訳ですが、これは絵画と比較した場合の「真実」で、グルスキーの写真は光学的なものを用いて画を造り出していますが、よく視るとそれは決して一言で簡単に説明できる「真実」の世界ではありません。 また、写真というメディア(絵画でいうところの画材)を用いてある種の絵画を制作している、とも言えるようです。グルスキーは端から端まで全て等価で均質で緻密な世界を巨大なスケールで再現していますが、それは勿論見たまま、見えるままの世界ではなく、精緻な画像処理がされています。 何せまだ本編の展覧会を観ていないので、今の段階では語られている作品については想像するしかないのですが、何でもその巨大な画面をしげしげと観察してみると何箇所かで撮影して足していたり、同じパーツを繰り返し繋ぎ合わせているのが見て取れるそうで、そんなのもグルスキー展の楽しみ方のようです。 遠近感があるようで、遠近感をそれとなく無視した画面構成。 これを中国の山水画や日本の絵巻物の描き方と比較していたクダリが実に面白い話でした。 山水画や洛中洛外図のような絵巻物は何箇所もの視点があり、作者の視点は万遍ないと言うか、これぞ『神の視点』かと思わせんばかりの超俯瞰です。 いや、俯瞰、鳥瞰と言っても視点はひとつなので、この場合、俯瞰という言葉も当てはまらないのかも知れません。西洋画にもセザンヌとか、ピカソとか、多角的に視点を捉えた日本画に影響を受けたと言われる画法はありますが、まだまだ中心となる物体の呪縛から解放しきれていないと言うか、この全てが等価で繰り広げられる東洋の独特の画法の域には達せていないのに、グルスキーはいとも簡単に(か、どうかは解りませんが。) この世界観をコンピューター処理を用いて顕す事を自分の持ち味にしています。 画面の成り立ちが所謂西洋絵画ではないのです。 透視図法などを線で表現すると画面と視線の角度(内角)は鋭角になり角度が付きますが、グルスキーの写真は画面のどこからでも写真に向って線が延びていき、しかもどれも直角、そんな世界です。 何故グルスキーがこんなに人の気持ちをワクワクとさせ迎え入れられるのか。その等価で均一な情景とか巨大なのに緻密な構成だとかで語られていますが、この遠近法と絡ませた話はとても面白かったです。
『チョイ足し』の話も面白かったです。 例えば『カミオカンデ』。これはもともとは人物は画面にいなかったそうなのですが、グルスキーが『チョイ足し』をしたそうです。でも画面の中に人が入るとそのスケール感が圧倒的に変化するのと、またここで山水画に話が戻るのですが、水墨画の中に佇む仙人を見るように画の中に知らず知らず感情移入をする効果を出しています。 その規模感と自分の位置を比較して、より『カミオカンデ』の実際の巨大さを知る訳です。 でもここで、実際に人はいなかった訳なのでこれは『真実』ではなく、『写真』という訳語の表す定義からは外れてしまうわけですよね。 写真なのに。 うーん、禅問答のようです。
でも、グルスキー本人は「わーっ、おっきぃー!!」とか「わー!すごいっ!」という印象でも全然OKな人だそうです。 それは観る人に委ねたい、と。 ここでフクヘンがまた語録に残るような事を言っていました。『写真集は手で見る。展覧会は足で観る。』 グルスキーは近寄ったり離れたりして色々、色々動き回って観て欲しい、と語っているそうです。
とにかく早く行かなくちゃ。 といっても、もうちょっと先になりそう。 多くの人が新しいシリーズ、『バンコク』を絶賛しているので、それがとても楽しみです。
写真の作家でありながら、ドイツのロマン主義絵画フリードリヒ などともよく比較され、抽象絵画のような写真とも言われているそうですが、何故フリードリヒとよく比較されるかなどについては、このトークでは話がそこまでは及ばなかったので、何かの機会にそれを聴きたいなーと思ってます。
本日のトークは、これから観に行く人にとっては充分過ぎるインセンティブになったと思います。 大きさに圧倒されに、『ウォーリーを探せ』のノリで、フリードリヒとの比較、見え隠れする東洋的視点の発見、など、楽しみ方は人それぞれ。 この懐の深さが人気の要因のひとつなのでしょうねー。


よく比較されているフリードリヒの宗教的含意をふくむ抽象的風景画です。 むむ。


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by sanaegogo | 2013-08-02 00:00 | activity | Comments(0)
金魚のゆらゆらSwimming
日本橋の三井ホールでやってるアートアクアリウムに行って来ました。金魚のゆらゆらとした遊泳に心癒されようと思ったのですが、休日と言う事で、(前評判どおり)とっても混んでました。 こんな時は流石に長身に生んでくれた親に感謝、ですね。 人の頭越しに・・・・。

ECO EDO 日本橋 ダイナースクラブ アートアクアリウム2013 ~江戸・金魚の涼~
2013年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 11:00―23:30
日本橋三井ホール (コレド室町5F/エントランス4F)
http://h-i-d.co.jp/art/

癒されに・・・・、と言いつつも、実は写真を撮りに行きました。短焦点の明るいやつで行こうと思ったのですが、『いや、まてよ。』とやはりズームも持っていくことに。 長身+200mmはかなり効果的で機動力を発揮してくれました。
とは言え、スゴイ人で、その殆どがスマフォのカメラかガンレフを持っている。 いやー、スゴイですね。 いったい何人の人がFBとかにアップしているのか。

金魚はとっても可愛かったんだけど、正直ライティングをもうちょっち、何とかして欲しいなー、という感じは否めない。 ちょっとケバい、かな。 (まあ、好みの問題なんでしょうけど。) アクアリウム、と銘打っているんだから、"アート"アクアリウム、とは言え、もう少し自然界に倣ったライティングにして欲しいな。でもこれは、ワタシの目的が完全に違っているのだと思って、あんまり文句めいた事は言わない事にします。 小さな窓の中に色んな種類の金魚が入っていましたが、この中の金魚にまでアーティフィシャルなライトは不要なような気がします。

今度平日も行ってみよ~。 何だかんだ言って、金魚に夢中、乱れ撮りなワタシなのでした。

   



























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by sanaegogo | 2013-07-21 00:00 | activity | Comments(0)
「Showa88/昭和88年」
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©薄井一議「Showa88/昭和88年」#01


薄井一議写真展「Showa88/昭和88年」
開催日:2013/6/15 ― 2013/8/8
開催地:写大ギャラリー
ギャラリートーク :2013年7月20日 14:00~

今がもし、昭和88年だったら。 その時代(時間)設定にうっすらと混乱を覚えずにはいられません。『もし、あの時終わってしまっていたものが続いていたら・・・・。』これは薄井さんが予てから温めている独特の眼線というか、視点のようです。 私はこの独特の時間の起点の置き方にうっすらと混乱させられました。 昔から色々な小説や映画で近未来を想像して、『その頃にはきっとこうなっているだろう』的な作品は本当に数多くありますが、時間の起点は今自分がいる現在を軸にしています。『2001年宇宙の旅』然り、『ブレードランナー』然り、『ターミネーター』だってそうです。やがて時が流れて、昔思い描いていた未来に次々と現実が突入していく訳ですが、今は2013年で2001年はもうとっくの昔になってしまっています。あの頃の作者が思い描いていたその頃の『未来』と『今』には大きなズレがあって、それは世の中が2001年になった時に確かめる事の出来るものでした。薄井さんは、今、昭和88年という形で、現在の傍らにそのズレたもうひとつの世界を作り出しました。過去を起点とした同時代的未来とでも言いましょうか。昭和64年で終了してしまった昭和がもしそのまま進んでいたら。 その頃の別の未来(と、言うにはSFではないので、少々そぐわない感じもしますが) に向うもうひとつの時系列を作為的に造りだしたのですね。自分が何故この事に幾ばくかの面白味を感じるかを頭の中で整理しようとしても、どうも思うように言い顕せず、このもやもやが一層面白味を感じさせるのだという気がしますが、薄井さんのトークを聴いていて、彼は深く思考してこの設定を練り上げているかのように見えて、とても直感的な人なのだ、と感じました。 作品として写真を撮る人には、感覚で情景みたいなものを追いかけいくタイプと設定を深く思考思索してつくり込んでいくタイプの人がいるのだと思いますが、『直感的に練りあげる』、というのがあるのだとしたら、薄井さんはまさにそんな感じなのだと思います。 写真を志す前は映画を作る人になりたかった、と語っていましたが、幼い頃から途絶える事なく脈々と続いている『薄井ズム』みたいなものが、そのバックボーンにずっしりと効いているのだと思います。昭和88年という設定の妙がこの写真集にはあります。
もうひとつは、何と言っても色彩の素晴らしさですよね。私が言うのも本当に僭越なのですが、これが確固たる撮影技術の質の高さなんでしょうねー。うーーん。唸る。 私が以前拝見していた作品としての薄井さんの写真は、ガンメタや鋼のように黒光りしたモノトーン、と言うかどちらかというと『銀』のイメージだったのですが、この昭和88年はかなりビビッドでブライトで眼を奪われました。マゼンタ、オレンジ、イエロー、これらの発色の良い色彩が何故か今、『任侠』の甦った世界と合間ってどこの時代にも所属しない昭和88年の世界を作り出しています。 私の少ない引き出しを探ってみても、映画とかでこれまでの巨匠は、未来というとどこか薄暗く、どちらかというと味気ない機械の色彩のような表現が多いと思いますが、昭和64年から起算したこの世界は色彩に溢れています。(いや、奇しくもここ最近女性のファッションではネオンカラーが流行っているのも、面白い偶然かも知れませんが。) 『なんでピンクなんですか?』と率直に訊いてみると、ご本人曰く、古い写真は劣化してマゼンタがたってくるので、そのイメージ、なのだそうです。 これも私にしては眼から鱗が落ちるような答えだったと思います。 任侠の世界もこんな色彩の中では、一見退廃的なようでもありながら、昭和の時代の何処となく埃臭さや汗臭さとはまた違った洗練されたスタイリッシュさを感じ、それが、菅原文太や藤純子の描く任侠の世界とは一線を隔した昭和88年を顕しているように感じます。 しかし、何故いまヤクザの世界なのでしょうね。 その辺の話をもっと聴きたかったのですが・・・・・。 自分の立ち位置を『今』にすればそれは、隣のもうひとつの『今』。『昭和64年』にすれば、やがて辿っていたかも知れないもうひとつの『未来』。でもそこに映し出されているのは、昭和64年にも既にノスタルジーをもって語られていたような泥臭い『郷愁』。観ている自分の軸が一体どこにあればよいのか、そんな、自分自身が全て同じ時代に生きているだけに生じてしまう、うっすらとした混乱に引き込まれるのかもしれません。




©薄井一議「Showa88/昭和88年」#17





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#39





©薄井一議「Showa88/昭和88年」#28


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by sanaegogo | 2013-07-20 00:00 | activity | Comments(0)