ふたつのNerhol展 ―IMA CONCEPT STORE と EYE OF GYRE
Nerholと言えば、今やコンテンポラリーアート界に燦然と輝く星のようであり、ひとつのスタイルを確立して世に知らしめようとしている旬のアーティストです。 Nerholは2人組のユニットで、そのユニット名「ネルホル」は、グラフィックデザイナーの田中義久がコンセプトを「練り」、現代アートに軸としてきた飯田竜太が「彫る」ことに由来しています。最近は、どこかとどこかで同時開催みたいな個展が増えてきたような気がしますが、この度もNerhol個展が都内2個所で開催されているので、行って来ました!

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ネルホル個展「アトラス(ATLAS)」
会場:IMA gallery
会期:2014年10月16日(木)~1月30日(金)
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ネルホル個展「シーネリー、シーン(Scenery, Scene)| 風景と景色」
会場:EYE OF GYRE
会期:2014年10月16日(木)~11月20日(木)
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IMA galleryの「アトラス(ATLAS)」は、彼らのこれまでのシリーズ作品である“Misunderstanding Focus”(2012)、“Portrait”(2012)、“Misunderstanding Focus 16:9”(2013)、“Scene to know”(2013)の作品を再構成してひとつのコンセプトへと集約した約40点が展示されています。さらにそれらの作品はそれぞれハードカバーの書物の体裁に纏められていて、立体作品として、写真として、書物として、多角的に鑑賞することが出来ます。


合計36点のNerhol的ポートレートが一堂に会しています。 撮影はカメラを固定して定点で行われているのだと思いますが、被写体の微妙な動きが要素となって、彫り込まれたポートレートの微妙な歪みに眼が行きます。まるで時間がそこで揺らいでいるかのようです。

   

立体的に展示しているものもあります。 この厚みは時間の厚み、経過を示しているかのようです。 彫進める事で、時間を遡っているかのようにもなって、全てのレイヤーが表面に現れる事によって、一旦時系列は消滅しているようです。







積み重ねられたATLASと共に展示された写真作品。 立体作品を撮影した巨大ポートレートです。こうして被写体とそれを取り巻く時系列は様々に姿を変えて観る人の前に出現することになります。




Eye of Gyreでは、彼ら自身が「私たちの作品は素材がもつ元々の要素から大きく離れた物質となっています。その物質感を再検証し、制作された作品の様々な要素を多角的に解釈できるような空間を構成することが今回の試み」と語っている意欲的な展示になっています。

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目線の高さで展示された写真作品は、彫進めた過程の紙の彫残しやその力加減までつぶさに観る事が出来て、制作過程のリアルな一面を垣間見る事ができて迫力がありました。(絵画でいうところの筆致みたいなものが良く判ります。)


こちらは写真作品が中心でした。額装をせずに壁に直貼りしたり、上から吊るしたり、1点1点の作品のスケールが大きく圧巻です。


Nerholの作品に感じるものはとにかく、滲み出るIntelligenceです。行っている行為は、複雑ではあるのですが、よく整理されていて、整然としたコンセプトがそこに付け加えられています。知性ある人は決していたずらに物事を複雑に表現することはせず、行っていることが複雑であるに拘わらず、単純明快に解りやすく表現/説明できると思うんですね。 意図的に小難しい言葉を使って理解の及ばない人を煙に巻いたり、わざと混乱させたり、何かスゴイ事を述べているような振る舞いを見せたりするような事はないと思うのですね。Nerholの制作態度はまさに、複雑なコンセプトの単純明快な提示、可視化のような気がします。対象の顔に向けて、およそ3分間200回ものシャッターを切り続ける。それを時系列にぴっちりと積み上げ、1枚ずつその人の動きに合わせて切り取って剥がし、断面を露出させて彫進めていきます。それは、「かつての肖像画や、レタッチが無限に可能なポートレートの真正性を疑うことから始まった」と田中さんは語っています。数分間撮影し続けるからこそ見えてくる微妙な動きや変化。断面を露出させることによってその時間の中のレイヤーは、つぶさに観察できるようになります。

――“ATLAS”は、消失し続ける“彼ら”の一瞬の姿に焦点を当てている。僕らは、被写体と向き合い、数分間にわたって200回のシャッターを切る。そして、それら全てをプリントし、重ね合わせて、彫りこんでいく。僕らは、“彼ら”の姿に迫ろうと試みるが、まるで手から零れ落ちていく水のように、“彼ら”は僕らから遠く離れていく。まるで人が書き紡いできた物語が、書けば書くほどに、書き記すことのできないものを浮かび上がらせてきたように。

―― 逆説的だろうか? 被写体となった“彼ら”の存在の本質を掴みたいと願うのに、その姿を彫り歪ませることは。しかし、考えてみるに、僕らが生きる社会は、多くのものを、ものすごい速さで消失へと向かわせている。それが現実を記憶する唯一の手がかりにすら思えてくるほどに。物語は、書物として綴じられたとき、どこにでも移動し、あらゆる人の手に渡ることができるようになった。そして、恐らくそれ以前にも増して、書き換えられ、オリジナルを失うことを運命づけられた。僕らは、“彼ら”の姿を写し取り、層を成す時間を遡るように彫り刻み、それを書物のように綴じてみる。そして、諸現象の連続性へ、消え去ることを順番待ちするかのような循環へ、それを差し出す。綴じられた書物のなかで歪む“彼ら”の姿が、この資本主義をベースにした営為の射程を揺るがせることを願いながら。

(「ATLAS」展リリースから抜粋)

テキストを読むと、少々難解なのですが、その具現である作品を観ると、
「断面を見ると 微妙に動いてるんだなぁ。」 とか、
「もしかして全部違うのかな。同じものは2枚とないのかな。」とか、
「物凄い厚み! 時間の厚みを表しているみたい!」とか、
「ポートレートによって彫進め方が違うのはどうしてかな。」とか、
「断面見ると同じ人なのにズレていくのが面白い。」とか、ごく単純な感想が(観る人が大人であるにも関わらず)どんどん出てきて、観る人を捉えるようです。観れば観るほど観察のし甲斐があります。 これこそが、Nerhol自身のように高尚な言葉を持たなくても、知らず知らずのうちにそのコンセプトについて観察し、考えているという事なのではないでしょうか。その整然とした制作プロセスの提示によって、作家の意図するところが観る人にすんなりと共有されているのです。

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by sanaegogo | 2014-11-16 00:00 | art | Comments(0)


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