study / copy / print | Go Itami
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伊丹豪さんの「study」に続く「consideration (考察)」とも言える写真展「study / copy / print」が中目黒でやっていると言うので観に行きました。「study」とはまた違ったアプローチで、そして、ご本人の「展示されている実物の写真を観てほしい」と言うコメントの通り、これは展示されている画像を観て初めて、伊丹さんの真意が伝わるといった意味を持ったものでした。(何となく、『写真(photo)』と言うよりも『画像(image)』と言う表現を使った方が相応しいと思ったのでそう表現しています。) 心象というよりは現象を作品化する伊丹さんですが、今回はその様相が色濃く出ていて、実験的な試みも作品の中に取り入れられているようです。ご本人も『写真というメディアの中で自己完結させるのではなく、他者の力を借りてこの接近を推し進めてみたい』と語っているように、グラフィックデザイナーにご自身の作品を委ね、拡散や凝縮、再構成や分解などを施し生まれてくる新しいセグメントを導き出そうとしています。 展示の構成は大きくはふたつのテーマに即していましたが、そのひとつがこれ。 もうひとつは、伊丹さん自身の発見から実験し、自分で確認するというもの。自分の作品の次の段階の変容を示す2方向からの試みなのだと思いますが、私自身は後者、つまり、伊丹さん自身の実験→確認のプロセスを経た作品の方が断然印象に残りました。 そこにはその意外な変容を驚きをもって迎える伊丹さんのエキサイトメントみたいなものが感じられたからです。 こちらの方が楽しかったし、自分自身も驚きをもってその作品と向かい合ったからです。





この 黄色のような金色のような粒子は、プリンターの操作ミスから生まれた、とある作品の一部分だそうですが、失敗によってある部分が失われてある部分が生成されているのだそうです。 もともとは樹木の葉の茂った部分なのですが、これまでの作品のように 写実を極めて抽象化されていく、というパラドックスの極みのような気がして、それがついに分子や原子のレベルまで行ってしまったような印象を受けました。 勿論、先にも述べたように、これは意図的になされたものではないのですが、画像の一部分が拡散されて、そのまた一部分が凝縮して見えて、ひとつの作品の中のこの矛盾みたいなものが、伊丹さんの作品らしい、と思えるのです。 最初は、何か着色した細かい砂みたいなものをスキャナーの上にぶちまけて撮影したのかな、と思って観ていたのですが、キャンパス地に出力したこともあって、布地のテクスチャーの力を借りてひとつひとつの粒が立体的にも見えてくるのです。 もっとよく見ると黄色味を帯びた粒のそれぞれに微妙に様々な色彩のバラエティーがあって、それが出力の網点のレベルまで細かくなって、その粒のひとつひとつもそれぞれ更にイエロー、シアン、マゼンタなどの細かいドットに落とし込まれていくと思うと何だかぞくぞくしました。 世の中は、分子や原子や素粒子などで出来ている。 当たり前の事ですが、樹木の一部を写した画像からそんな事まで想像が膨らんでしまいしまた。





唐突にガーナチョコレートですが。 この作品はドイツの画家であり写真家でもあるジグマー・ポルケへのオマージュだそうです。 絵画を写真的にアプローチするとどのような変化が起こるのか、それを確認したくて試みたものだそうです。 バックのストライプはネットから拾ってきた画素数の足りないウェブ素材でそれを大伸ばしにして対象を接写したところ、絵画ではあり得ない無数のごみや塵が映り込んでしまい、これこそが写真であることの意味だ、と伊丹さんは感じたそうです。 なるほど、写真はある意味、作意を超えて勝手に全ての事実を捕えてしまうという一面があります。 (もちろん、そうでない一面もありますが。) この作品はとても複雑で、色々考えていると矛盾だらけでまるで禅問答のようです。 (確か前には『哲学的』と言う言葉を使いました。) 拡大したもの(ストライプ)の上に凝縮されたもの(ガーナチョコや埃、塵)が乗っていて、平面に立体感を感じる部分もあるし、ある部分では立体感は完全に失われてレイヤーのような構成にも見えます。 さほど厚みのないはずの無造作に千切られた外箱の切り口には、もさっとした紙の繊維の確かな重なり(厚み)と僅かにしろ質量のある感じが見て取れます。背景のストライプは平面の、しかもバーチャルな世界の代物のはずなのに、粗い画像にありがちなエッジのもっこりとした感じは、現実にはどこに存在するのかすら判らない立体感を生み出しています。 写真は『真実(実体)を写す』という意味のはずなのに、これは本当に実体なのだろうか、という不思議であり得ない疑問が湧いてきます。 ここに伊丹さんが語っていた『展示されている実物の写真を観てほしい』という言葉の真意を感じました。ネットの画像を観るだけでは知りえない様々なとりとめのない気づきがそこにはあるのです。 仮想の世界から来たもの(ストライプ)を物理的に実体化(紙に出力)して、そこに別の実体(ガーナチョコ)を置いてまた仮想の世界(デジタル画像)に閉じ込めて、それごと全て物理的に実体化(大きく伸ばして作品化)するとそこには仮想の世界のような見え方と映り込んでしまった実体が混在して・・・・。説明できないほどの矛盾を孕んだ作品ではありますが、この作品を漠然としたもので終わらせていないのは、伊丹さんの弛まぬ探究する姿勢とそのプロセスなのだと思います。
この作品などは特にそうだと思うのですが、伊丹さんは、撮った画像に(良い意味で)無駄な思い入れがないように見えます。カメラという機械のファンクションが伊丹さんの眼の機能まで連続して繋がっていて 既に自分自身がカメラのファンクションの一部になってしまっているかのようです。無駄な思い入れがないから、その画像を客観的に見ることが出来て そこに再び何かの発見があるのでしょうね。心象風景を思い入れたっぷりに撮影するのとは全く異なった世界観です。
若干、言葉の上での捏ね繰り回しが過ぎたような気もしますが、言葉の定義を意識しながら表すのはとても難しいものです。 「写真」と言うものも然り。東急ハンズで買ってきたラッピングペーパーを作品に見立てたものもありましたが、撮影をする人だけが写真家というのではない段階に入って来た、というのはここ最近本当に色々なところで取り沙汰されています。 また、写真表現のすそ野が広がってカメラで撮影するだけが写真ではない、とも言われています。『写真とは何なのか』、『写真家とは何者なのか』 伊丹さんは、その定義を模索して行く探求の旅の最中にあるのだ、とひしひしと感じた今回の展示でした。

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study / copy / print
HAPPA / sakumotto
2014年05月30日(金)- 2014年06月14日(土)
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by sanaegogo | 2014-06-14 00:00 | art | Comments(0)


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