紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ @ ハラ ミュージアム アーク
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前回のエントリーで、『当時「限局性激痛」(1999年)を見逃した私は、その頃の自分がソフィ・カルとも原美術館とも全くかけ離れた生活をしていた事を少しばかり後悔したりしました。』と述べましたが、今、ハラ ミュージアム アークでリバイバルしてます。正確に言うと、ミランダ・ジュライの作品『廊下』と一緒に展示されています。活動ジャンルを限定しない、自由な2人の女性現代美術作家のそれぞれの世界観です。

紡がれた言葉―ソフィ カルとミランダ ジュライ/原美術館コレクション展
3月16日[土]-6月26日[水]
ハラ ミュージアム アーク(群馬県渋川市)
ART iT:http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/ZYHoI7slWeQhfRNpCBFg/
Press Release

ソフィ・カルは、奇想天外で奇天烈な行動をし、自分の心の傷を露出する事で作品とし、何所か危うく、何所か身を削っていくようにして作品を生み出しています。物議を醸すような作品を発表して批判の矢面に曝されたこともあるようですが、この「限局性激痛」が原美術館の展示のために制作されたものだったとは知りませんでした。なので、今回のこの展示は"原美術館コレクション展"という風になっています。この作品は、『カウントダウン』と『カウントアップ』の2部構成になっています。『カウントダウン』は人生最悪の日まで、ソフィがこんな日が来るのを知る由もなく過してきた日々を写真や資料で綴っています。ソフィにとってその日は人生最良の日になるはずのもので、この日を待ち焦がれながら、留学先の日本での生活が身に入らず、そわそわと毎日を送っている様が顕されています。そこではフィクションかノンフィクションか判別出来ないような要素も含みつつ時間は進みます。思うにこれは、第2部『カウントアップ』の序章のようなものであり、既に大失恋の傷も癒えてから制作されたものなので、それも無理はないような気もします。ソフィ自身もあの頃の事を思い出しつつ制作したものなので、多少の脚色や後付めいたものがあっても不思議ではないのでしょう。 最愛の恋人との再会が果たせないインドのホテルの1室を再現した形で第1部は終わります。なので、2部構成とは言え、この「限局性激痛」の醍醐味というか、本編は、心の激痛を味わったソフィの心の浄化を淡々と見せている第2部『カウントアップ』にあるような気がします。自分の味わった最悪の出来事を他人に吐露し、引き換えに人々の最悪の日、その体験と感じた事を聞く。そうしていくうちに、第3者の悲惨な話に心を痛め、自分の受けた辛酸などは取るに足らない事だと思うようになり、ソフィの話す自分自身の激痛を著わした刺繍によるテキストの分量が、そのカタルシスの様子を物語っています。また、刺繍されたテキストはだんだんとグレーの地色に近いものになり、やがて地の色と同化して判読できないようにもなります。ソフィはこんな風に、心の痛みの深さ、量的なものと濃度のような質的なものの変化を「刺繍したテキスト」という形で可視化しています。 絶対的な心の痛みを相対的に考える時、どんどんと取るに足らないもののように思えてくる気持ちの変化を可視化しています。これはこの聞き取りを始める前からソフィが期待していたものなのでしょうか。それとも意図せずそんな自分の気持ちの推移を発見したのでしょうか。 何故ソフィは、不幸な体験をした人たちと人生最悪の日を情報交換する事で、自分の傷を癒そうとしたのでしょうか。こんなにも不幸で酷い体験をした自分を曝け出す事で自虐的に何か救いを求めようとしたのでしょうか。 それとも自分よりも更にもっと不幸な人々の存在を知る事で、『自分なんてマシな方だわ。』と言う確信を得たかったのでしょうか。その第1歩の気持ちと言うのはとても関心があるところではあります。 何となくですが、ソフィには、自分よりももっと不幸な人の話を聞いて自分の心の安定を求め、理不尽さを埋めるなどというような俗人的な感情はなく、『感情』というものを題材として扱いながらも、もっと動物的な直感や本能のようなものに突き動かされて動いているような気がします。 決して『補償(compensation)』と言った行為ではないように思えます。
この作品も含め、ソフィ・カルの作品は、心理学を学んだ人は多かれ少なかれ、何らかの関心を覚えるのではないでしょうか。心の「激痛」とその時の気持ちを表現しつつも、どこかそれを客観視していて、まるで激痛を味わっている自分を離れたところから観察しているもう一人のソフィがいるかのようです。この作品も含め、ソフィカルの作品の事を考えるといつも、昔大学の講義で教えられた『離人症』という言葉を思い出します。離人症とは、『自分の精神過程または身体から遊離して、あたかも自分が外部の傍観者であるかのように感じている持続的または反復的な体験。』で、あまりにも辛い体験などを気持ち的に受け容れられない時などに、このように心を機能させて心の平和を得て精神衛生を保とうとするメカニズムが働くと言われています。 行動する自我とそれを観察する自我を分離させて、どこかまるで他人事のように感じる事によって、気持ちを薄めるのです。ソフィは感受性の高い女性です。取り分け『辛い事』についての感度はとても鋭い女性のようです。『幸せな時にその気持ちを表現したくて作品を創る事は出来ないけれど、酷い体験をし、辛い、悲しい気持ちになった時にはそれが出来る。』と語っているそうです。自分の中に沸き起こるこの"unhappiness"は何なのか、どこから来て何所へ消えていくのか。感受性の高いソフィカルは、自分の気持ちを直視し、自分を曝け出して剥き出しにしてそれを『検証』し、そして受け止めきれない程の痛みを遣り過すためにもう1人の自分になり、限局的な自分自身を考察する。それがソフィ・カルなのではないでしょうか。『心のメカニズムの芸術的可視化』。ソフィ・カルの作品にはそんなものを感じずにはいられません。

©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

ソフィが100日以上離れていた恋人と再会するはずだったインドのホテルの1室の再現
『そこには行けない』と飛行機代をけちって安上がりにフラレた時の電話が置かれている


©ADAGP Paris,2013 Courtesy Galerie Perrotin, Hong Kong & Paris - Gallery Koyanagi, Tokyo

グレーの地の色の刺繍がソフィの『限局性激痛』
テキストは短くなり、文字の色は地の色と同化して薄れていく
時間がカウントアップされる毎に癒えていく様子が顕れている


ミランダ・ジュライの『廊下』。これは2008年の横浜トリエンナーレでも出展されていた作品で、ワタシもこの時この狭い通路を歩いて来ました。2008年は仕事を辞めて、それまでの自分が終わり、今のワタシの始まった年でもあるので、これはこれで、全然別の意味で感慨深く、あの日の横浜を、『廊下』を、思い出すのでありました。

©1996-2013 HARA MUSEUM OF CONTEMPORARY ART


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by sanaegogo | 2013-06-08 00:00 | art | Comments(0)


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