― 君がここにいたらいいのに Fiona Tan Ascent





Fiona Tan Ascent|フィオナ・タン アセント

2016年7月18日(月・祝)—10月18日(火)
IZU PHOTO | MUSEUM

http://www.izuphoto-museum.jp/exhibition/208709273.html


Ascent (2016), Fiona Tan, still, Photo: nakano yuko

IZU PHOTOに行くのだから晴れの日だったらそれは気持ちの良い秋の日だっただろうけど、この日のクレマチスの丘は生憎の土砂降り。 家を出た時には茅ヶ崎は降っていなかったのにね。
チケット売り場で何やら人だかりが出来ている。 何度か来てるけど、あまり混んだところを観た事がなかったのに不思議に思っていると、自分たちの番になって理由が解りました。
プロジェクターに不具合があって、今日はメインの映像作品が観られないとのこと。最後の14時45分からの回に修理が間に合えば上映するので、戻ってきてください。と言われ、ちょっと雨を恨む。(因果関係はないみたいなんだけど。)
それでは、先にヴァンジ彫刻庭園美術館の『生きとし生けるもの』を観て、ランチして。
雨足は強くなるばかりで、止む気配はないんだけど、最後の上映は無事行われる事となり。ギリギリセーフで、念願の『アセント』を観て来ました。 これが観られなかったら、ここまで車を飛ばして来た甲斐がなかったけど、本当によかった。

フィオナ・タンの『アセント』は、2014年のIZU PHOTOのMt. Fuji Projectで公募された4,000枚あまりの富士山の写真を彼女のイメージの中で構築されたストーリーに沿って繋ぎ合わされ、紡がれたプロジェクション作品です。

あなたの富士山写真が
フィオナ・タンの作品の一部になります。
http://www.izuphotoproject-fionatan.jp/


時間も季節も時代も場所も撮影した人たちも、みんなばらばらな富士山の写真が、ヒロシと女性の往復書簡のような会話から生まれるひとつの物語に再構築されています。
4,000ものそれぞれの瞬間に立ち会っている富士山。
唯一無二の山であるのに、ふたつとして同じ表情を見せる事なく、ひと時も欠かすことなくそこに在り続ける普遍(不変)の山。
寝転びながら、時にオーバーラップされ、スクリーンの中に現れては消えていく富士の山映像を見ていると、どの山脈にも属さない孤高な霊峰に、「見守られている」という感情が、沸き立たせられ、私たちは富士山の庇護の許ここにいます、という気持ちになります。
4,000枚ものランダムな画像をひとつの物語として紡いで行く、フィオナ・タンの緻密な作業、ばらばらで無関係の写真たちからその1枚が持つ物語を損なってしまうことなく、繋ぎ合わせていくその集中力と根気に、静かなるエネルギーを感じます。


Ascent (2016), Fiona Tan, still


語り口は常に穏やかで優しいものなのですが、語られている話は漠然としたところがなく、むしろ毅然としていていました。
「大切な事だから少し話をしてもいいかな」
とヒロシがちょっと諭すように言うのですが、この口調や問いかけ方がとても好きです。
なにか一筋の意志を持って、はっきりとした物言いなのですが、強制めいたところがなく。
心の奥まで沁みこんで来るような心地よい優しい力強さを持ったその声の主は、長谷川博己さんでした。 やっぱり。
本当に素敵な声、素敵な語りでした。 しみじみと・・・・。
そして、女性の声はフィオナ・タンだったのですが、この声の主は 富士山そのものだったのかも、と思います。彼女の作り出したイメージの中では、富士山はきっと女性なのですね。
もしくは、物語の中に出てきた木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)だったのでしょうか。
女性は誰だったのか、無性に確かめたくなって、観終わった後ミュージアムショップでナレーション・テキストがあるかどうか尋ねてみたのですが、それは無いのだそうです。
図録が2冊出ていて、その中に脚本原案が書いてあったみたいなのですが、それはショップでは案内してもらえなくてとても残念です。
「君がここにいたらいいのに」
ヒロシは呟くのですが、ここ、って一体何処なんだろう。
高く空へと聳え立つ 富士の姿をスクリーンに眺めながら聴いていると、この空間でもない、この時間でもない、どこから聞こえてくるのかも、耳で聞いているのかもわからなくなります。 まるで何処か遠い精神世界の中からの呼びかけのように響いてくる、ヒロシの呟き声を聞いていると、ヒロシの処に行ってあげたい、そんな気持ちになりました。

もう一度、観たいです。


赤嶺優子 撮影 「元旦の富士山 故郷沖縄へ帰る機内から。2016年も頑張ろうと思えました。」
渡邉保明 撮影
渡邉保明 撮影
Photo by Mark Smith, Remote Viewing 75-2
渡邉保明 撮影
遠藤進 撮影
渡邉保明 撮影
渡邉保明 撮影
(* 写真 左上→右上から下へ。 敬称略)


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# by sanaegogo | 2016-09-24 00:00 | art | Comments(0)
静かな森に誘われ・・・ サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―
『サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―』
Cy Twombly Photographs Lyrical Variations
2016年4月23日(土)~ 8月28日(日)
DIC川村記念美術館 (千葉県 佐倉)
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/20160828_cytwombly.html


サイ・トゥオンブリーが、その画家、彫刻家としてのキャリアの中で、こんなにも写真が好きでポラロイドやピンホールカメラで生活の中の対象を撮り続けていたというのはあまり知られていなかったようです。(勿論(?)私はこのトォンブリー展でその事を知りました。) 聞けば、その写真作品の殆どは長い間未発表で、トゥオンブリーが密かに持っていたという事。そこには密やかにトゥオンブリーの内面が詰まっているような気がして、彼が自分の心の内を静かに語りかけているような雰囲気がそこに流れていたような気がします。川村美術館は、森の美術館とも呼ばれてて、緑豊かな森を配して密やかに建つその雰囲気もまた、今回のトォンブリー展の独特の雰囲気にぴったりです。都会の喧騒から時間をかけて 彼が待つ森の美術館まで訪ねていくという行為自体から鑑賞が始まっているようです。



今回は、トゥオンブリー(1928年-2011年)が1951年から2011年までの60年間で撮影した写真作品の中から100点を展示されていています。写真の他、絵画(3点)、彫刻(4点)、ドローイング(4点)そして版画(18点)など、トゥオンブリーが様々なメディアを通して表現した中での、共通性、一貫性などが自然と入って来るような流れで展覧会は構成されています。

『変奏のリリシズム』というタイトルもとても洒落ていて、展覧会全体の静かでありながらどことなくリズミカルな構成をとても良く表していて、言い得て妙です。変奏とは、音楽で言うところの、ある主題をいろいろな技法によって形を変えて表すこと。様々な表現を用いながらトゥオンブリーの内面世界(リリシズム)が編成され、ひとつの形となって創り上げられています。全体としてもそうなのですが、こと写真の並びについては、それぞれの写真の横の間合い、縦の間合い、並べられている被写体のお互いの関連にもこの変奏の表現が生かされています。 ひとつの写真から次の写真へと視線を移すときの壁の余白。 「この余白にもトォンブリーのリリシズムが現れているから、そこにも注目してくださいね。」と、偶然立ち話をする事が出来た学芸員の方が言っていました。私は、トォンブリーの写真から立ちのぼるふわっとしたメッセージを感じようしていて、そこまでの思考には至らなかったのですが、会場内は都内の美術館とは違い人の混み合いはまるでなかったので、時間をかけて余すところなく全てを感じ取り理解しようと時間をかけて鑑賞している人が多いように思いました。 そんなゆったりとした雰囲気も、今回の展覧会にぴったりだったと思います。

ふわっとしたメッセージというのは、その理由がトォンブリーが好んで使用していたのがポラロイドやピンホールカメラだったからというのに他ならないのですが、ピントが甘く、対象の境界線がじんわりと滲むようになるのには、更にこれにトォンブリーならではの工夫と創作作業が加えられていたようです。ポラロイドカメラで撮影した写真を厚紙にプリントし、その台紙の粗めの質感がふわっとした画像の雰囲気を更に強調しています。更には80年代に製造されたロースペックのコピー機を使って、オリジナルの写真を拡大し、色彩の滲みや紙への浸透を自分なりに気に入った効果に調整していたそうです。こんなことからも、トォンブリーの自身の写真作品へのこだわり、日常的な身の回りの被写体を好んで撮影していたのにもかかわらず、単なる記録的な意味や時間が空いた時の息抜きではなく、写真にしっかりと向き合い、自分の表現したい内面性をきちんと創り込んできたのだ、という事が解ります。写真の出来栄えとしてはどことなく技術的には稚拙な雰囲気が漂っていて、古代ローマの遺跡や古い絵画にノスタルジアを感じていたというトォンブリーの美意識をよく表しています。

気に入った作品をいくつか挙げるとすれば、まず、このズッキーニ。 するっとした感じで画面に横たわっているズッキーニを見れば、俄かにはズッキーニと判らない程寄って撮影してあり、抽象化してあります。このするっとした造形になんだかとっても艶めかしさみたいなものを感じます。






ズッキーニの全貌はこんな感じ。
自然のままに収穫されたそのフォルムは、やっぱりどこか艶めかしい。



あと、これを挙げる人も多いと思いますが、チューリップ。これはとても朧気なんですけど、そんな中でチューリップの花びらの実はとても肉厚な様が見て取れたり、曖昧な世界に放つ花の存在感みたいなものにギャップを感じて、見入ってしまいます。




何といっても、画像の資料としてはネットに出ていないのですが、このパン。(図録が届いたので撮影しました。) このパンの写真を手許に置いておきたくて図録を買ってしまったと言ってッも過言ではない感じです。普段当たり前のように食べているひと塊のパンがこんなにリリカルに表現されている事に感動しました。アーティストというものはその生活の暮らしぶりも美しいとはよく言いますが、トォンブリーの日々の暮らしの美しさもこの1枚から想像が出来て、何だか色々な意味でとっても印象に残ります。




余談ですが、会場の最後に1枚のトォンブリー自身が写ったプロフィール写真がありました。 トォンブリーが写っているので、彼の撮影ではない事は明らかなのですが、妙に眼を惹くものがあって。 撮影を見てみたら、ブルース・ウェーバーでした。お互いに親交があった(のかな?)のも意外な感じでしたが、(タイプが違うので)、やっぱりブルース・ウェーバーもいい写真撮るんだなー、なんて、再確認。




さらさらと時間の粒子が流れるような、そんな雰囲気の中の鑑賞。良い1日でした。


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# by sanaegogo | 2016-08-20 00:00 | art | Comments(0)
シャルル・フレジェ 「YÔKAÏNOSHIMA」



Le Forum, Maison Hermès
YÔKAÏNOSHIMA by Charles Fréger


銀座メゾンエルメス
「YÔKAÏNOSHIMA」 シャルル・フレジェ展
2016.2.19(金)~ 5.22 (日)
http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/

フレジェを知ったのは、WILDER MANN (2010-2011) を雑誌で観た時なのですが、この時から既に気になっていたのかも知れないのですが、その引っ掛かりはあまり自分の中で意識されないものだったんですね。 でも、色々な場面でこのWILDER MANNを眼にする度に、じわじわとその存在感が増していくのを感じてました。 見れば見るほど気になっていくのです。 そのフレジェがこのWILDER MANN の制作意図を踏襲した形で日本で撮影された写真展があるというので、これはもう、是非行かねば!と。

行って来ました。Maison Hermès の Le Forum です。 フレジェが「妖怪の島」と名付け、日本列島58か所で古来から風習として残る仮面神や鬼、風土風習に根付いた祭事や儀式の村人の仮装の姿を取材したものです。 実は、「妖怪」と聞いて、これはちょっと違うのでは? と感じたのですが、「妖怪」について、改めて紐解いてみると、【妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。(ここから→) 妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想に深く根ざしており、その思想が森羅万象に神の存在を見出す一方で、否定的に把握された存在や現象は妖怪になりうるという表裏一体の関係がなされてきた。(wikipediaより)】ということ。「妖怪=水木しげる」的に考えていた私の方が、発想が貧困だったようです。 日本には仏教が伝来する遥か昔から、八百万の神を深く信仰していました。それはもっと昔のアニミズムにも深い関わりがあります。 ここに登場する神や鬼たちは、自然界のあらゆるものに宿る精霊の姿で、仏教思想の洗練された雰囲気はなく、もっと風土や風習に泥臭く密着した何かです。それが21世紀の現代でもこの超近現代国家の日本でもまだ残っていて、生活や営みと共に信仰されているという事実にぞくぞくします。原始から綿々と続いている伝統があるのです。それがフレジェの力を借りて、銀座のど真ん中に一堂に会し、イキイキとその姿を現しています。 土着の鬼神や獣神であったり、折口信夫の言う「まれびと」であったり、歳神様であったりが、色鮮やかな仮装をした村人たちの身体を借りて、その土地や、その季節に次々と登場する、とても立体的なインスタレーションでした。会場構成は建築家の松島潤平によるもの。 日本の地形をなぞれる様な感覚を体験できるこの構成もとても秀逸で、この展示において明らかにその効果を発揮しています。


© Nacása & Partners Inc.


しかし、何といっても、このフレジェの撮影した1枚1枚がとにかくイイんです。物語り的な余韻を含むものとか、心象風景、コンセプチュアルな写真、そういうものとは完全に一線を画していて、民俗学の資料写真のような、または、カタログ的な画一的なフォーマットの羅列でありながら、1枚1枚の中に収められている原始の神の姿は躍動的で、また、ものすごく魅力的で、飽きさせることを知りません。真正面からずどんと被写体を捉えたこのシンプルな構図の写真にむしろ新鮮さすら感じることに驚きます。観る人を圧倒させるような迫力がある訳ではないのですが、湧き出てくる力を感じるような感覚です。 それは偏に古来から受け継がれてきた伝承の力というのが大いにあるとは思うのですが、それを存分に引き出したのがフレジェなのです。


© Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d’entreprise Hermès
この獅子がとてもお気に入り。 どことなくユーモラスで、この愛嬌がたまりません。


改めて、風土と共に生きて来た農耕民族の五穀豊穣を願う豊穣祈願の真摯な祈り、自然を司る神々への尊敬や畏怖の念、日本にもまだまだ残るプリミティブな伝統を目の当たりにして感じるこの高揚感は自分でも不思議で、どこからそんな気持ちが湧き上がってるのか解らないのですが、ちょっと興奮しました。「獣人(ワイルドマン)」は、ヨーロッパで撮影された前キリスト教時代といわれる原始の伝統ですが、日本の歳神の文化とも多くの共通点を持っています。WILDER MANNを観た時のあの心のざわつきは、きっと私の日本人としてのDNAの中に潜む、そんなアニミズムが知らず知らずのうちにすぐられていたのかも知れないな、と感じています。



「Namahage」 Ashizawa, Oga , Akita prefecture (Japan), YÔKAÏNOSHIMA series, 2013-2015




© Charles Fréger

鹿児島県トカラ列島の悪石島に伝わる来訪神行事に登場するボゼです。諸説あるようですが、昔々、海を渡って来た異形の姿をした異国の人間がまれびととして伝承されているという話を聞いたことがあります。

7月にはYÔKAÏNOSHIMAの写真集が刊行される予定だそうです。この写真展を観て、断然欲しくなってしまったのと同時に、WILDER MANNに魅了される自分をしっかりと認識することができたので、2冊とも手に入れないという理由はもうどこにもない感じです。


Facebook Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207778281193422


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# by sanaegogo | 2016-04-24 00:00 | art | Comments(0)
あの時代(とき)のホリゾント ― 菊池武夫×田口淑子 Special Talk




2016.04.16 Sat - 05.22 Sun
あの時代(とき)のホリゾント
植田正治のファッション写真展
Exhibition of UEDA Shoji’s Fashion Photographs Those Screens, Those Times
http://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2016/0416_3617.php
Facebook Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207715580145935







植田正治の写真の中でもファッション写真をフィーチャーした写真展です。植田正治の写真家としての年譜を辿ってみると、
1932年: 東京へ行きオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月間通う。鳥取に帰郷し自宅で植田写真場を開業。
1939年: 「少女四態」を発表。
1946年: 戦後第1作「童」が朝日写真展覧会特選に入選
1947年: 写真グループ「銀龍社」に参加
1948年: 「小狐登場」発表。
1949年: 「パパとママと子供たち」2作を発表。
1949年頃: 砂丘シリーズのひとつ「本を持つボク」発表。
1950年: 「ボクのわたしのお母さん」発表。
1950年: 「妻のいる砂丘風景(III)」発表。
1955年: 代表作「童暦」のシリーズ撮影を開始。(~1970年)
1958年: ニューヨーク近代美術館でのエドワード・スタイケンによる企画展に「雪の面」を出品
1975年: 九州産業大学芸術学部写真学科に 教授待遇で就任 (~1994年)
1978年: アルル・フォト・フェスティバルに招待される。作品数点がフランス国立図書館のコレクションに入る
1979年: 島根大学教育学部非常勤講師就任(~1983年)
1983年: 最愛の妻を亡くし、同年、広告業界のアートディレクターであった次男、充氏の提案により、砂丘を背景にファッションブランドTAKEO KIKUCHIのカタログを撮影。

・・・・こうして振り返ると改めて、海外でも「UEDA-CHO」として高い評価を得た後、最晩年にファッション・フォトグラファーとして新しい展開を見せていた事を知ることが出来ます。きっかけは最愛の奥様の死。 まるで無気力になってしまい、何か月もカメラを手にしない日々が続いたそうです。しかし、世界的写真家が、身内の縁というものがあったにせよ、ファッション誌のために写真を撮り下ろすなんて、なんとも贅沢な時代だったのですね。そこに加担した人たちのエネルギーというか、パワフルさというか、雑誌にはそんな力があったのでしょうね。



この写真展では、転機を迎え、ファッション界で再び息を吹き返し、イキイキと砂丘で撮影を再開した後の植田正治さんと関わりがあった方々をゲストに招いてのトークショーが企画されていますが、何といっても菊池武夫氏でしょう。 私自身も数年前、鳥取砂丘と植田正治美術館を旅した時に購入した思い出深い写真集である〈TAKEO KIKUCHI AUTUMN AND WINTER COLLECTION '83 - '84〉からここまで、何かが繋がっていたと思うと、勝手に感慨深い思いがこみあげてきます。



菊池武夫さんは、タケ先生と呼ばれていて、とても素敵な方でした。お話を進める元ハイファッション編集長の田口淑子さん。85年にトップモデルだった小林麻美をモデルに鳥取砂丘で撮影が行われた時のエピソードを色々とお話してくれました。その時の紙面には、詩人の清水哲男さんがテキストを書いたそうです。もうこれはモード誌の域を完全に超えていますね。お茶目でいたずら心があった植田正治さんのくすっと微笑んでしまう様なエピソード、昔家族をモデルに砂丘で写真を撮っていた頃のように、何かおもちゃを持ってくるようクルーやスタッフに指示を出して、田口さんが持参したLP盤のレコードを空に向かって投げて撮影したことなど、当時の貴重な記録写真を交えてお話してくださいました。そして、私はとても、この、田口さんが「おもちゃとしても楽しく、植田正治の写真にフィットするようなモダンでシンプルで、それでいて何か温かみがあるものを。」と一生懸命考えてLP盤を選んだ、というくだりにひとしきり感激してしまったのです・・・。 空に投げられた何枚ものLP盤は、植田正治さんの「砂丘モード」の世界観にとてもよくフィットしていました。



タケ先生は植田正治さんご本人というよりは、ご子息のアートディレクターの充さんとのご関係が深かったようで、充さんを通した植田正治さんという人物像をお話してくださいました。 充さんがいかにお父様を愛していたか、父の仕事の環境を整え、思う存分好きな写真を撮れる場を創りだす事にプロとしての厳しい目を向けられていたか、いかに深い愛情で繋がっていた親子だったのかを知ることが出来ます。 中盤からは、植田先生の最後のお弟子さんの瀬尾浩司さんも加わり、植田先生と充さんのプロとしての厳しい仕事ぶりのエピソードをユーモアを交えて。 登場したどの方も、愛情に溢れていて、それは偏に植田正治さんの自分を取り巻く人への愛情深さが連鎖し、増幅していたのでしょうね。



トークの主役はあくまでも植田正治さんとご子息の充さんだったのですが、菊池武夫さんはダンディでカッコよく、とっても素敵でした。全身白の出で立ちは嫌味なところがなく、まさにお洒落な伊達男。今は廉価で買うことが出来るファスト・ファッションが主流で、ともすれば私自身もそれに流されているきらいがあるのは否めませんが、私にもかつて、服を着こなす、という事を楽しみ、自分の個性に合うブランドを選び純粋に服を着る事を楽しんでいた時代があったというのを思い出させてくれます。 高い服(もの)を買うのが豊かさではない、と最近ではよく言いますが、虚栄や見栄のためではなく、丹精込めてつくられた服を吟味して選び、その服が心底似合う様な人間性や環境を手に入れて行く事で得られる心の豊かさ、みたいなものも確かにあった時代のような気がします。(安きに流れない、といった事でしょうか。) トーク終わりに菊池武夫さんと帰りのエレベーターが一緒になり、「とても楽しいお話をありがとうございました。」と声をかけさせていただくことが出来たのも、思いがけない出来事でした。「ありがとう。」と言ってくださったタケ先生、とっても素敵でした。






この1枚は、トークの最後に「別離(わか)れの旗」のエピソードで紹介されました。 先立った最愛の奥様を慕(おも)い、砂漠の果てに向かって別れの旗を振る植田正治さんの心境なのだそうです。






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# by sanaegogo | 2016-04-16 00:00 | art | Comments(0)
エッジの利いた 江戸のポップカルチャー 俺たちの国芳 わたしの国貞




ボストン美術館所蔵
俺たちの国芳 わたしの国貞

2016.3.19 SAT – 6.5 SUN
Bunkamura ザ・ミュージアム

http://www.ntv.co.jp/kunikuni/



とても久しぶりの Bunkamuraです。江戸時代、歌川一門で鎬を削った兄弟弟子、歌川国貞と歌川国芳の作品が一挙に展示されています。その数、作品数にして170点、枚数にして350枚というもの。見応えがあったなぁ、とは思いましたが、そんな点数が展示されていたとはオドロキです。 展示されている作品は全て ボストン美術館の収蔵品で、ボストン美術館開館以来の大規模な回顧展(?)になるそうです。キュレーターの方、さぞかし奮闘したに違いありません。 ボストン美術館は世界有数の浮世絵コレクションを誇っていて、所蔵されている作品数は国芳国貞だけで1万4千枚を超えるというから、これもオドロキです。それもオドロキですが、何故本家本元の日本はこんなにも大量の浮世絵を手放してしまったのか、何故ボストンにあるのか、どうしてそうなっちゃったのか、それこそがオドロキでした。
国芳は、寛政9年、1797年生まれで、文久元年、1861年 没、国貞は、天明6年、1786年生まれ、元治元年、1865年没、共に江戸末期を華やかに、艶やかに彩った浮世絵師です。その作品も 150年も経っているとは思えないほどの素晴らしさで、「えっ? これって版木が残ってて刷り直したやつ?」と見紛うばかりのものでした。
そもそも「浮世絵」って、「現代風の絵」って意味だそうなんだけど、所謂現代のコンテンポラリー・アート(現代美術)とは違って、もっと庶民にとっつきやすく、解りやすかった風俗画で、決して美術館で鑑賞するような手のものではなかったのです。ヴィンテージとしての付加価値が付いたとはいえ、海外の美術館の収蔵品になり、こうして日本で凱旋展覧会が開かれるようなクオリティをもつものが、巷に溢れていたなんて、江戸時代、やっぱり侮れない、と再確認、再認識した次第。文化水準が本当に高かったのね、と思うと何だか誇らしげな気持ちです。(と言っても私は相州相模の国の出身ですが・・・。)
展覧会の構成もとても解りやすく工夫されていて、 国芳と国貞の作風が現代に生きる私たちにも例えやすいようカテゴライズされています。国芳のファン層は男気のあるヤンキー達。義理と人情を重んじて、年下には温情を目上には礼節を良しとしたちょっとやんちゃな男衆に人気だから「俺たち」。一方、国貞は、流行に敏感な洒落乙達に人気で、雑誌のモデルやメディアの中のスターやアイドルに憧れ、真似てみたりするファッション大好き女子たちを描いたから「わたし」。今でも沢山いますよね、そんな老若男女がそこら中に。

わたし的には国芳は「ドラマチックなセットアップ」。とにかくどの画も画面の中の構成が躍動的でかつばっちりとキマッていて、歌舞伎の題材になっている古典の物語のクライマックスの場面を絵巻物のようにトリプティクスの中に凝縮して表現しています。遠近法を持たない日本画(特に絵巻物かな)独特の視点の使い方で場面の展開までも一挙に描き上げてしまうダイナミックさが魅力です。











そして国貞は「日常スナップ」みたいな印象。ゴージャスな衣装に身を包んだ花魁道中を着こなしの手本にしたり、(まあ一種の)セレブリティのように非日常的な着こなしとある種のオーラに憧れたりしたんでしょうか。アイドルのプライベートショットみたいなものを彷彿とさせるものもあります。シュッとしたポージングではなく、リラックスしてふと日常に垣間見るチャーミングな仕草とかを自然体の雰囲気で描いたものも多く、当時流行っていたという弁慶縞の着物に身を包んだおしゃれ大好き女子を題材とした作品に心が和んだりします。












Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207577178925991
(この日は内覧会に先立ってのトークショーにも参加。 展覧会をイメージしたスペシャルドリンク(アルコール)付きで、私は国芳をチョイスしたら、多分自分では絶対頼まない グラスホッパーが出てきました!)

と、それぞれの魅力、見どころは色々ありましたが、共通して言えるのがその色の何とも言えない風合いです。ちょっとくすんだ和紙の上に重ねられたグラデーションや抑え目ながらも鮮やかな色彩。冒頭でも言いましたが、これが150年も経っている画の発色とは! 俄かには信じられない感じ。浮世絵というと「モナリザ」のように描かれた役者絵や江戸を離れた風光明媚な風景画がまず想像されてしまうほど自分の中での浮世絵感は貧困だったのですが、これを観て一気に払拭されました。江戸の伊達と粋をたっぷりと楽しんで、タイムスリップして、エッジの利いた江戸の町に行ってみたくなりました。(笑)

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# by sanaegogo | 2016-03-30 00:00 | art | Comments(0)
Cathedrals of Culture, Wim Wenders



『Cathedrals of Culture』(邦題: もしも建物が話せたら)
2016年3月21日(日) 渋谷アップリンク
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース
監督:ヴィム・ヴェンダース、ミハエル・グラウガー、マイケル・マドセン、ロバート・レッドフォード、マルグレート・オリン、カリム・アイノズ
http://www.uplink.co.jp/tatemono/
Facebok Post: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207446864188204


「これまでにない新感覚のドキュメンタリー映画」と各所で紹介されているこの作品。新感覚、それはとてもよくこの作品を言い表していると思いました。(ドキュメンタリー映画なので、それは自然の流れなのかも知れないのですが)、6編のオムニパス形式の中で、クライマックスを捉える事が難しく、淡々と時間の流れに沿って目の前の映像を受け入れていくといった鑑賞は、まるで美術館に行って、美術作品を観た後のような感覚が残るような気がします。 ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー作品はいくつか観て来ましたが、ドキュメンタリーとして撮影しているのですが、ドラマチックなストーリー性がふんだんに盛り込まれていて、演技を指示したり、台詞を与えている訳ではないのに、シーンの創り方や登場人物の本質の引き出し方が卓越している、と感じられるような作品ばかりです。 今回もその雰囲気は保ちつつも、建築物が主役なので、そこに登場する人物や関係者が更に客観的なものになっていて、当事者めいた登場人物がまるでいないのが、この映画を不思議な雰囲気にしているようです。 言わずもがなですが、建物はたんなるものを内包する箱ではなくて、そこには、機能というものがあるのですが、建物を使う人々もまた、(この「使う」と言うのは、そこで働く人も利用する人も含めた意味での「使う」なのですが。) この機能の一部であるかのように表現されています。 原題は「Cathedrals of Culture」。「もしも建物が話せたら、私たちにどのような言葉を語り掛けるのだろうか」をテーマに制作されているので、邦題は「もしも建物が話せたら」になっていますが、この「Cathedrals of Culture」の意味を考えた時、物語りはますますミステリアスな様相を呈するような気がして、建物の心の声を聴くことで、ヴェンダース監督が表現したかった真の意味は何だろ、と考えてしまいます。それを掘り下げて考えるには、建物達の語る言葉はあまりにも自分の感情を押し殺して控えめなような気がしてしまうのは、建築物という存在があまりにも恒久的すぎるからなのかも知れません。(まるで遥か昔からの村の歴史を語る長老のように。) 観終わってから、「だから何だ?」と感じた人も多いのかも知れませんが、それも理解できる気がします。なぜなら、建物は、自分の意志や意見や、喜びや悲しみ、感じることをあまり語ってはいないからです。ただ淡々と、自分がそこに存在する事を語っています。


監督:ヴィム・ヴェンダース
ベルリン・フィルハーモニー (ドイツ・ベルリン)
ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策を遂行していた安楽死管理局のあった通りに面して建てられています。建てられた当時は辺りは街らしい佇まいはまるでなく、この建物だけがぽつんとそこにあった、と建物は語っています。








監督:ミハエル・グラウガー
ロシア国立図書館 (ロシア・サンクトペテルブルク)
18世紀後期、皇帝エカテリーナ2世によって建てられたロシア最古の公共図書館。そこで働いている女性たちが、館内を血液や体液のように巡って、蔵書や図書カードを細胞の新陳代謝のように整理していた姿が描かれています。








監督:マイケル・マドセン
ハルデン刑務所 (ノルウェー・ハルデン)
ノルウェーにある世界一人道的であると言われる刑務所。独房には最新型テレビと小型冷蔵庫が完備されていて、太陽がよく差し込む大きめの窓もあります。運動場を囲む高い壁には、ノルウェーのグラフィティ・アーティストのドルクが手掛けた壁画が描かれています。「私は刑務所。」と、全てを許し、受容するようなその刑務所は女性として語っていました。





監督:ロバート・レッドフォード
ソーク研究所 (アメリカ・サンディエゴ)
ソーク研究所は、ポリオの予防接種を開発したことで有名なカリフォルニアの研究所。ロバート・レッドフォードは、自身が11歳の時にポリオに罹患したそうです。映画『普通の人々』で見た郊外の美しい自然風景を彷彿とさせて、穏やかで静かなその映像にいつしか心地よい眠りに誘われました。





監督:マルグレート・オリン
オスロ・オペラハウス (ノルウェー・オスロ)
建築を手がけたのは、ノルウェー現代建築の巨匠スノーヘッタ。海の間近に建ち、氷山の造形をしたオペラハウスで、屋上からはオスロフィヨルドや市内を一望することができます。訪問者は誰でも自由に、地上から屋上へと続くゆったりとしたスロープの上を歩くことができ、市民の散歩道としても愛されていて、建物はその愛情を一身に享受し、喜びに満ちていました。








監督:カリム・アイノズ
ポンピドゥー・センター (フランス・パリ)
シャルル・ド・ゴール政権で首相を務めたポンピドゥーが推進した開発計画によって建設されました。彩色されたむき出しのパイプとガラス面で構成された外観は、現代的を通り越して前衛的で、建物自体がひとつの芸術作品のよう。パリが芸術の中心地として返り咲き、フランス政府がコンテンポラリーアートを支援していることを内外に知らしたい、といった威信を背負ったプライドが滲み出ていました。








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# by sanaegogo | 2016-03-22 00:00 | movie | Comments(0)
アニー・リーボヴィッツ 「WOMEN: New Portraits」




アニー・リーボヴィッツ
「WOMEN: New Portraits」
世界10都市巡回展
TOLOT/heuristic SHINONOME


2016年2月20日(土)~3月13日(日)
www.ubs.com/annieleibovitz-jp



「WOMEN:New Portraits」は、アニー・リーボヴィッツが15年前より制作を始めたプロジェクトで、1990年には写真集も刊行されています。女優や歌手、バレエダンサーなど、素晴らしいパフォーマンスで活躍する女性、アーティスト、政財界の重要人物、学者、実業家として名を成した女性、ビジネス・パーソンとして第一線で働く女性など、様々な分野で功績をあげた女性のポートレートを撮影したものです。その被写体にはイギリスのエリザベス女王もいるのには驚きです。 でもきっとアニーならば、エリザベス女王にも負けず劣らずのオーラを放っての撮影現場だったのでしょう。 彼女自身、物凄い存在感なのですが、不思議と威圧感みたいなものは感じないのは、モデルとなった女性が委縮することなく自然で穏やかな表情で写っているので解ります。 静かな雰囲気の中にも凛とした表情を捉えているのは、きっと、彼女が撮影しながら送っているパワーのなせる業かも知れません。こんな風に彼女の写真を観たことがなかったので、雑誌の見開きページで感じるものとは全く別の世界があり、とても良かったです。 彼女がモデルに送ったパワーを写真の中の女性たちが増幅させているのか、何だか元気をもらった気がします。
Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207248592351532



会場の設えの雰囲気はちょっとニューヨークの古い倉庫を改造したスタジオのようで(Tolotももともと倉庫なのですが)、アニーの写真のちょっとクラシックなトーンにとてもよくフィットしていました。 マルチディスプレイで大きく映し出された2面の画像の前にざっとランダムに椅子が置かれていて、オーディエンスは満足いくまでそのふたつのディスプレイの前に思い思いの角度で座り、スライドショーを楽しみます。自然光が入ってきてもディスプレイに映し出されたアニーの写真の中の落ち着いた光の感じとよく馴染んで、世界10都市を巡回するこの写真展ですが、日本での開催が冬だったというのもいい感じの巡り合わせのような気がします。(アニーの写真には秋とか冬の空気が漂ってます。)



もうこれも色々な機会に口にしているので、聞き飽きたかも知れないですが、アニーは、屋外でのロケの時、映画ばりの撮影機材でセッティングをするそうなのですが、ローアングルで下から舐めるように、そして巨大扇風機でぶわーっと風を吹かせ、モデルのクラシックなドレスや長い髪をなびかせるカットが私の大好きなシチュエーションです。風が吹き抜ける荒野に凛として立つ風と共に去りぬのスカーレット・オハラだったり、嵐が丘のキャッシーの姿を彷彿とさせるのです。


私の好きなアニーは ロケーションといいカメラアングルといい まさに、こんな感じ。
これに風が吹いて 髪がなびけば 最高。



スライドショーの傍らには、通路沿いのウォールに、様々な女性のポートレートが展示されていますが、正面から撮影された女性はどの被写体も真っ直ぐにアニーが構えているであろうカメラを見据えていて、その視線が印象的です。被写体の放つ静かな光みたいなものと同時にアニーの存在感までもその写真の中に感じれるように思います。高い地位を得たビジネス・パーソンの女性が立派な執務室のデスクで微笑みを向けている写真もあって、ここに至るまでの厳しい道のりにあって、何か大切なものを失わずにいた人格の高さみたいなものを垣間見る気がします。



中にはポーズをとって全身を写したものもあるのですが、中でも素敵なのは、やはりこれ。写真展のメインビジュアルにもなっていますが、ミスティ・コープランドの1枚です。話は逸れるのですが、ミスティ・コープランドは、世界最高峰バレエ団の一つ、アメリカン・バレエ・シアター初のアフリカン系アメリカ人のプリンシパルで、その波乱万丈の生い立ちと経歴をどこかで読んだことがあって、逆境の中を時にはしなやかに、時には葛藤をもって、体系的にアフリカン系の女性には不向きだとされていたクラシック・バレエの世界で最高峰に登りつめた女性です。「美しい」というシンプルでかつ全てを包括する形容詞で表現するのに相応しい1枚だと思います。


Misty Copeland, New York City, 2015
© Annie Leibovitz from WOMEN: New Portraits

・・・と、妄想や理想、希望なども含め、好き勝手に語ってしまいましたが、漠然とですが、その実態とそんなにはかけ離れていないような気がしてます。アニーの写真にはそんな風に、その生み出される過程に想像力を掻き立てるような何かがある気がします。(3月13日まで。)




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# by sanaegogo | 2016-02-27 00:00 | art | Comments(0)
文化庁メディア芸術祭 受賞作品展


第19回 文化庁メディア芸術祭
受賞作品展
Exhibition of Award-wining Works
2016.2.3 – 2.14 国立新美術館
http://j-mediaarts.jp/

もう19回になるのですね、文化庁メディア芸術祭。 久々に受賞作品展を観に行って来ました。 新美では、アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門、マンガ部門の大賞、優秀賞、新人賞などが賑やかに展示されていますが、関連イベントとして、セルバンテス文化センターやスーパーデラックス、六本木ヒルズのTOHOシネマなどで作品の上映やトーク、シンポジウム、ワークショップなど六本木界隈を回遊出来るような感じで様々な催しが展開されていて、まさにメディア芸術のお祭りですね。 今年はスーパーデラックスで行われた 「ラウンジトーク&ライブパフォーマンス「新たな語りへの挑戦~深化する映像・アニメーション~」」というのに行ってきたのですが、最後の最後、大取に上映されたアニメーション部門の大賞の上映を終電前にご飯を食べたいという生理的欲求に負けて見逃してしまったので、それを観に新美の作品展に出かけて来た、という次第です。


その作品がこれ。
アニメーション部門大賞
Rhizome
短編アニメーション(11分25秒)
Boris LABBÉ [フランス]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/animation/rhizome



私たちが生命を得ているこの宇宙もその構成単位をどんどんどんどん小さくしていくと顕微鏡でしか見る事の出来ない細胞単位まで細分化されていくということ、そして、その宇宙の中の小さな単位でしかない惑星の中では、小さな原子から形を成し、それが様相を変化させながら分裂と再構成を繰り返し、様々な個体を形成し、多様な生命体を育んできたこと、そんな事を彷彿とさせるダイナミックな作品で惹き込まれました。スクリーンに蠢く細かな物体は無機質なもので、私たちの想像できる生命体とはかけ離れたものなのですが、宇宙の始まりだったり、太陽系の形成だったり、その中の惑星の進化だったり、自分の身体の中のひとつの細胞の中の出来事だったり、この世のあらゆるところで繰り広げられている活動のように感じられ、そのスケール感がマクロなのかミクロなのか、捉えどころがありません。これは制作技術に素養のある人だったら、もっと面白いんでしょうね。 膨大なプロセスの創案、工程の技術的マネージメント、制作過程の尋常でない作業量など解らないなりに想像してみても、「宇宙の創造」規模のような気がします。作者の制作意図を読み取ろうとして観るのは難解なのですが、その哲学が可視化されておるので、単にスクリーンを観ているだけでも充分に楽しめるし、惹き込まれます。その最小単位としての図案を見ると実に味わいがあって、そのギャップにも心がざわめきました。





あと、これはスーパーデラックスでのプレゼンで観たのですが、
エンターテインメント部門新人賞
group_inou 「EYE」
ミュージックビデオ(3分32秒)
橋本 麦/ノガミ カツキ [日本]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/entertainment/group_inou-eye

インターネットの世界に無数に落ちている画像、その最たるものであるGoogle Street Viewから丹念に世界中の画像をピックアップし、繋ぎ合わせ、仮想現実の世界をひたすら移動していくというもの。誰しもが簡単にアクセスできるものを素材にしていることから、オープンソースとした事を知った上で鑑賞すると、作品自体により自由な広がりを感じられます。フォトグラフ(静止画)の分野でも、Doug RickardのA New American Picture ( http://www.dougrickard.com/a-new-american-picture/) など、ストリート・ビューから切り取って来た世界のどこかで実際に存在した場面の画像で自分の世界を構築し、作品としているようなムーヴメントがありますが、この作品は映像化されている事で、より迫力と臨場感が増しているような気がします。これはgroup_inou の「EYE」という楽曲のPVとして制作されたもので、誰でもYou Tubeとかで鑑賞することが出来ます。





そしてこれは、個人的な思い出の中の琴線に触れ、関心を持った作品なのですが、
アート部門大賞
50 . Shades of Grey
グラフィックアート
CHUNG Waiching Bryan [英国]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/art/50-shades-of-grey

学生時代、誰も望まないのに必修科目となっていたFORTRANによるプログラミングの授業に苦しめられた経験があり、見た瞬間、もう過去の前世紀の遺物と化したような古臭いコンピューター言語が、こうしてアート部門の大賞を受賞しているのを見ると、少なからず、強制的に学習させられた遠い昔の経験が示す意味を考えたりしてしまいます。コンピューターに侮辱され、演習レポートを突き返してくる担当教授を逆恨みしてボロカスに言っていた、あの頃。 今、前時代的になることへの恐れを抱くFORTRANを前に、今ではそれよりは遥かに高度なテクノロジーを日常的に、直感的に使いこなしている自分に 優越感を覚えたりしました。(全く作品の持つ意味とは関係のないところでのハナシだとは思いますが・・・。)
Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207155939475268






最後に、
アート部門優秀賞
(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合
写真、ウェブ、映像、書籍
長谷川 愛 [日本]
http://festival.j-mediaarts.jp/award/art/im-possible-baby-case-01-asako-moriga
何だかとてもハッとさせられる作品でした。実在の同性愛カップルの遺伝子情報を用いて、両者の子供たちの考えられ得る姿を創りだし、家族写真にしたもの。芸術的アプローチといえども、これが遺伝子解析プログラムを用いてのシミュレーション(模擬実験)なのだとすれば、科学において実験とは何かを実現するためのプロセスであり、何を最終形としているのかを考えると、ちょっと空恐ろしい気がしてきます。しかしながら、その作品の中にいるその実在の同性愛カップルと架空の子供たちの様子はいかにも幸せそうで、そのギャップが何かを問題提起している感があります。フィクションとノンフィクションの境界を勇気をもって具体化した、社会派の作品であることと、この架空の家族の満ち足りた表情が何とも言えない気持ちを呼び起こします。






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# by sanaegogo | 2016-02-12 00:01 | art | Comments(0)
五百羅漢が 鬼才村上隆によって現代に蘇る | 村上隆の五百羅漢図展

村上隆の五百羅漢図展
2015年10月31日(土)― 2016年3月6日(日)
森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/tm500/index.html

この五百羅漢図展、2015年の夏、ご縁があってるるぶ.comに原稿を書かせていただいたのですが、今日やっと、観に行く機会を得て行って来ました。展覧会の概要については、こちらでまとめさせていただいてますので、ご一読くださいませ。
http://www.rurubu.com/season/autumn/art/column.aspx
「五百羅漢が 鬼才村上隆によって現代に蘇る」と題して書かせていた立たのですが、全長100mにもおよぶ現代に蘇った五百羅漢が繰り広げる白虎、青龍、玄武、朱雀と続くビビッドな仏教世界はまさに圧巻でしたっ!! 村上展らしく、撮影OK、SNSにアップOKと言う事で写真に収めようとしたのですが、これはそれではつまらないな、と思い、拙い動画で撮って参りましたし、そうした人も多かったのではないかな、と思います。



スーパーフラットの提唱者である村上隆が実は芸大の日本画科の出身で、日本で初めて日本画の分野で博士号を取得したというのはご存知の方も多いと思いますが、日本画の分野のひとつの仏画で用いられるモチーフが登場するという事以外、メディアも表現方法も何もかも、所謂日本画とは一線を画していて、狩野派とか、土佐派とか、琳派とか、(近代の流派は良く解らないのですが)、そんな風に、村上派を確立した創始者とその地位を確固たるものにした記念すべきものになったのではないでしょうか。 これほどの大規模展示は、規模だけで語っても、そうそう実現するものではないような気がします。
村上隆について、あの作風を見て、あれがアートとか芸術とかいう類のものなのだろうか、と感じる人も多いかと思います。それは、ピカソのキュビズムの画を見て、「あれなら自分も描ける」と思うメンタリティーと同じのような気がします。 描かれているモチーフの中にはDOBのようないかにもキャラクターっぽいものも含まれてはいますが、それを埋めている色彩の乗せ方、配色、レイアウト、構成、どれをとっても唸るほど精緻でかつ感覚的、なようでいて実はかなり計算しているのかもと思わせる匠な要素が満載です。 一度でも絵筆を取って絵画なり、イラストなりを制作した経験がある人なら、村上隆という人の溢れる才能のようなものを、そこに見て取る事が出来ると思います。 これは、好きとか嫌いとかの話ではなく、確固たる確立された芸術家としての技量なのだと思います。


《達磨大師》 2007年
アクリル、プラチナ箔、カンバス、板にマウント 1601×3510×50mm(六曲) 個人蔵
Courtesy Blum & Poe, Los Angeles
(これって、私が初めて村上隆をきちんと芸術家なのだ、と認識した達磨大師。)


そして、縦横無尽のごとく繰り広げられる独特の仏教世界はどんだけの想像力の広がりがあれば描けるんだろうかと、その創出するエネルギーの大きさはものすごいものだな、と感じた訳です。まあここで、「あれって沢山の学生使って描いたんでしょ」という意見も出そうですが、実は第3者、人の手を使ってなお、完璧に仕上げるのは、全て自分でやるのより遥かに難しいと、様々な分野で経験したことのある人は、それに気が付くと思います。 「村上さま ご指示どおり」とか書かれた指示書というか、設計図みたいなものが沢山展示されていましたが、それも興味深く拝見してきました。 とにかく、大勢の人の手を使って仕上げられているのに、細部に渡って適当にされている箇所が全くないのは圧巻です。 なぜ細部を写真に撮って来なかったのか、今となっては悔やまれますが、マーブル模様のように仕上げられたその画面の色彩はとにかく美しかったのです。

村上隆のファンの人はもちろん、懐疑的な人でも、ここまでの大作を描き上げる環境が整って、これだけのものが展示できる場があって、そんなものを観られる機会もそうそうないと思うので、是非その眼で観てみたらいいんじゃないかな、と思います。




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# by sanaegogo | 2016-02-12 00:00 | art | Comments(0)
天空の渚


天空の渚
野町和嘉
Gallery 916
2016.1.15 – 2.14
http://gallery916.com/exhibition/theshoreofthefirmament/


「写真が私たちに与えてくれた楽しみの一つに、見たことのない世界との出合いがある。遠く離れた場所にどんな風景が広がっているのか、そこでどのような暮らしが営まれているかを写真は正確に描写し、私たちに届けてくれる。」
と、この展示に寄せたForewordでタカザワケンジさんも記しています。
ナショナル・ジオグラフィックやマグナム・フォトの写真にあるようないわゆるジャーナリズムにのっとった写真は、時として発するエネルギーが私にとって強すぎて、まさに「写真の力」みたいなインパクトを受け留めきれない時がままあるのですが、野町さんのこれを観に行きたいと思った動機のひとつに、撮影地が中南米のメキシコ、ボリビア、チリ、アルゼンチンを巡る旅だったというのがあります。
昔観た映画で、「The Motorcycle Diaries」というのがあって、若き日のエルネスト・チェ・ゲバラがアルゼンチンからチリ、ペルーと旅をするストーリーなのですが、その映画に感化されていて、この写真展にその世界観を感じられるかしら、と思ったからです。まあ、それは私の早とちりで、ロードムービー的な構成ではなかったのですが、内容は充分に素晴らしいものでした。
南米やラ米の持つあの独特の情感が巨大とも言える写真の中から滲み出ていました。特にやはり、難破船を捉えたあのシリーズは、頑強な巨大船が静かに滅びていく時間をも捉えているようで、こんな世界の誰も知らない片隅で朽ちていくその様を目の当たりに出来るのも、また、違った形の「写真の力」とも言えるのかも知れません。野町さんの写真には、思考が事実だけで埋め尽くされてしまうような、見せつけられる「提示」はなく、どこか余白があり、そこに情緒めいたものを感じる事が出来て、自分の中の内なる旅みたいなものとオーバーラップさせることを許容してくれるように感じました。それは偏に風景写真が中心の構成だったからと言えるとは思いますが。



朽ちていく難破船は、火災にあって座礁して放置されたものだそうです。
どんよりよした空とあり得ない場所に佇む船の記憶。ドラマチックでセンチメンタル。




一番好きなシリーズ。
こんな光景をこの眼で見たい、と思いました。
ここに佇んでいる自分の姿を想像しました。




南米、ラ米によく見られる精緻な彫り物の装飾を施した教会の天井。
隅々まで埋め尽くされたキリスト教世界。


同一のフォーマットが淡々と、しかも1枚1枚が圧巻で、それは、あの916の空間にとてもフィットしていたと思います。大きくプリントしたのは、 EOS 5Ds 約5060万画素とタイアップした商業的な側面もありましたが、細部にわたるその再現力、描画力は素晴らしいものでした。何枚か写しだされた光景の部分の写真を撮ってみたのですが、まるで、自分がそこに行って自らの眼で見て来た風景のように映し出されていて、自分自身もその風景の中に佇んでいたような錯覚を感じます。視覚体験がそこに行ったかのような体験にすり替わってしまうのです。自分が今よりもっと若く、色々な選択肢を選べるような年代で、男性として生まれていたら巡ってみたかった未踏の地への旅を野町さんはここに届けてくれたのです。



イギリス船籍
1889年アイルランド建造
Load Lonsdale号

1909年にフォークランド諸島にて火災の後
チリ・マゼラン海峡 ブンタ・アレナス海岸に放棄された




パタゴニアの風景。
いつかは訪れてみたいけど、叶うのかな。




高地の南米にある水辺の写真も多くありました。




天空にある渚、です。



Facebook: https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10207073589656574
会場の風景もアップしてあります。
https://www.facebook.com/sanaegogo/videos/10207080054858200/



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# by sanaegogo | 2016-01-31 00:00 | art | Comments(0)
川内倫子 Let's sing a song our bodies know




川内倫子「Let's sing a song our bodies know」展
期間:2015年11月21日(土) ~ 12月13日(日)
会場:グッチ新宿 3階イベントスペース
http://www.gucci.com/jp/worldofgucci/articles/worldofgucci/articles/new-exhibit-at-shinjuku-fragship-by-rinko-kawauchi#1


川内倫子さんの作品展を観に行くのはとても久しぶりです。 今回は、新しく就任したグッチのクリエイティブ・ディレクター アレッサンドロ・ミケーレがクリエイティブ・コンセプトとして掲げる「とらえどころのない境界を表現する」というものに倫子さんが自分自身の作品作りが目指すものとの共感を覚え実現しました。倫子さんの創りだすイメージ(画像)はソフトフォーカスでじんわりと光の中に滲んでいるような印象を受けるのですが、照明を全て落として半ば暗闇となった会場の中にじんわりと浮かび上がるそれらのイメージは、大きさも様々なモニターとして会場内に点在し、心の中のどこかの空間にぽつぽつと現れた記憶の断片であるかのようでした。 幼い頃の記憶のようでもあるし、イメージの中の少女は自分自身で、夢の中で自分が自分自身の姿を見ている時のあの感覚のようなもののような気もします。主観であるのか、客観であるのか、不思議な混濁を覚えます。




光と共に浮かび上がった真っ暗な空間でのインスタレーションは、倫子さんの表現世界にとてもフィットしていました。 倫子さんの光は 眩しい光ではなく 灯火のように 湿度を持った温かみがあります。出来る事なら、断片のように散りばめられたイメージをひとつひとつ繋ぎ合わせ、ストーリーのようにも見せて欲しかったようにも思います。 誰かの見た記憶の中の風景なのか、はたまた心象風景なのか、誰の記憶なのか、そこにまたひとつの曖昧な境界が生み出されると思うし、それはまさに、とらえどころのない境界なのだと思います。




空間に浸っているうちにすんなりとその世界に自分が入り込んでいく、倫子さんの作品独特の浸透感を味わえる、そんな雰囲気に満ちていました。

≪会場風景≫




Facebook Post:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10206697673978917
https://www.facebook.com/sanaegogo/videos/10206697688699285/


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# by sanaegogo | 2015-12-06 00:00 | art | Comments(0)
昔の名前でやってます。 杉本博司 趣味と芸術 - 味占郷/今昔三部作


千葉市美術館 開館20周年記念展
杉本博司
趣味と芸術 - 味占郷/今昔三部作
会期 2015年10月28日(水)~12月23日(水・祝)
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/1028/1028.html

杉本博司のこれまでの足跡については、今更ここで拙く紹介されるまでもありません。ニューヨークを拠点にして制作を続けている杉本氏ですが、一時期、生活のために日本の古美術品や民芸品を扱う古美術商をしていた経験もあって、日本の古美術や古い建築物それに古典文学への造詣が深くかなりの目利きである事でも知られています。
この杉本展もこうした彼のバックグラウンド(というか、根底に流れる理念みたいなもの)を如実に余すところなく組み入れて繰り広げられている世界です。杉本さんが実に愉しみながらこの展示を構成していったのが眼に浮かぶようです。

展示は2部構成になっていて、まさに「杉本博司 趣味と芸術」です。「味占郷」は、雑誌『婦人画報』で連載されていた「謎の割烹 味占郷」に登場する架空の高級料亭の屋号。ゲストは亭主が杉本だという事を明かさずに招かれ、杉本氏がゲストに相応しいしつらえと料理でもてなすというもので、洒落者杉本のお眼鏡にかなった品々、器や掛け軸、丁度品などが、軽妙でウィットに富んだ文章と共に展示されています。展示されているのは、杉本博司の作品ではないのですが、味占郷を訪ねるゲストに合わせたお料理を杉本氏自ら考え、支度をしていて、それに合わせた小道具や軸が飾られているという趣向です。これがとっても楽しくもあり、素晴らしくもあり、詫びも寂もあり、とてもよかったのです。杉本氏の見立てでゲストに相応しいと選んだ“ならでは”の小道具はその人の人となりを顕し、その選ばれた小道具がまた杉本氏の人となりを顕す、そんな風に幾重にも重なった杉本さんの審美眼の連鎖です。増幅です。すべてが結局杉本博司自身を表現することに至っていても、自己顕示の高さが嫌味に映ることなど決してなく、洒落ていて、細やか。それは洞察力の鋭さにも通じるもので、間接的なのにその表現の豊かさは、まさに数寄者です。この「謎の割烹 味占郷」は、まとまって1冊の書籍になっていて、思わず買い、でした。日々を風流に設える沢山のヒントが記されています。自分の作品を飾らずして、自分の世界観を具現化する、それがひとつの鑑賞に値する作品群になるなんて、そうそう出来る事じゃないですね。



「阿古陀形兜」南北朝時代、「夏草」 2015年 須田悦弘
この兜は、戦場で地中に長い間埋もれていたものを掘り起こしてきたものだそうです。



泰山木の花。英名はMagnolia。山のような泰然とした姿から名付けられたと言われます。好きな花のひとつ。



月面を描いた軸と球。古風な設えなのですが、現代科学を感じるようなミスマッチがあって、
とても好きな軸のひとつです。


さて、もうひとつのフロアは、杉本博司の「芸術」にまつわるもの。そう、彼の生み出した作品です。「趣味」のフロアのどこか軽妙で洒落の利いていた雰囲気とはがらっと異なり、静寂が空間を包んでいました。 杉本博司の作品を通しての足跡が「今昔三部作」と題して≪ジオラマ≫、≪劇場≫、≪海景≫の初期作から最新作までが展示されています。特に≪海景≫の部屋は、土地柄か、休みの日なのにとても人が少なく、静かに情景と向き合うことが出来て堪能できました。どの海も水平線で空と海が画面の中で丁度2分割されていて、それぞれの海の個性は著しく没されているのですが、それぞれ異なった季節や時間、天候の下で撮影してあるからでしょうか、どことなくその海を顕しているかのように眼に映ります。どの部屋も時間を押し込めてあるかのような、厚みのある静けさが漂っていて、心象の中で動画を見ているような雰囲気があります。何の変哲もない光景のように映っていても、≪劇場≫などは、かつては人々の賑わいがあった映画館を貸し切って、その館に合わせた映画を観客がないまま上映し、それを撮影しているそうで、ここにも杉本博司の贅沢ながらどこか詫び寂びがある見立ての美学がふんだんに盛り込まれています。そんなエピソードを知りながら観れば、写真はその観えるものだけではない深いストーリーを孕んでいるように感じられるし、知らずに観てもまた、写真には何も写らなかった真っ白に光るスクリーンを何のデフォルメも加えず、単調とも言える正攻法の構図で捉え淡々と並べた様子に、もやもやと杉本氏の制作意図を知りたくなるような不思議な欲求で画面に引き込まれていくのだと思います。どのシリーズも最古作から最新作が並べられているのですが、均一のトーンで統一されていて、俄かにはその変化は見て取れないのが、ある意味流石です。すべてが均質ながらも、1枚の写真の中に、そして並べられたその流れの中に、時間の厚みがあるのです。


≪海景≫の部屋。 海のざわめきを感じるのに、一方では静寂を感じる不思議な雰囲気がただよっていました。



≪劇場≫の部屋。 それぞれのキャプションでは、何の映画が上映されているか、作品名とともに杉本さんのそれを選んだ心情が語られていました。


そして、尾形光琳の「紅梅白梅図」をモノクロームで再撮影して「月夜の梅」に見立てている「月下紅白梅図」(2014) 、これが見たかったのです。ほの白い月明かりに浮かび上がっているかのような、紅梅と白梅それに流れるさざ波立った川は、光琳の時代から数千年の時を経て、全く趣の違った姿を顕したのです。プラチナプリントは千年の寿命をもつそうなので、千年後は杉本博司のこの「月下紅梅白梅図」が歴史に名を残しているのかも知れませんね。





屏風の中の白梅が散り落ちているようで、とても風流です。こんなところに杉本さんの洒落心を感じざるを得ません。

この展覧会に向けて、杉本さんはユーモアたっぷりに、

静聴と衰退、希望と諦念、未熟と完熟、青さと傲岸、昔の名前でやってます。
--------------------杉本博司

と残しています。
趣味と芸術、洒落心と真摯に芸術に向き合う視点、時間の厚み、作品のシンプルさとは対照的に、実に多様なものがこの展覧会にあります。 明白なインパクトがなく、人によっては「ふうん・・・」で終わってしまうかも知れないけど観ておくべきもの、というのが世の中にはあると思います。 これはその手のものだったと思うし、盛り込むものを限りなく控えた不足の美みたいなものにジワリと利いてくる杉本博司という人の世界観を顕した、作品を通して、いや、作品は単なる導入で、まさに杉本博司の芸術感というものを体験するものなのだと思います。

Facebook:
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10206665310009838
https://www.facebook.com/sanaegogo/posts/10206665318210043

≪海景≫



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# by sanaegogo | 2015-11-29 00:00 | art | Comments(0)
Nerhol: Slicing the Onion





[Exhibition] Nerhol: Slicing the Onion
会期 2015年7月3日(金)~7月26日(日)
会場 POST
http://post-books.info/news/2015/6/26/nerhol-slicing-the-onion


来週は行けそうになく、でも絶対見たかったので、この日の夕方駆け込みで観て来ました。
ネルホルの” Slicing the Onion”です。













Postでの個展は2012年の4月以来だそうですが、私は最近のでは、昨年の秋にIMA CONCEPT STOREとGYREで開催された “Phrase of everything”のシリーズをフィーチャーしたものを観ました。 でも、私見ですが、断然こちらの方が良いと感じます。落ち着いた気持ちで観ていられるし、「玉ねぎ」というシンプルで没個性なアイテムを題材にすることによって、ネルホルの示そうとしている事の意味や、その表現手法が解りやすく伝わって来るように感じます。 そして相反する要素の現象が1点の作品の中に凝縮されていて、玉ねぎの円らさゆえにそれがはっきりと見て取れるのが面白く感じます。玉ねぎの横方向の成長を表すスライスした断面に現れる層×それらを写した1枚1枚を重ねた束を掘り下げていく断面に現れる縦方向の層、自然発生的な成長×人為的な彫っていく作業、観察という静的な作業×シートをカットしていく動的な作業など、ただひとつの玉ねぎなのに着眼点が様々あって観ていて飽きる事を感じさせないものがあります。フォルムがシンプルだけに彫り込まれた稜線がより際立っていて、その作業の美しさにも改めて感嘆しました。 今まで観たネルホル作品は、人物の顔と対峙するという事もあるのだと思いますが、どことなくアグレッシブで言い知れぬ威圧感があったような気がしますが、このシリーズは一転してどこか穏やかで、「観察」という対象を優しく包み込むような視点が、展示されていた空間にどことなく粛々とした時間の流れを生み出しています。玉ねぎの刺激が強すぎて、眼が沁みてくる事もありません。(笑)













『日々私たちの食卓へと運ばれてくるさまざまな食物。
それらの由来は様々ですが、大量生産・大量消費を未だにベースにし続ける経済は、食物においても生産・流通・消費の様々な場面を規格化することで、その構造を支えています。
(中略)
私たちが避けがたく/知らずに加担し続ける資本主義の構造をそれとなく示唆しながらも、表象的な魅力を軽やかに担保しています。』
(Postのテキストより引用)

題材とした玉ねぎの汎用性から観る人が感じる事の許容が大きく、その空間から何を観るかの多様性も、そしてその人の感じたものを確認し合ったりするのも、この展示の奥深さを物語っているような気がしました。

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# by sanaegogo | 2015-07-19 00:00 | art | Comments(0)
赤鹿World炸裂! 「Did you sleep well?」@松の湯



少し前の事ですが、赤鹿麻耶さんが江戸川橋の銭湯を舞台に刺激的な展示をしていると言うので、駆け込みで観て来たんです。 新宿(あの辺は文京区ではなくて新宿区なんですね。)にある銭湯 松の湯さんの2階でそのハッチャけた展示は開催されていました。 1階ではまだ、松の湯さんは通常営業されています。 2階は使われなくなっていて、その刺激に富んだ空きスペースをノビノビと活用して 赤鹿ワールドが炸裂していました。


 




言い古されたハナシを持ち出しますが、ホワイトキューブのスペースでの展示は墓場のようなものだ、と言われ始めて以来、大分年月も経ちましたが、この事を振り返って考えてみても、赤鹿さんのその展示は、エネルギーに溢れていてまるで展示全体がひとつの生命体であるかのような躍動感でした。これは赤鹿さんの写真の作風によるところも大きいと思うのですが、とにかく自由、そしてそれを謳歌している感じです。
完全なるデジタルプリント世代で、これを見たらある種の人々は完全に眉を顰め、しかめっ面をするだろうけど、当の本人たちはまったく頓着ないし、旧態依然としたものと自分たちを比較したり、対抗意識みたいなものはまるでないのは一目瞭然です。自分たちのマインドにフィットしたフォーマットでの表現を用いて、真摯な態度でやりたい放題を追求している姿はある意味清々しささえ感じられます。







 




デジタル撮影も手軽だし、インクジェットのプリントも手軽にできる、これはもちろん、ある水準を超えた技術を習得してその素養を持ち合わせていることが大前提なのですが、題材の「場」づくりから、撮影、プリントして選んで、惜しげもなく床に敷き詰めたり、水没させたりと、奔放に作品を並べて展示していくその一連の作業の全てが、ある程度の量産が出来る贅沢さを孕んでいて、フィルム1本の撮影に集中し、現像、プリントは全神経を集中させる真剣勝負、というスタイルとは大きく袂を分かっています。 言わずもがなですが、どちらがいいとか、悪いとかの話ではないのですが・・・。展示の方法も、ひとつひとつの個々の作品を味わって、そして作家が出し切っているものを感じ取ってほしい、という様なスタンスのものではなく、怒涛のように作品を並べ、整然とそこに展示している作品を「見てほしい」という受動的な体のものでもなく、完全にこちらにアピールして、観るものを巻き込んでしまっているような感があるます。 偏に赤鹿さんの作風と表現のフォーマットとそれを観る「場」づくりの一貫性のブレなさがなせる業だと思いますが、ご自身に一番ぴったりの表現方法を見つけることに成功しているのは間違いないでしょう。







一体、何人の登場人物がいるんでしょうか。突飛で奇抜なコスチュームに扮して、至極馬鹿馬鹿しい事を繰り広げる満面の笑顔の仲間たち。 これだけの面々を束ねている赤鹿さんの人としてのコミュニケーション能力の素晴らしさも垣間見られる気がします。作品としての写真を撮る時、人に見せる場をつくる時、そこには卓越したコミュニケーションの力が介在していて、完全なるコミュニケーションの世界がそこにも展開されていて、それは自分の世界観を双方に知らしめるツールであることを認識させられます。同世代の人たちがみんなで何かを写真をとりながらこうやっているところを見るとライアン・マッギンレーとか思い出します。あの幻想的でシリアスな雰囲気とはまた少し違うのですが、同世代の共通点なのでしょうか。












とにかくパワフルでエネルギッシュ。 色彩感覚もポップで可愛いです。
表現方法の話ばかりになってしまいましたが、写真も確実にうまいです。なので、あそこまでの大判プリントにも耐えられる確かな技術としての写真も感じられます。




これはブックの中の1枚ですが、この写真好きです。




あともう1枚がこれかなぁ。 ブックでまとめてある方は、少しシリアスチックな雰囲気を醸してました。



赤鹿麻耶写真展
ぴょんぴょんプロジェクト vol.1
「Did you sleep well?」
http://akashikamaya.com/blog/?p=3170

大阪展|
4月24日(金)〜30日(木) 11:00〜19:00(日没まで)
桃谷の空き地 特設スペース(大阪市生野区桃谷)

東京展|
6月5日(金)〜14日(日) 14:00〜21:00
江戸川橋・銭湯 松の湯2階(東京都新宿区山吹町) 



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# by sanaegogo | 2015-06-13 00:00 | art | Comments(0)
Sarah Moonの写真に降り積もる時間と記憶 |NOW AND THEN |


時間は確かに流れているものだけど、サラムーンはそれを最も美しい瞬間で止めてしまう事が出来るようです。サラムーンの写真に写し出された世界には、流れている時間とそこに閉じ込められた時間の双方を意識することができます。その写真の中の風景や動物たちのいた時間は、そこに封じ込められるまで確かに流れていたのだと感じられるし、サラムーンがシャッターを切った瞬間、まるで石になってしまう昔話の物語のように突然に、かつだんだんとそこに留まって沈殿していっているかのようです。そして画像の中で動かず物言わぬ存在になっても、「私は覚えている」と観る人にその記憶を語りかけているような雰囲気を醸しています。
実際サラムーンの写真は時間をかけて創りだされています。 ネガ付きのポラロイドで撮影し、薬剤で定着させないまま化学的な変化を待って創り上げられています。 なので、その世界に時間が沈殿しているというのは、まんざら見当外れではないのです。写しだされたものは、徐々に、徐々にその画像の世界の中の住人になっていくのです。またそれが、一見儚げでありながら、ずっしりとした存在感と濃厚な空気感を感じる彼女の作風の由縁でもあるように感じます。


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今回の個展は、2013年パリの自然史博物館で行われた 『Alchimies』展の出品作や新作を中心にカラーやモノクロームの写真で構成されていますが、これはサラムーン本人のセレクトによるものだそうです。この『Alchimies』は錬金術師という意味なのですが、このentitleがまたとてもとても洒落ていて、初めてその意味を知った時は、何ともいえないその言葉の響きにうっとりとしてしまいました。 自然史博物館にひっそりと佇んでいる剥製となった動物たちの記憶と時間から、まるで錬金術師が僅かばかりの金を生成するためにたくさんの手間と時間をかけるように、サラムーンの作品は仕上がっていくのです。私が訪れた時は人もまばらだったそのギャラリースペースは、まるで時間が粒子のようにさらさらと音を立てて流れているかのような雰囲気でした。言葉の響きと言えば、”Sarah Moon“という音の響きもとても素敵です。
自分として2冊目の彼女の写真集を購入したのですが、私が「これ、好きだなぁ。」と思った作品で収められていないものがありました。 でもきっと、その作品は、彼女の写真が生成されていくプロセスのように、私の記憶の中でゆっくりと時間をかけて沈殿し、いつまでも残っていくような気がしています。





NOW AND THEN
サラ・ムーン/SarahMoon
AKIO NAGASAWA
2015年4月24日(金)- 6月14日(日)
http://www.akionagasawa.com/jp/exhibition/now-and-then/










『Alchimies』
パリの自然史博物館の展示室には作品の中で時間を止めているライオンの剥製が展示されていたそうです















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# by sanaegogo | 2015-05-10 00:00 | art | Comments(0)
Exhibition05: 'Tarantella' | Go Itami
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GW中にいくつか気になる展示を観て回るつもりにしていたのですが、その中のひとつがこれ。伊丹豪さんが今取り組んでいるというシリーズがCIBONEで観られます。作家は何に向かって作品を生み出し、誰に向かって観せたいのか、というのがありますが、今回はCIBONEというショップの中での展示。 作品を観ることを目的として足を運ぶ美術館やギャラリーではなく、ふらっと入って来るお客さんもいる様な環境です。 なので私もそんな風に作品を観てみたいと思ってふらっと行って来ました。(とは言え、CIBONEの告知でキービジュアルになっていた3枚のアブストラクトなランドスケープの作品を見て、「もっと観たい!」と思っていたので、似非っぽい行為ではありますが。(笑))



Exhibition05: 'Tarantella' @CIBONE
From April 29 (Wed) to May 19 (Tue)
Go Itami


私が勝手に考えている伊丹作品とは、「フォーマットの中で拡散と凝縮の間を行き来する矛盾を孕む世界」といった感じでしょうか。画角の外側にも広がっている世界をぎゅっとフォーマットの中に凝縮させることでマクロがミクロへと変容し、そしてまた、画角の中にぎゅっと押し込まれ凝縮させることで、実はその全貌は自分の視野の外にも広がってく、そんなふうに拡散と凝縮の間を行き来するような作品です。そのベクトルの方向が言い表しがたい違和感を生み出しています。対象をある極限まで拡大して画角の中に収めようとするベクトルによって、その全貌は外へと向かって押し出されて広がっていくようです。外へと広がろうとする光景の中から1点を捉え、その外へ向かうベクトルと逆行してフレームの中に凝縮させるような作業がそこにあると感じます。これはカメラやレンズの機能からすれば、至極当り前のことなのかも知れません。とても汎用性のあるものです。ただそこに某かの伊丹豪らしさがあるのは、これも当たり前の事なのかもしれませんが、そこに伊丹豪だけのフレーミングがあるからだと思います。そして、伊丹豪のフレームをもってその世界から何かを切り出している手のものではなく、ただそこに境界線を引いただけのもので、それは決して分断されてはおらず、フレームの外にも依然広がっているような感覚を覚えます。もちろん、今までの作品を一つ一つ見ればその感覚に当てはまるものばかりではありませんが、ひとつの個性としてそれは確かにあります。これまで撮影の対象は、部屋の中にある小さな生活に密着した品々や、日常の生活の中で目にする当たり前の風景が多かったようにおもいますが、今回展示されている作品は、NASAの衛星写真。いよいよ地球規模になったのか、という感じです。スケールの大きさが一気に拡大しましたね。





地球は本当に表情豊かでフォトジェニックですね。地面に身をかがめて足元の野花も地球であると言えるし、大気圏の外から見た起伏に富んだ地形もまた地球です。自分と近い距離にあれば、微細すぎて人の視力では捉えられないような水蒸気の粒の集合体である雲も、遠くから捉えれば白い塊となってくっきりとその姿を現します。広角な視野をもって眺めれば優れた自然の造形物であるような山脈や河や湖、森林地帯や砂漠、または人間の創りだした都市の人工的な美しさがありますが、その一部分に近づけば近づくほど、具体的だったものは抽象化していきます。対象物をより詳細に正確に捉えようと近づけば近づくほど、ある時点を境にそれは抽象的なものと変容していき、具体性とはかけ離れていく感覚が何とも矛盾を孕んでいて、脳の「形」を認知するところがもやもやするような感覚になります。その意外性は距離があればあるほど、それに対して拡大される範囲が小さければ小さいほど増していきます。難しい事を考えずただ感覚的にその写真たちを観ても、ギャラリースペースに点在しているその異形の地表は美しいものでした。特に床に寝かせてある数枚の写真はまるで自分が高い高いところから俯瞰しているようで体感的なものも楽しむことが出来ます。





様々な角度の視線で観ることが用意されたその作品たちは、CIBONEの既存の空間の雰囲気にとてもしっくりきていて、その場に良く溶け込んで馴染んでいたように思います。テーマが地球規模になったせいか、いつもは割と観ていて「考える」要素が強い伊丹さんの作品ですが、今回は「感じる」ままに観入ってしまったのは、きっと私の思考が地球規模に対応できていないからかもしれません。でも今回の作品は、それが心地よいのだ、とも思いました。 考えるスケールが大きすぎると時として思考は止まってしまうものなのです。 感じるままに観入ったアブストラクトな異形のランドスケープ、堪能してきました。




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# by sanaegogo | 2015-05-04 00:00 | art | Comments(0)
立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう






translation / performance|川久保ジョイ
[立ち上がる言葉、ひっそりアンダーラインするとしよう/Touch a girl, code of art,
history and a lie through the show]

2015年4月25日(土)19:30
http://blanclass.com/japanese/archives/20150425/



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横浜のちょっと外れにあるBlanClassで行われたちょっと変わったイベントに行って来ました。 川久保ジョイとペドロ・イノウエが2人で行うトーク・パフォーマンスで、ペドロが英語による口述での物語りをして、ジョイがそれを通訳したり、PCのプロジェクションで翻訳したりしてオーディエンスに伝えていきます。ペドロは日本語が話せないので英語で物語りをします。英語が解らないオーディエンスはジョイの伝える日本語の訳出だけが頼りで、その場のコミュニケーションの精度は全てジョイの通訳にかかっています。滔々と自分についてのストーリーを語るペドロの話には虚構やファンタジーのような昔話が入り混じって来て、「おや?」と思うような展開になって来ます。それはジョイによって故意に、あるいはおざなりさから発せられたもののように感じられ、ペドロの語る物語のちゃんとした説明なのか?という疑問も湧いてきます。 やがてジョイは増々おざなりになってきて、それでも熱心に耳を傾けるオーディエンスに対し、自分がこの場をコントロール出来ると感じ始めたのか、場を支配しているのは自分であるかのような振る舞いを見せ始めます。声には出さず、タイピングをしてスクリーンの上でオーディエンスに指令を飛ばし、オーディエンスを操り始めます。この場の流れを完全に支配してしまったのです。




ジョイの暴走なのか、ペドロの虚言なのか、
真実を知っているのは話者のペドロでもなく、オーディエンスでもありません
果たしてジョイもペドロの言う事を、言葉の置き換えだけでなく、
その意味を理解していたのか、と考えた時、
もはやもう何が真実なのか・・・・。



とても興味深い内容のパフォーマンスでした。 このパフォーマンスのアイディアの発端は、とある海外のアーティストのトークの時に川久保さん通訳として登壇したそうなんですが、
ちょっと誤訳をいくつかしてしまって、でも(英語を理解する人以外)聴衆の殆どはそれに気が付かず、何事もなかったように話が進んで行ってしまって、両者の介在者になっている自分だけが、この場での事実(真実)をコントロール出来得る存在なのだという事を感じてしまった事による、と言う事をパフォーマンスが一段落した時語っていました。



たまりかねて、自分で自分の話していることを文字にするペドロ


オーディエンスの側にも様々な状況があると思います。 例えば私。 英語は仕事柄使用頻度がまずまず高いのですが、帰国子女でもバイリンガルでもないので、自分の分野の中だったら会話も出来るし、海外旅行に行っても困らないくらいは話せます。 でも、完璧に全ての言葉をピックアップ出来る訳ではないので、未だに私が聞いたペドロの話す内容とジョイの訳した言葉の齟齬が、ジョイの作為なのか私の力量不足なのかが解らない状態で、これは本人と話して確認しておくべきだった、このもやもや感をすっきりさせるために、とちょっと後悔しています。 それは少なからず、自分に対する不信にも繋がっていくような気がして、自分の語学力に自身のない人は、人間不信に陥るか、自信喪失に陥るか、自分の至らなさを確信して落ち込むか、多少なりとも不安定な精神状態に追い込まれます。 もっと解らない人は、ジョイの通訳を鵜呑みにするでしょうし、もっと出来る人はジョイを明確な不信感を持ってその場の胡散臭さを理解することも出来るのでしょう。 ここでは英語という話せる人も多い世界的共通語のような言葉を使用していますが、これがもっとマイナーな言語でそれを理解する人がその場にいなかったら、もはや何が真実なのか誰もジャッジできず、無意味な状況が創りだされていく訳です、とペドロはパフォーマンスの後に語ってました。 異言語間のコミュニケーションにはそんな危うさが常に潜んでいて、同じ現実を共有する事の難しさが常に付きまといます。




流石にスペイン語まで良く解る人はオーディエンスの中にはいなかったのでは?
ジョイは もはや自分で通訳するのではなく、 電子翻訳にその場を委ねたりもします


ここでは誰もが実感しやすい言語というメディア(と言っていいのか?)を媒体としていますが、例えば、色の認識とか。 バナナを見てジョイが「これは黄色」と言ったとします。黄色と言われたから黄色だし、私もバナナは黄色だと思っている。でも、ジョイの見ている黄色が私の見ている黄色と同じだと鵜呑みに出来るのでしょうか。「黄色だ」と言われただけで、自分と同じ黄色を見ていると言う事にはならないと思うと、共有している認識はとても危ういものに感じられて、所詮究極は人は何も共有出来てはいない、などとセンチメンタルな気分にもなってしまいます。 (川久保さんがそのトークでバナナの話をした訳ではなく、あくまでも比喩ですが・・・)
ちょっと話の筋が逸れたような気がするので元に戻すと。外国語の通訳と言う事ではなく、例えば絵画や写真作品を観て。 作家の制作意図や作品の世界観を解説し評するテキストがあります。 それが作者ではなく著名な第3者によって書かれたものなら、そのテキストこそが作品を理解する術となってしまい、作者の意図までもがそのテキストに委ねられてしまうようになります。 これは、没後何年かの後に研究されてきた近代までの大家の作品にありがちな事です。
例えば、新聞の記事や社説も、世界で起こるある事件や史実を通訳のようにあくまでも介在者としての立場で記者は記事に書き、世の中に知らしめます。 もしそこに記者の先入観や私見が入ってしまったとしても、その事実の起こった状況に明るくない一般市民はそれを鵜呑みにするしかないのです。
今日のこのパフォーマンスはあくまでもパーフォーマンス(演技)で、評論家や記者の方々にジョイがここでとったような行為があるとは思いませんが、可能性は排除できるものではないと言うのも事実でしょう。
通訳という行為だけにとどまらず、何かを伝える時に介在者がそこにいれば(介在するものを必要とする状況ならば)その危険性はいつでも付きまといます。
きっとこんな風に考えるのは、私がペドロの言っている事を全て完璧に理解できなくて、疑心暗鬼になっているからだと思います。 そういう意味でも、受け手によってこのパフォーマンスで考えるところは千者万別だとなんだと思います。あの場で起こった事(タネ明かしの前)の認識も千者万別と言う事になるのでしょう。(私の場合は、後半ジョイのオーディエンスをコントロールし始める暴走行為は、極端な可能性の事例提示という事で認識されて、そこに危機感や違和感はあまり感じなかったのです。) 「現実の認識の共有」という事からは飛躍しすぎなのかも知れませんが、「共感する」という事は案外容易く出来るのかも知れないけど、「認識の共有」って、ダイレクトに出来ない場合も多くて、そういう時はとても危ういものを孕んでいるんだなぁ、とか、考えてしまいました。 そして、その「認識の共有」のための努力というか、手続きというか、そういうもの(この日は通訳という形で表現されていたと思います)の存在感を改めて感じた、そんな次第です。


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# by sanaegogo | 2015-04-25 00:00 | activity | Comments(0)
片岡球子展で球子を知る・・・



片岡 球子(かたおか たまこ)
昭和・平成時代に活躍した日本画家。
1905年(明治38年)1月5日生-2008年(平成20年)1月16日没。
103歳。
日本芸術院会員・文化功労者・文化勲章受章者。
北海道札幌市出身。
1926年(大正15年)、女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科卒業。
卒業後は神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校に勤めながら創作を続ける。
1930年(昭和5年)、第17回院展に「枇杷」で初入選。
1933年(昭和8年)の院展にも入選
その後は何回もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。
1939年(昭和14年)の第26回院展に「緑陰」が入選し院友に推挙
以後は毎回入選
1955年(昭和30年)に横浜市立大岡小学校を依願退職、女子美術大学日本画科専任講師就任
1960年(昭和35年)に助教授
1965年(昭和40年)には教授
1966年(昭和41年)に愛知県立芸術大学日本画科主任教授
1973年(昭和48年)より客員教授
その型破りな構成と大胆な色使いから、一部の人々からその画風は「ゲテモノ」とまで呼ばれて思い悩むが、小林古径は「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ… あなたの絵を絶対に変えてはいけない…」と励す。球子は美しく描くことが全てではないと信じ、自身の信念に従った創作を続け、やがて従来の日本画の概念を揺るがすような力強い表現を確立。「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズでは特に高い評価を受ける。
1976年(昭和51年)勲三等瑞宝章を受章
1982年(昭和57年)には日本芸術院会員に選出
1986年(昭和61年)には文化功労者として顕彰
1989年(平成元年)には文化勲章を受章
100歳を迎えてから脳梗塞に倒れたが、療養に努めながら現役を続ける。
2008年(平成20年)1月16日21時55分に急性心不全のため神奈川県藤沢市内の病院で死去。叙従三位。





生誕110年 片岡球子展
2015年4月7日(火)〜 5月17日(日)
東京国立近代美術館
http://tamako2015.exhn.jp/



色々悩みもあっただろうけど、良い人生を送る事が出来た方だと拝察します。不器用だけど何か自分の信じたことを一生懸命にやっていけば、後から必ず何かを得ることが出来る、そんな、今ではどこか照れくさく誰も真正面からストレートに言わないような精神論を貫き通しそして形にした人だと思います。精神が充実しているから長生きも出来たのでしょう。長命故に年譜もボリュームがあって迫力があります。武骨でありながらブレない球子。その生涯は堂々とした川の流れのようでもあります。壮年期を過ぎようとしている自分自身と照らし合わせてみると、この歳を過ぎてからでも、しかも女性でも何かひと仕事出来るものなんだ、と勇気づけられた気がして、球子の転機になったと言う「カンナ」のポストカードを記念に購入しました。この「カンナ」の花の画は球子が私と同い歳に描いたものだそうです。フォルムを大きくとらえるようになって、色使いも鮮やかに、球子が「これだ。」もしくは、「これでいいんだ。」と自分の画道を達観したきっかけとなった華やかにして力に満ちたカンナの立ち姿です。



庭にカンナの花を咲かせるイメージ、かな。


この後、画材にボンドなども用いるようになって、さらに表現は迫力を増していきます。とにかくどれも大画面。大きな作品ばかりでそれぞれの画に取り組む球子のエネルギーを取り込んで、存在自体がかなりパワフルです。大胆なばかりでなく、例えば面構えのシリーズで役者たちが身に纏う衣装のその柄の細かくて緻密なこと。色を何層にも重ね、雅楽の舞い手の重厚な古典柄(というか古代柄?)など、画面に額がひっつくくらい顔を寄せて凝視してしまいました。素晴らしい。 大胆かつ緻密で細心。球子の大画面の画が決して大雑把ではないのは、偏にこの細部にわたり丁寧に手をかけているからに他ならないと感じました。
開眼した後の球子の画は、時には自然界ではあり得ない配色の対象、例えば青い梅や紺碧の里山の風景、赤や黄色の雪渓が走る富士山などを自由に奔放に描くようになりますが、奇を衒い奇抜なだけに陥らず、その雰囲気はどこか実直で生真面目な感じがするのは、球子の人柄を写しているように思えます。 自分の事と照らし合わせて言うのは恐縮なのですが、私自身はどこか器用貧乏で大した困難や苦労に直面した事もなく、こういう球子の愚直なドラマチックさを体験した事がないので、こういう生き方をすることを少しうらやましくも思ったりしました。 武骨で不器用ででも、決してブレず、真正面から自分の求める道と対峙する。大変そうだけど大切なことだ、と思うと同時に、簡単だけど誰でも出来ることではないなぁ、と。 そんな球子は57歳にして3か月もの間、ヨーロッパへ修行のような旅に出ます。 フランス、イタリア、イギリスを巡り、その収穫は大きかったようで、その後も度々短期間の滞在をするため渡欧しているそうです。私もそうありたい!
球子の画はどれも素晴らしく、その迫力にも圧倒された見応えのある回顧展でした。でも、それより他に、私は「自己啓発」とか「自己実現」とか、以前は時々頭をかすめたけど今はとんと縁遠くなっていたキーワードを思い浮かべてしまいました。 (「自己実現」は好きな言葉でよく使ってたような気がします。)
  • 悩むことは人生にとって必要なこと 悩むことを面倒くさがらない
  • ある事を信じて、先が見えなくてもブレずに進む気持ちの強さを持つ
  • 年齢なんて関係ない 自分のペースで納得しながら進む
  • いくつになっても学び、何かを吸収することを止めない
と、まぁ、安い啓蒙書のようなスローガンですが、カッコ悪いと思わず、カッコつけず、そんな感じを地で行っていたのであろう、球子に思いを馳せてしまう私なのでした。



片岡球子 カンナ 1953年
ちなみに、一番上の 「面構 足利尊氏」 は私が生まれた年に描かれたものでこれも代表作
生まれた年と今現在の年齢 どちらの節目にも代表作 転機となった作品が・・・。 縁を感じます。




試みに「片岡球子」をGoogle画像検索してみたら、出るわ出るわ。代表作である色とりどりの鮮やかな富士山のシリーズで画面が埋め尽くされています。そしてぽつりぽつりと現れる素朴な球子の笑顔があります。色鮮やかで躍動的なその画風の陰に何か骨太な気概のようなものを感じるのは、決して天真爛漫さから自然発生的に生まれたものではない、順風満帆にそこに至ったのではない球子の馬鹿正直な強さがあったからなんだな、とこの片岡球子展を観て切に思いました。



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# by sanaegogo | 2015-04-11 00:00 | art | Comments(1)
スイスデザイン展 @東京オペラシティ アートギャラリー


スイス、という国にはネガティブなイメージもポジティブなイメージもなく、いたってフラットな感じ。まさに中立国なのですが、愛用している品々の中には沢山ではないですが、長く使っているものでスイスメイドのものがある事を、スイスデザイン展に行って改めて気づきました。



スイスデザイン展
SWISS DESIGN

期間:2015年1月17日(土) ~ 3月29日(日)
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
http://www.operacity.jp/ag/exh172/


カランダッシュのボールペン、バリーのショートブーツとドライビングシューズ、ビクトリノックスのカード型マルチツール、スウォッチは2、3個持ってるし、最近の服装に合わないのでご無沙汰しているロレックス、それに対してヘビロテのタグホイヤー、RUBISの毛抜き(これは優れものです)、持ってないけど、バーミックスやフライターグ、モンディーンの時計やUSMモジュラーファニチャー、シグのステンレスボトル、マムートのアウトドアグッズなどなど、ざっと挙げてもこんなに出てきます。いやいや、ちょっとびっくりしました。 (特に自分の持ち物。日常的に長く使ってるものが多いな。) もちろん、自分の持ち物を「他の国製」で分類してったらスイス以外の色々な国の方がアイテム数的には多くなるんでしょうけど、このラインナップをみてみると、とても実質的で実用的なものばかりで、スイスという国のあり方というか、スタイルみたいなものが垣間見られるような気がします。



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スイスデザイン展はこんな風に日常の中で活躍しているスイスらしいデザイン溢れるプロダクトやアドバタイズメントが一堂に会した展覧会です。美術作品のかわりに日用品や日常目に触れるテキスタイルやポスター、絵本やおもちゃまでもが展示されています。シンプルでミニマル。カラフルなものや素材感を生かしたもの。装飾ではなく、機能そのものが美しさを放っています。機能美とかシンプリシティとかいう言葉がぴったりですが、どれも簡素に出来ているという訳ではなく、そこには様々な技が主張なくベーシックとしてあります。 2014年はスイスと国交が樹立されてから150周年だったそうです! 日本人の気質と似ているようなところがあるから、スイスと日本とはきっと相性が良いんでしょうね。





スイスのパスポート
デザインがとってもカワイイッ!




あとは、スイスといえば、家具やインテリア、そして建築でしょうか。建築といえば、コルビジェ。 といっても、私はコルビジェといえば上野の西洋美術館くらいしか思い浮かばないのですが、実はミッドセンチュリーの建築写真でよく見かける モンドリアンの絵のようなカラフルなパネルを使った建築もコルビジェらしいといえるもののようです。建築家として活動を始める前は装飾を学んでいたそうで、コルビジェののこした絵画の作品もたくさん展示されていて、建築物という作品では(大きくて具体的であるが故に)現れにくい人となりというか、人柄みたいなものが出ているような気がします。(茶目っ気たっぷりの線描のフォルムとカラフルでビビッドな色彩で描かれてました。) あとは、後期のロンシャン礼拝堂。とても愛らしい。愛くるしい。 建築物だけど、これなんかは、コルビジェの人柄が出てるのかな。実際はどんなお人柄だったんでしょうか。西洋美術館のように質実剛健な感じか、ロンシャン礼拝堂のようなキュートなおじさんか、まるで違うので興味が湧きます。期せずして、先日観て来たホンマタカシの写真展がコルビジェのシャンディーガルでした。でも実は、スイスデザイン展を観た時点ではその事実は知るところではなく、もしそれを踏まえてこのコルビジェについての展示を観てたらまた違ってただろうな、などと。
色々観てたら、モンディーンのリストウォッチが欲しくなっちゃったなぁ。
実は日本との親和性に溢れ、遠いところにあるけど近しい国、スイスのこと、改めて知ることが出来るスイスデザイン展。 今月(3月)29日までです!




ル・コルビュジエ《カップ・マルタンの休暇小屋》1952竣工 ©FLC





ル・コルビュジエ《ル・コルビュジエ・センター》1967竣工 ©FLC





ロンシャン礼拝堂 (正式名称はノートルダム・デュ・オー礼拝堂)
http://www.collinenotredameduhaut.com/



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# by sanaegogo | 2015-03-07 00:00 | art | Comments(0)
Chandigarh @ CoSTUME NATIONAL│LAB
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青山のコスチューム ナショナルで開催されていた ホンマさんの久々の(?) 写真展『Chandigarh』がとても良く、余韻を残しています。 インド北部のパンジャブ州に位置するチャンディーガルという街で撮影されたもので、ホンマさんでインドというのも意外だったのですが、その撮影された光景は、ガンジス川で沐浴をする雑踏とかではなく、畦道で牛を牽く人々というのでもなく、法服を身にまとったインテリジェンス漂う知識人達というのがまたとても意外でした。これは2本あるうちの映像作品。もう1本はバスターミナルを行き交うバスや利用者のいかにもインドらしい活気のある様子を朝から晩まで記録したものです。



写真展(映像作品もあったので、作品展と呼ぶ方が相応しい?)の全貌はこうです。入り口を入って左手の展示室には、高い目線で窓からの眺望を写した写真。これはこの街の合同庁舎から撮影されたものだそうです。視線の先にはこの街の象徴的な建造物である高等裁判所(ハイコート)の建物があります。そしてその両サイドには、そのハイコートを再び高い位置から捉えたもの。近代的な建築なのだけど、鈍くカラフルな色彩で塗り分けられていて、建物としては興味をそそられる雰囲気なのだけど、どこかインド的ではないような雰囲気。その不思議な違和感にますます何かそそられるものを感じます。両サイドのその写真にはパトランプを付けた車両や制服や法服の人々が日差しを避けての立ち話や何処かに移動していく様が見て取れて、ここが司法関係の建物だということが判ります。







もう一つの部屋では映像作品が上映されていて、ひとつはその鈍くカラフルな建物の敷地内で法服の人々が休み時間に談笑しながら、あるいは足早に行き交っている情景をスローモーションのようなゆっくりとしたスピードで写しだされています。画面のスローな動きとは対照的に流れているのは少し速いテンポで激しい曲調のインドの音楽。(ポップスなのか古典なのかはちょっと判らない。) もうひとつは街のバスターミナルを行き交う生活者達の世話しない様子。これはタイムラプスの映像のように撮影されていて、目まぐるしく動き回る生活者達を捉えながら、記録されていて、すこしぎくしゃくとした動きの映像は街の喧騒にとても良く合っていました。部屋の中央に置かれたソファーで左右に入れ替わりに映像が始まるのですが、映像は唐突に終わり、もう一方が唐突に始まり、また唐突に終わり、そしてもう一方が始まり、それを繰り返しています。

その色彩の効果とインパクトのある音楽の効果もあったのだと思うのですが、ふたつの映像作品のうちひとつめに紹介した司法の建物を捉えた映像を何度も何度も見たくて、ちょっと長居をしてしまったような気がします。レイヤーのように重なり合ったそのカラフルな壁はまるでバレエの舞台袖のように、そこから入れ代わり立ち代わり、その時間、そこに居合わせた人が登場します。法服のたっぷりと使われている黒い布の動きに合わせて揺らめく様が、スローモーションと良く合っています。談笑する顔、厳しい表情、無表情な人までも、その写しだす表情は豊かで、しかも司法関係の公的機関で働いている人々らしく、隙がなく、どことなくオーラのようなものを発していて、どの人にフォーカスしても様になっています。 ホンマさんの作品はいつもそうだと思うのですが、上手く自分の感じたことをぴたりと言い表せないもどかしさがあります。 何の前情報もなくふらっと観に来て、その撮影地がインドだという違和感が気になってはいたのですが、ホンマさん、インド、司法関係のインドらしからぬ建物という私のなかのミスマッチ感を最高に刺激するのがこの映像作品だったのかも知れません。

後でいろいろ読んで知った事ですが、この「チャンディーガル」というインドの都市は、ル・コルビジェが何もない更地の状態から都市計画を行ったコルビジェ建築の代表的事例にもなっている都市なのだそうです。(このことは「チャンディーガル」と聞いただけでコルビジェや建築に詳しい人なら言わずと知れた事なのだと思いますが。) 建設されたのが1950年代で、当時のインドとしては画期的な計画であり、コルビジェらしいモダニズムと機能美を追求した建造物は今でも都市に住む人々に愛着をもって利用されているそうです。レイヤー状に見えた対比の強い色彩の「ブリーズソレイユ」は、存在感を放ち美しく、それこそ言いようのないオーラを放っていました。私がどうにも気になっていたその映像の建物は最初の写真の部屋で遠巻きに撮されていた建物と同じものだったというのも観ていた時には繋がらず、あの違和感の正体のキーワードはコルビジェであり、ホンマさん、インド、インドらしからぬ建物という方程式は、「コルビジェ」によって解かれたようです。




ル・コルビュジエが設計したチャンディーガルにある最高裁判所(ハイコート)
カラフルなブリーズソレイユがそれを見る方向によってレイヤーになっています
ブリーズソレイユ(brise-soleil)とは建築用語で窓や壁の前面に取付けられる日照調整装置をいうそうです。






横から見たブリーズソレイユは、どことなく非現実的な空間に感じられ、舞台装置のようでもあります。







壁の向こうから 道化師や大道芸人とかが現れて 横切って行きそうな雰囲気です。




ホンマさんが何故インドのこの地を撮影地に選んだのかはこれで納得がいきました。そうしてあの作品を振り返ってみると、あの映像は、建物の持つエネルギー、そこで活動をする人たちのエネルギー、(動であっても静であっても)、などを端的で最良な方法で切り取って、持って帰って来たものだろうと感じました。ある種の思い入れで彼の地に赴くも、それと対峙すると過度な感情移入はせずある一定の距離感から観察的な態度を示すようなツンデレな感じがそこにあった気がします。




余談ですが、今回の展示、写真の展示方法はダブルクリップでの壁への直貼りでした。数年前参加したグループ展でその時に出した作品に額装のイメージがなかったのでやはりダブルクリップで引っかけて直貼りをするという暴挙に出ました。設営の時「写真に相当インパクトがないと直貼りは難しいよ。」とグループ展の他の参加者に半ば「やっちゃった!」感で迎えられたのを今でも覚えてますが、やっぱり、直貼りかっこいいですね。


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# by sanaegogo | 2015-02-11 00:00 | art | Comments(0)